アニマ・イテル

 初めて逃げたいと思ったのは、いつだっただろう。幼かった私の願いを神は聞き入れ、そして無駄な命を与えてくれた。
 すなわち呪いである。永遠に輪廻から外され、さまよい続ける呪いである。
 何十年、もしかしたら百年近くこんな生活を続けていると、自分の情けなさにも諦めがついてくる。私に足りないものは覚悟だ。きっかけも、最初の世界も、本当の自分も忘れてしまう途方もない旅路。終わらせるには覚悟するしかないのだと、もうずっと前から分かっていた。
 願わなければいい。異端者として処断されることを受け入れるべきだ。分かっている。殺せ殺せと騒ぎ立てる民衆の、怒りに満ちた顔が、その世界での最後の景色。
 ──産まなきゃよかった。
 もう、誰の顔も思い出せない。


 はっと目が覚める。
 高い天井。焦げ臭さと、全身から噴き出た汗に不快感を覚える。怒号が耳にこびりついて離れない。目覚めが恐ろしいのは常だが、前のところが長かったせいでこの感覚は久しぶりだ。一度目を閉じ、深呼吸をする。まず、ここがどういうところだか把握しなければならない。
 どれだけ世界を渡っても生きるのがうまくならないのは、生来の気質なのだろうか。若返る度に知能まで落ちているのかもしれない。そういうことにしておこう。
 徐々に痺れや震えが落ち着いてきたので、ゆっくり体を起こす。全身が痛い。手のひらや、肘、感触からして足など、いたるところに包帯が巻かれていることに気づく。だいたい転移した先では体の状態も正常になっているのに、ぼろい服も打たれた痛みもそのままだ。何かおかしい。……まあ、今更何が起きても不思議ではないか。考えるのをやめ、質のいいシーツを撫でる。ふかふかのベッドなど何年振りだろう。目を向けた部屋は広く、家具も洒落ている。どうやら位の高い者に拾ってもらえたらしい。出窓から差し込む日が、朝を感じさせる。実際それが「太陽の光」で今が「朝」であるかは定かではないが。慎重にベッドから足を下ろし、窓に近づく。
「起きた」
「生きてる」
 不意に耳に入った、ざわめきに似た複数の声。思わず振り向くが、誰もいない。「報告しなきゃ」。幼い子供のような高く洗練されていない声と共に、ドアが開く。やはり人の姿はなく、幽霊や妖怪の類か、魔術だろうと結論づける。報告という言葉が気になるが、この待遇ですぐに殺されることはないはずだ。それなら初めから拘束されている。
 窓枠に手を置き、外を見る。太陽(他の惑星かもしれないが)の光が目を焼きそうだ。お菓子のようなかわいらしい建物が並ぶ街並みに、早朝であるのか人は少ないが、争う様子のない人々。ここは塔か城か、とにかく高いところであるらしく、見えるものにも限界がある。ガスマスクだとかをつけていないのを見るに、大気が汚染されていることもなさそうだ。窓を開け、顔を出す。それにしても、先ほどから漂っている甘い香りはなんだろう。まさか──いや、ありえないことなんて、この世に存在しないか。お菓子でできた街? なんだか気が抜けて、大きくため息を吐く。
「元気そうだな、不審者?」
 背後から聞こえた声に、振り返る。今度こそ人だ。私の倍はあろうかというほどの長身に、変な柄の髪、垂れ下がった大きな舌。薄々勘づいてはいたが、奇妙な世界に来てしまったらしい。窓を閉めてから改めてその人の顔を見上げる。
「あなたが、治療を?」
「ああ、聞きてえことが山ほどあるんでね」
「拘束の類はいいんですか」
「まァ待て、ゆっくり聞こう。紅茶でも飲みながらな、ペロリン♪」
 妙な語尾に疑問を覚える前に、カートを押しながら部屋に入ってきた人に意識が向く。全員長身なわけではないようだ。それに、恐らく性別の概念がある。使用人なのか、女はテーブルに食器を並べていく。男はそれが終わるのを待たず椅子に座り、足を組んだ。
 使用人が出ていくと、男はカップを持ち上げ、私を見た。
「そう警戒しなくていい。少なくとも、今すぐどうこうしようって気はねえ」
 なかなか珍しい対応に、戸惑ってしまう。ひとまず言うことを聞いておかないとまずいので、男の向かいに腰かける。すると椅子が揺れ、目線が高くなった。伸び縮みする椅子? この男は魔法使いなのか。なんの素振りも見せなかったが、他に人はいない。いや、椅子自体に何かが取りついているのかもしれない。男がカップを戻す。紅茶か。一度奴隷として飼われた際、このような光景を見た。
「記憶はありそうだな」
 じっと紅茶を見つめながら考えていると、男が言った。視線を上げる。まあ、舌を出したまま喋れる人類がいてもおかしくはないか。男の言葉に、頷く。ありすぎて困るくらいだ。
「名前は?」
「ええと、……でいいです」
「あ?」
です」
「……だな? 私はシャーロット・ペロスペロー。まあ、好きに呼ぶといい」
「その……不躾でしたらすみません。どちらが名字ですか?」
 男は驚いたのか、片眉を上げた。私は名字などとっくに忘れてしまったので関係ないが、名前らしきものが並んでいる場合、姓名の判断は場所によって違う。どちらで呼んでも構わないのだろうが、この世界のことを知るためにも必要な質問だった。今すぐ殺されるわけでもないみたいだし。
「シャーロット姓を知らねえとはな」
 有名人なのか? 「すみません」先に謝ったものの、失礼だったようなので改めて頭を下げる。
「いや、いい。……単刀直入に聞くが、お前、どこから来た?」
「……遠いところです」
「どうやって?」
「……」
「能力者か?」
「能力……と言っても、いいのかもしれませんが」
「ビッグマム海賊団の名に聞き覚えは?」
「……海賊?」
「……お前、本当に記憶を失くしてねえのか?」
「そ、それは、本当です」
 男はため息を吐いたが、ため息を吐きたいのはこちらだ。海賊? ここは海ではないのに? いや、この人が海賊なわけではないのかもしれない。しかし名前を知らないことに驚いていたし、名の通った海賊なのでは? 男が一旦考え込むフェーズに移行したらしいので、カップを持つ。指先に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「その怪我は誰にやられた」
 しばらく考え込んでいてほしかったのだが、そうもいかないらしい。痛みを我慢し、紅茶を一口飲む。口の中も痛い。
「知らねえようだから、言っておくが……ママ──ビッグマムは絶対だ。ママに逆らうやつは、身内だろうが殺されることもある」
「……あなたのお母さん?」
「そうだ。お前もママの前に現れてたら既に捕まってただろうがね……運よく私の前に現れた。足元に、べちゃっとな」
「べちゃ……」
 嫌な擬音だ。
「この島で起きていることで、ママの知らないことはない。お前の寝ている間に呼び出されてな。状況を説明して、ひとまず見逃されている」
「……匿ってくれているんですか?」
「ママに知られちまった以上、お前の命はママに握られていると言っても過言じゃない。私はお前を生かすかどうか、一旦判断を任されただけだ」
 長々と説明されたが、要するにまた命のピンチということか。いっそ寝ている間に殺してくれればよかったのに。この呪いはどこまでも私を絶望に陥れるのだ。
「ママは変わった種族だとか、まあとにかく変わったもんが好きでな……お前に期待してるみてえだ」
 ママというのが、シャーロットさんの母親であり、この国の絶対君主。海賊団のトップなのだから王様というのも違うのだろうか。変わったものが好きというなら正直に全て話した方が死なずに済むかもしれない。奴隷や見世物にされるのはごめんだが、そうしたいのならシャーロットさんにそのように命令するだろう。やはり、匿ってくれている?
「ええと……シャーロットさん」
「ん?」
「実は、あまり死にたくなくて」
「……大抵の人間はそうだろうな?」
「だから、生き残るために、全部お話ししたいんですけど」
「ぜひそうしてくれ」
「ちょっと突拍子もないかもしれない……それと、人に話したことがないので、うまく説明できるかも分かりません」
「構わねえ。おれも興味出てきたぜ、ペロリン♪」

 それから私は、呪いについて話した。「死にたくない」「逃げたい」と強く願うことで、どこか別の場所へ行ける力。どこに飛ばされるかは選べず、全部が全部そうかは分からないが、恐らく村や国単位でなく、世界ごとの移動だということ。その時の年齢はバラバラで、赤ん坊からやり直したこともあること。何故かいつも、最終的には殺されそうになること。
 説明していると途方のなさに虚しくなってくる。この場所で生きていきたいと思ったのは一度や二度じゃない。それでもやはり死にかける──殺されかける。そういう運命なのだと受け入れるほかなかった。ひとところに留まれず、誰も私を知らない土地を転々とし、死ぬ覚悟も居場所も、本当に信を置ける存在も持てない。いつまでこうして生き続けるのか、いっそ転移する度に記憶を失えたらと思ってしまう。
 可能な限り話し終え、なにやら考えている様子のシャーロットさんを見る。やはり今回は何かおかしい。生存率を高めるためとはいえ、これまでなら出自や呪いを明かそうなど考えもしなかったのに。痛みに耐えつつ、すっかり冷めきった紅茶で喉を潤す。
「運がいい」
「え?」
「ますます運がいいぜ。お前も、私もな。これなら殺されずに済みそうだ」
「それは……」
「ママにお伺いを立ててくる。部屋から出るなよ?」
「分かりました……」
 私のどこが運がいいというのか。彼のところに転移できたこと、つまりママとやらのところでなかったことか。悩む私をよそに彼は部屋を出ていく。もしかして、私が特になんでもない不審者だったら彼が殺されていたのだろうか。聞いているとあながちありえないとも言えない。
 椅子を窓辺に持っていき、腰かけて外を眺める。拷問に近い処刑だった。目立たないように生きていたのにな、とぼんやり思う。記憶は失わないが、転移は感情を鈍らせる気がする。恨みはしない。怒りなど、微塵も湧かない。悲しい気がするだけ。ただ、虚しいだけ。
 ここの空は多くの世界と同じだ。水色の空に、白い雲、太陽。名称が違う可能性はあるが、少なくとも見た目は。
「なあ……」
 部屋を振り向かず、話しかけてみる。まだ先ほどの子供らしき声の主たちがいるのなら、答えてくれやしないだろうか。
「空と、雲、太陽で合ってるよな」
「……もちろん」
 やや間があって、返ってくる。
「空を知らない!」
「大人なのに!」
「何も知らないの?」
「……そうだな。そうだよ。私はなんにも知らないんだ」
「かわいそう」
「絵本ならぼくが」
「ここにあるよ」
「えーと……」
 誘われるように振り向いて、方向を探る。がたがたと部屋の隅の本棚が鳴った。よく見ると、上の方に顔がついている。付喪神みたいなものだろうか。視線を滑らせ、時計やらテーブルにも顔があることを確認する。
「読んでもいいのかな」
「ここはお客さんの部屋だから」
「ぼくら、あんまりお話しする機会がないんだ」
「なるほど」
 感情はあるらしい。立ち上がり、背表紙の飛び出した一冊を本棚から引き抜く。絵本なんて読んだことないな、と思いながら表紙を撫でる。デフォルメされた島と、海のイラスト。とあるいちにちと上部に記載がある。


  あなたはまた、目がさめました。
  たいようがにっこりほほえんでいます。
  さあ、今日はどんなことが起きるのかな?

  まずはたべものをさがさなくちゃ。
  きのうは魚だったから、今日はお肉がたべたいな。
  やさいはここにはありません。
  あなたは狩りをして、お肉を手に入れます。

  おなかいっぱいになったら、おひるねです。
  まるたをあつめるのは、あとでやろうね。
  ふかふかの葉っぱでベッドを作ります。

  起きたら、たいようがいどうして、
  かげをつくっているじゃありませんか!
  たいへんです。
  はやく、しゅくだいをやらなくちゃ。

  あれ?
  またたいようが、のぼっています。

  「こらっ!」
  「わぁっ!」

  おかあさんがおこってる!
  どうやら、ごはんまでにしゅくだいをやりなさいと
  言われていたのにねむってしまったんですね。

  ぼうけんはまた明日にしよう。


 幸せな親子の物語だ。柔らかいイラストに大きな文字が大変読みやすい。何より、こういう本は世界の常識が表れる。名称はまず間違いないようだし、絵本の中に違和感もない。それなら、おかしいのはこの家……海賊団の方かもしれない。ぺらぺらとページをめくり、文字とイラストを眺める。どういう仕組みか、私に言葉の壁は存在しない。都合のいい、優しい呪いだった。
 また、太陽が昇っている。
 希望の象徴だ。明けない夜はなく、止まない雨もない。子供向けの本だからだろうが、空々しさに思わずため息を吐く。空想の中の冒険は明日に引き延ばせても、人生は待ってくれない。絵本を元の場所に戻し、そこから順番に背表紙をなぞる。小説は架空の世界が描かれることが多いから当てにならない。「ねえねえ」声に顔を上げれば、本棚と目が合う。
「読んだ?」
「読んだよ。ありがとう」
「えへへ」
「おい、
 他にも何かないかと尋ねようとしたところで、男が戻ってくる。
「ママに会わせてやる。ついてこい」
 男に言われるがまま、私はその背を追って部屋を出た。この世界での命運を左右するであろう出会い。恐れては、これまでと何も変わらない。男に気づかれないよう小さく息を吐き出し、自身を鼓舞する。


 やはりと言うべきか、ママことビッグマムは、シャーロットさんをほとんど脅していたようだった。私の全身より巨大な腕には赤ん坊が乗っており、けたたましく泣きわめいている。シャーロットさんに促され、私は再び呪いについて話すことになった。
 ──ママはお前に利用価値があると踏んだ。
 道中で言われたことを思い出す。黙るな、ビビるな、逆らうな。私が彼から命じられたのは、要約するとその三点だ。純粋な善意ではないのだろうが、彼としては私に死んでほしくはないらしい。当然、死ぬとなれば私は消えてしまうだろうから、彼が恐れているのはそちらだろう。部屋で私の話を聞いた時とは打って変わって緊迫した表情で彼は言った。
 ──とにかくお前はさっきの話をしてくれりゃいい。あとは、おれがなんとかしてみるさ。
 シャーロットさんにしたのより簡潔に話し、ビッグマムの反応を窺う。
「ハーッハママママ……」
 地の底を震わすような笑い声に、体がぐっと緊張する。
「異世界人! 世界を渡ってきたってェ?! おもしれェガキだ!」
 赤ん坊の泣き声が完全にかき消された。普通の大きさのようだし、腕の圧で死んでしまうのではと心配になる。
 私がガキに見えるのなら、ここでの年齢感やサイズ感はいくつかの世界と同等であると考えるのが妥当だろう。ただしビッグマムの大きさの人間も存在する。多種族世界だ。
とか言ったか、小娘!」
「は、はい」
「おまえの言うことが本当なら、相当色んなものを見てきたんだろ?! おれの役に立つってんなら、この万国で生きるのを許可してやる!」
「役に?」
「異世界の知識を余すことなく吐き出せ! おれは海賊さ……ここにねえものだって欲しいのさ!」
「わ、分かりました。それなら……」
 胃が痛くなってきた。こんな人間と四六時中一緒にいたら、感覚が麻痺しそうだ。
「おいペロスペロー!」
「な、なんだいママ?」
「こいつの面倒はおまえが見な!」
「えっ?!」
「おまえが拾ったんだろうが?! こいつに異世界のことを記録させて、定期的におれのところに持ってこい!」
「わ、分かった」
 面倒ごとを押し付けられているようにしか見えないが、本当に運がいいのだろうか。彼の表情はここからは確認できない。まあとにかく、この理不尽そうな君主から生きる許可を得ただけでも重畳か。
 謁見の間とでも言えばいいのか、ビッグマムの部屋から出て、ふたり同時にため息を吐く。私は異世界のことを思い出せばいいだけなのだ、私よりもこの人の方が大変だろう。
「すみません。ご迷惑を」
「いや、まァ、こうなるだろうとは思っていたからな……」
「そうですか……」
「とりあえず、私の島に連れていく。怪我に響くだろうが、我慢してくれ」
「ここに住んでいるんじゃないんですね」
「たまたま仕事で立ち寄っただけだ。だからお前は運がいいと言った」
「あなたは、運が悪いのかも」
「おもしれェ拾いもんってのには違いねえだろ?」
「……ただ、生き永らえてきただけです」
「お前がどう思ってるかは知らねえが、私は少なくとも、異世界人ってやつを初めて見たからな」
 返事に迷っているうちに、最初の部屋に辿り着く。彼は準備をしてくると言って去っていった。
 私は何も特別なところのない人間だ。殴られれば痛いし、殴り返せる勇気もない。人との関わりを避けてきたから、話だってうまくない。存在そのものが面白いと言われるなんて。案外、今までの世界でも正直に話していたら認められたかもしれない。汗の滲んだ手のひらの包帯を見つめ、握りしめる。
 生きていけるだろうか。ここを最後にできるだろうか。諦めでなく、覚悟によって。