不毛な苦悩はジャムにして
話はしたかったのだが、バイト終わりにあんなことになって疲れていたし、しかも泣くなんてことをしたせいで眠気が襲ってきた。体を離そうとすると今度はすんなり手をどけてくれる。泣き顔を見られるのは二回目だが前のはここまでではなかった。しゃがんでいたはずがいつの間にか床にちゃんと座っていた彼の足の間で深呼吸を繰り返す。もう大丈夫そうだ。
「シャワー浴びてきていい?」
「……ああ?」
「このままだと目はれるし一旦寝たいんだよね」
「駄目だ」
「……そう?」
「顔だけ洗って寝ろ」
「分かった」
「言ってる意味分かるか?」
「……分かんなくはない」
「ならいい」
怒ってはいないらしい。バイト終わりでシャワーも浴びずに彼の前にいるのは嫌だが、まあ帰った後にすればいいか。……段々何がほっとけない、なのか分かってきた。つい言ってしまったけれどこういうことは言わない方がいいな。椅子に手をついて立ち上がり、洗面所に向かった。
前にここに来なくなるのは嫌だと泣いた。今回もそうだ。お湯でまぶたが溶けそうになる。ため息が排水溝に飲まれていく。私は彼を失いたくないけれど、彼がどこかから狙われる原因が私であってほしくはないし、そうすると会えない方がいいのかもしれないと思ってしまう。でもそれを彼はよしとしないだろう。そこに甘えてしまっていいのだろうか。あの時私は死ぬのを恐れて会えなくなるよりはというようなことを言ったが、それは自分の被害しか考えていなかったから言えたことだ。幻影旅団。目を開ける。
ベランダに出ていた彼の隣に並んで私も煙草に火をつける。吸ってすぐは寝れないしもう夕方まで起きてようかな。彼は既に吸い終わり、それを地面に投げ踏みつけている。戻るのかと思いどこうとしたら目が合った。
「なに?」
「迷惑とか思ってんじゃねえだろうな」
「迷惑?」
「自分のせいで俺たちが迷惑するだのなんだの」
「思ってるけど」
「まだ俺たちが来ない方がいいって言うつもりか?」
「そうじゃなくて……まあ、そうなんだけど、でも」
一度煙を吸い込み、地面に向かって吐き出す。当然のことながらそれは地面には届かない。でも、何を言ってもあなたは。続きを待ってくれている彼を見上げ、またすぐ外に視線を戻す。
「私にだけ影響があるならいいよ。けど今回ので、私の存在があなたの足かせになるんじゃないかなって」
「マジでそうならとっくにお前も俺も死んでるぜ」
「……そうかもしれないけど」
「俺はそこまで馬鹿じゃねえし、弱くもねえ。あいつらだってそうだ」
「本当に私と会ってて大丈夫なの?」
「……あんまみくびんな。お前一人守ることで俺が死ぬとでも思ってんのか?」
「……かっこいい」
「あ?」
「なんでもない。分かった。納得した」
「やっとか」
……なるほど。自分が強いというプライドがあるから私が絡んだところで何も悪いことは起きないと言えるのだ。思ったより大変な人物と関わってしまったらしい。今さらだけど。ますます彼が私を視界に入れたことが奇跡のように思える。あの時助けてくれたことが、ああして出会えたことが、そしてここで再会できたことが。まだ少し残っているのを揉み消す。
室内に戻ってみて空腹感を覚える。よく考えたら朝から何も食べていない。まだこの間買った食材が残っていたはずだ。冷蔵庫を眺め、大体二人分は作れると判断し彼に声をかける。
「適当に作るけど食べる?」
「……俺の分あんのかよ」
「なかったら言わないよ。座ってて」
「おう」
裏社会でも大部分から敵とされている危険人物と関わるということ。知らずに関係を始めたとはいえ、勘付いていたのも事実だ。そしてちゃんと話を聞いてからも続けることを選んだのは間違いなく私。……リハビリも終わってないのだ。これでいい。きっとこれで正しい。私たち二人の関係においては、一緒にいてはいけない人間だと悩むことが間違っていたのだろう。
テレビをつけた音がする。そういえばここに住み始めてもうそろそろ一年半になるのか。フィンクスも慣れたものだ。結局続けてしまっているけどバイト、新しいところにしたいな。新人も使えるようになってきたし、明日の勤務で店長に頼もうか。貯金があるから次始めるまでは少なくとも持つはずだ。周りがよかったから続けてこれたけれど、本来コンビニの夜勤なんて進んでやりたいものでもない。まあ単に飽きただけで今まで不満に思ったことはなかったが。明日話して、来月のシフトはもう組まれているだろうから再来月にやめて……。そうして予定を組み立てることでなんとなく繋ぎ止めておいた意識を完全に現実に復帰させることができる。私はそうやって生きてきたのだと、再認識する。
フライパンは香ばしい音を立てている。