寂寞の余韻だけを僕に残して

 雨は降っていなかったように思う。確か街灯の死角、コンクリートの上。半袖だった覚えがあるからそこそこ暖かい日だったのだろう。袖から伸びていた腕にはしばらく包帯が巻かれた。

、久しぶりだな」
「そろそろ来ると思ってた」
「感動薄い奴だぜ。飲むぞ」
「うん」

 友人と呼ぶのが一番いいだろう。男はたまに部屋に上がりこみこうして一緒に酒を飲む。不快なのではない。むしろ私はこの男が来るのを楽しみにしていた。私には引っ越して以来友人というものがいない。もちろん高校の頃の友達と連絡を取り合って会うこともできなくはないがやはり普通に大学に行った人たちはそちらの交友関係が大事だろうし、そうでなければせっかくの休日に私と会おうとする物好きな社会人ということになる。大して目立った学生生活を送らなかった私にそんなものはおらず、またそのことを気にするほど子供でもない。だから日々をこの部屋とバイト先で完結させることに疑問を抱くこともない。
 けれどこの男、フィンクスだけは絶対に失いたくない存在だった。たぶん、いなくなったら泣くだろう。卒業式で泣くのは馬鹿らしかった。そういえばしばらく泣いていない気がする。

 フィンクスが持ってきたいつものウイスキーをコップに注ぎ、彼の缶ビールと軽く乾杯する。どうしてここまでしてくれるのか私には分からない。でも聞いたら今の関係が崩れる気がして何も言えなかった。たまに一緒に過ごしてくれるという事実があるのだからそれでいい、ということにする。
 フィンクスは口数が多い方ではない。と思う。でも私の方にあまり話題がないのでよく話してくれる。口数が少ないというか、口下手か。彼の知り合いだという人間の話を聞く。今のところ喧嘩っ早い人といつも喧嘩を止める人くらいしか登場人物がいない。一体どういうコミュニティーに所属しているのだろう。氷がないからぬるいままのアルコールを喉に流す。バイトの制服が入ったリュックを勝手に開けて、フィンクスは大げさに息を吐いてみせた。

「まだめんどくせえことしてんだな」
「稼がなきゃ生きていけないでしょ。私だって好きで続けてるわけじゃない」
「ほー、ご苦労なこった」
「しばらく働かなくていいくらいのお金があればなあ……。あっやばい」
「どうした?」
「煙草。後でコンビニ行ってくる」
「おう」

 こいつは私のバイトをめんどくせえこととしか認識していない。ぐいっと缶を傾けそれを飲み干したフィンクスは、私が煙草の箱を手に取ったのを見て自分のを出す。二人で窓際に並びながら火をつけ煙を吸い込む。夜が明け、夕方になればまた仕事に行かなければならない。一人で見ることはもうほとんどない星空。最近よく晴れている。
 煙草を始めたのはこの男の影響だ。それまでは特に社会に反することなく生きていた私だったが、そこであっさり落ちた。悪いことだから避けていたというより特にきっかけがなかったからやらなかっただけだ。世界の全てと言ってもおかしくはない男が吸っているのを見れば、吸いたくなるのは必然だった。……世界の全てか。

 コンビニから戻ってくると彼はテレビを眺めながら一人飲み進めていた。一緒に行かないかと聞けばめんどくせえ。このめんどくさがりはむしろ何をめんどくさがらないのだろう。

「ただいま」
「ん、なあこいつお前に似てるな」
「適当言わないでよ。誰?」
「映んなくなっちまった」
「そう」
「あ、こいつこいつ」
「……そんなに似てないと思うけど」

 座る前に床やテーブルに転がる空き缶を適当な袋に入れていく。明日バイト行く前に捨てていかないと。何度まとめてくれと言っても聞かないのでもう諦めた。ため息を吐きながらベッドの彼の横に一人分のスペースを空けて座り、コップを手に取る。私に似ていると言われた女優は私よりもちゃんとかわいく笑っている。かわいそうに、こんなところで似ているなんて言われているとは思っていないだろう。全く今後この人を見たら思い出してしまうじゃないか。

 朝が来るのが怖い。この人が帰ってしまうから。分かっている、ひと月も経たないうちにまたやってくるだろうことは。でも、なんだかいつの間にか約束みたいになっていたこれに彼を束縛する力などないことも、分かっていた。フィンクスが何を考えているかは分からないけれど、絶対にまた来ると言って帰るのだ。作ると言っているのに必ずコンビニで私の分までご飯を買ってきてくれる彼は、つまり朝食までの関係。私は日が昇る度に少しだけ憂鬱になる。

「じゃあな、次までに死ぬんじゃねえぞ」
「そんな簡単に死なないよ。ばいばい」
「おー」

 ドアが閉まる。鍵を閉める。ため息はやはり止められなかった。