こぼす恐怖

 初めは部下のあの姿に動揺したものだ。自分にしては珍しく、という程度だったから、一緒にいた別の部下には悟られていなかっただろうが。
 夜間の対応などを任せている部下たちに引き継ぎをし、男は自室に戻るために廊下を歩き出した。しかし、その前にに食事を持っていかなければならないと思い出す。その役を普段務めている男が夜の間いない。どうせあまり食べないだろうが、まだ二日ほどの猶予があるはずだ。通常の量を用意してやらないといけない。ポケットの中でコインを弄ぶ。男は知らず指を動かす自分の癖を直せずにいた。

 の部屋に向けて歩いていると話し声が聞こえ、立ち止まる。聞いていると最近の下で本格的に執事として働き始めた部下のようだった。昨日。の声はよく聞こえないが、報告がなかったということは些細な出来事だったのだろう。しかし、それなら何故わざわざ謝罪に来ているのかが分からない。
 はザウルについて特別何とも思っていない。だから奴がの下につきたいと言った時もすんなり受け入れたし、問題なく接している風に見えた。
 最悪の可能性について考えるが、どうやら今日は本当にそれだけだったらしい。こちらに歩いてくる足音がしたので、仕方なく歩きはじめる。男がいるとは思っていなかった部下は一瞬眉を動かすも、すぐに元の表情に戻り挨拶をする。

「立ち聞きですか。執事長」
「なんのことだ。聞かれてまずい話でもしていたのか?」
「……それ、さんの? あなた自ら運ぶなんて、随分優しいんですね」
「言っとくが」

 鋭い視線が初めてかち合う。男は自分を落ち着かせるために眼鏡を押し上げるが、果たしてそれが成功したことはなかった。

「俺はてめえを部下として認めてねえぞ」
「相変わらず手厳しい。俺は尊敬してますよ、ゴトーさんのこと」
「よく回る口が俺やサロに通用すると思うなよ。もちろんもだ」
「別に、俺はあなた方に取り入るためにここにいるんじゃないので」

 勘弁してくれとでも言いたげな表情に、男はトレイを持つ手に力をこめる。別段怒りを覚える理由はない。あえて言うなら部下二人にこの男の世話を任せているというのがそれだった。私情だ。自分の中で整理をつける。

「とにかくあいつの部屋には勝手に行くな。理由は分かるな?」
「……そりゃ、今日がまだ大丈夫だって分かってなければ行きませんでしたよ」
「予定では明後日だが、ずれる可能性もある」
「分かってます。駄目そうならやめるつもりで来ましたから。……じゃあ、おやすみなさい」
「ああ」

 ザウルの背を見送ることなく、男は目的を果たすためにそこへ向かう。どうにも嘘をついているとは思えない態度だ、と思った。根拠はない。だが自分より余程(皮肉なことに)鼻の利くが何も違和感を覚えなかったのなら、きっとあの男に復讐の意志はないのだろう。
 ドアをノックするが返事がない。先ほどまで話していたのにもう寝たのか。一言声をかけ、ドアを開ける。



 何度も見た惨状ではあるが、どうしても、今月もあれを目にしなければならないのかと考えてしまう。男はテーブルにトレイを置いて、ベッドの上で体を丸めている女を見た。部屋に入っても気づかないとは、執事としても獣としても失格だろう。呆れてもう一度声をかけると、わずかに肩を揺らし、は目を開けた。すぐに男の姿を認めて飛び起きる。

「ごめん、意識飛んでた」
「気をつけろ。飯だ」
「あ、そうか。ありがとう」

 女は自分の手で喉をこするようにしながらベッドを降りてきて、テーブルの前の椅子に座った。開いた口から鋭い牙が見え、男は爪や瞳孔に視線を移していく。まだこの体を見慣れることはできそうにない。

「どうだ、体は」
「いつも通り」
「そうか」
「もう休みなよ。これは明日サロに下げてもらうから」
「俺が持って戻った方が効率がいい」
「あ、そ」

 これを治す方法が現状見つからないというのが、男にとって非常に歯がゆい事態であった。そもそもこうなってしまった原因の一端は自分にある。女自身不便だろうし、そんなに数がいるわけでもないそれなりに力を持った部下が毎月一定期間使い物にならないというのも問題だった。

「ゴトー」
「あ?」
「いつもごめん」
「……なんだ、急に」
「怖くてさ。もうすぐ飲み込まれるんだと思ったら」
「……」
「さっきザウルが謝りに来たんだ。大したことじゃないんだけど、罪悪感って行き場がないだろう」
「お前の罪悪感を受け入れろって言いてえのか」
「そう。私は」

 中途半端なところで言葉を切り、最後の一かけらを口に入れる。咀嚼しながらパン屑を皿の上に払うと片手で髪を撫でた。

「皆からのそれを受け止めてるから、私のを発散できない」

 弱音か。男は組んでいた腕を下ろし、ポケットに入れた。怖いなどと口にするとは思わなかったが、当然のことかもしれない。そう思うのも、それを吐き出せないのも。自分も悪いと思っているということくらいこの女には分かっているのだろう。

「俺は気にしてねえ」
「……ありがとう、ゴトー」
「もう戻る。よく寝ろ」
「おやすみ」

 最後に一度女は男の目を見て、微笑んだ。恐怖など微塵も感じていないという顔だ、反対に男はそこから目を逸らす。
 そうして、夜は更けていく。