淡色の錆
あ、と声が漏れた。
朝から降っている雨のせいで、完全に塞がったはずの傷痕が痛む。おまけに気圧に敏感な体が頭痛を併発させてくれて最悪だ。義眼を修理に出している間だけでも視界が片方の生活に慣れたいと思い、代わりのものを用意してもらわなかったのだが、やはりいつになっても慣れることができない。図書館に来たのは間違いだった、さっさと目的の本を見つけて帰らなければと焦っていたのが災いした。
掴み損ねた本が床に当たって音を立てる。よりによって急いでいる時に。繰り返される、ガラスが砕けるイメージ。忘れなくてはならないことばかり積もる脳が憎い。どうしよう。指先が冷えていく。はやく、拾わないと。
「……大丈夫?」
隣から柔らかい声が現れ、我に返る。ただ応えるだけにしては長すぎるだろう間を空け、息を吐きながらそちらに顔を向けると、男子生徒が心配そうに私を見ていた。見たことのある顔だ。確か、ヒーロー科の……。すぐに大丈夫と言えなかったからか、彼は近づいてきて本を拾ってくれた。
「はい」
「あ……ありがとう」
受け取ろうとするも、想像以上に気が動転していたようで、手がうまく動かない。人前でこういう事態に陥らないよう気を張っていたので、あれを人に見られて動揺しているのだろう。上げかけた手を握りしめる。
「あの……よかったら、カウンターまで持っていこうか?」
「……え」
「あっ、まだ他に探してるのがあるなら、手伝うし」
お人よし。
戸惑っているような表情を浮かべつつ言った彼に、こちらが困惑する。まあ、ヒーロー科の生徒なんだから正義感は強いのだろうけれど。迷惑をかけてはいけないと思ったが、目の前で本を落とすわ受け取れないわの失態を晒しておいて断るのも不自然だろう。一度視線を逸らし、体の力を抜く。
「……ごめんなさい。ええと……もう一冊探してて」
「そっか。なんてやつか聞いてもいい?」
「えっと、あ、さっき印刷……これです」
「あ、ありがとう。そっちのも持つよ」
「え、い、いいよ。べつに、重いわけじゃ……重くて、落としたわけじゃ、ないから」
ようやく正常に考えられるようになってきたので、そう断ると、彼はきょとんとした。それから数秒考える素振りをするので、いっそ怖くなる。分かってはいたが、ヒーロー科ってみんなこうなのだろうか。
「じゃあ、俺が持ちたいだけ! 手が暇だからさ」
「え……」
「……駄目かな?」
「……ふふ」
てが、ひま。考えて出した発想がそれなんだと思ったら、笑ってしまった。彼も肩を竦め、笑顔を見せる。
「……持たせてよ。おねがい」
「分かった。……ありがとう」
肘と横腹で挟んでいた二冊を彼に差し出す。彼は表紙も見ずに先ほど拾ってくれたものと重ね、渡した棚番号の印字された紙に目をやった。もうガラスのイメージは流れない。歩き出した彼に続き、大きな尻尾を見る。この個性には覚えがあるが名前は分からなかった。サポートアイテムをあまり必要としない生徒のことは基本的に話題に出ないし、私個人としてもヒーロー自体に強い興味があるわけではないので、顔と名前が一致しない生徒も多い。
考えていると彼が立ち止まったので、私も本棚を見る。しばらく探したがこちらの方にはなく、彼の見ているあたりに視線を移す。すると、彼が、あ、と声を発した。
「あった。これだよね?」
「あ……うん」
「よかったぁ。これで全部?」
「うん。あの、ありがとう。もう落ち着いたから……」
「ほんと? よかった」
「ありがとう。だから、持ちます」
「うーん、そっか……でも、心配だからついてくね」
言いながら、彼は差し出した両手に本を乗せてくれる。
「子供じゃないんだから」
しっかり握ることができ、安心して小さく息を吐く。たぶん、眼帯が彼の心配を助長させているのだろう。学校を休んででも義眼を受け取りに行くべきだったし、そうでなくても雨なのだからすぐに帰るべきだったし、ヒーロー科の生徒からは離れるべきだった。助けてくれるのはありがたいが、今日の行動については私の頭が悪すぎて罪悪感が湧く。
カウンターで貸し出しの手続きをし、二人で図書館を出る。廊下にはほとんど生徒がおらず、静まり返っていた。扉を閉めた彼は私の顔を見て、それから一度目を逸らす。
「あのさ……」
「ん?」
「えーと、今更だし、間違ってたらごめんだけど……サポート科の子だよね? 一年の」
「え? あ、うん」
「あ、よかった……体育祭で見た気がしたんだけど、その」
彼が言いづらそうに右目の方を見るので、気を遣っているのだろうと気づく。久しぶりに見たら眼帯をしていて、しかも本を取り落としたまま動かないとなると心配になるのも仕方ないだろう。
「これか。印象変わるもんね」
「ご、ごめん」
「ぜんぜん。今、義眼を修理に出してるんだけど……今後のためにも片目での生活に慣れときたくて」
「え、元々義眼ってこと?」
「うん。だから、気にしないで」
「そうなんだ……あー、それならさっきのはお節介だったかな」
「そんなことない、助かったよ。ありがとう」
「そっか……どういたしまして」
義眼になった方の理由は言わなくても済みそうだ。純粋そうだし、それこそ心配をかけてしまうだろう。あまり思い出したくもないことだし。なんとなく歩き出し、それに続いた彼を見る。
「ヒーロー科だよね?」
「え? う、うん」
「申し訳ないんだけど、名前覚えてなくて……」
「ぜっ、全然! 謝らないで! 俺、普通だし……」
「普通かなあ……。名前教えてもらってもいい?」
「あ、えっと、尾白。尾白猿夫です」
「おじろくん? 私、です」
「さん」
「うん」
「義眼がとど……届く? のって、いつなの?」
「病院に行くの。ほんとは、今日受け取りに行けたんだけど……うわっ」
「あ、っぶない」
「ご、ごめん」
階段の手すりを掴もうとして失敗し、よろけたところを彼に支えられてしまった。悔しさと恥ずかしさで顔に熱が集まる。いつもはこんなにポンコツじゃないのだ、と彼に弁解したくなる。彼は私の腕を離し、眉尻を下げた。
「寮までおんぶするよ」
「えっ? いや、大丈夫」
「いやいや、心配だし……本当はこのまま病院連れていきたいぐらい」
「……心配性だね、ヒーロー科は」
「だ、誰だって心配するよ。片目しか見えてないなら、距離感掴めないでしょ」
「大丈夫だよ、この状態で過ごすの初めてじゃないし」
「でも、足踏み外してたじゃん」
「たまたまね」
「あっ、ちょっと」
寮までおんぶなんて、恥ずかしすぎて死んでしまう。今度こそ手すりを掴み、ゆっくりと階段を降りる。隣を同じ速度で降りている彼に、これじゃ介護みたいだなと思う。
階段を降りきって、雨の音を意識する。治まっていたはずの頭痛がまた顔を出し、靴箱に手をついた。
「向こうじゃないの、A組って」
「そ、そうだけど。ごめん、鬱陶しいよね」
「そうじゃないけど……心配かけてごめんね。初対面なのに」
「いや、全然」
ローファーに履き替え、つま先で地面を叩く。それでも一向に動こうとしない彼を見上げると、少しだけ驚いたように瞬き、それからはにかんだ。
「俺が嫌なんだ。困ってる人を放っておくなんて……だから、せめて寮まで送らせてよ。雨降ってるしさ」
「……お人よしだね」
「あはは……そうかな。ちょっと待ってて、履き替えてくるから」
「うん」
どうやら彼の中で私は要介護者という認識になってしまったらしい。雨は関係ないだろうと思うが、陰鬱な気分を思えばありがたかった。靴箱から手を離し、クラスの傘立てに向かう。一つ残ったそれを手に取り、暗い空を見上げる。
雨は苦手だ。この傷を負った時から。
すぐ彼が隣に来て、先導するように傘を開いた。私もそれに続き、いよいよ雨の打ちつける地面へと足を踏み出す。予想通りの速さで靴が水に触れる。
「明日には義眼入れるの?」
「そうしようかな」
「そっか」
「それ、尻尾濡れないの」
「うーん、若干……」
彼が、雨の作るカーテン越しに苦笑する。揺れる尻尾がかわいらしくて、私も笑ってしまう。「なんで笑うの」「かわいくて」「か、……」耳が赤い。男の子なのに嫌がらないんだ、と少し驚く。何か言おうか迷っているうちに寮が見えてきて、結局口をつぐむ。あ、尻尾がって言ってないから照れたのか。気づいたところで今更話題にするのも掘り返すようで申し訳ない。
優しくて、ちょっと頑固で、恥ずかしがり屋の尾白くん。なんとなく、この時間の終わりを惜しく思う。それでも、あっという間に目的地に辿り着いてしまって、建物から地面に視線を移した。
「ありがとう。送ってくれて」
階段を上りきるまでついてきてくれた彼に、傘を閉じながら礼を述べる。
「ううん。気を付けてね」
「尾白くんって、甘いもの好き?」
「え、まあ、普通に……なんで?」
「お礼にお菓子あげる」
「ええ、いいよ、そんな」
「私があげたいだけ。だめ?」
「あはは……じゃあ、楽しみにしてる」
「ふふ、ありがとう」
「こちらこそ」
「じゃあね」
「うん、また」
好意の押し付けをしてしまった。でも助かったのは本当だし、お礼はしなければ。ドアを閉める前、振り向くとまだ彼はそこにいた。手を振ると、振り返してくれる。
ドアが閉まる。
リビングのクラスメイトに挨拶をしながら、傘置きに立てかける。歩いていると目のことを知っている子から心配されたので、笑っておいた。到着したエレベーターに乗り込み、細く長いため息を吐く。変な約束、しちゃったな。早くも後悔の念が頭をもたげる。自室の階に着いたことを知らせる音に、閉じていたらしい瞼を持ち上げる。全身が重く、ドアを押さえながらゆっくりと降りる。
私が転びそうになったら、彼は助けてくれるのだろうか。右目の痕が、ずき、と痛んだ気がした。
title by alkalism/200802