我が重みのゆくへ

 幼い頃、どう考えてもそこにいるのが異常な白すぎる存在に出会った。共に行動していた子供たちの中で特別聡明だった男の子は私の説明したそれを「天使」と表現した。


 着信音が耳元で鳴り響いている。目を閉じたままそれを手に取り、相手を確認せず通話ボタンを押した。

「もしもし」
『もしもし、俺だけど』
「どちら様ですか」
『なんだ寝起き? 集合場所変わったからその連絡。の家から南にまっすぐ七キロくらいのとこに、』
「七キロくらい?」
『え? あー。まあそのへん一体開けてるからすぐ分かるよ』

 それだけ伝え終わると男はすぐに電話を切った。目を開ける。適当な男だ。南に七キロ。南に七キロくらい。頭でその二つを並べる。まっすぐと言ったのだからそれは正しく「家からまっすぐ南」なのだろう。体を起こしケータイをベッドわきのテーブルに置いた。またカーテンを開け放したまま眠ってしまっていたらしい。素足ではぺたぺたと音の立つ床。歩く度足の裏を汚す細かい石か何かが煩わしい。

 つまるところ私の仕事は物や人を運ぶことと、人を殺すことである。なるべくならば前者のみで済ませたいのだが、あっさり運ぶことのできない場合も多いのでそうもいかない。まあ他人の死なんてものに対し特別な思い入れなどなく、いつも考えるのは返り血を浴びたくないということだった。

 洗面台が黒ずんでいる。と、思う。鏡に視線を移すと人間の女がいた。いつもよりも顔色が悪い。蛇口をひねり水を出す。顔を洗うことで私の一日は始まる。規則正しい生活を送る、それがあそこから出ることで手に入ったものの一つ。水が肘をつたって足の甲にまでこぼれている。顔色が悪くなるということは、体調が悪いのだろうか。顔を上げ、水を止める。タオルで拭き取る前に胸元に水が滑りこんでいった。
 晴れている。なんとなく昨日よりも暖かい気がする。風はない。ゆっくり行っても五分はかからないはずだ。窓を開け閉めする時の耳障りな音を消したいなと考える。でもその術を私は知らないし、たぶんこれからも知ることはない。

 危機感が足りないと言われた。着替えながら男の声を思い出す。お前は確かに、私は確かに、強いがなあ、強いけれど。ぶつぶつと文句を言っていたのを私は注意深く聞いていたはずなのに、あまり記憶に残っていない。どうでもいいことだったのかもしれない。危機感を持っていることが私にとって重要なことだとは思えない。指先に力が入る。

「あ」

 ストッキングが破れた。


 それにしても懐かしい夢を見た。柵に手をかけて足に力を入れる。そのまま下に落ちても死なない高さ。次の瞬間全身が発熱しているような錯覚。無音。まっすぐ頭上の空間に体を投げ出し、真上に、落ちる。マンションの屋上の柵に足をつくとカンと金属音が鳴る。南に七キロ。南に七キロくらい。開けてるからすぐ分かるよ。一度高くまで移動し、南を向く。どうせみんな遅れてくるのだ、ゆっくり行こう。
 瞳が青かったのを覚えている。優しい男だった。男かどうかは今となっては分からないが、当時私はあれをまず人間の男として認識した。そんなわけはないのに。白いというよりも発光していたと言った方が近い。だから天使という表現に違和感はない。

ー!」

 民家の屋根で通常の重力に戻し、一休みしたところで呼ばれた名前。声のした方を見ると見知った顔があった。目が合う。そちらに下りると風で男の服がはだけ、細い足が目に入った。乱れた髪を片手で直す。

「よお。いつぶりだ?」
「三か月ちょっと。私下からじゃ道分からないけど、時間は?」
「さあ、まあ集合には遅れねえだろ」
「適当だな。連れていこうか」
「いやいい。お前のあれは疲れっからな」
「そう。じゃあ後でね」
「おー、呼び止めて悪かったな」

 男から少し距離をとり私は上空に戻った。元いた屋根に着地すると、ばらばらと小石が落ちたのが分かる。どうして呼び止められたのかよく分からない。屋根を蹴ってまた無重力になる。目指していた地点を見ると人がいるのが見えた。しっかり確認しなくとも、今日の作戦に参加するメンバーの中で時間より早く着いているという時点で一人しかいない。体の向きを調整する。眼下では長身の男が、得物を揺らしながら気怠そうに歩いている。集合には遅れないなんてどの口が言うのだ。男から目を離し、集合地点へと体を動かした。

 天使の力を用いて人を殺すのは、いけないことなのだろうか。