どうか莟のままでいて、綻ばないで、咲かないで
今でも男の人が近くに立つと息が詰まるし、人気のない夜道を歩くことができない。なるべくそういう道を通らない物件を探し、妥協の結果ここになったが、バイトのおかげで夜遅くに一人で歩くこと自体ほとんどない。治安のいい地域を選んだからと言って危険が全くないわけがないことを身を持って知っていて、だから夜勤はありがたかった。
学生時代、そこそこ金のある家に生まれたおかげでそういう地域に住んでいた。遊び歩くような人間とは一定の距離を保っていたので、私は一人で帰宅するしかなかった。疲れる笑顔を振りまくくらいなら。家の近くには小さな公園があった。色々な事件を自分のこととして認識し、危機感を持って過ごすほど大人ではなかったし、危険な目に合ってみなければ分からないのだろうと思う。だから私はその公園で本を読んで、暗くなったら駅に行き、ファーストフードを食べて補導ぎりぎりに帰ることが多かった。
腕をつかまれた。後ろから抱きしめられて、腰に何かが当たる感触があった。死角だったのだろう。地面に体が打ちつけられた。一瞬息が止まった。首がしまるくらいの勢いで顔を押さえられた。臭いが。全身が強ばったのを感じた。制服のスカート。素肌が地面に擦れ細かい傷がついた。
でもそれが最後まで行われることはなかった。
「ガキがこんな時間にうろついてっからこういうことになるんだ」
「……そう、です、よね」
「……じゃ、気いつけろよ」
「え、あ、……か、帰っちゃうんですか」
彼は名乗らなかった。俺の名前聞いてもいいことねえぞ、とかなんとか言って。家まで送ってくれた上次の日も彼は現れた。神出鬼没だった。確かにあの頃もどこかから降ってくることが多かった気がする。公園で本を読むこともできなくなって、明るくてもあの道を歩くのが嫌で、学校から出てとりあえず駅に向かおうとしたら彼が目の前に立っていた。
私が家に帰りたくないと言うと彼は逃げるかと聞いた。でも私には逃げる勇気もなかった。すると彼が、生まれてしまったものは仕方ないというようなことを呟いた。彼には彼の暗い事情があるらしかった。
彼のおかげでまっすぐ帰るということを習慣づけて、……確か何か言われたと思うのだが、忘れてしまった。第一会った時すぐに分からなかった時点でかなり記憶は薄れていたのだろう。一か月も経たないうちに彼はいなくなったし、思い出だけは残っていても顔だとかセリフだとか細かいことは定かではなかった。卒業する時クラスメートに噂になっていたと言われ、そんなこともあったなと思った。くだらない噂を立てるものだとも。
「悪い」
フィンクスの声で我に返る。過去から意識が戻ってくる。……触られそうになって、それに体が反応してしまっただけだ。でも、空気は凍ったし、私もたぶん彼もしまっていた記憶を呼び起こされた。触られそうになったのではない。それは分かっている。むしろ彼は転びかけたのを助けようとしてくれたのだ。でも後ろから手首をつかまれた時、驚くほど嫌悪の含まれた声が出てしまった。振り払う途中で気づいた。やってしまったと思った。でもやってしまったという顔をしているのは彼も同じだった。
「ごめん。ごめん、ほんとに」
「……なんでお前が謝んだよ」
「まさか……まさかまだこんなにって、思ってなくて」
「そりゃ当たり前だろ。つい手が出ちまったのは俺だ」
「だって今のは……」
「……忘れてたわけじゃねえのに」
駄目だ、何か、言わないと。どうしよう。このまま彼がここに来てくれなくなったら、私はどうやって……。
「」
「あ、や、めて、お願い」
「……何も言ってねえだろうが」
「来なくなっちゃうなんて、……ごめん、わがままなのは分かってる」
「俺といても思い出すだけだ」
「あなたが……あなたがいなくなったら」
「……泣くなよ……」
にじんできたそれを隠すように下を向き、目をつむる。涙。私は今泣いているのか。泣きそうになったことはあっても今までこの人の前で泣いたことはなかったのに。いつか、会えなくなるかもしれないと思いながら過ごしてきたはずが、いざそれを現実にしてみるとどうしようもなかった。馬鹿だなと思う。私はきっと彼にとって残酷なことを言っている。だからこれはただのわがままで、叶えられる必要のない思いだ。けれど、それを理解したところで期待を完全に消せるわけではない。
「俺が来なくなったら、そうやって泣くのか」
「……どうかな」
「……そろそろ行かなきゃなんねえ。お前休みなんだろ?」
「え、……うん」
「日が変わるまでに絶対戻ってきてやるから、それまで泣くんじゃねえぞ」
「え?」
「分かったか?」
「わ、分かった……」
「顔洗え」
「うん」
「じゃ行ってくる」
「……いってらっしゃい」
若干の放心状態から、ドアの閉まる音で戻される。戻ってくる。絶対に。私はまだ残っていた水分を拭き取ってから鍵を閉め、落ち着くために煙草を吸うことにする。約束をしたという事実にただ心が浮き足立っているらしい。そんなはずじゃなかった……のにな、と思うことが増えている、気がする。