レッド・クイーンは夢に溺れる

 ワゴンにいっぱいの花。たまたま視界に入ったそれはひどく魅力的に思えた。近づいていけば売り子の女が私に笑顔を見せる。

「いらっしゃいませ! 一本から売ってますよ」

 書いてある花の名前を見ても聞いたことのあるものはほとんどない。近くに立つと甘い匂いが脳にまとわりつく。隅まで視線を動かし、私の目にとまったのは真っ赤な薔薇の花束。
 そうだ。思わず笑みが漏れる。最後に薔薇なんて美しい話みたいじゃないか。

「これ、一本ください」
「プレゼントですか?」
「ええ」
「薔薇一輪なんて洒落てますね! 絶対喜ばれますよ。この品種は特に赤が濃いですから」
「あら、そうですか」

 どちらかと言えば花を渡す側のような気がするけれど、喜ぶのだろうか。それこそ手品の道具にされてしまうかもしれない。喜ぶか否かは私には関係のない話だ。手際よく包装されていく薔薇を見つめる。赤の濃い花。
 渡された一輪の花は風で飛んでいってしまいそうに思う。人がいるのに、私にはなんの音も響かない。髪を左手で押さえ、空を見上げる。水色、オレンジ、紫、濃紺。瞬きをする。視界は良好だし、体が軽い。
 タクシーに乗った。結局私は道を覚えることはできなかった。どこも、私のいるべき場所ではなかったのだ。薔薇を見れば、赤さが暗闇に溶けてしまいそうだった。

 見覚えのある道で降りてゆっくり歩いた。この格好でよかっただろうか。あそこを出た時にはいなかったから、服を見られてはいないはずだ。あの瞳に映るのが黒であるといい。
 屋敷に着く頃にはすっかり暗くなってしまっていた。敷地内に足を踏み入れ、真っ直ぐに進む。いる。絶対に。約束などしていないけれど、ここにいるという確信があった。風が吹いて花を握りしめる。暗闇の中、目が合ったような気がした。

「おかえり」

 屋敷のドアが開く。私は吸い込まれるようにそこに向かって歩を進める。私が入るとドアがゆっくり音を立てながら閉まり、一人エントランスに取り残された。消えている照明、床には何も転がっていなくて、しかし壁だけはあの時のままだ。一度止めていた足を再び動かすと、私の行くべき方へ明かりがついていくので、私は迷わずに歩く。
 やがてある部屋の前で立ち止まる。目玉の尾をドアノブに巻き付け、それを開くと以前よりもひどい臭いで満たされていた。それはもう、人間ではない。黒く重いもの。まだ月はこの部屋を照らさない。ねえアレクシオス、私あなたに言えなかったことがあるの。男の寝ているベッドに近づき、その手を取った。

「アレク」

 ごめんなさい。ずっと縛り付けて。何もしてあげられなくて。でも、あなたを殺したのが私でよかった。結果的にこの手にあなたの死を抱くことができたから。そっと顔を近づけ、指先にキスをした。
 ようやく終わらせることができる。
 私は立ち上がり、顔を窓の方に向けて、笑みを貼りつける。これで終わりだ。私のやり残したことは何もない。こんな行動が心残りを晴らしたなど、信じたくないけれど。

「お待たせしました」
「やあ。……久しぶり、
「ええ、お久しぶりです。これ、どうぞ」

 薔薇を渡すと男は唇を歪めた。見慣れた動作。花びらに唇を寄せて、首を傾げるようにして私を見る。

「情熱的だね」
「ありがとうございます」
「君と同じ、甘い匂いだ」

 伸びてきた手を払うことはない。いつものようにその腕に抱かれ、私は首に腕を回す。まるで人間じゃないみたいな冷たさ。首に宛がわれたそれを弾き飛ばせば部屋の隅に刺さったのが分かる。体を離す。かすめるようなキスの後、男が笑った。

「勇ましいねえ」
「生き返ったような気分です」

 手元に現れたトランプが一気に増える。目玉が真っ直ぐそこに向かうけれどそれよりも男がこちらに踏み込んでくる方が速い。後ろに飛びのきながら銃を抜く。目の前に狂気が迫り、弾を撃ち込むが当たるはずもなく、窓ガラスが割れる音がした。カードを目玉の尾で防ぎ、別の目玉で男の左頬を殴りつける。その間に男の手が私の頬をかすめるが、寸でのところで体を後ろに飛ばすことに成功する。靴の先端が男の腕に当たった。
 床に着地すると男は姿勢を正し、左頬を撫でる。

「くく、んふふ……」

 こちらも同じく左頬からは血が流れている。あれだけでこの疲弊。ああ、楽しい。いつぶりだろう、こんなに気分が高揚したのは! トランプが次々に飛んできて、目玉の尾で絡め取る。目玉の数が少ない。足りるだろうか。嫌だな、勝つことを考えてしまうなんて。

「ふふ」

 笑ってしまう。かかとが床に当たる衝撃で一瞬隙が出来た。手が伸びてくる。設置しておいた目玉で彼の背後から先ほどの窓ガラスを飛ばすと少しだけ意識が私からそれて、体勢を立て直す。私の足元にまでばらばらとガラスの破片が飛んできた。目が合う。全ての目玉は、男を見ている。



 カードをシャッフルしながら彼が呟く。背後にある目玉で見ると無数の破片が背中に突き刺さっていて、押し込めないだろうかと考える。

「僕を見てくれよ」
「見てますよ。ずっと」
「本当に?」
「うふふ。嘘です」
「いい子だね、
「嘘ばっかり」
「君はいい子だよ、ずっとね」

 じくじくと痛む頬に触れ、私は笑った。いい子。嫌な響きだ。目玉を男に向け、それを避けたところでそちらに踏み込み、銃を撃つ。見開かれた目が近くにあった目玉と視線を交わす。窓際の机が、壁が、カーテンが、穴だらけになる。男の手を避けて床を転がる。

「死ぬほど恋い焦がれる相手を見つめることが、君にできるかい」
「……嫌な人」

 男の手元に薔薇が現れ、それからトランプに変わる。カードを撃ち抜くと、男の背中側に置いていた目玉が潰された。どくん、と心臓が激しく跳ねる。ああ。ああ、痛い。普通こちらの意志に反して目玉が消えることはない。しかし、潰す方法はある。左目だけが瞬きをする。すぐに視界が戻るが、それも消えた。……どうしたって場所は分かってしまうのだ。隠していたってオーラであることに変わりはないのだから。でもまさか。まさか、あれが。段々と顔に熱が集中し始める。指先は冷え切ってしまい、銃を強く握る。
 投げられたジョーカーを銃で撃ち落とすと、男の手元にはいつの間にか一つの目玉。生唾を飲み、静かに、息を吐き出す。

「庭に埋まってるなんてね」
「さすが。見つかるとは思いませんでした」
「見つけるのに苦労したよ」

 私の片目。男の手のひらで転がされている球体。あれが見つかってしまえばもう私にはどうすることもできない。全ての目玉があれのおかげで動いているのだ。男を片目で捉える。トリガー部分に指を引っかけ、くるりと回す。

 お嬢様。耳元で声が聞こえた気がした。

 大量のオーラが一度に消えるのと、念弾が男をかすめたのはほぼ同時だった。耳をつんざく銃声。右目から血が噴き出して、眼帯がぐちゃぐちゃになるのが分かる。視界が悪い。色んなところから血が出ている。痛い。気持ち悪い。ああ。ああ、あーあ……。口元が歪む。
 口に入りそうになる血を空いている方の手でぬぐい、正真正銘の片目で男を見た。はあ、もう、息が苦しい。男の手には崩れた薔薇の花。

「せっかく君がくれたのに」
「ざん、ねん、ですね」
「君、放出系だったんだね」
「……意外ですか?」
「神経質じゃないか」
「げほっ、ふふ……性格と念系統は、関係ありませんよ」

 咳込むと口から血がこぼれた。男がこちらに歩いてくるが、私は耐え切れず膝をつく。辛うじて顔を上げ、呼吸を続ける。痛い。刺さってるのだ、体中に、なんで? どこから、飛んできた? 考えることができない。痛い。
 死ぬなんて。
 男の手が頬に触れた。分かっていた。死ぬって。苦しい。あなたもこんな気持ちだったの? お母様……。

「かわいそうな。痛いんだね」
「……ふふ……お見苦しいところを。ごめ……なさい」
「楽しかったよ」
「うそ……うそばっか」
「本音なのにな」
「すぐ、そうやって」
「大好きだよ、

 腹にもう一枚、カードが刺さる。

「ぐ、は、はあ、うそつき」
「嘘つきは嫌い?」
「だいっきらいよ。だいっきらい……」
「残念。僕は、ずっと好きだったのに」

 目が開かない。ど、と音がする。倒れて、血を吐き出す。言葉も出ない。涙くらいは出てくれているだろうか。
 だいっきらいよ。なんでもできる奇術師さん。私を愛してくれなかった、死神さん。だから……。

「おやすみ、お姫様」

 大好きよ。