ぐちゃぐちゃオニオン

 朝のひやりとした空気が窓から入ってくる。もう一時間もしないうちに温くなってしまうだろうが、その前に家を出るので構わない。カーテンを窓の端で留め、背伸びをする。スリッパのぱたぱたという音の間に車の走る音。冷蔵庫を開けて野菜の入ったタッパーを手に取る。
 もしかしたら私は、会社にとって損な関わりを持ってしまったかもしれない。あれから数日、すっきりと冷える頭は、今後彼に会うのはやめた方がいいのではないかと言う。その通りだ。きっとあれは冗談ではないし、彼がなんらかの目的を持って私に接触してきたのは間違いないだろう。会社のことでないとしたらなんだ。ゼタ? いや、それなら本人に話しかけた方が早い。そもそも彼は何の仕事をしているのだろう。そして目的とは仕事絡みなのか? それとも個人的なこと? いつも注意深く聞いていたわけではないし、会ってから次に会うまでそれなりに空いているから、推測にも限界がある。とにかくもし会社に損害が出るとまずい。そこまで大きな会社ではないのだ、情報が他社に漏れるなどあっては困る。でも……私に何ができる?
 焼けたパンを皿に乗せ、少し柔らかくなったマーガリンを塗る。人差し指のネイルが剥げかけていた。


 十二時を過ぎた頃、今日はどこに行こうか考えながら席を立つと、同じタイミングで立ち上がったらしいマルコスさんと目が合う。なんとなくゼタに目をやると彼女はデスクに突っ伏していた。いつからああしていたのだろう。

「外行くの?」
「ええ。お店は決まってませんけど」
「ちょうど君に話したいことがあったんだ。いいかな」

 マルコスさんが目を細めて笑みを浮かべる。穏やかではないなと思う。この人の話はきっと私にとってあまり喜ばしくないことだ。これは直感だが、二人きりになることが少ないせいで警戒しているというのもあった。
 結局近くのレストランに入り、私の向かいに彼が座る。何度か来たことのある店は落ち着けるので、こちらに選択権があったことをありがたく思う。

「緊張しないでと言っても君には難しいみたいだ」
「残念ながら仰る通りです」
「はは。まあ、緊張してしかるべき内容だからね。先に注文してしまおうか」
「……分かりました」

 もしや、もうシャルナークさんが何かをしたのだろうか? 一瞬あの金髪が頭を過ぎるが、そうだとして私に話が来るのはおかしい。しかしそうでなければ「緊張してしかるべき内容」に心当たりがない。渡されたメニューを眺め、やはりこの店にしたのは失敗だったかと考える。せっかくのご飯を味わうことができないのは悲しいことだ。
 注文を終えても彼は話し出さず当たり障りのない仕事関係のことを喋るので、適当に相槌を打っていたら、料理が運ばれてきた。小さく感嘆の声を上げ、彼はカトラリーの入った瓶を私に差し出してくる。

「美味しそうだね」
「本当に」
「そう怖い顔をしないでくれよ。いきなりクビにしたりしないから」
「では、本題を話してください」
「料理が冷めてしまう」
「それは……そうですが」
「空腹だと、ちゃんと話せるか分からないんだ」

 どうやら譲る気はないらしいので、仕方なくそれを取る。彼がフォークを手にしたのを見てから、私はオニオンスープを掬った。
 そうして食べ終わると、マルコスさんはようやく真面目な顔になった。なんとなく彼の手元に視線を落とす。

「まず、君は信頼できるリーダーだと前置きさせてもらう」

 彼の目を見る。よくリーダーを任されるのは確かだが、彼の言いたい「信頼できる」の部分において、彼が本当にそう思っているかどうかは問題ではないのだろうと思う。つまり他言無用ということ。

「いずれ他の社員にも知れ渡るだろうがね。君を選んだのはそういう理由だ」
「続きをどうぞ」
「数日前から、会社のパソコンがハッキングされている」
「……数日前? 放置しているということですか?」
「君が気づかなかったように、大部分はそのことを知らない。俺と社長、それとイアソン、パトラ。気づいたのはイアソンだ。君の疑問ももっともだと思うが、様子見しろとのご命令でね」

 私たちをまとめている三人、要するにプログラマーとしての腕は業界内でもトップクラスである彼らが、ハッキングを放置している。だから私に話したのだ。その三人の下についている社員は私を含め五人いるが、マルコスさんの直属は私とゼタだけだから。

「どうにかできないわけじゃない。それは君も分かるね」
「はい。でも、うちの社員が気づかないとなると」
「ああ、厄介だよ。相手はこちらに気づかれないようにうまくやっている」
「対応できないんですか?」
「今回の件、社長が何か隠しているみたいなんだ。恐らく俺たちに手出しするなと言ったのも、反撃を恐れてのことじゃない。それに俺ら三人のPCに関しては、奥まで入りこまれたわけじゃなさそうだし、抜き出された形跡もない。君たちが気づけなかったのはたぶん、向こうが必要としているものが、君たちの箱になかったから。つまり」
「……社長のマシンから何か盗まれた?」
「俺はそう踏んでる」
「ですが、それなら何故そう言わないんでしょう」
「盗まれたものを俺らに知られたくないんじゃないか?」
「……戻ってからこちらのマシンを確認してみます。社長のことはどうするつもりですか?」
「守りが堅くてね。そろそろ入れそうだけど、どうかな」
「まさか」
「はは、俺は既存のプログラムに手を加えただけだよ」
「だからって、社長ですよ。パトラさんは許可したんですか」
「もちろん。人は高い壁を見たら上りたくなる生き物だからね。その点においてパトラは飛び抜けている」

 思わず目の前の上司をまじまじと見つめてしまった。あの毎年新入社員を怖がらせているパトラさんが、他人のPCに侵入することに賛同したとは。しかもその相手は社長だ。いくらなんでも……もし入れたら、社長から見て元々ハッキングしてきた相手とマルコスさんたちの差は、社員であるかどうかだけということになるだろう。そもそも社長がそんな大事なことを隠すのも分からない。知られたくないもの。
 話はそこで区切られ、私たちは会社に戻った。ゼタがいなくなっている。ゼタにも話すつもりではいるようだが、あの子は喜んで計画に参加するだろう。いや、私には関係のない話なのだが……。鞄をデスクわきに置いて、スリープを解除する。しかし思った以上におおごとだ。一体相手はなんのために? 社長のデータが盗まれたんだとしたら、何が? それに、目的が社長なら、マルコスさんたちのパソコンを見る必要はなかったのではないか。考えながら自分のパソコンに侵入されたかどうか確認しようとすると、開いたページに見覚えのないフォルダーがあるのを発見する。ウイルスかもしれないと思ったが、アンチウイルスが反応していないので、大丈夫だろう。新しいフォルダーという名前。カーソルを合わせると、作成日時は二日前の二十二時頃になっている。……間違いない。このパソコンにも件の犯人は侵入したのだ。しかし何故私にだけ? マルコスさんたちのものには作成されていなかったのか? 心拍数が上がっていくのが分かる。マウスを握り直し、私はフォルダーを開いた。中には一キロバイトのメモが一つ。一体何が。それをクリックして、表示された文字を読む。
 また来週、あそこで。

「え……」

 思わず声が漏れた。