ぼくはしってる
消毒液が染みて思わず目を瞑る。痛がっているのが伝わったのか彼の手が止まった。
「大丈夫だよ」
「……大丈夫じゃなくても消毒はするけどよお、お前、だから言っただろ?」
「んーまあでも痛いっていうのも新鮮」
「マゾかっつーの」
「じゃあノブナガがサドでいいよ」
「許可制かよ」
彼はとても嫌がっていた。一体何をか。私の入れ墨を潰すために傷を入れることを、だ。
私は医者というものを全く信用していない。というか、まともな医者に行ったこともないし、まともじゃない医者に入れ墨の処理を任せたくなかった。しかもまともな医者に行っても傷痕は残ると聞く。それならばいっそ大きく傷をつけてしまおうというのが私の考えだった。しかし私の場合肩甲骨の間にそれがあるので、自分でやるのが難しい。それで荷ほどきも早々にノブナガに頼んだのだが、びっくりするほど頑なに拒まれた。何が悲しくて痛がる女に傷をつけなきゃいけねえんだとのこと。まあ、喜んでやるのはフェイタンぐらいのものだろう、でもさすがにあいつに任せたくはない。ヤブ医者より嫌だ。そこでこちらも意地になって、なんとか他の方法はないという旨を必死に伝え、ようやくやってもらったのだ。
血液が背中を伝い、流れていく感覚。皮膚が切り開かれる時の鋭い痛み。燃えるような熱さ。どれも久しぶりに味わうものだった。
「もうぜってえやらねえ」
彼はまだ何か呟いている。完全にではないのだろうが痛覚の戻った私にとってあの痛みは筆舌に尽くしがたいものだった。つまり動かず声も出さずというわけにはいかなかったのだ。
「包帯」
「え、どうしろって?」
「馬鹿か! 自分で巻け」
「え? あ、そうか」
「おめえマジでガキに戻っちまったんじゃねえか?」
「でも体は大人だから困惑するよね」
「ぶっ、……飛ばすぞてめえ!」
「冗談だって」
「さっさと巻いてくれ。いつまでもそんな格好でいられちゃ困る」
「うぶだね」
「ぶっ殺す」
「冗談だって」
笑いながら包帯を巻いていく。これは胸全体にかかるように巻くのが一番効率がいいか。消毒液で背中がすーっと冷える。温度。温度が分かるのだ、今の私は。そういうことにいちいち感動してしまう。
今日はホームで何人かと飲む予定がある。別にここでも元私の家でもよかったのだが、人数を考えるとホームが手っ取り早いだろうという話になった。……もうあまり行く機会はないだろうな。故郷ではあるが進んで行きたい場所ではない。
ブラのホックを留め、Tシャツを着る。やはり布が当たるだけでじんわりと痛みが広がるのが分かる。これはシャワーを浴びる時大変そうだ。
「ねえ痛かったよ、ちゃんと」
「……そりゃよかったな。服着たかよ」
「うん。あと熱かったし、冷たい」
「人間らしいじゃねえか」
「じわじわ実感してる」
よすぎた視力と聴力、ほぼ失っていた味覚と痛覚、まだ残っていた触覚。それらが全て正常になりつつある。数日前まであんな状態で生きていたのが信じられないくらいだ。今では睡眠も必ず数時間はとれるようになったし、空腹感も覚えることができる。これが普通の人体なのだ。
ベッドの上を移動し、端に腰掛けている彼の服の裾を後ろから引く。こちらを見ていた彼は服に視線を移し、それからまた私を見た。
「そういえば、思い出したことがあるの」
「なんだ?」
「昔私がパクに記憶読んでもらったの覚えてる?」
「まあなんとなくな」
「その後二人で飲んだんだよ」
「ああ」
「なんだか思い出そうとすると遮られちゃってできなかったんだけど、それがようやく分かった。私あの頃からあなたのことばっか考えてた」
「こっ恥ずかしいこと言うな」
それはねあなた、と、欲しいのね、だ。他にも何度か思い出せそうなフレーズが降ってきたことはあったものの、思い出すには至らなかった。
彼の顔に手を伸ばす。戸惑うように眉をひそめたが、逃げはしなかった。手のひらにはちゃんと温かさが伝わる。だから私の目には熱いものがこみ上げるし、彼はそれを見て息を吐く。人間に戻ってできるようになったことと言えば、泣くこともそうだ。頭を撫でられて私はその体に寄りかかる。
「」
「ん」
「あいつらと飲むの今度にしようぜ」
「なんでよ。もう時間も決まってるよ」
「やんなきゃいけねえことがあるの思い出した」
「やんなきゃいけないことって」
顔を上げ、目尻で留まっていた涙を拭う。目が合うと今度は向こうが私の頬に触れる。ああそうか、と思った。今までにそういう経験があったわけでもない、むしろ十数年子供のままでいたのだから何も知らないのだ。だからこれはパクとシャルの入れ知恵だと思う。あの二人の持ってくる本だとかネットの情報だとかを私は信用していたから。
「目閉じればいいんだよね」
「聞くな、そういうこと」
「あはは、ごめん」
素直に目を閉じればそこに触れるのは熱。やっと知ることのできたこの人の温度だ。離れると私は意味もなく笑った。それに対して彼はそっぽを向く。
「飲みには行こうよ。どうせ帰ってきたら二人だし」
「お前、そう言ったからには覚悟しとけよ」
「やだ、優しくしてね。あはは」
「ったくよお」
「ところで、もう一回目閉じるけど、いい?」
「変な誘い方だな」
「分かればいいの」
この人がいなければ私は光に飲まれていたのかもしれない。こんな気持ちを思い出すことはなく、触れれば溶けそうなほどに熱い唇も、それを求める心臓の高鳴りも、私は知ることができなかったのだ。隙間から息が漏れる。体温の上昇と共に背中の傷が痛むのを感じた。しばらくしたら傷痕は薄れてしまうだろう。でももう、忘れたりしない。ここでこの人とこれから過ごすであろう時を、無意識下に置いてきたりしない。
だからもうしばらく、この熱に浸っていよう。