ハグ
※「捕食」後の話です。時系列のことを何も考えていません。
混乱を引き起こすだけの文字列を眺めていると、いつからか脳がそれらを拒絶するようになる。ため息と共にスマホをベッドに放り、伸びをした。
たったの一週間二人になれないだけでこうもじれったい気持ちになるのかと最早呆れてしまう。正確には十日だ。なんだかんだ忙しかったので気にならなかったが、週末ともなればくだらないことを調べてしまうのも無理はない気がした。先週末は元々個性のトレーニングに充てると決めていたし、そのために朝も夜も彼に連絡することはなく、向こうも用事があったのかあれから今日まで特にやりとりがない。思い切り顔を上げると角がベッドに突き刺さる。天井のライトを見つめ、空腹を認める。そろそろ昼食の時間だ。
私にはやはり恋愛沙汰が向いていない。先日の「なんかやばい」行為について調べようとしたが、世に出ている恋愛に関する記事はどれも理解できない内容だった。特段理解する必要もないのかもしれないが、あいつが分かっていることを私だけ分からないのは非常に悔しい。そもそも何を分かろうとしているのかも分からなくなってきて、スマホを投げるに至ったのだけれど。
やってきたエレベーターには奇しくも耳郎が乗っていた。その隣には麗日がいる。なんだってこうもタイミングがいいんだ、こいつ。私を見て耳郎も、あ、という顔をした。次いで麗日に視線を合わせる。
「ちゃん」
「お昼」
「うん」
そこに並び、両手をポケットに突っ込む。いっそあれらの情報について聞いてしまおうかと思ったが、麗日もいるし、さすがに聞いてはいけない気がして口を噤む。第一何をどう聞けば正しい答えが返ってくるのかも分からない。
三人で昼食をとりながら昨日の授業について話したりした後、いくらかゆっくり食器を片付ける。だらだらと言ってもいい。そこでふと件の記事を思い出して麗日を見上げる。テレビを見ているやつらはこちらに気づく気配がない。麗日と耳郎では参考にならないだろうが、自分よりも背が高いという点で試してみてもいいかもしれないと思った。
「どしたん?」
「ちょっと抱きしめてみていい?」
「えっ? え、ええけど」
「いいんだ……」
ぼそりと呟いた耳郎を無視し、戸惑うように両腕を広げた麗日に手を伸ばす。角が彼女の顔に当たってしまわないよう顔を麗日の側に向け、頭を押さえるように抱き留める。おずおずと背中に回された腕は温かい。
「ふふ……ちゃんあったかいなあ」
「麗日は柔らかい」
「うちは何を見せられてんの?」
「耳郎ちゃんもやる? ちゃん、湯たんぽみたいで気持ちいいよ」
「えー麗日がいい」
「後で抱きつぶしてやる」
「こわ……」
体を離すと、今度は麗日が耳郎に抱き着く。耳郎は恥ずかしいのか少し顔を赤くして麗日の体に腕を回した。麗日の体が柔らかいからなのかは分からないが、確かに幸福感のある行為だった。ふわふわと笑顔を浮かべた麗日と裏腹に耳郎はなんだか分からないという表情で私を見た。
「これがどうしたの」
「ストレス軽減になるってテレビで言ってたから、どうなのかなと思って」
「あーなんか聞いたことあるわ」
「ちゃん後ろからのがいいんやない?」
「おわ」
「ほら! これなら角顔に当たらんもん」
私の腹部で手を組み、背後から満足げに言う麗日に体が固まる。たぶん麗日の顔が小さいおかげでとりあえず角が当たらずに済んでいるのであって、私が思い切り頭を後ろに倒したら刺さってしまう。視線だけ上げて耳郎を見ると口元を手で押さえていていたので、随分面白い絵面なのだろうと想像する。
「ブフッ……引きずられてる四足歩行動物って感じ」
「キレそう」
「なんか妹できたみたいでええなー」
「え、何してんの」
「……プロレスか?」
男子棟からリビングに入ってきた瀬呂と轟が、私たちを見てそれぞれこぼす。引きずられている四足歩行動物。麗日の対人格闘技術の向上を鑑みればプロレスという発想もおかしくはない。男子に見られたことで気恥ずかしくなったのか、麗日は私を解放して二人に向き直った。
「抱きしめるとストレス軽減されるってほんまかなあって」
「あー、こないだテレビでやってたやつ?」
「飯食ってていいか?」
「お前ほんと興味ねえんだな……」
適当に言ったのだが、本当にやっていたらしい。ネットもテレビも大差ないなと考えつつ髪を整える。
「耳郎」
「えっ何、抱きつぶさないで」
「一回やらせて」
「ヒィ……」
「うわー硬い」
「喧嘩売ってんの?! あんたも硬い、うわ痛い痛い刺さってる」
「刺してる」
「そうだろうね」
「は角あるからなー」
「そうなんよ」
耳郎とごちゃごちゃやっていると名前が聞こえ、渋々角を耳郎から離す。腕の中で耳郎が体の緊張を緩めたのが分かり、機微がよく伝わる行為だなと思う。瀬呂は私の角を眺めながら腕を組んだ。耳郎の肩から角を外しがてら体を離す。
「麗日の身長ならいいけど、俺とかぜってー刺さるよ」
「そやねえ」
「瀬呂とはハグしない」
「そりゃそうだけどさあ。あ、普通に前からでいいのか」
「めちゃくちゃ刺される瀬呂は面白いから後ろからにしてよ」
「確かに」
「こらこら、瀬呂くんで遊ぶんじゃないよ」
「おー、おっす」
「あ、砂藤くん。と、障子くん」
「ああ」
ドアが開き、巨体が二つ現れる。ああ、よりによって。
「お前らもこれから?」
「ううん、私たちは食べた」
砂藤の後ろにいる障子と一瞬目が合うが、逸らしてしまう。麗日が私と耳郎を指したのでそろそろ部屋に戻るかと考えながら、元々の疑問を思い出す。これを口実に部屋に行くとか、してみればいいのではないか。馬鹿らしい脳みそにもようやく慣れてきたはずが、嫌気が差し、ため息を漏らす。
それから瀬呂やら砂藤やらに別れを告げ、三人で女子棟に戻る。麗日たちはこれからトレーニングをする約束があったらしく、大人しく部屋に帰ることにした。
ドアを開け、冷えた空気に浸る。この間図書館で借りた本を読み切らなければいけない。念のためスマホを取り出し、急ぎの用がないことを確認する。
手元が暗くなってきたことに気づき、顔を上げるとカーテンの外がオレンジ色になっていた。随分集中していたようで、既に昼食から三時間が経過している。一旦読むのを止め、背中を伸ばしてテレビの電源を入れた。頬杖をつき、最近メディア露出が増えてきた新人ヒーローの食レポを眺める。この寒いのにソフトクリームを食べさせられており、少々同情するが、すぐに個性が熱に関係するものであることを思い出す。なんだったかな。緑谷あたりはカバーしているのだろうが、このヒーローについてはまだよく知らない。
トイレに行くついでにカーテンを閉め、部屋の電気をつける。ああ、熱風を扱えるのだ。トイレから戻り、視界に入ったテレビ画面で流れていたヴィランとの戦いによってはっきりする。私とは全く違う個性だ。充電器に挿したままだったスマホに手を伸ばしつつ、ベッドにうつ伏せになる。メールやらSNSの通知をざっと見てから消し、誰かしらからの連絡を期待してアプリを立ち上げる。飯田から明日のトレーニングについての連絡が来ていて、長文を読む。気づかずにいると夕飯時にうるさいし、場合によっては鬼のように電話がかかってくるので飯田からのメッセージはさっさと返さなければならない。短く了承の返事をしてから、一覧に戻り、連絡の来ていない彼の名前を見つめた。
この間、常闇は障子の好意が分かりやすいだとか言っていたが、私にはそうは思えない。もちろん一緒にいる時の対応を見ていれば好きであろうことは分かるのだが、どうしても私の方が気にしているように思えてしまう。たぶん元々の性格の問題なのだろう。私だって四六時中あいつのことを考えているわけではないのだ、タイミングもある。それが合うことを願って何もしないのは、本物の馬鹿だ。
一度シーツに顔を埋め、文面を色々と考えたのちにまたスマホに向き合う。それから数秒迷って、彼の名前をタップする。あ、い。……たい? 文字を打っていない方の手で顔を覆い、大きく息を吐き出す。やはりこれは送らない方がいい。薄目で画面を見ながらその二文字を消そうとするが、不自然な姿勢で打っていたせいか指が送信ボタンに触れてしまい、思わず体を起こした。馬鹿! 咄嗟にうそと送り、脳をフル回転させて言い訳を考える。既読がつかないことだけが救いだ。だが、それなら嘘を吐いたことにしない方がよかった。合気道とか、アイスとか。どうすれば誤魔化せるのか考えるも、いい答えが浮かばない。もうこれは覚悟を決めるしかないのだろうか。メッセージを削除したところでいつか気づかれてしまうし、二件もそれがあったら心配されるだろう。そもそも送ろうとしたのは根底にある私の意思だ。いつの間にか閉じていた目を開け、続きを打ち込んだ。うそじゃない。どっかで部屋行っていい? 行くとしたら、来てくれるとしてもだが、この間くらい遅い時間か早朝になる。どうせ休みなのでどちらでもいいが、それすらなく断られたらどうしようという不安が湧く。用事があれば仕方ない。でも、どこかのタイミングでと言ったのだから……。
ごちゃごちゃと考え続けていると、視界の端で画面が変わったことに気づき手元を見る。相変わらず返事の早いやつだ。私と違って。
─夜以降ならいつでもいいが、俺が行こうか。
─行く。
それだけは譲れず、即答する。すぐに既読がつくが、そこから何も返事がないので時間はこちらから指定するべきなのかと気づく。私としてもいつでもいいのだけれど、夜の方が行動はしやすい。返事を打っていると、彼から新しくメッセージが送られてきた。
─今電話できるか。
なんだ、まさか、打つのが面倒になったのだろうか。できると返し、床に置きっぱなしだったイヤホンを引っ張る。耳に嵌めた直後かかってきた電話をとった。
「もしもし?」
『ああ、いきなりすまんな』
「いや、全然。私もいつでもいいんだけど、夜行っていい?」
『構わないが……』
「……が?」
『……いや、構わない。先ほど砂藤たちと約束をしてしまったから、九時以降になるがいいか?』
「うん。まあ早いと人いるし」
『そうだな。では、部屋を出る時連絡してくれ』
「うん……あの、わざわざ電話だったから、なんかあんのかと思ったけど……大丈夫?」
『……何かはあったが、今はいい』
「……聞かない方がいい?」
『……悪い。また、今度話す』
「分かった。じゃ、また後で」
『ああ、ありがとう』
「こちらこそ」
電話を切り、イヤホンを耳から外す。障子が言い淀んだ上で先延ばしにするなんて、珍しい。一体何を言いたかったのだろうと気にはなるが、本人が今度と言っているのだから忘れようと思う。スマホの画面を消し、ベッドから降りてテレビの電源も落とす。上巻だけでも夕飯までに読み終えるため、本に向き直った。
夕飯後一旦部屋に戻ったのだが、いっそみんながいなくなるまでリビングにいればいいのではないかと思いつき、九時を過ぎてから下巻を持って部屋を出た。リビングでは数人のクラスメイトがいつものようにテレビを見ながら談笑しており、食事をする方のテーブルで本を読むことにする。
そうして読み耽っているうち、場が静かになったことに気づく。いつの間にか私しかいない。時計を見上げるとそろそろ十時半になるところだった。そういえば切島に消灯を頼まれた気がするなと思いながらページを捲り、章の終わりであることを確認してからしおりを挟む。ポケットに入れたままだったスマホをつまんで、障子に連絡を入れるべく画面をつけた。
連絡を終え、立ち上がる。電気を消してリビングのドアを開けるが、暗闇に目が慣れず何度か瞬きをする。上に行くボタンを押してから、男子棟のエレベーターが降りてくるのを眺め、最悪誰かが乗っているかもしれないと思った。常闇と映画を見るとでも言おう。それだと階が誤魔化せないか。三。切島に返せるものは持っていない。二。そもそも切島が降りてきたらどうしようもない。一。ああ、誰も乗っていませんように!
「うわ!!」
「むっ……すまん」
ドアが開き、出てきたのはこれから会おうとしていた人間だったので、様々な衝撃が相まって大声を出してしまった。胸元に手を当て、息を吐き出す。
「大丈夫か?」
「ご、ごめん……もしかして連絡くれてた?」
「ああ。既読もつかないから、見ていないだろうとは思ったが」
「マジでごめん」
「いや、驚かせてすまん」
「それは私が悪いけど……なんかリビングに用あるの?」
「ああ……二人でいれば、見られたとしても俺が声をかけたことにできると思ってな」
「えっ? そ、……あ、ありがとう」
「先に言えばよかったな。悪かった」
「いやいや」
用事が私の回収だったことが分かり、エレベーターに乗り込む。未だに脈が落ち着いてくれず、気づかれないように小さく息を吸って、吐く。あまりやっているとまた謝罪されてしまうかもしれない。ポケットに突っ込んだ手を握りしめる。これだから心配をかけるのだ。まさかリビングまで迎えに来てくれるとは思わなかった。本人の言い方は迎えに来たというより言い訳づくりのためという感じだったけれど。
「本を読んでいたのか」
機械の音と沈黙を割るように彼が言う。
「あ、ああ、うん」
尻ポケットの文庫本が見えたのだろう。肩の揺れにも気づかれているだろうが、幸い四階に着く方が何かを言われるより先だったので、内心胸をなでおろした。
呼吸すら許されないような心地になりながらも、無事に部屋に辿り着き、彼がドアを開ける。靴を脱ぎながらお邪魔しますと言い、変わらず殺風景な部屋を眺める。座布団が二枚あるのを見て、なんだか驚いてしまった。
「座ってくれ」
「ありがとう」
本とスマホを重ねて机に置き、近い方の座布団に体育座りをする。見ても何もないことは分かっているのだが、どうにも落ち着かず、カーテンと布団の間で視線を彷徨わせる。そこを彼が横切って、私の向かいに座った。
「何かあったか」
「え?」
「連絡をくれた時、焦っていたようだが」
「あ、あれは、消そうと思ったら送っちゃって」
「ああ……なるほど」
「べつに、用事はない……っていうか、だから……会いたくて」
この部屋にはテレビがないのだと思い出す。絶対に、自室の方が何もかもの都合がいい。顔を上げていられず、彼から見えないよう抱えた膝に頬をつけ、返事をされる前に声を絞り出す。
「会ってるけど、あの……ふた、ふたりで、二人に、なってないから。別にそんな経ってないけど……ごめん」
「……謝らないでくれ。俺も会いたかったし……お前から連絡が来て嬉しかった」
「うそだあ」
「嘘を吐く必要がないだろう」
「そうだと思う……」
この人の言葉はまっすぐなのだ。癖で悪態をついてしまう私に、最大限の返答をする。
「あのね」
「ん?」
間を埋めるために発声してしまい、選択肢を頭に浮かべた。適当なことを言ってもよかったが、たぶん私は、なるべく彼に誠実でいたいと思っている。あんたも硬い、という声が脳裏を過ぎり、迷いが生じる。麗日は女の子みたいな柔らかさで、女の子みたいな匂いがした。額を腕にくっつけ、薄暗い中で瞬きをする。
「昼に話してたんだけど」
「ああ」
「ハグするとストレスが減るんだって」
「……抱きしめても構わないという意味か?」
「うう……すみません……」
「何がだ」
「いろいろ……」
自ら要求だと分かるような言い方をしておいて、そのための行動をとれないこととか。要求を、してしまっていることとか。障子の優しさは深すぎて、私の手に負えない。なんて思う弱さ、とか。謝る理由ならいくつも思いつく。この姿勢のままでは障子を困らせるだけだろうと分かっているのに、顔を上げられない。
「」
「はい」
「この間、いちいち確認をしなくていいと言っていたが、あれはまだ有効か」
「む、無効」
「……なら、確認する。そちらに行って、抱きしめても構わないか?」
「ああ……うう……あの、いいですか」
「なんだ?」
「やっぱ、……有効ってことにして」
「……分かった」
私はいい加減、勢いだけで言葉を出すのを止めた方がいい。黙って待っていることすらできず、抱えた膝の角度を少し緩め、呻き声を上げる。有効に決まっている、あんなもの。この部屋は静かすぎて恐ろしい。彼が私を挟むように膝を立てて座り直したのが分かり、目元だけ腕から出してそちらを向く。彼の手が後頭部をやわらかく撫で、私の体はすっかり包まれてしまう。額を胸元に押し付けると、脈打つ心臓を感じる。これだけで私は全てを許されたような心地になる。麻薬みたいだ。瞼を上げ、ゆっくり、膝を抱えていた腕を解いていく。窺うように離れた手を捕まえ、頭に置くと彼が息を吐いたのが分かった。機微の伝わる行為、なのだ、と思う。片膝を腹筋にもたれかからせ、両手を股に挟む。首が痛い。
「姿勢、つらくないか」
「うーん、ちょっと待って」
楽な姿勢をとろうとすると、どうしても角が気になる。足を崩して完全に正面から抱き着けば私は楽になるが、それだと障子の負担が大きい。
「大丈夫だと思うんだけど、私抱えた時重かった?」
「……まさか、その心配をされるとは思わなかった」
「そうですね……」
それはそうなのだろうが、私としては聞いておきたかったのだ、とは言えない。一度体を離し、想定していた姿勢になれるか試してみる。体が厚くて腕が回りきらない。徐々に力を抜いていき、彼の体が微塵も傾かないのを確認する。
「大丈夫?」
「何がだ」
「し、姿勢」
「重くないし、姿勢も問題ない」
「ごめんって」
彼の腕がもう一度きちんと回され、足以外ほとんど隙間なく密着する。苦しいくらいだ。息を吐いていくと少し彼の腕の力が緩んだ。五指が後頭部をなぞるのが心地よく、無意識に肩に入れていた力も抜けていく。ゆったりと刻まれる鼓動のリズムも安心感の要因かもしれない。ストレス軽減どころの騒ぎではない。たぶん、相手が障子だからなのだろう。
特段眠いわけでもないのに、あまりの心地よさにこのまま眠ってしまえるなと考えていると、心音が大きくなった気がして目を開ける。障子でもどきどきする、なんてことがあるのか。状況だけ考えればそうあってほしくはあるが、障子は態度がまるで変わらないのだ。それでもやはり、先ほどまでより脈が速いように思える。同じ姿勢でいることに疲れて体を動かすと、腕の筋肉が一瞬、ぴくりと反応した。腹筋に力を込めて上半身を彼から剥がす。背中で組まれている腕に体重を預け、顔を上げる。表情を窺うがさすがにこれでは分からない。
「……なんだ?」
じっと観察していたら瞬きののちに彼が言った。なぜか私の顔に熱が集まってしまい、振り払うために口を開く。
「なにってわけでもないんだけど」
「ああ」
「……今、どきどきしてた?」
「……まあ、お前を抱きしめていれば多少なりとも脈は速くなるだろうな」
「は、はっず」
「お前もそうだろう」
「いや私はずっとそうだよ」
「……俺の心拍数が上がるのが意外なのか」
「めっちゃ意外」
「なるほどな……俺だって動揺や緊張をすることくらいある。お前ほど表に出ないだけだ」
「なんかそんなこと言ってたね」
「言ったかもな」
「ごめん」
「いや、謝る必要はない」
「胸触ってていい?」
「……構わないが、そう面白いものでもないだろう」
「面白い」
「……そうか」
片手を心臓のあたりに置き、少しだけ速いそれを感じ取る。ゆっくり胸が上下して、彼が深呼吸をしたことに気づく。うなじに触れていた手が、する、と首筋の方へ動き、思わず首を竦めた。心臓の動きから彼の緊張がほとんど直に伝わって、こちらまで緊張してしまう。
「脈が速い」
「こっちのセリフですけど」
脈を測られているとは思わなかった。ずっとそこに指があるせいで、余計恥ずかしい。どうしようもなくなってしまい、一度目を瞑ってから、抗議の声を上げた。
「や、やめてよ」
「……分かった」
彼の手はすんなり離れ、そのまま背中を支えている腕に下ろされたようだ。どうせ顔に出るのだから意味はないのだが、証拠がある状態でいるのはなんとなく気まずい。それから、彼にやめさせておいて自分だけ続けるのもなんだと思い、手を離す。その手を自分の首に当ててみると、鼓動がはっきりと指先に伝わってきた。こんなものを晒すなんて耐えられない。熱くなった頬を彼の親指とそのほかの指の関節が撫でる。頬を膨らませるとつついてくれた。優しい。視線を上げ、彼の目を見る。目が合ってから少しして、人差し指と中指が顎に触れるので、顔を上げざるを得ない。たぶん、そういうことなのだろう。私も彼の顎に手を伸ばし、ずれない程度にマスクを引っ張った。
「ちゅーする?」
「してもいいのか」
「いいよ」
そう答えると、頬に触れているのとは別の手が私の背中側から現れて、引っかかっていたところを外す。
「あ」
意思を失った布が私の指に引っ張られてずるりと彼の首元に落ちた。視線が交わり、私の焦燥感だけが募っていく。
「外さない方がよかったか?」
「だって、舌入れんじゃん」
「しばらくは入れないでくれと言われた」
「よ……よく覚えてんね」
「大事なことだろう」
「……ありがと」
私が吐いたどうでもいい言葉をいちいち覚えてくれているということに、嬉しくなってしまう。仕方なく目を閉じ、彼の唇を受け入れた。何も仕方なくなんてない。一度目のそれは短く、角度を変える時に私の体を抱きしめている腕の力が少し強くなって、心臓が跳ねる。脈、測られていなくてよかった。初めより慣れた彼とのキスは、緊張だとか恥ずかしさだとかの他にきちんと安心感がある。次のそれまでに、一瞬間を与えられて、息を飲む。でも、感情全てを超えるくらい甘い。触れる。体の力が抜ける。いつの間にか後頭部に手のひらがあてがわれていて、痺れてしまうように思う。息が鼻から抜けて、なんとなく、危機感を覚える。ああ、これだ。舌を入れられるせいではなかったのか。焦れるような心地になった私から、唇は離れていった。ゆっくり、目を開ける。じわじわと広がっていく、心を溶かされている感覚。頬を彼の親指が滑り、目を逸らすことができない。
「……帰したくないな」
彼の口が動く。
「え?」
心の整理なんてできるはずもなく、瞬きをした。
帰したくないな。彼は親指とその付け根を私の頬に宛がい、揉むように撫でた。意味は分かるというか理解できるのだが、ここまではっきり言葉にされたのは初めてで戸惑ってしまう。数回の瞬きののちに彼は小さく息を吐き、柔らかく私の頭を肩のあたりに引き寄せる。
「冗談だ。すまない」
「じょ……」
冗談などではないだろうことくらい、私にも分かる。それでも障子が、嘘を吐かない人間が冗談にしたいというのは、その言葉が心から漏れたものであることの証明でしかない。私はここには泊まれない。障子は異性で、クラスメイトで、ここは学校の寮だからだ。そんなことは私も障子も分かっている。分かっているのに、以前のように帰らなければならないことを前提として言うのとは違うトーンだった。目を瞑る。息を吸って、吐き出し、口を開く。
「私も帰りたくない」
「……その言葉だけで充分だ」
ふっと彼が体の力を抜いたのが分かり、ゆっくり瞬きをする。欲望は果てしない。私はいつまでもこの人と一緒にいたいと願ってしまっている。どうして叶えられないのだろう。キスとか、ハグとかでなく、二人で、同じ空間にいたいだけなのに。
「冗談じゃない方が、私は嬉しい」
「……前言撤回させてくれ」
「うん」
「悪かった」
「……そんな謝んないでよ」
「俺に自制心がないばかりに、困らせてしまったから」
「困ってないよ。障子が……私といたいって思ってくれてるの、ほんとにうれしい」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
胸元に額を押し付けながら嘆息し、一度目を閉じて、重い瞼を上げる。この人は私を好きになってくれたのだ。言葉を借りるわけではないが、それだけで充分だった。欲望は多々あれど。僅かに顔を動かすと私を抱きしめる腕の筋肉が視界に入った。内ももと床の間に挟んでいた手を引っ張り出し、その盛り上がりをなぞる。つまり、最終的に障子が私を好きなのであればそれで構わないのだ。欲求については切り離して考えたい。皮膚をつまむ。私の指の動きに反応する筋肉が面白い。
「噛んだら痕つくかなあ」
「……噛みたいのか」
「仕返し」
「……なるほど」
寄り掛かっていた体を起こして彼を見上げる。別に仕返しをしたいほど嫌だったわけではないのだが、やられっぱなしは悔しい。彼は机の方を見ながら、口元を押さえている。
「いい?」
「……」
「……だめ?」
「まあ……噛むこと自体は構わないが、そこは隠せないからやめてくれ」
「どこならいいの」
「……お前、噛み癖でもあるのか」
「噛んだことないじゃん」
「それは、そうだが」
「あとぜんっぜん君が言うことじゃない」
「すまん……」
「ていうか話逸らしたでしょ」
返事をしながら、話を逸らすために噛み癖がどうとか言いだしたことに気づいてそう詰めると、彼は深くため息を吐きながら口元を押さえていた手で目元まで覆った。それを見つめていたが姿勢が変わらないので、首を傾げるようにして彼の腕に角を刺す。しばらくして彼はようやく目を開けたが、やはり私を見ず、その代わりのように腕の一本を私の背中から離した。そちらに目をやると、素の状態だったらしいそれが手のひらの形に変えられる。
「いいやつ?」
「ああ」
複製腕ならば痕がついても隠すことができるということか。口に近づけられた手を眺める。自分の角を噛もうと思ったことはないので分からないが、なんとなく角よりも噛みづらい気がする。いや、そもそも人体の一部を噛もうと思うことなどそうないけれど。彼がいいと言ったのだしと思い、恐る恐る口を開けて人差し指に歯を当てる。人間の皮膚だ。少し力を入れると歯が肉に沈む。冷たい。手だとこの後洗いにいかせなければいけないなとぼんやり考えながら、奥歯で指の腹を噛む。私が肉食だったらこれで食欲が湧いたりしたのだろうか。溢れてきた唾液を飲み込み、何度か噛んで噛み心地のいいところを探す。よく考えたら角の場合は私がすぐ制止するのでここまで噛まれてはいない。いつやめればいいのだろう。たぶん好きにやめるなり続けるなりすればいいのだけれど、彼に止めてほしい気持ちが湧く。なんだかまずい気がしてきた。でも、なんとなく、また噛みつく。舌の奥の方に指が当たる。これ以上噛んでいると傷をつけてしまいそうだなと思い、手首を掴んで指を口から出す。
「かんだ」
「……満足したのか」
「うん。痛かった?」
「いや」
「そうなんだ」
「そんなに強く噛んでいないだろう」
「まあ……噛んどいてあれだけど、汚してごめん」
「……それは構わないが」
「洗ってくる?」
「……ああ、そうだな」
目が合って、何故か頬をつねられる。それから顔を弱い力で掴まれ、目を閉じれば唇が触れた。それは一瞬で、ゆっくりと息を吐きながら離れていった彼は、私の前髪を押さえるように撫でてから立ち上がった。
手を洗う音を聞きながら、机に頬杖をついてトナカイのぬいぐるみを見つめる。いいな、ぬいぐるみは悩むことがなくて。今しがた彼にやられたのと同じように自分で顔を掴む。なんで今キスされたんだろう。別に、理由なんてないのだろうけれど。なら、あんなに噛んでしまった理由は? 楽しいというか、面白いみたいな、不思議な感覚だった。そうするのが自分にとって当然であるように錯覚した。頬を掴んだまま口を開ける。トイレのドアが閉まる音がして、口を閉じる。そろそろ帰った方がいいだろうか。嫌だな……。
「しょーじ」
「ん?」
トナカイから視線を外さずに、こちらに戻ってきた彼に声をかける。
「今度また噛んでいい?」
「……そんなに角を噛んだことを怒っているのか」
「いや、それはいいけど……なんか落ち着くから」
「落ち着く」
「うん」
「……あまりよくはないが、先に噛んだのは俺だからな」
「そうだね」
「……好きにしてくれ」
「ふふ」
了承が得られたので、嬉しくなって伸びをする。それから彼を見ると視線が交わった。一旦視線を外し、ずりずりと彼に近づいて膝立ちになる。彼の両肩に手を置いてまた目を見る。横腹を彼の手が掴むので、くすぐったくて笑ってしまう。
「やだ」
「くすぐったいのか」
「あは、うん、そう」
耐えきれずそこに座り込むと手が離され、背中に回された。
「もう帰んないと」
「……そうだな」
「嫌だね」
「ああ」
親指で顎のラインをなぞられ、つい視線を泳がせる。それが下唇に触れた。緩く口を開き、彼の瞬きを見る。それから、視線が少し下げられたのを見て目を閉じる。彼は親指を唇の真ん中から端へ滑らせ、人差し指と中指の関節で喉との間あたりを撫でた。その直後唇が重なって、少しだけ体を強張らせる。彼の唇に下唇が挟まれ、鈍い痛みを感じる。すぐ離されたそれは今度は正しく押し付けられて、息を逃がしていると手のひらがうなじに回された。少しは余裕が生まれたと思ったのに、これではまた一方的だ。何もかも敵わない。悔しい。離れる唇を追うように押し当てれば、心臓が跳ねてしまう。うるさい。鼓動が脳まで響いて殴られているような感覚に陥る。これは酸欠だ。なんで私ばっかり! 私から離したくなくて、角度を変える。手のひらがうなじから肩に滑り、びくついてしまう。「」真横から声がして、一度唇を離す。「なに」「肩の力抜け」「むり」抜けるなら抜いている。息遣いが聞こえ、いつかのように親指で唇を開かされる。は、と短く呼吸をしながら、「はなれてくんないと息できないんだってば」なんとか声を出す。「頼むから鼻を使ってくれ」親指が離れるので口を閉じるが、中途半端に開いたまま彼の唇に塞がれた。鼻。鼻、から、吸って、吐くけれど、うまくできない。できないことを言わないでほしい。長いし。練習でもさせられているのだろうか。後頭部を撫でられ、少しずつ、できる限り力を抜く。口から息が漏れる。べつに平気なのか、と思う。口で呼吸をしても。唾液を飲み込む。色々な意味で死んでしまいそうだった。肩を殴ると、ようやく、それが終わる。大きく息を吐き出しながら頭を彼の胸にぶつける。
「は、……はいかつりょうが」
「大丈夫か」
「やだ……やじゃない」
「……無理か?」
「むりだけど、うまくなった」
「そうだな」
「ずるい……」
「……すまん」
「謝られたらなんも言えないじゃん」
「それもそうか」
「ばか」
「すまん」
「すき」
「……ああ。俺も」
ゆっくりと背中を撫でられているうち、呼吸が落ち着いていく。人よりも肺活量は多いと自負していたのだが、障子には敵わないらしい。いや、複製腕で呼吸をされていたらその敗北に意味はないのだけれど。
「かえる」
「……落ち着いてからにした方がいい」
「落ち着いてるよ」
顔を上げるとひんやりとした手で頬を包まれた。気持ちいい。瞬きをしながら下げてしまった視線を上げていき、彼と目を合わせる。私はもうだいぶ落ち着いている。ごちゃごちゃした思考などなんの意味も成さないと理解できたので。
「心配でな」
「な、なんで? 一人で帰れるよ」
「……リビングまで送る」
「いいってば」
「俺が一緒にいたいだけだ」
「え……あ……そ、そう」
今思いついた言葉だと分かっていたのに、真正面から受け止めてしまって狼狽える。何が心配だと言うのだろう。何もかもか。もう一度、触れるだけのキスをしてから彼は私を抱きしめた。なんだか本当に帰ってほしくないみたいだなと思う。もちろん嘘でないことは分かっていたのだが、やっときちんと納得がいった感じがする。温もりが離れていく。数回、呼吸をしてから、いつの間にか彼の服を掴んでいた手を離す。一人で帰れるくらいには大丈夫だけれど、リビングまでついてきてくれるのならもっと大丈夫だ、と思った。立ち上がった彼に手を差し出され、それを握って私も立ち上がる。立ち眩みがして目をこすり、しばらくぼーっとしてしまう。そうして落ち着きを取り戻し、置いていた本とスマホをそれぞれ来た時に入れていたところに入れた。
靴を履き、部屋を出てから手を繋ぐわけにいかないので彼を見上げる。
「ありがと」
「……こちらこそ。また」
「うん」
頭を撫でる手が離れるので、仕方なくドアノブに手をかける。今何時なのだろう。なんだかお腹が空いてきてしまった。
そうして現実を思い出しながら、私はドアを開けた。