ねむりの浸水
※これの続きです 読んでいないと分からないと思います
ひたひたと靴底を濡らす涙を見る。雨でなく、涙である。アリスが泣いている。お母様と喧嘩でもしたのかもしれない。私が雨の日にわけもなく、つまり私に何か悲しいことが起きたのでもなく不安になるのは、当然のことだった。
眠りネズミに用があった。城には帰っていないとのことだったので、お茶会に向かって歩き出した矢先、雨が降り始めた。それで悲しくなってしまって、大きな木の下で雨宿りをしている、というわけだ。暗雲立ちこめる空をぼんやりと見つめながら、アリスに想いを馳せる。
アリスを返せ! と、ハートの王子が叫んだ。
次に、アリスさんは僕らの希望なんですと、白うさぎが泣きそうな顔で言った。
眠りネズミは、アリスちゃんに会いたいと言いながら、目を閉じた。
アリス、遊ぼう! と、三月うさぎが手を出す。
のんびりとした、ボクらはアリスを愛してるにゃ、というチェシャ猫の声が聞こえる。
君はもう、アリスではない……と、帽子屋がカップを持ち上げる。
切り離された瞬間の絶望を彼らは知らない。そしてあなたに与えられた役目、この世界に残り、彼への恋情を捨てずに生きることも。
寂しくないわ。道に迷っても、噂話と和解できなくても、ひとり雨に降られたって。
「……不思議」
あなたを憎んでいたはずなのに、こんなに胸が痛い。
葉からこぼれた雨粒が頬に当たる。いつの間にか閉じていた目を開けると、太陽の光が突き刺さる。唯一アリスと呼ばなかった、アリスであったことを忘れさせてくれたあの人のように。
「おや、お嬢さん」
「ドーマウスは来てる?」
「ええ、そちらに」
眠りネズミは案の定お茶会に参加していた。寝ているので参加も何もないかもしれないけれど、席にはついている。帽子屋と眠りネズミの間に座り、注がれた紅茶に口をつける。
「スリーピングリリーは、彼の領にしかありませんからね」
「お見通しね」
「雨が降っていたでしょう」
「アリスが泣いていたの。私は関係ないわ」
「君と彼女は、断絶されたわけではない。見えるものが全てでないのですから」
「芋虫さんと話したの」
「それはそれは」
「私がアリスだったのは、事実でしょ」
「さあ、どうでしょう? 君はアリスかもしれないし、そもそも内側の人間かもしれない」
「帽子屋さんや、芋虫さんを好きだと思うのは?」
「おや、お嬢さんも謎解きに興味が?」
「あなたたちに興味があるのよ」
「蝶のように気まぐれな君のことだ。どうぞ、お食べなさい」
気づけば目の前にお菓子の盛られたプレートがあった。いつだったか彼の出したマカロンが、マカロンですらなかったことがあった(本当にそうとしか言えない)ので、うーんと悩んでしまう。私は一つつまんで、隣で眠るネズミの口に押し込んだ。ネズミはもにょもにょ言いながら、マカロンを少しずつ吸収する。
「本物みたい」
「ええ、何もかも」
「そうかもしれない。ねえ、ネズミさん!」
「ん~……なぁに、アリス……あ……ちゃん」
頬にマカロンを詰めたネズミは目を開けると、ようやく私の名を呼んだ。
「あなた、スリーピングリリーを知ってる?」
「うん……知ってるよぉ……」
徐々に下がっていく瞼に焦って、思わず彼の頬を抓る。
「やだ、寝ないで! どこに生えてるのか教えてちょうだい」
「うーん……えっとねぇ……お城の近くの……いたぁい……」
「お嬢さん」
「なに?」
「スリーピングリリーのことなら、君の最も身近にいる者が知っていますよ」
最も身近というと、芋虫のことだろうか。
「本当に?」
「君がそう思うのなら」
「私は、アリスじゃないのよ」
「ちゃん……いたいよぉ……」
帽子屋は笑みを深め、ステッキを地面に打ちつけた。その瞬間、お茶会は姿を消し──お茶会そのもの、私以外の全てが消えたという意味だ──私は一人、森の中に立っていた。
「えっ?」
何度か瞬きをするも、目の前には木しかない。まるでこの世界に来たばかりのアリスみたいだ。世界の理不尽に頭を悩ませ、自分らしく奔走したあの子みたい。帽子屋の魔法でどこかの森まで飛ばされてしまったらしいと分かり、仕方なく歩き始める。でも、帽子屋の魔法ならキャピタに会えるはずだ。ここがどこであっても。
あまりに馴染んだ森の気配が、不安を飲み込んでいく。
──あなたを愛しているの。
アリスが抱え続けた想い。私自身、愛しているというのがどういうことなのか、分からなかった。貴方は相応の説明をするべきだと彼が言う。私にとって彼への愛は当然そこにあるものだから、説明なんてできないのに。
「?」
不意に声が落ち、私は安堵する。歩く音など微塵もしなかったから、ワンダーメアの狂った法則に彼も私も巻き込まれてしまったのだと思った。
「会いたかったわ、キャピタ」
「スリープバレイに行くと言っていなかったか」
「行ったわ。でも、気づいたらここにいたのよ」
彼も、驚いているようだった。片手に本を持ち、周りを見渡す。
「マッドハッターに会ったな」
すぐに状況が読めたらしい彼は、そう言った。
「気づいたらここにいたの」
「何故私まで……まあいい。用事は済んだのか?」
「あなたに会うのが目的だったのよ」
「貴方が城を出てから、半日も経っていないが」
「最初から、あなたに会えばよかったってこと」
「スリーピングリリーを探しにいったんだろう?」
「そうよ。でも、そうじゃなかったみたい」
「同じ夢を見るのではなく、現実で会えばいいと結論づけたということか」
「あけすけね」
「何か問題が?」
「気まぐれなのよ、私って」
「よく知っている」
「帽子屋さんもね」
「またあれに何か吹き込まれたのか。何故マッドハッターをそう信用しているのか、私には理解できない……信用というより傾倒だ」
「この世界のみんなを愛するようにできてるみたい。おかしいわ」
「その一環で私に愛していると宣うわけだな」
「あら、ひどい人。少しは分かってくれたと思ったのだけど」
「理解しようにも、張本人の協力が得られなければ難しい」
「私の協力! そんなもの、当てにしちゃいけないわ」
「そのようだな……」
「気まぐれなのよ、私って」
「よく知っている。ここにいても仕方ない、城へ戻ろう」
呆れたように言って彼は歩き出した。
「ああ、でも、スリーピングリリーは欲しかったわ」
私の呟きに耳を貸さないあたり、相当機嫌が悪いと見える。意に反して森に来てしまった、読書の邪魔をされたからだろう。しかもそれが帽子屋の手によるものだと推測できるから。
「素敵じゃない。同じ夢を見られるなんて」
「夢か……貴方は、どんな夢を見たい」
「そりゃもちろん、アリスよ」
彼は再び黙ってしまう。息を吸い込むと自然っぽさで胸がいっぱいになる。
「私はアリスを知らないの。向き合ってみたいわ」
「貴方が望むのは、対話か?」
「どうかしら。ただ、聞くだけでいいの」
「何を」
「あなたについてよ、芋虫さん」
「……夢の中のアリスにそれを聞いたところで、貴方の認識外の言葉は出てこないだろう。それに……」
ふっと日差しが差し込み、森を抜けたことに気づく。ぬるく湿った風が前髪を掬い、弄ぶ。手のひらを空に向けると、意図を読んだように葉から雨粒が落ちてきた。
「でも、いいわ。ううん、違う。アリスはどこかで泣いてるし、私とあなたはここにいる」
城門に手をかけたまま、彼は振り向いた。
「あなたを愛してる。私として、あなたに触れたいの。あなたの記憶や、存在の質に」
「……」
「なあに、キャピタ」
目が合う。宝石のような瞳に太陽が反射している。彼は眩しそうに目を細めた。
「……そうか。……それが、愛というもの」
「あなたの定義は?」
「……貴方を知りたいと思う。難解だからこそ紐解きたい」
「まるで私がなぞなぞみたい! 素敵ね。溶ける頃には混ざり合うのかしら? なら、私もあなたを溶かさなきゃ」
どこか遠くを見ているような彼に駆け寄り、手を重ねる。蔦から滴った水が、私の指を通って彼の手に落ちていく。彼を見上げ、微笑んでみせる。正しいことが全てじゃない。私たちは二人とも間違っているのかもしれない。彼は少しだけ口角を上げ、門を開ける。
アリス、もう泣かないで。すっかり晴れ渡る空を振り向き、片割れを想う。いつかスリーピングリリーが手に入ったら、あなたに会いに行くわ。愛する芋虫さんと一緒に!
22.07.20