明日の匂いのする方へ
最後の日、一度だけ振り返って店を見た。いい職場だったと言えるだろう。朝日から目をそらすように歩き出す。この道を次に歩くのはいつになるのか、これがもう最後なのかもしれない、少しだけ切ない気分になる。だが直後、それと眠いのは関係がないと言うようにあくびが出た。
家に着いて煙草を吸っていると、十分経たないうちに男が降ってきた。灰が風圧で舞う。その柵だって脆いわけじゃないだろうに。
「おはよう」
「おう。盗ってきたぞ」
「ん? ああ。ありがとう」
柵から飛び降りた彼はそのまま部屋に入っていく。ベッドの軋む音。それから、テーブルに物が置かれる音。煙を吐き出す。今日はあまり風がない。腕に灰がついているのに気づきそれを払った。
荷造りって意外とすぐに終わってしまうものなのだ。実家を出る時も思ったことだが、今回はそれ以上にあっけなかった。あっけなく、私の部屋だった空間はどこか別のところになってしまった。家具を除けば服と数冊の本ぐらいしかない。あとはアクセサリーやら細かいもの。かさばるのはやはり服で、種類が少なくてよかったと思う。煙草を揉み消し外に投げ捨てる。この一年半、全く触れられることのなかった吸殻の山を昨日ようやく掃除した。それでも残る黒い跡。そこから室内に目を戻す。
テーブルの上の袋を確認する。そういえばピアス開けたいんだよねと言うと、彼は今度盗ってくると答えた。そのぐらい自分で買えるしなんなら病院に行ってもよかったのだが、お金がかからないに越したことはないかなんて思い、お言葉に甘えて盗ってきてもらったのだった。
「開け方分かんのか?」
「書いてあるよ」
「ちゃんと消毒しろよ」
「……面白いこと言うね」
「あ?」
「いや」
ちゃんと消毒しろか。そりゃまあそうなんだけど。ピアッサーの箱を弄ぶ。片耳に一つ開けると言えばなんだか変な顔をされた。それで気に入ればまたもう一つ開ければいいし、失敗したり肌に合わなかったりしたらやめればいい。椅子に座り、とりあえず箱を開ける。数日前ネットで色々調べたらやはり痛いらしい。耳たぶだとそこまででもないみたいだが、自分でやるとどうしても慣れていないので痛みを伴う可能性が高い。手元狂ったりしたら嫌だな。
「フィンクス、開けたことある?」
「ねえよ」
「そう」
「挟むだけだろ?」
「まあね。でもちゃんとやらないと歪んだりするらしいし、痛いだろうから」
「なんだ、怖えのか」
「そりゃ多少は」
「貸せ」
「え?」
「見せろそれ」
「はい」
箱ごとそれを渡すと、彼はピアッサー自体と説明文を交互に眺めた。もしかしてやってくれようとしているのだろうか。確かに彼なら、最後まで押し込むのが怖くて途中で止まるという最悪のケースは免れられそうだ。でも……。とにかく開けるところにマーキングしてしまおうと思い立ち上がる。
「痛くねえだろこんぐらい」
「うまくいけばそうでもないと思うけど」
ペンと鏡をテーブルに置いて座る。消毒液を垂らしたティッシュで耳たぶを拭った。じわりと冷えていく。
「何やってんだ?」
「開けるとこ、マークする」
「そんなことまですんのか」
「ずれにくいんじゃない? あとどこに開けたいってこだわりある人はいるでしょ」
「へえ」
私にはそんなこだわりはないが。適当なところにマークしたところで何度か何かを叩くような音。振り返ると、彼がピアッサーを投げてはキャッチする遊びを繰り返していた。おもちゃじゃないんだから。その手を止めず彼は言った。
「こっち座れよ」
「え、なんで」
「開けてやる」
「……できるの?」
「できねえことはねえだろ」
「そんな適当な」
「お前力なさそうだし」
「開けるぐらいの力は……ていうか、そこが問題なんじゃなくて」
「ああ?」
そこでようやく手の動きが止まる。鏡を閉じ、その横にペンを置く。問題はフィンクスに開ける能力があるかどうかではない。ピアスの穴を開けるということはそれなりに距離が近くなり、体の一部を見つめられ続けるということ。フィンクス相手なら慣れてきたとはいえ、まだ少なからず緊張する。……どちらかと言えば嫌悪よりも羞恥が強いのも、その場合の不整脈に慣れていないのも問題だった。彼は私が続きを言うのを待っている。体をそちらに向けた。
「近いでしょ」
「……あー」
「まあ、大丈夫だとは思うけどね」
「もう慣れたもんだと思ってたが」
「うーん、慣れたけど、慣れてない」
「んだよそれ」
「……触られること自体の嫌悪はもうない。かな」
「じゃ何が問題なんだ」
「なんていうか」
「ああ」
「……恥ずかしい」
「……なるほどな」
言葉に出してみると本当にその通りだった。先ほどまで冷たかったはずの耳たぶにまで熱が伝わる。それにピアスを開けてもらうなんて、なんだか、何かの儀式みたいで。彼は間を空けた後ため息を吐いた。
「の場合、恥ずかしいんだったらむしろ問題ねえだろ」
「何言ってんの。大問題だよ」
「うるせえ。こっち来い」
「なんか横暴じゃない?」
「気のせいだ」
「……失敗したら怒るよ」
「勝手にしろ、ガキ」
譲る気はないらしい。仕方なく彼の隣に移動する。ごちゃごちゃ言っていたのが馬鹿みたいだ。十中八九彼は馬鹿だと思っているだろう。それかめんどくさいと。彼が手を消毒液で軽く拭いてから、マークしてある耳たぶに触れる。熱は引いてくれない。目を閉じる。それが一番怖いと分かってしまう。目を開ける。深呼吸。金属がそこに当たる感触に、思わずジャージのすそを掴む。
「怖いか」
「……大丈夫」
大丈夫ではないけれど、大丈夫だ。抱きしめられる時よりは近くないはずなのにそれでも。角度を確認した彼が、私が動かないためにか、すそを掴んでいない方の肩口を押さえた。もう一度深呼吸する。
「開けるぞ」
「うん」
一瞬だった。
耳元でばつん、と大きな音が鳴った後、じわじわと熱が広がっていく。彼の手が離れる。恐る恐るそこに触れてみると硬いものがはまっている。段々穴の周辺に痛みが出てくるが思ったよりもひどくない。肩に入っていた力を抜き息を吐いた。
「ありがとう」
「痛くねえの?」
「痛いけど、そんなでもない」
「そうか」
少しずつ心音が治まっていく。なんとか無事に開けることができてすっきりした。落ち着いてから、煙草でも吸うかと思い立ち上がると、手を掴まれる。……せっかく今治まってくれていたのに。
「恥ずかしいって顔がそれか」
「……なに?」
「覚えとくぜ」
「忘れてください」
「どうせこれから毎日見んだから、そう簡単に忘れねえよ」
「……そうだ……」
「一本吸ったらとりあえず行くぞ」
「あ、う、うん。眠いんだけど行ったら寝ていい?」
「……襲っちまうぞ」
「……いや、それはまだちょっと」
「馬鹿、真に受けんな」
私の手を握ったまま彼も立ち上がり、片腕で軽くハグされる。すぐ離れたそれを追うようにベランダに出た。
ここに住んでいた期間はそんなに長くない。それでも一年半お世話になった部屋だ。たくさんの孤独が染みついた部屋。孤独が、期待が、裏切りが、ため息が、涙が、寂寞が。明るくもなく暗くもない、けれど確実に一人であり、他人の匂いがそんな私をはやしたてる部屋だった。ライターが朝を焦がしていく。ここで何度朝日を見ただろうなんて思う。どうしても感傷的になってしまうらしい。
「今月中に引き払うんだったか」
「うん」
「なら家具撤去は暇な時にでもやりゃいいか」
ピアスに触れる。吐き出した煙が見慣れた風景に消えていく。先週拭き取ったばかりの窓。相変わらず錆だらけの、でも来た頃より歪んでしまった柵。コンクリートに残る黒い跡。ここにある孤独や期待や裏切り、そして他の全てに飲まれてしまいそうになることはもうない。フィンクスを見上げる。彼がそれに気づいてこちらを見る。目が合う。煙草を持っていない方の手が伸ばされる。私の髪を彼の指が通る。……ああこの手が私の救いだったのだ。救いで、希望で、奇跡。そのまま指は頬に触れた。
「」
彼が私の名前を呼ぶ。指先から熱が伝わる。灰が視界の端で落ちる。耳たぶの鈍い痛みは続いている。彼がつけてくれた傷。この重みはやはり一つで充分だ、と思う。
そして私は、目を閉じる。