花茎を噛み砕く牙であれ
帰宅した頃には疲労感がピークに達しており、寝室に足を踏み入れてすぐベッドに向かった。ヒールの靴などほとんど履いたことはないし、ロザリーに注意されるので背筋も伸ばしっぱなしで全身が痛い。自分のコートの匂いにどれだけ安心したことか。それを脱ぐこともままならず、ため息と共に倒れこむ。
「お疲れ様」
男がジャケットを脱ぎ、ごちゃごちゃと何かを外しながら言った。呻き声を上げると彼が笑ったのが分かる。
身長がそれなりにあるのであまり高いヒールを履く必要はないと言われ、自分のサイズに心底感謝した。身体的特徴で得をしてきた方だと思うが、とはいえ女としては大きいというだけなのでそこまで気にしたこともなかった。まだ親がいた頃にたくさん食べさせてもらったのだろう。それに、私は貧民街の子供の中では器用なタイプだったので、一時期を除けば非常な飢餓状態に陥ることはなかった記憶がある。
男は私が背を向けている側に腰掛け、尻尾を撫でた。男の太ももに乗せられたらしいそれから、手のひらが移動するのを感じる。
「当日はその場にいてもらうだけですが、あなたは目立ちますからね。なるべく自然に上品な立ち振る舞いができるように、毎日少しずつ教えてもらってください。一気に詰め込むと大変でしょうし」
「……ん」
「怒らないんですね」
「こうなるのは分かってた」
「……そうですか。ありがとう」
想像するだけで頭が痛くなるが、一度受け入れたものをごねるなんて情けない真似をするつもりはない。それでも、先ほどまでわざわざやりたくもない着せ替えをされてやったのに、あれ以上面倒なことを今話さなくてもいいだろうとも思う。男にとっては当たり前のことなのだろうけれど。
「お前さ」
「はい」
「できたことは褒めるんじゃないのかよ」
尻尾を撫でる手が止まる。噛んだらどうなるか、と言う男の声。分かっているから、どうしようもないのだ。疲れ切っていることと、男の表情が見えない位置にいること、それから日が傾いて室内が暗くなってきたこと。初めと変わらないなと自分に呆れる。
「そうですね」
スプリングが軋む音がして、背中に男の足が当たる。私の腹部のあたりに手をついて顔を見ようとするのが分かり、布団をかき集めて押し付けた。もう片方の手が耳の付け根を優しく撫でる。
「頑張りましたね、。私のわがままに付き合わせて、すみません。嫌なことをさせてしまったのに、大人しく言うことを聞いて……偉いですね」
目を瞑り、ゆったりと紡がれる男の言葉を享受する。男の話し方や声には中毒性があった。独特の声色とテンポが、私を緩やかに侵していく。気づいた頃にはもう遅いのだとぼやける脳の片隅で思う。私は優しいのではなく、自分に甘いだけだ。だから他人にも甘くなる。優しくされたいから優しくする、単純な精神構造。
眠いわけではないが、ぬるま湯に浸されているかのように心地よく、考える必要のないことがだらだらと頭に浮かぶ。うなじに触れる指先は外から帰ってきたばかりで冷えており、鳥肌が立つ。布団を離し、もぞもぞとうつ伏せになる。一度のため息を挟んで、男の方に体を向け、中途半端に浮いた手に頭を擦り付ける。息を吐くように笑いを漏らした男は、私の意図した通りに撫でてくれる。
この男は、甘やかす対象がいると落ち着くのだろう。私は甘えてやっているのだ。目の前にあるズボンの浮いているところを引っ張る。精巧な彫像。ズボンの皺が現実なのが不思議で、布の細かい山を潰す。その先にある硬い人肉を指の腹で押し込み、こんなくだらないことで指を折りたくはないなと思う。力を緩めるとその手が取られ、指先にキスをされる。どうしてこの男がするとこうも神聖な空気が漂うのだろう。頭を少し動かし、じっと男の顔を見つめる。男は唇を離し、目を開けてこちらに視線を向けた。神を私の手で汚している。唐突な背徳感に胸がざわめく。目を離せないまま、上半身を肘で支え、人差し指の先を男の下唇にくっつける。男は驚いたように目を瞬かせたが、やめさせようとはしない。それどころか笑みを深め、私の指に従って唇を薄く開いた。男の息で指が熱い。きっちり並んだ歯の頭をなぞっていく。男は私の顔を見ている。舌に指を乗せる。そのまま口内を眺めていると、手首を掴まれ、肩が跳ねる。人差し指を付け根まで一度口に含んだあと、口を開き、今度は付け根から先にかけて丁寧に舐める。人間の温度で、汚らわしい行為をしている、神のような男から、目が離せない。唇が中指の第一関節に触れる。
「いつ、まで」
掠れた声が漏れる。
「もういいの?」
啄むように音を立て、答えない私を余所に男は中指を責めた。やわらかく、あつい舌が汚れていく。指と指の間をそれが撫ぜ、唾液を飲み込む。どうすれば自分の欲望から逃げられるのか、分からなかった。ただ男が指を舐める感覚に震えることしかできない。男は歯を立てようともせず、只管に優しく人体の部位を舐めている。否が応にも抱かれかけた日のことが思い出され、痺れた左腕でシーツを握りしめる。男は薬指に到達し、手首を掴んでいない方の手で私を抱き起こそうとするので、それに従って起き上がる。茫然と快楽を抱きながら男の舌を、唇を、それからまつ毛を見る。私が止めなければこの男は永遠にこうしているのではないかという恐怖が湧き、息を飲んだ。そんなもの、まるで絵画だ。想像するだけで胃が縮む。
「て、」
「ん?」
「てっ、を、あらう」
「うん」
「ま、待って」
「うん」
「うんじゃない」
小指をゆっくりと舐め、男は息を吐きながら小指側の側面にも舌を這わせた。いてもたってもいられなくなり、手首を逸らすと、男はようやく口を閉じる。そうして笑った男は、自分で舐めた手に指を絡めた。
「き、やめろよお前、お前まで」
「汚い?」
「そりゃ、だって人の唾液だろ」
「この間は、散々私の手を汚していたのに」
「は、……あれはお前が」
「でも、気持ちよかったんでしょう。今も」
男から目を逸らし、握られる手を視界に入れる。頭が爆発しそうなくらいに熱く、口の中を噛む。血の味。もう片方の手が頬を撫で、思わず体を跳ねさせてしまう。
「駄目ですよ、飼い主の口に指を入れるなんて」
絡んだ指がまた男の口元に引かれ、視線を上げる。
「欲しいのはご褒美でしょう? お仕置きがいいんですか」
「……やること、変わんないだろ」
「気持ちは変わりますよ。……どうされたい?」
そういえば褒めてもらう流れだったと思い出す。この間のあれは躾だと言っていたが、こいつは罰らしい罰を与えるタイプではない。そもそも選択肢を与えている時点で褒美みたいなものだ。どっちにしろ甘やかされるのだろう。ただ、どちらでもいいという答えは却下されそうだし、どちらの単語も言葉にするのは躊躇われる。どうして恥ずかしげもなくあんな言葉を吐けるんだ。イカれている。
「どうせもうすぐ晩飯だろ」
「ええ、そうですね」
「……食って戻ってくるまでに考えとく」
「ふふ……分かりました」
顎の下を撫でられ、視線を彷徨わせながら男を見上げる。劣情を抑えたような、強引でもなんでもない口づけ。ここで無理に手を出してこないのだから、歯止めは利いているのかもしれない。元々今そうする気はなかったのだろうが。
自分で言い出したことを引っ込めるつもりはない。とはいえ、気が気ではなかった。冷静に諭す自分を感情が殴る。酒でも入れれば気分は晴れるだろうか。それではこの間の二の舞だ。無駄な責任感が自分を追い詰めていく。どうして私が選ばなければならないのか、どうして結果が分かりきっているのに抱かれなくてはならないのか、どうしてどちらでもいい、あるいはどちらも嫌だと跳ね除けてしまわなかったのか。好奇心は猫をも殺すという言葉をいつか本で読んだのを思い出し、魚にフォークを刺す。
男の態度は変わらない。私もあまり態度には出ない方だと思うが、男から見れば分かりやすいだろう。人の機微を感じ取るのがうまい人間といると、嫌になる。
余計なことを言われる前にさっさと食べ終え、私は浴室に向かった。あの男のいいところは動きが遅いところだ。足が長すぎて意味をなさない長所だが。
体を拭き、下着をつける。時間をかけて全身を洗ってしまった自分が腹立たしい。疲れて正常な判断ができていないのかもしれない。もう寝てしまいたい。腹は膨れ、体も温まって寝る準備は万端だ。だらだらと部屋着を着て、首にかけたタオルで顔を覆い深呼吸をする。どれだけ時間をかけたところで何も変わらないのだが、すぐ部屋に向かえるほど私の心身は健康ではなかった。
そうしてやっとのことで寝室まで辿り着き、室内に耳を澄ます。男がいる。眉間の皺を伸ばすために体の力を抜いて、それから、ドアノブに手をかけた。
ドアを開け、ソファーで本を読む男を視界に入れる。
「随分遅かったですね」
「ぶっ飛ばすぞ」
「おやおや……威勢がいい」
閉めたドアにもたれかかりたい欲求を抑え、ひとまず髪を乾かすため自分の荷物に向かい、温風の出る魔法道具を手に取る。
風を止め、いつの間にか閉じていた目を開ける。男は未だ本を読んでいたが、私が見ていることに気づいてこちらに視線を向けた。その微笑みから目を逸らし、魔法道具を元の場所に戻して立ち上がる。タオルをソファーの背もたれにかけると、男が本を閉じた。沈黙を壊したかったものの何を言えばいいか分からず、ポケットに手を突っ込んで立ち尽くす。足を開いて座った男は、その両膝に肘を置き、両手の指先をくっつけたり離したりしている。意地でも男の表情を見たくなくて、カーテンに目をやる。月が見たい。狂気に魅入られた獣人を演じることならできると思った。男の笑い声。
「そんなに緊張して……かわいいね、は」
「緊張してねえよ」
「ふ……そうですか。じゃあ、答えてもらおうかな」
「なんで立つんだ」
「手が届かないから」
「いいだろ別に」
「いいえ、全く」
男は一歩後退した私に構わず近づいてきて、柔らかく抱きしめた。仕方なくポケットから手を出し、男の部屋着を握る。
「甘やかしたいんだろ、お前」
「意地悪をするのも好きですよ。嗜虐趣味はありませんが」
「……なんで選ばせるんだよ」
「あなたの意思に沿いたいので」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。あなたのお願いを聞いてあげたいんです」
「分かんねーな……お願いしろっていう命令か?」
「命令の方が気が楽なら、それで構いませんよ。今は仕事の時間じゃありませんから」
「……じゃあ、お願いしてやる。褒美をくれ」
「ふふ……よく言えました」
今のがお願いとして受理されるあたり、本当に甘やかすのが得意らしい。おかげで存外冷静に言葉を吐くことができた。抱きしめる腕の力が強められ、何故か逃げたくなってしまうが、それが許されないというのが私にとって救いなのかもしれなかった。肩にかかった髪が反対側に流されて、顕になった首筋に男の唇が触れる。この男に犬歯があったなら、とっくに痕をつけられていただろう。私と違って血が出るまで噛んだりはしないだろうが。
「ばかだな」
呟いた言葉を与えるように、私は男に口付ける。
「なに?」
「愚かだろ。哀れだしな」
考える間を空けた男の首に両手で触れ、喉仏に唇をくっつけた。このまま食いちぎって殺してしまいたい。愚かで、哀れな、馬鹿者共。男をこの手で終わらせることが、私の望みなのだろうか。部屋着のボタンを外しながら、前に噛んだところに歯を当てる。
「」
治りかけた傷痕を探り、かさぶたを突き破る。
「愚かで哀れでも、私はあなたと共にありたい」
歯が皮膚に突き刺さる感触。男のため息が痛い。私を抱き殺さない腕があまりに愛おしくて、一層強く歯を入れる。上下の犬歯が男の皮膚越しにぶつかり、飲み込みきれなかった唾液が流れ出す。鬱々とした高揚感に体が支配されていく。男の血液を摂取し続けたら、少しでもこいつに近づけるだろうか。滲む血液を舐めとって、愛撫としてのキスをする。
「馬鹿だな。こんな女に捕まっちまって」
「私みたいな男に、捕まってくれているんでしょう?」
「はは、自覚があって何よりだ」
笑いながら顔を上げ、目を閉じる。唇が重なると、腰を抱く腕に力がこめられ、私は今からこの男に抱かれるのだ、と思う。私自身の願いによって。