絶望を掬うたった一つの方法
彼が何者なのかを聞くだけで私たち二人の関係性が悪くなることはない。でも、私は彼のことを知らない方がいい。ということはたぶん私自身は気にしないことで、世間的には気にするべきこと。やはり彼は一般人ではない。裏社会の人間なのかもしれない。マチも。私が知らない方がいいからフィンクスは言わなかったのだろうとマチは言った。ならば聞いたところで答えてくれるのだろうか。……だからあの時俺をなんだと思ってるなんてことを聞いたのかもしれない、私が彼が一般人ではなくても気にしないかどうかを確かめるために。分からないけれど。
テレビではニュースが流れている。彼が出て行ってから二時間。言われた通り顔を洗い、ニコチンで感情を抑えた。あんな約束じみたことを言われたのは初めてだった。じみたというか約束だ。日が変わるまでに戻ってくると。今までまた来ると言って来なかったことのない彼の言うことだ、本当に戻ってくるだろう。この期待は正常だ。正確で、正解。さっきからずっと自分に言い聞かせている。裏切られたくない期待をするのは怖い。きっと裏切られないから信じてしまうけれど、これが裏切られた時の苦しみを思うと胸が締め付けられる。でも彼は泣くなと言った。だから泣かないし、つらくなったりしない。これでいいんだよね? うつむいてしまっていた顔を上げてニュースを頭に入れようとする。
一般人ではない人間の仕事、フィンクスの体格や身体能力、マチの目、流血沙汰に関わる仕事だったとしたら?
「うわ! また火の手が上がりました!」
テレビの声で、今の一瞬思考に追い回されていたことに気づく。画面にしっかり焦点を合わせるとどこかの爆発事件の様子だった。思い返すと先ほどからしばらくこのニュースを見ている気がする。中継ではないが最新情報と書いてあるあたり今さっき起きたことなのだろう。場所を見るとここから電車で二時間ほどのところ。意外と近くで少し驚いてしまう。いや、近くでもないか。よく話を聞くとマフィア関連の事件らしかった。死傷者の情報。人の叫び声、ぶれるカメラ、加工しているというテロップ。結構なことのはずなのにあまり実感は湧かない。そんなものなんだろうな。
台所で水を飲んで戻ってきたら巻き込まれたマフィアの名前と、首謀者らしき盗賊団の説明。つまり何かしら盗む目的だったのだろう。幻影旅団。なんだか最近盗みの話をよく聞く気がするなと思ったが、バイト先とこれだけだからよくとは言わないな。ちらと時計に目をやる。十時半。テレビを消し、窓の外を見た。
一体彼が戻るまでに何本吸えばいいのだろうか。空には満月の二歩手前くらいのそれと星たち。あそこまで、あれを過去にできていないとは思わなかった。今まで機会がなかったから忘れていただけで、やはりそう簡単に癒える傷ではなかったのだ、きっと。もう五年も経つのに。正面から、それを覚悟して受け止めるのならまだ大丈夫だったはずだ。後ろから手首をいきなりというのがまずかった。よりによってフィンクスに。駄目だ、早くニコチンを回さないと。まだ残っていたそれを一旦捨て、新しいのを取り出す。気分を変えるため腰を上げて柵に腕を乗せた。今指から力を抜いたらこの煙草は下に落ちる、ライターも、思いながら慎重にくわえ、火をつける。ライターを箱に、箱を室内のベッドに、また柵の前に立って、今度はそこから出ないように。
吸い終わってからも随分長いことそこから外の世界を眺めていたように思う。そこでインターホンが鳴らなければ、あるいは日が昇るまでそうしていたかもしれない。その音に、自分でもびっくりするほど勢いよく振り向いて、また窓枠に足を引っかけて、どうにか転ばず耐えて、テーブルに手をつき体勢を立て直す。鍵を開けるのももどかしいなんて思ったのは初めてだった。
「っ、お、……おかえり。おかえり、フィンクス」
「あー……待たせたな、」
ドアが閉まる、私は、彼を前にして、どうしたらいいのか分からなかった。本当に約束が守られてしまった。どうしよう。鍵を閉めるために手を伸ばし、それを避けたフィンクスの体がドアに当たった。
「あ、ご、ごめん」
「いや」
それでようやく今混乱しているのだと自覚する。混乱していても鍵を閉めることはできるのか、私。何を言うのが正解なのか分からないと思考がそこから動いてくれない。とりあえず戻ってきた人におかえりは言えた。ドアに体をぶつけた人に謝ることはできた。深呼吸。彼のため息に知らず体が揺れる。
「何くだらねえこと考えてんだ。早く行けよ」
「そ、そうか……そうだね」
よろめくようにリビングに向き直る。何をこんなに動揺しているのか誰か説明してほしい。戻ってくると言っていた男が戻ってきただけのことで。彼はベッドに座って首を鳴らした。座るべきか悩んで視線をさまよわせ、彼の足跡に気づく。玄関では暗くて分からなかったけれど、光の下で見ると、靴がかなり汚れていた。それに変な臭いがする。ジャージのファスナーはいつもより開いているし、ズボンもところどころ色が変わっていて、私は一つの可能性に思考が傾くのを感じた。……そうなのか。そうだったの? 私が聞かなければそれで終わる話だ。
彼は何も言わない。ていうかこの靴で歩き回られるのちょっと嫌だな。少しずつ冷静になってきた頭で思う。それに服も汚い。洗濯? でも着替えもないしな。いや、最悪下着だけ買いに行けばいいか。靴から顔に視線を上げると、彼の方も返してくる。
「変なこと聞くけど」
「ああ?」
「しばらくここで下着だけで過ごすことできる?」
「……はあ?!」
「いやそういう反応するのは分かってるんだけどね、個人的にその服と靴とても洗いたいしフィンクスは仕事終わりだし、とりあえずシャワーでも浴びてもらいたい」
「……」
「……」
「……本気で言ってんのか、お前?」
「私今混乱してるのかもしれない」
「もっと早く気づけ」
「でもその靴で歩き回ってほしくはない」
「拭きゃいいだろ」
「……確かに?」
「お前なあ……」
冷静になんてなれていなかったらしい。これだけ盛大なミスをするといっそ清々しい。フィンクスに呆れられるというのもなんだか珍しい経験だ。落ち着くために椅子に座り、それから思い立ったように煙草を手に取る。座らないで窓際に行くべきだったな。立ち上がり窓を開けたところで彼が口を開く。
「悪かったな」
「何が?」
「泣かせて」
「勝手に泣いてただけだよ」
「お前が、……」
「……なに?」
「なんでもねえよ。一本もらうぜ」
「あ」
そうやって煙草の箱をすぐに奪うのは癖なのか。火をつけて箱を返した彼に、仕方なく何も言わず並ぶ。私が、なんだ?
「つーか」
すぐに思考を途切れさせる彼の呟き。顔を上げると、間を空けるためなのか一度黙って煙を吸った。その間に私も火をつけて一口吸う。それを吐き出したタイミングで視線がこちらを向いたのを感じ、また見上げると、目が合う前に彼は景色に視線を戻してしまった。
「情けねえな」
「……なんで?」
「泣いてる女置いて出てく男だぞ」
「でも戻ってきてくれた」
「当たり前だろうが」
「じゃあそれでいいよ」
「……昔から思ってたがお前はマジの馬鹿だな」
「なにそれ。フィンクスには言われたくない」
「うるせえ」
「私さあ、フィンクス」
「あ?」
「聞きたいことがあるんだ」
「だろうな」
「今度会った時に聞くから、覚えといて」
「……ああ。分かった」
ほんとに、と私は聞けなかった。でも聞かなくてもいいのだと思った。だから煙を吸い込む。ずるい言い方をした。約束じみた言い方をした。きっと彼は来てくれるだろう。こうして私は彼への期待という重みを背負う。