ひとつの絵

 顔を洗い、手早く支度を済ませる。朝食前にジャクソンの顔を見にいき、手紙もじいやに渡しにいかなければ。
 昨晩のカレンとの会話を思い出す。私のような女は結婚するべきじゃないって。いくら寂しくても、ジャクソンがそのような言い方をするとは思えなかった。人の──姉の顔色を常に窺っているようなあいつが? 私があいつの表面しか知らないということなのだろうが、もしかしたら、体調の悪さから不機嫌になっていたのかもしれない。
 男子寮の守衛に敬礼され、顔を知られているようで安堵する。こうして男子寮に来るのは何年ぶりだろう。大抵の連絡事項は訓練の前後に伝えるし、個人的な用ならそれこそ紙に書いて守衛に渡しておくので、誰かの部屋を訪ねることなどない。どうして私があいつのためにここまで。いや、一番付き合いの長いやつが子供の頃以来の仮病ともなれば一大事だ。致し方ない。
 部屋の前に着き、ノックをする。さすがにまだ寝ているだろうか。
「ジャクソン。私だ」
 声をかけ、もう一度ドアを叩く。これで反応がなければ帰ろうと思っていると、床に降りる音がした。静かな足音。
「……?」
 部屋の中から弱々しい声が聞こえ、内心ため息を吐く。やはり相当参っているらしい。
「ああ。様子を見にきた」
「……ひとり?」
「そうだよ」
 プライドだけは高いジャクソンらしい確認に、もはや呆れもない。ドアがゆっくりと開き、憔悴しきった様子の男が顔を覗かせた。その顔に、ぎょっとする。目は腫れ、唇もひび割れて血が滲んでいる。
「お前……」
 どう言えばいいか分からず、口をつぐむ。
「ひどい顔だろ」
 口元に笑みを浮かべ、男は言った。
「……何があった?」
「……なんだろうな。なにも、なかったのかもなあ……」
 ジャクソンは入口に頭をつけ、今にも倒れそうな恰好で呟く。これは本当に重症だ。ジャクソンの後ろに見える室内はほとんど荒れていないが、それも、暴れるだけの気力がなかったというだけかもしれない。昔から精神がやられやすいやつではあったものの、こうして目の当たりにすると戸惑ってしまう。
「私には話せないことか?」
「……はまともじゃん」
「……まともって」
「引くだろ。だからやだ」
「法に触れることか?」
「ふれねえけどお」
「なら、引きも笑いもしない。お前のそんな様子を見て放っておけるほど、お前と過ごした時間は短くないんだ」
「……」
「それでも話したくないなら聞かないよ……けど、お前は一人じゃつらいんだろ」
「……心配してくれてんだ」
「当たり前だ」
「おれのこと好き?」
「友人としてはな」
「あはは……」
 ジャクソンの吐き出した息が震え、また泣きそうになっているのだろうかと思う。しばらく片手で目元を覆っていたジャクソンだが、大きくため息を吐いた後、潤んだ目元を晒した。
「こんな時間に、男の部屋に来んなよ」
 そう言いながら、頭を入口から離し、通れるだけの隙間を作る。
「噂になっちゃうかも」
「構わん。噂なんてくだらないもの、気にしていない」
「お強いねえ」
 入れということらしいので、男に続いて部屋に入る。鼻声ではあるが、少しだけ声のトーンが普段のそれに近づいた気がする。
 構造は自室と同じはずだが、部屋の中央に丸テーブルが置いてあり、壁には映画か何かのポスターが貼られていて、なんだか洒落て見える。ジャクソンはテーブルに置いてあったグラスの水を一気に飲み、ベッドに腰掛けた。背の低い椅子に座り、なんとなく部屋を見渡す。窓際に支給された執務机もあるが、ほとんど使われていないようだった。写真立てが伏せられているのが見える。
「お前はさあ」
 窓の外を見ながら、ジャクソンが言った。
「ああ」
「王子たちと幼馴染じゃん」
「まあ、そうだな」
「たまに、カリバーン様のこと弟みたいっつってただろ?」
「言ったかもな」
「カリバーン様がお前のこと好きだったらどうすんの?」
「どうするって……」
「付き合う?」
「は? そんなわけないだろ」
「なんで?」
「好きじゃないから」
「あはは。ひでえな」
「……あいつは私のことを姉としか思ってないよ。見てりゃ分かる」
「じゃあ……俺も、そうだったのかなあ」
「……なんの話だ?」
「俺さー、……カレンのこと好きなんだよね」
「え……」
 聞き返す前に、本人の表情から、それが姉弟としての感情ではないことを悟った。無理に笑っているのか、自身に呆れているのか、その両方かもしれない。
「結婚すんだってさ」
 実の姉……確か両親共同じはずだから、正真正銘、生まれた時から傍にいる姉だ。カレンの話と、先ほどの会話が全て繋がってしまう。
「バカみてえだな……」
 声を震わせるジャクソンに、私は何も言ってやることができない。いつからそんな想いを抱えてきたのだろう。世間からは到底理解を得られないであろう感情を、何度も後悔したに違いない。それでも捨てられなかったから、こうして泣いているのだ。
 軟弱者のくせに何故騎士団に入ったのか、聞いたことがある。私を馬鹿にしていたやつらを打ち負かし、七光り呼ばわりもされなくなった頃だ。こいつは何度私に負けても、七光りと呼び続けた。さぼり癖もひどく、センスだけで昇級試験をクリアするような……。
 騎士道精神の欠片もないくせに、なんでここに来た。
 俺さあ、姉貴に期待されてんだあ。
「べつにさ……」
「……ああ」
「……べつに、おれの、あいつが、俺のもんになるなんて、おもってなかったよ」
 あの時の笑顔は、そういうことだったのか。片膝を抱え、ぐずぐずと鼻を啜りながら、ジャクソンは吐き出していく。
「でも、やだ、おれは、ずっと……カレンのこと、……あいしてるのに……」
「……」
「血が、血って、……なんなんだよ」
「……ジャクソン」
 泣きじゃくる男の姿に、こちらの涙腺までやられてしまう。どうしようもなくなって、男の傍に立ち、金髪を撫でる。皮肉なことに姉によく似ている、ふわふわとした金髪。
 しばらく撫でていると、男が少し顔を上げた。涙は止まったようだが、嗚咽は未だに治まっていない。
「俺さ……」
「ああ」
「お前がさ、ほんとは、カリバーン様を好きじゃないって分かってたんだ」
「……そうか」
「姉弟みたいなもんなら、お前が好きならいいのにって……でも……関係なかったな」
「……」
「カレンは、俺のこと、なんとも思ってねえんだもん」
「……何も伝えてないのか」
「あはは……当たり前だろ? そんなことしたら、二度と会えなくなるっつの」
「……そうだな。……つら、かったな」
「……なんだよ、泣くなよ……ばか、ほんと、まじめすぎんだよ、おまえは……」
 ジャクソンは笑いながら、涙をこぼしてしまった私の頬をつねった。初めから血の繋がりがなかった私では、本当の意味で理解することはできない。それでも涙が出るほど、あまりにも悲痛だった。唇を噛む。私が泣いてどうするんだ。どうにか指で涙を拭い、男の目に焦点を合わせる。
「ジャクソン」
「ん」
「いつでもいいから、その顔が治ったら来いよ」
「……あはは。やさしいよな」
「もし……ここにいる意味がないと思うなら、お前がつらいなら、辞めてもいい」
「……」
「でも、十年も一緒に頑張ってきた仲間を……見送りたくはないよ。だから来てほしい」
「……そっか」
 私の頬を挟んでいた両手をゆっくりと下ろし、ジャクソンは窓の外に視線をやった。潤んだままの青が、朝日に照らされてきらきらと光っている。私も男の頭から手を離し、服の袖で目元を押さえる。
「なあ。お前、プリトヴェン様のことが好きなんだろ?」
「な……なんで知ってるんだ」
「あはは、勘だよ、勘。簡単に人好きになんなそうだもんな」
「それは、知らんが……好きだったらなんだよ」
「いや、だからさ、まあ状況は違うけど……そのお前が慰めてくれて、よかったなってさ」
「……ああ」
「あはは……さすがにこの顔じゃ行けねえけどお。俺、ここ辞めないと思うわ」
「……そうか。そりゃよかった」
「お前がどうなるか楽しみだし」
「悪趣味なやつだな」
「そうじゃなきゃ、あんな女好きになんねえよ」
「そういう言い方はやめろ」
「きびしーねえ」
「知ってるだろ?」
「うん」
 まだ弱々しいが、ひとまず安心したような笑顔を見せた男にため息を吐く。それから、時計を探して執務机に視線を向けて、写真立ての存在を思い出した。伏せている理由をなんとなく察し、目を逸らす。
「じゃ、私は行くから」
「なあ今度、寝るまで傍にいてくんないか」
「……お前がどうしてもそうしてほしいんならな」
「はは……その百面相だけで満足」
「まったく……ゆっくり休めよ」
「うん。ありがとー」
 手を振るジャクソンに背を向け、部屋を出る。かなり早い時間に自室を出たので、ついでにカリバーンの見舞いにも行けるかと思ったが、想像以上に時間がかかってしまったし、それこそこんな顔は見せたくない。
 ジャクソンの願いは、永遠に叶わないだろう。血の繋がりという、強力すぎる絆のせいで。感情を自覚してから悩んだ年数は私よりも長いかもしれない。どうにか立ち直ってくれるといいが。締まりきっていない涙腺をどうにかすべく、私は背筋を伸ばして深呼吸した。