目覚める冷気
月を見ていた。本物の月ではない。私は瞳を閉じている。あるいは、あの獣。
いつも胸の内はすっきりと冷え切っている。瞼の裏側に広がるのは広々とした草原、それから一匹の獣と、丸く輝く引き金。私は獣と相容れることができない。引き裂かれそうに思う。恐怖だった。しかしそれでも私は獣を見つめる。獣は私とは違う。冷え切っていることなど一度もなく、ただただ熱を発散したいらしかった。
風が吹く。獣が高く、高く、声を上げる。
目を開ける。目を、開ける。瞬きをして、天井があることを確認する。動悸がひどい。どうやら今回のあれは終わったらしい。四肢の端が冷えてしまっていて、少しだって動かすのが億劫だった。
数分間呼吸と瞬きだけを繰り返し、ようやく意識がクリアになってくる。起き上がったら私は毎度の惨状を見ることになる。憂鬱な気分を振り払うように腹筋に力をこめた。
「ー! 朝だぞ!」
体を起こしたところで壁にドアが出現し、そこからサロが顔を覗かせた。そうだ、今回はこいつの能力で閉じ込めてもらったんだ。周りを見ても何かが破損した様子はない。呆けている私の手を取り、サロは能力を解除した。瞬間、強い眩暈に襲われる。
次に目を開けた時、私は自室にいた。数日前につけたはずの壁の傷はもう修復されている。自分でやるつもりだったのに。
「体は大丈夫か? 見たとこ怪我はないな。今日復帰予定だったけど、もうよさそう?」
「……ああ……」
「自分の名前は分かる?」
「……」
「俺の名前は?」
「サロ」
「自己紹介して」
「私の名前は、……ええと、ゾルディック家の執事だ」
「よしよし、じゃまずは報告に行くから、着替えてくれ。服のある場所は覚えてるか?」
「うん」
「何かあったらすぐ呼ぶんだぞ」
「うん」
「ありがとうは?」
「ありがとう」
「素直!」
「着替えるから出て行ってよ」
「分かりましたー」
サロが笑いながら部屋から出て行く。カーテン、ベッド、壁、鏡、そして手のひら。両手を握りしめ、それから開く。傷自体は治っているようだが、全身に爪で引っ掻いたような痕があった。ぼろぼろの服を脱いで、クローゼットを開ける。大きく息を吐き出す。もう一度手を見ると爪は元通りになっていた。
執事長室に入るとそこの主とぱっと目が合った。男の視線は強くはないが、鋭い。それはすぐにサロへと移り、隣から緊張を感じる。
「問題ないか」
「はい。の様子は普段と変わりありません。次も俺の能力を使うのがいいかと」
「分かった。、体の具合は?」
「いつも通り」
「……サロは業務をに引き継いでから、街に行け。ものが多いから手の空いているやつを連れて行っていい」
「分かりました」
「はザウルと本邸だ」
「分かった」
じろりとこちらを見たゴトーは、しかし何も言わずにパソコンに向き直った。怒り以外の感情が見えにくい男だ。
本邸に行くのは一番嫌な任務だが、ザウルに案内しろということだろう。まあそれだけで済むわけもないのだけれど。頭を下げ、サロと共にそこを出た。
「本邸って言っても、ただのお使いだから安心して」
「あ、そうなの?」
「あの人が、病み上がりのお前に坊ちゃまのお世話を任せるわけないだろ?」
「それはよかった。もう誰か行ってるのか」
「誰だったか忘れたけど、行ってるはずだ。お前たちは大旦那様に荷物を届けてくれ」
「分かった」
「引き継ぎ、朝食のついででいい?」
「ああ、うん」
初めてかどうかは分からないが、まだ慣れていない人間が会うのに一番いいのは大旦那様だろう。私はゴトーの直属の部下だから(というだけでもないが)何度か会ったことがある。私の感覚がおかしくなったのでなければ、あの人はここにいる人間の中ではまともな方だ。一番殺されにくい人でもある。
病み上がりか。病気ではないからその表現はおかしい。いや、表向きそういうことになっているからそう言ったのかもしれないけれど。