ナイトフライトに重力はいらない

 あんたを殴ったってなんにもなんないのにねえ。うふ、痛いでしょ、ちょっと我慢して。おめえ、自分だって殴られてんだろ。猫なんざほお、っとけよ。あたしこれでも自分で拾ったものには情があんのよ、あんたと違って。俺はボスに、だ、だ、逆らいたくねえ、んだけだよ。いいから湿布持ってきなサル。しっかたねえなあ、まあ、あ、ったくよお。
 痛い。全身が痺れている。膣内の肉が切れたみたい。血は出ていない。お姉の手。歯が、一本なくて、そこからは血が出ている、から、血の味がする、のだろう。
 けどよおボスも、に手、あ上げるようじゃ、やべえよな。あんだけ、あ、だ、かわいがって、ったのを。
 お姉は答えない。あたしの左手は震えている。頬に冷えたものが当たって、さむい、って呟く。
 腫れたらどうすんの顔が、顔がよくっていいから拾ったのよあんた。
 間延びした声。詰めたり広げたりする言葉。香水のにおいがどんよりとあたしを締めつける。ああやめてよお姉、やめて、あたしはお兄がいなくちゃいけないのに、顔なんて……。
 でさ最近このへんで取り立て始めた組があんの……。あ他のやつらに言っちゃだめよサルもも。わあかってるってえ。あんたたち馬鹿なんだもの。それでその組ってのがうちがシマ張ってんのにいきなり出てきて、しかもどんどん店取っちゃって。でもそりゃあ、あーっちまってえいいんじゃねえの。荒らしてんのはそっち、ら、あさんなんだからよお、盛っちまって、盛っちまって。そんなことあの人も分かってんのよ、だけどやっぱおかしいの、言ってることあたしたち以上にめちゃくちゃ。たぶんこないだのカプセルのせいよ。ありゃやべえ、俺もやってねえよ。潮時かもねえ、目星つけときなさいよ。俺あ無理だ、おめえらと違って綺麗じゃあ、ねえから。
 やめてよ。やめてよ。気持ち悪い、なにもかもおかしい、あたしの胃が! 胃! ああなくなっちゃったのやだお兄行かないで行かないで行かないで、吐きそうだから、あたし。
 あっこら、あたしにかけないでよあーもう、ちょっと昼のあんかけ出てきちゃってるわよあんた。へ、へへ、なんじゃきたねえなあ。ねえサル見てんじゃなくて紙か布か持ってきなさいよ、ああもう急に吐かないでって何回言ったらいいのあたしは。ゲロトレーニングやらせりゃあ、あ、ハタチだっけえ? 二十歳なわけないでしょ、いいから持ってきてっていうの。ついでに煙草。へえ、あ、キクラゲ。



「ケンちゃーん」
「んー? なに?」
「あんかけやきそば食べたい」
「ああ、いいね! んじゃ今日の晩飯はそれで」
「でもねケンちゃん」
「なんすか、ちゃん?」
「あたし胃がないの」
「胃が?! え? 胃ってないと飯食べれなくない?」
「んにゃーぜんぶ出てきちゃう」
「あーっそれはダメ! もう吐かないで!」

 慌てた様子でケンちゃんが駆け寄ってくる。それがおかしくって私は笑い出してしまう。そんなに嫌なんだ。お姉の悲痛な顔を思い出す。

「うそだよお」
「なんだよーもう」

 ため息を吐いた後、ケンちゃんは私の足の爪をしげしげと眺め、それから目の前であぐらをかいた。左京はこれのにおいが嫌いだと言っていたのに、ケンちゃんは何も言わない。前にいつ両手を塗って、いつ足を塗ったのだか覚えていない。でもいつからかズレが生じている。トイレ掃除はどうやら忘れ去られたらしかった。怒られても知らないよ、とは言えない。
 テレビから肉を揚げる音がする。有名なお店に左京は行きたがらない。水族館は例外として、私を連れていけるのは近所のコンビニが限界だと言っていたから、そもそも有名かどうかなんて関係ないのだろうけれど。

ちゃん器用だなー」
「にゃん」
「アニキ、ちゃんのことあんま教えてくんねえけど……前に器用って言ってた。ピアスも自分で開けるし」
「だあってえ、左京がやってくんないんだもん」
「俺だって開けてもらってねえもん!」
「開けたげよっか」
「マジ?!」

 顔を上げるとケンちゃんと目が合う。きらきら。イルカ。ピンクじゃないけど。私はマニキュアの蓋を閉めて、男に左手を伸ばす。びくりと肩を震わせてそれでもケンちゃんは私の手を振り払わない。鎖骨に親指を這わせ、人差し指でシャツの隙間を広げる。

「あたしを抱ける?」

 気持ちのいいこと。時計がかちりと音を立て、八時になったことが分かる。ケンちゃんははっと私から目を逸らし、私の左手を柔らかく握った。汗ばんでいる手。熱いね、ケンちゃん。そろそろ冬が来るのにね。私の手が冷えているだけなのかもしれない、とぼんやり思う。

「それはダメだ、アニキが……」
「左京が、ダメって言うから、だからダメなの?」
「違う! 違えよちゃん、ちゃんが、これ以上……」

 テレビから、揚げ物の衣が人間の歯によって崩される音がする。ぎゅうと握られた左手が痛い。たぶんこの子も左京と同じなのだ。だから私を抱かない。でもそれでいいの。あたしは……。

「これ以上、ちゃんに苦しんでほしくねえんだ、俺……俺っていうか、アニキもそうだと思う。だから、手は出せねえ。絶対」

 不安そうな顔から段々と真面目な顔になっていく彼を、私はどうすることもできなかった。でもこれが正解なのだろう。私は傷ついても悲しんでもいないし、胃はここにあると理解できている。ケンちゃんの瞳だけが恐ろしくて、だからあたしは、うれしい。声を出して笑うと一層おかしくなってしまう。

「変なケンちゃん」
「へ、変?! そうかなあ」
「じゃあちゅーしよ」
「それもダメだって!」
「えー! 左京はしてくれたのに?」
「な、なおさらダメっす……」
「にゃんでよお!」
「いやいやいや、アニキに殺されるって俺!」
「左京はそんなことしないもん」
「アニキは怒ると怖いんだぞ」

 するりと離された手が宙に浮き、仕方なくマニキュアの瓶を掴む。ケンちゃんは喉が渇いたらしく、そのまま立ち上がってキッチンへ歩いていった。

ちゃんジュース?」
「にゃ」
「中華の出前がどっかにあったんだよなー」
「お兄捨てたかなあ」
「俺がひとっ走り行ってくる!」
「えー! 行っちゃうの?」
「じゃあ一緒に行く?」
「行く!」
「よっしゃ!」

 変な世界の変な人たち。親指の爪の先端を軽くつつくが指紋はつかない。それを確認してから腰を上げ、ケンちゃんからコップを受け取る。ケンちゃんには、渋々、というのが存在しない。だから左京も傍に置いているのだろう。たぶん。口に広がるりんごの甘みに意識を戻す。ふと爪先に目をやると、重苦しい白の上でスパンコールが舞い、室内の照明を反射して輝いている。