I kiss your hand, my dear.
この部屋は二人で生活するには狭すぎる。譲れない条件のために部屋の広さは捨てたし、一人暮らしなのだから狭くてもそんなに困らない。一緒に住むと言ったってまさか同じベッドで寝るわけにもいかないだろう。この男の図体では一人でも小さい気がする。煙草から戻ってきたフィンクスはそのまま私の隣に座る。その距離に、私が気にならなかったのはいつも彼が気を使ってくれていたからなのだと再認識して嬉しくなる。
二本吸う間に彼は何を考えていたのだろう。私が部屋の狭さについてぐるぐると思考し続けていた間に。横を盗み見ると両手を後ろにつき、ベッドに深くかけている。テーブルの方に視線を戻すと同時に首を鳴らす音がした。
「なあ」
「ん?」
振り向くと、体重を膝にかけ彼が私を見る。覗きこまれているような感覚に少し気まずくなり、何か言われる前に腕のあたりまで視線を下げる。
「俺の家来いよ」
「……フィンクスの?」
「きたねえけどここよりは広い」
「それ……あの、ここ引き払うってこと?」
「それ以外なんかあんのか?」
「でもそしたら本当に住むことになるよ」
「はあ? 住むって話をしてたんだろうが」
「そう……だね」
「どうしてもここ出たくねえのか」
「いや、そういうわけじゃないけど」
たぶん私は踏ん切りをつけるために色々な言い訳が欲しいのだ。一人で生きてこれたはずなのに、自分で思った以上に弱いことに腹が立つ。きっとこれは大きな決断だ。バイトを辞めるよりも数段。バイトを辞めると決意するのにさえ時間がかかった人間が、住んでいた部屋を捨て、一人の男と共同生活を送るなんてことを簡単に決められるわけがない。でも言い出したのは私だという責任のようなものも感じる。これをどう伝えればいいのだろう。分からないという表情をした彼と目が合う。……目を合わせているだけなのに、なんだか変な気分になる。おかしい。振り払うように口を開く。
「なんて言えばいいのか分かんないんだけど」
「おう」
「……ええと、割と長くここに住んでたから、なかなか出る心構えができないんじゃないかって」
「けどお前一緒にいてえんだろ?」
「それは、うん」
「それだけじゃ駄目なのかよ」
私が黙ると彼はため息を吐いた。まためんどくさいと思われているのだろう。私だってこの思考回路はめんどくさいし、やめられるものならやめたい。考えすぎている自覚はある。どうして理由がないと動けないのだろう。
「」
うつむいていた顔を上げる。彼の方はまっすぐ前を見たまま腕を組み、何か言いかけるが途中でやめる。それを何度か繰り返した後、ようやく言った。
「前から、つーか、あん時か……」
「うん」
「お前を連れ去っちまおうと思ってた」
「……連れ」
「うるせえ、黙って聞け。お前昔、逃げたいって言ったろ? ……けど、お前みたいな一般人が関わったってろくなことがねえ。だからしばらく様子見たらここに来んのもやめるつもりだった」
口を閉じられないまま始まった話に、ますます私はぽかんとしてしまった。なんだそれは。初めて聞いた。恐らく言いたくなかったのだろう。連れ去ってしまいたいだなんて、そんな、思い。
「結局来る度にお前も……来ないっつったら泣くしな」
「ご、ごめん」
「別にそれはいい。だから、なんつーか、俺も覚悟決めた」
「覚悟?」
「ああ」
彼が指を鳴らす。次の瞬間目が合う。大きなものだ。直感した。私は今これまでの人生で出会ったことのない、そしてこれから先も出会うことのないだろうほどの、大きなものと向き合っている。覚悟を決めたと言う男の目には嘘偽りがなく、心拍数が跳ね上がる。なんで、どうして、なんのために? 疑問を払拭することができない、ああ、思考力を落としてほしいとさえ。ゆっくりと呼吸をする。目をそらせない。
「俺はお前が覚悟するまで待ってやるほど、気が長くねえ」
「……うん」
「一緒にいてえなら俺と来い」
「うん」
「分かったか?」
「分かった」
「……お前、ここにいたらもっと泣きそうだからな」
付け足すように、このへんは色々めんどくせえしと呟いて目をそらす。口にたまっていた唾液を飲みこみ、息を吐く。やっと何かから解放されたような。こんなに心臓が働いていて私は大丈夫なのだろうか。手を頬に当てると熱を持っているのが分かる。赤面。恥ずかしい。なんか恥ずかしいな。
「フィンクス、頼みがある」
「頼み?」
「今頭ごちゃごちゃしてるの」
「いつもだろ」
「私、抱きしめられると思考力が落ちて、あなたの言うところのガキみたいになる」
「……回りくどいんだよ、てめえは」
「だって」
「だってじゃねえ」
「……ごめん」
「はあ、ったく」
顔を向けると、肩に腕が回されそのまま抱き寄せられた。匂い。温もり。思い出。こんな風に人と触れ合える日が来るとは思っていなかった。寄りかかってもびくともしない。そのうち力を抜く。私はこの人と一緒にいることができるのかと思う。逃げることすらできなかった私が、連れ去って、もらえるんだな、と、思う。