crack/記憶のうみ

※読んでいなくても分かるように書いたつもりですが、一応短編の続きです。昔書いたやつの復元なので変になっている可能性もあります。寮周りも適当。諸々ご了承ください。



 あまりの寒さに首をすくめる。家から通っていた時よりは近くなったが、この寒いなか歩くというのはやはり苦行だ。毎朝、寮を出るたび嫌になる。
 二月、暦の上ではもう春だがまだまだ寒く、数日前に雪が降ったばかりだ。ブレザーのポケットに両手を突っ込み、マフラーの中でため息を吐く。突き刺す冷気は古傷を刺激するようで、頭の奥の痛みと戦う日々だ。修理から戻ってきたばかりの右眼がぎいぎいと鳴っている。もちろん、錯覚だ。
 べちゃべちゃの道を睨みながら歩いていると、誰かの走る足音が聞こえた。ただでさえ寒いのにクラスメイトなどに気を遣いたくなくて(サポート科の人たちは良くも悪くもマイペースなのでほとんど気にならないけど)、少々早めに寮を出ているのだが、他にもこんな時間に登校する生徒がいるらしい。ヒーロー科だろうか。それなら──。
さん!」
 呼ばれた名に肩が跳ねる。甘い予感が当たってしまったかもしれない。振り向くか、歩みを緩めるか、数秒逡巡し、ようやく足を止めた。
 尾白くんは以前、唐突に過去に襲われて動けなくなった私を助けてくれた。それ以来見かければ声をかけてくれるし、まあ、仲のいい友達として接してくれている。ありがたいのだが、それに嬉しいのだけれど、なんだか申し訳なくなるので、私からはあまり近づかないようにしている。
「おはよ。寒いね」
 追いついてきた尾白くんが言い、そちらに視線を向ける。鼻の頭が赤くなっている。うん、と頷きを返し、歩みを再開する。
「早いんだね」
「え? あー、うん。さんこそ」
「寒いから……」
「から?」
「一人でいたくて……あ」
「ごめん……!」
「ご、ごめん。違う」
 慌てているのかもしれない。心底ショックですという顔をした尾白くんに謝罪し、目を逸らす。寝起きに薬を飲んだから、頭がぼーっとしているのだ。言い訳。マフラーを鼻まで上げる。
「寒いと、頭痛がひどくて。クラスの子たちに変に気遣われたり、遣ったり、したくないだけ」
「あー……傷のせいかな」
「たぶん。でも、慣れてるから平気」
「平気って……」
「薬も飲んでるし。気にしないで」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 幼少期に巻き込まれた事故の影響で、私は時折発作を起こしてしまう。それを目の前で見たことがあるのだから気を遣うのはある意味当然だ。でも、あの時のことを気にしているとは思われたくない。私は信頼しきってしまっている。発作が起きても助けてくれるのではないかと、期待しているのだ。だからこそ──早く寮を出たのに歩調を合わせてくれるような優しい人に、これ以上何も求められない。
 尾白くんは、きっと誤魔化したのが分かっただろうに、ため息一つで追及をやめてくれた。そのことに安堵しながらまた水たまりを飛び越える。
 そういえば、もうすぐバレンタインだな。
 思わず両手で頬を挟む。は? なんで今思い出すの? 自分を殴りたい。よりにもよって尾白くんが、仲のいい男の子が隣にいる時に思い出さなくたっていいじゃないか。
「冷え性?」
「え?!」
「え?!」
 素っ頓狂な声を上げてしまった私にびっくりする尾白くん。おかしな空間だ。ばっちり合ってしまった目を逸らし、両手を再びポケットに入れる。
「ごめん。なに?」
「いや、冷え性なのかなって」
「あー。まあ、そうかな?」
「それじゃ冬は大変だね」
「うん。早く春になってほしい」
「あはは」
「尾白くんは、体温高そうだもんね」
「どうだろ……今は、さっき走ったから平気だけど」
「あ、そうだ……急いでたんじゃないの?」
「え? あ! えーと……」
 ばつが悪そうに首に手をやり、尾白くんは俯いた。聞かない方がよかったか。
「言いたくなかったら、そんな」
「あ、ち、違う。なんていうかその、あー、今日……」
「……今日?」
「その……放課後、時間あったりしないかなって」
「……え?」
 放課後、時間、あったり。
 何を言われたか理解するのにえらく時間がかかった。辺りを見渡す。遠くに生徒らしき人影が見えるが、会話は聞こえないだろう。彼に視線を戻すも目は見れず、尻尾に落ち着ける。
「あの……」
「あ、無理はしないで! そんな、大したことじゃないし……」
「え……私?」
「え? ほ、他にいないけど……」
「私は……え、いや、ある。時間……あるけど、尾白くんが忙しいでしょ」
さんが予定空いてるなら、訓練早めに切り上げようと思って……」
「な……なんで?」
「なんで?! えーと……な、なんとなく?」
「それは……しょうがないね」
「うん」
 何を真剣な顔で頷いているのだ。だいたいヒーロー科ってそう簡単に予定を空けられるものなのだろうか。耳たぶをつまむ。指先の冷たさが痛い。
 私と会ってどうするの。なんで誘うの。そのためにさっき走ってまで声をかけてきたの。なんで、私なんかと仲良くしてくれるの。
「……だめかな」
 口にできない煩わしい心情が、彼の困り顔によって破壊される。助けてくれた時と同じ、断れない声色。断っても問題はないのだろうし、相手はヒーロー科なのだから断った方がいいのかもしれないけれど、私側に断る理由などなかった。顔を上げる。
「だめなわけない」
「え?! ほんと?」
「うん……終わったら連絡くれる?」
「わかった!」
 元気よく返事をし、彼は前に向き直った。真面目で、優しくて、誠実な人。なのにどうしてこんなに自信がない素振りをするのだろう。断るかは置いておいて、嫌なわけはないのに。私が分かりにくいということだろうか。良くも悪くも。


 機械いじりが好きだ。金属に触れるとき、機械と向き合っているときが一番穏やかな気持ちになる。何も考えず、思い出さずに済む、凪の時間。
 放課後いつも通り適当に機械と遊んでいると、唐突にスマホがメッセージの受信を告げ、大きく肩が跳ねた。嵌めようとした歯車が机を転がり、卓上時計にぶつかる。
 ──今から着替えて校舎戻る!
 簡潔な通知を眺め、本当だったんだと思いながら息を吐き出す。そういうことらしい。返事をしようか数秒迷ってからメッセージアプリを開き、スタンプだけ返しておく。なんの用事だろう。用もなく会うほどの仲ではないはずだ。たぶん。

 工房を出、ついでに借りていた本を返そうと図書室に向かう。まばらに生徒の姿はあるものの、やはり静かだ。窓の外は暗く、自分の顔がほとんどはっきり写っている。景色に溶け込む傷痕。目を逸らす。
 あの日、私は母と買い物に出ていた。まだ小学校低学年だ、母についていったというのが正しいかもしれない。学校が休みだったから日曜だろう。雨は降っておらず、雲間からはかすかに光が覗いていた。帰り道、轟音があたりに鳴り響いた。母はそれに背を向け、私を抱きしめた。血と、鉄屑が降り注いで、全身が総毛立ち、血が逆流するような感覚に襲われた。敵の個性と、暴走した私の個性は「相性がよかった」のだと、のちに警察は説明してくれた。
 きっと運がよかったのだ。母と右目を失ったが、私には愛してくれる父がいる。義眼の手術費を出してくれ、愚かにもヒーローを支えたいと言う私のため雄英に通わせてくれた父が。父から受け継いだ個性がなかったら死んでいたかもしれない。父は、妻と娘を同時に亡くしていたかもしれない。だから、よかった。
 ──図書室の前にいるね。
 ──了解!
 図書室を出て、窓際の手すりに寄りかかる。つるつるとした木材は冷たく、強めに設定された暖房からの逃げ場になってくれる。スマホをコートのポケットにしまい、息を吐き出す。
 今更──いまさら、思い出すことはほとんどない。あれから十年近くが経ち、義眼にも慣れ、夢に見ることもなくなった。残ったのは傷痕だけなのに。
 不意にしたばたばたという靴音に顔を上げる。小さく深呼吸。こちらに走ってくる尾白くんを見つけ、腰を浮かせる。沈んでいる場合じゃない。
「お待たせ!」
 尾白くんって肌が白い。「ううん」目を逸らし、マフラーを抱え直す。わざわざ走らなくてもいいのに。
「どっか行くの」
「え?」
「えっと……用事があるのかなって」
「あ! ごめん……ちょっと話したくて」
「話したい……」
「……ダメだった?」
「あ、ち、違う。じゃあ、その……歩く?」
「歩こう!」
 元気がいい。私なんかと話して何になるのか分からないけれど、ひとまず目的がはっきりしたので安心する。歩き出した尾白くんを追い、私も歩き出す。
 ひと気のない校舎に、二人分の足音が響く。尾白くんはぽつぽつと訓練の内容だとかを話してくれて、私はそれに相槌を打った。現場に出ない私では、敵との戦闘や日々の訓練がいかに大変かは理解しきれないけれど、それでも苦労は伝わってくる。どうして。再び自己嫌悪が頭をもたげ、慌てて首を振る。
 ヒーロー科の教室前で、ようやく尾白くんは立ち止まった。合わせて私も足を止め、窓に視線を向ける。たぶん、用事があったんじゃないのだろう。これまで数回しか話したことはないけれど、なんとなくそう思う。ぱきぱきした人じゃないのかな、と。
「体調、大丈夫?」
 顔を上げる。彼は少し気まずそうに目を逸らした。言いたいことが分かり、ああと頷く。
「大丈夫だよ。ごめんね」
「い、いや、俺こそ。無理させてたら」
「ふふ、だから、ごめん」
「だから……」
 復唱し、分からなそうに首を傾げる彼に、また笑ってしまう。
「ヒーロー科って、みんなそうなの?」
「そう?」
「心配しちゃうの」
「それは……そうじゃない?」
「たいへん」
「そんなことないよ」
 困っている人を助けるのがヒーローだ。厄介な職業──人種と言ってもいいだろう、プロヒーローはともかく尾白くんなんてまだ学生だし、こちらもなんの対価も渡せない。
 リュックから水筒を取り出し、一口飲む。ぬるい。今朝は面倒でお湯にしたが、味がないとアルミっぽさが際立ってあまりよくない。くだらないことを考えていると、黙って外を眺めていた彼が不意にこちらを見た。視線に気づき、思わず蓋を閉める手を止める。目が合う、というより、目を合わさざるを得ない。その視線に、真剣な面持ちに、校舎の静けさに。でも、尾白くんはやっぱり目を逸らしてしまった。ちゃんと蓋を閉めて、リュックにしまう。
「あのさ……」
「ん?」
「ほんとに、嫌だったら言ってほしいんだけど」
「え……なに」
「俺、君が転びそうになった時、支えたいんだ」
 瞬きを二回。突拍子もないことを言われた気がして、口を開くが、何を言えばいいのかわからない。
「……あの」
「や、やっぱりダメかな。ごめん」
「ダメ……っていうか」
 大げさに言ったというのは分かっている。駄目も何もなく、ただ、私は戸惑っているのだ。
 間違いなく、それは私が望んでいることだった。そして他人に求めてはいけないこと。尾白くんはその中でも最も求められない相手で、知っていたのに仲良くしてもらうのを拒絶しきれなかった。だから駄目なのは私だ。息を吐き出す。
 世界を守るために戦うひとには口が裂けても言えない、願い。どうしてあなたが、私の言えないことを言えてしまうあなたがそれほどバツの悪そうな顔をするのか。
「ダメとかじゃないよ」
「ほんと?! くさいかなって……」
「まあ、それは、そうかもだけど」
「そうなんじゃん!!」
「でも……ただ、びっくりしちゃって」
「そうだよね……」
 支える相手なんていくらでもいる。出会った全員に言っているのだとしても、多少くさいセリフでも、馬鹿にされているだけなのだとしても、なんでも構わなかった。わざわざ放課後に時間を作ってくれて、こうして話してくれているというだけで充分だ。何故か頬に熱が集まる。暑いのかも。マフラーをほどき、腕にかける。
「あの時……」
 と、尾白くんが呟く。
「俺が傍にいてよかったなって、思うんだ。今でも」
 そう続けた彼の横顔を見上げる。それから彼は俯き、私を見た。
「そういう瞬間が今後もあるかと思ったら……その、君は別に、求めてないかもしれないけど」
 また困った顔になった彼に、おかしなことを言う人だなと思う。だってそんなの、関係ないし。笑みが漏れる。
「ありがとう」
「へっ」
「嬉しい」
「うっ……れしい」
「うん。ほんとに……ありがと」
 頬を染めた彼にこちらまで恥ずかしくなってしまって、目を逸らす。こういうとき、マフラーは本当に便利だ。外したのは失敗だった。口元に手をやり、細く息を吐き出す。
 繰り返される、ガラスの砕けるイメージ。頭皮の引き攣る感覚と、金属がこすれるようなきんきん音、降り注ぐ熱いもの。脳にこびりついたそれらが徐々に剥がれていくのを感じる。完璧ではないけれど、だからこそ元のかたちに近づくのだ。夢みたいに。息を吸う。
「あの時、尾白くんがいてくれてよかった。……言ってなかったかもしれないけど、事故の後遺症っていうか……思い出しちゃって」
「事故……」
「小学生のとき。それで、義眼。運が良かったって、今では思う」
「……」
「バカみたいだけど……たぶんすぐには治らない。立ち上がれない時もあるの。だから……支えたいなんて、言ってくれるだけで嬉しい」
「……そっか」
 人に話すのは初めてかもしれない。私自身が口にしたくなかったというのもあるが、他の人だって聞きたくないだろう。尾白くんなら聞いてくれると思った──思ってしまった、それに、最も真摯な対応のような気がした。言い訳じみた考えをしまい、首を振る。私がこうしたかっただけだ。
 しばらく、どちらも黙っていた。校内放送が私たちの帰宅を促して、ようやく顔を上げる。心配なのか、悲しみなのか、何か考えていたらしい彼と目が合った。
「ごめんね」
 口をついて出た謝罪に、彼ははっとした。
「いや、俺こそ、思い出させちゃったよね」
「それは別に」
「でも」
「いいの。ただ……えーと、なんていうか」
「な、なに」
 転がり出てくれないといけない言葉だった。小さく息を吸い込み、目を逸らす。
「ずっと一緒にいてくれるってことかと、思っちゃった」
「ずっ……!! えっ?!」
「違うんだ」
「ちが……ぷ、プロポーズみたいじゃん!!」
「私にしか効果ないかも」
「そうじゃなきゃ困るよ!!」
「ふふ」
「か、からかったでしょ」
「そんなことないよ」
 顔を真っ赤にして慌てる彼にほっとする。私だけじゃなくてよかった。
 この人のこと、好きなのかもしれないな。
「帰ろっか……もう遅いし」
 と、彼が言う。ああ、そうかもしれない。本当はあの時から。でもそれは助けてくれたからじゃない。助けてくれる人だからではいけないし、助けられていてはいけないとも思う。頷きを返し、マフラーを軽く首元に巻く。ただずっと──ずっと、一緒にいたいだけ。
「ありがとう」
「え?」
 歩き出した彼が振り向き、首を傾げる。黙っているべきだろうと分かってはいたが、こぼれ出たものをしまうすべはない。首を振り、立ち止まった彼を追い抜く。
「変なの」
「へん?」
「支えたいなんて。そんな人いないよ」
「ええ?!」
「驚きすぎ……」
「ご、ごめん。でも、その……それ以外に言えないし」
「だから、変わってるねって」
「か、変わってるかなあ」
「嬉しそう」
「あー……普通普通って言われてきたから……」
「ふつう」
 何も普通ではないと思うけれど、彼の生きる世界ではそうなのかもしれない。彼からしたら私が変なのだろうか。ポケットに突っ込んだ手を握りしめる。これほどの人が普通なわけがないので、やはり彼の周囲が異常なのだ、と結論づける。
 ぼんやり考えているうち、あっという間に下駄箱までたどりついた。皆帰ったのか誰もいない下駄箱は静まり返っていて、空気の冷たさに肩を震わせる。クラスの子などがいなくてよかった。見られて困ることは何もないけれど、それでも。
「寒いね」
「うん」
 朝と同じことを言って、尾白くんはヒーロー科の靴箱に向かった。たぶん寮の前まで送ってくれるのだろう。ここまで来て抵抗するのも迷惑だろうし、なんにせよ方向は同じだ。一旦今日は甘えるしかない。あんなとんでもないことを言われたあとだというのに、ひねた考えしかできない自分に嫌気がさす。
「大丈夫?」
「え……うん」
 驚いて顔を上げた拍子に、ばっちり目が合ってしまう。壁に手をついたまま数秒立ち尽くしていたらしい。
「ごめん」
「いや、俺は……」
「いこ」
「あ」
 無意味につま先を地面に当て、それから歩き出す。あまり納得していない様子だったが、彼もついてきているのが分かり、気づかれないように息を吐く。知られているというのは気まずいものだ。
 寮までの道のりは、思考を巡らすだけで終わってしまうほど短い。もったいないことをしているなと思う。でももう何を言えばいいのか、隙を見せなくて済むのか、考えに気づかれずにいられるかが分からない。彼には急いでいるように見えているかもしれない。息苦しさを感じてマフラーから口元を出すと、白い息が夜道に霧散するのが見えた。両手で頬を包む。顔ってあったかい。
さん?」
「はいっ」
「あっ、ごめん」
「ご、ごめん。なに」
「いや、大丈夫かなって」
「大丈夫。ほんとごめん」
「あの……嫌だった?」
「嫌って……」
 歩く速度を落とし、マフラーをまた鼻先まで上げる。
「なんか変なこと言っちゃったし」
「変……なことは、言われたけど」
「やっぱり……」
「でも、嬉しいし、私は、嫌なわけないので」
「そ、そうなの?」
 いつの間にか寮は目の前だ。一歩、二歩、言い訳が積もってしまう前に口を開く。もう足先の感覚があまりない。
「むしろ、なんで尾白くんがここまで仲良くしてくれるんだか」
「それは……そりゃ、心配とか」
「そんなに」
「あと、気になるし」
「何が」
「え、その、だから、さんが」
「そ……よ、よくないよ」
「えっ、何が?」
 勘違いしちゃう。プロポーズされたんだと思っちゃう。好きかもしれないのに。「なんでもない」逃げるように階段に足をかけ、ドア前に着地する。振り向いて、今度は意図的に目を合わせる。分かっていない顔をしばらく眺め、目を逸らす。
「また、お話してくれる」
「え?! もちろん!」
「じゃあ……またね」
「うん! 気をつけてね」
「もう家だし」
「階段とか」
「……ありがと」
「こちらこそ、ありがとう」
 ドアを開ける。小さく手を振る。振り返してくれる。風が吹く。ドアが閉まる。暖かい空気に迎えられ、ちゃんとため息を吐く。エントランスには誰の目もない。一度目を閉じるが、砕けるイメージは流れない。そのことに安心して、まぶたを開き、一歩踏み出す。
 部屋に着き、リュックを放ってその場に座り込む。両手で顔を覆う。深呼吸。剥がれていく。錆が落ちるように。砕けたものは元には戻らないけれど、集めてまた形作ることはできるから。指先の冷たさと息の熱さ。目蓋さえ熱を持つと私は知っている。どうしようもないな。いいのかな。ばかみたい。わらっちゃう。
 目を開ける。もう一度大きく深呼吸をし、ようやく私は立ち上がる。そうして、流れる涙はそのままに、のろのろと生活のルーティンに向かった。



24.12.15