離る温度と引き換えに

 慣れるしかないのかもしれないと思い始めたのはここ数日。フラッシュバックするのは忘れられていないからで、たぶんこれから先もあれを思い出すことは多いだろう。ならそれを少しでも減らすために何をすべきか。悪い記憶をいい記憶で上塗りする、というのが私の出した結論だった。あそこまでの拒否反応を出してしまわないように。
 パーソナルスペースが広いのは元からだ。近くに人がいると距離をとりたくなる。親との関係が悪かったせいもあるかもしれない。クラスで女の子たちがべたべたしているのを見てああいう人たちもいるんだなと思ったが、専門で知り合った子にやられかけて、女の子たちはみんな平気らしいと理解した。私自身がそこに巻き込まれることがまずその一回を除いてなく、まあその時は受け止めてあげたけれどそれは相手が同性だったからで、異性ならば無理だ。向こうが気を使ってくれているのかフィンクスに対して距離を気にしたことはなかったが、たとえばバイト先で煙草を吸っている時に男性が入ってくるとどうしても同じ空間にいるのが苦痛に感じる。別に誰も彼もが私をそういう目で見ているわけはないのだからいちいち警戒するのも馬鹿だなとは思うけれど、条件反射になっているらしいので仕方がない。

 あれ以来、来る頻度が上がった気がする。一か月に一度程度だったのが二週に一度に、しかも休みの日を把握して来てくれるようになった。たぶん。酒を飲んだりテレビを見たり、相変わらず大したことはしていない。この間彼の話の中にマチという名前が出てきて、久しぶりに会いたいなと思った。一回しか会っていない私のことを覚えているかは分からないが、きっと完全に忘れてはいないだろう。なんだか彼女には惹かれるものがある。
 フィンクスは今テレビを見ている。見ているのか眺めているのか分からない。三時か。部屋の向きの関係で昼を過ぎるともうあまり明るくない。晴れた日の、夕暮れの手前くらいの空が好きで、長い間ベランダに出ることもある。もっともバイトの日は数時間後に行かなければならないという憂鬱みたいなものもなくはないけれど。テーブルの上の煙草を手に取る。彼はちらと私を見たが、立ち上がることはなかった。

 柵は赤黒い錆がはがれて汚い。明日あたり洗濯しないと、思いながら腕をそこに乗せる。パーカーの繊維が錆に引っかかる感触。
 半分ほど吸ったところで彼も外に出てきた。狭いベランダではあるがつめれば二人は立てる。奥に移動して窓に寄りかかった。薄い雲がところどころに浮かんでいる。風もほとんどない。ライターの音で、彼の方を見る。

「……なんだ?」
「なんでもない」
「あんま見んな」
「うん」

 灰を落としても不必要に舞って服につくことがない、いい気候だなあ。見ようと思って見たわけではない。彼は普通に立っているから寄りかかっている私の視界に入りやすいのだ。
 慣れると言ったって、この人くらいしか言い方は悪いが克服に使えそうな人はいないと今さら気づく。そもそも触られるのが怖いせいで考えたこともなかったが、私から触るのは大丈夫なんだろうか。煙を吐き出し短くなったそれを地面に落とす。消してから視線を上げると、当然だがまだ煙草を吸っている彼。ポケットに突っ込まれた左手。ジャージの袖はまくられている。
 たまには頑張ってみるか。

「ちょっとごめん」

 振り向くのと同じかそれより少し前に腕をつかむ。思っていたより固い。これが筋肉の固さってやつか。

「な、……にしてんだ、
「あ、うーん、触ってた」
「見りゃ分かる」

 言われてすぐ手を離し、自分の手を見つめる。なんだ、意外とあっさり触れた。やっぱり自分からならそこまで抵抗はない。向こうからでも心の準備をする時間さえ与えられていれば大丈夫そうだ。それにしても他人の肌に触れたのはいつぶりだろう。彼の体温が高いのか私が冷え性なのか、とにかく触れた腕の温もりが指先に残っている。顔を上げると煙草を捨てるところだった。踏まれる吸殻を見、口を開く。

「ねえ」
「あ?」
「悪いんだけど、もう一回いい?」
「……」
「嫌ならいい」
「嫌っつーか……」

 ため息。それから間を空けて左手をポケットから出す。彼の方もどうしたらいいのか分からないようで、手のひらを上に向けたり握りこぶしを作ったりしている。一旦彼の顔を見て本当に嫌がっていないことを確かめてから手を伸ばす。手のひらを合わせるように触れ、指の先の方を握る。私の手の大きさでは三本が限界だ。ごつごつして乾いた手。関節が太い。……口をふさいだ手とは違う。人を殺してきたかもしれなくても、私にとっては救い。だから触れる。のだろう、たぶん。



 名前を呼ばれ、彼を見上げる。続きは紡がれない。それを見ていたら手が離された。視線を下げる前にまた触れたのが分かる。今度はフィンクスの方が私の手を握っていた。繋いでいると言ってもいい。その行動への、そして嫌悪しなかった自分への驚きと、何故か切なさのようなものが浮かぶ。脈が速くなっていくのを感じる。今のは、向こうからでも怖くなかった。じゃあこの心音はなんだ?

「……悪い」
「なんで謝るの」
「俺からやんのはまずいだろ」
「……まずくなくて、びっくりしてたとこ」
「……」
「あのさ」
「おう」
「リハビリ手伝ってくれると嬉しいなって思う」
「……勝手にしろよ」
「ありがとう」

 今度こそ本当に手は離れ、フィンクスは室内に戻った。私もそれに続いて入る。今、少しだけだけど、離れるのが惜しいと思う自分がいた。あれだけ異性との接触が嫌で怖かったはずなのに。ずっと外にいたせいか部屋が暗く感じる。つけっぱなしだったテレビの音が耳に入る。座ってまたそれを見始めたフィンクスから焼けてしまった空に視線を移し、カーテンを閉めた。