捕食
※夢主の思考回路は「嘘」を経た前提ですが、読んでいなくても分かると思います。
寮に戻って夕食をとり、じっくり湯舟に浸かった後、リビングで勉強をしようという話になった。既に大半が自室に戻ってしまったらしく、常闇と耳郎、尾白、芦戸という妙な面子である。芦戸はずっと同じページを開いたままバラエティー番組に夢中であり、テレビを見るのが主な目的のようだ。部屋にもあった覚えがあるが、陽気なやつなのでここでみんなで過ごしたいのだろう。問題集の英文を脳内に並べながら関係のないことを思う。
「常闇寝てる?」
「……五里霧中」
「何? あー漢文」
「難解だ」
「まあむずいよね」
「鳥頭」
「こら、」
「わーっ!!」
「うわっ、ど、どうしたの」
賑やかなリビングは居心地がいいが、勉強には全く向いていない。飯田がいれば注意するのだろうけれど、それはそれでうるさい気もする。
「なんかさ……」
芦戸の話を聞くのを諦めたらしい尾白がテレビに視線を向けたまま言った。代わりに餌食になった耳郎がかわいそうになる。
「たまに、さんが肉食じゃなくてよかったなって思うんだよね」
「……はあ?」
「あ、いや、ごめん」
何を急に言い出すんだと思って視線を追えば、草食系男子の本音とテロップが出ている。不意に常闇が目を開け、こちらを見た。尾白の尻尾が揺れる。
「人間だから雑食なのは分かってるんだけど……」
「が肉食ならば、爆豪のようになっていた可能性が高い」
「おい烏野郎」
「自ら曝け出すとは」
「あはは……」
「私が肉食だとなんか困るの?」
「え……怖そうだなって」
「猿ってどうやって食べたらおいしいんだろ」
「こ、怖い……ごめん……」
「フフ」
「笑ってんじゃねえ」
「……常闇も食べられてたかもね」
「お、俺が?」
「明日焼き鳥丼にしようかな」
「貴様っ」
「トナカイでよかった……」
私はトナカイっぽいものだが、ぽいものであってそのものではないので、葉物ばかり好んで食べるわけではない。ただ肉より魚や野菜を好むという点で、草食に近い体であることは違いないだろう。肉食獣の個性を持って生まれた者もそういう食生活になるのだろうか。一種の差別ととられそうだ。
「肉食男子! かっこいーっ」
「ええ……怖くない? てか個性虎だからって肉食なの?」
芦戸と耳郎はまだテレビについて話している。二人の会話をなんとなく聞きながら、穴埋め問題の答えをノートに書く。
「ねえねえねえ!!」
「はいはい」
「やっぱ男は肉食がいいよね?」
「知らんし……」
「は草食派でしょ」
「どうでもいいけど、勉強しなよ」
「すーぐ流す! おしゃべりしたいー!」
「ふーん」
「何その適当な返事!」
「まあ、何言ってもこれだからね……」
「隠されると気になる! ね、尾白」
「え? あー、そうだね」
「全然聞いてねー!!」
「ほら、やるよ宿題」
「うう……やりたくないよー」
耳郎が促すものの、芦戸はソファーに寝転がってじたばたしている。ふと、こういうのがかわいらしいのだろう、と思う。肉食だろうが草食だろうが。
「おー、お前ら何してんの」
ドアが開く音がして、切島が現れる。手に漫画を持っているので、ここで読むつもりだったのだろう。ばっと体を起こした芦戸はきらきらという効果音が出ていそうなほど顔を輝かせた。
「ちょうどいいとこに来た!」
「はあ?」
「勉強中」
「芦戸はしてないけど」
「そりゃそうだ」
こちらに向かってきた切島は、尾白の後ろあたりに座り、漫画をソファーに置いた。かと思えば尻尾の先をいきなり掴み、尾白が驚いた声を上げる。かわいそうに。
「そんなことよりがなかなか口割らないんだよ!」
「なんの話?」
「恋!!」
「知らねーよ……」
「いっつも一緒にいるじゃん。なんかないの?」
「いや、いつもはいねえし……つーか本人の前でそういう話すんなよ」
フォローのつもりか切島は困惑した顔で言う。私のいないところでもそういう話はしないでほしい。このページを解き終わったら部屋に戻ろう。すぐに飽きるだろうが、芦戸はたまにこうして駄々をこねる。普段からかわれている麗日が哀れだ。
芦戸は呆れられているのが分かったようで、頬を膨らませた。
「あんまり外にも出れないしさ、ヴィランも活性化してて、こういうことでも話してなきゃ楽しみがないよ」
私たちはまだ高校生なのだ。誰かに言い訳をする。みんなもそれぞれ思うところがあったのか、一瞬その場が静まり返る。
「……まあ、そりゃそうかもしんねえけど」
「自身の経験を語ればいいのではないか?」
「私になんかあるならこんな言わないんですけど?!」
「む……」
「ー、私を助けると思ってー」
「そもそも何も話すことないから」
「じゃあ耳郎」
「いや、ないよ……」
「男子」
「ないっつーの。あるとしたら轟じゃね?」
「……でも、轟って別に興味なさそう」
「わかる!!」
「この中じゃ芦戸が一番モテそうだけどね」
「……! 私ものこと好きだよ!」
「誰も好きとか言ってないんだけど」
「これがツンデレかあ」
「芦戸、お前寝た方がいいんじゃねーの」
「私終わったから帰るわ」
「あ、うちも」
「くっ……何て様だ」
「俺も終わってないから……」
慰め合う常闇と尾白、漫画を読みだした切島に項垂れる芦戸を放置し、私と耳郎は問題集やらなにやらを片付けて立ち上がる。面倒な話にならなくてよかった。
エレベーターに乗りながら、スマホで時間を確認する。
「何時?」
「八時半」
「まだ寝る時間じゃないなあ」
「部屋来る?」
「え、いいの?」
「あ、耳郎の部屋でもいいけど」
「いやあんたの部屋がいいよ」
「そう」
元々私が音楽好きであることもあって仲はよかったが、なんだかあの一件以来今まで以上に一緒にいる気がする。同じく情報を共有している梅雨ちゃんが寒さに弱いのが残念でならない。仮免試験の時などはそれでひどい目に合ったらしいので、本人には言えないが。
部屋に着くと耳郎がさむ、と呟いた。確かに少し肌寒いなと思い、耳郎に暖房のリモコンを放る。問題集とノートをリュックにしまってからテレビをつけると、先ほど大盛り上がりしていた番組だったので適当に切り替える。エアコンの稼働音。
草食とか肉食とか、そんなに大事だろうか。少女漫画などを嗜む趣味はなかったし、ドラマもほとんど見ないのでよく分からない。暇つぶしに読んでいた小説や、中学時代に女子がしていた話くらいしか知識源がなく、バラエティー番組を見ていても情報が頭からするすると抜けてしまう。ベッドに背をつけ、胡坐をかく。
「耳郎はさあ」
「ん?」
「ああいうの、興味あるの?」
「ああいうの? 草食とか?」
「ていうか、恋愛沙汰」
「そりゃ、まあ、人並みに興味はあるけど」
「みんなが言ってることって大事なのかな」
「……なんか悩んでんの?」
「悩んでるっていうか……あんまよく分かんなくて」
「何が?」
「芦戸とか上鳴の言ってること、大半理解できない」
「あー……」
耳郎は胡坐をかいた膝に頬杖をつき、テレビ画面を眺めながら考える間を空ける。
「なんだろうね……みんな恋したことあるんじゃない?」
「恋」
「それだとあんたが分からないの意味分かんなくなるけど」
「確かに」
「……楽しみたい人と、真剣に付き合いたい人がいるじゃん。たぶん」
「みんな真剣じゃないの?」
「いや、ほんとうちも分かんないよ。楽しんでるからって真剣じゃないとも言えないし」
「……恋愛って、そんなに楽しいもの?」
「た、たぶん……」
「たぶん」
「好きな人できたことあるけど……まあ、楽しいのとはちょっと違ったかも」
専門外だとでも言いたげな表情で、それでも真面目に答えてくれる。こういう話はきっと私たち二人でしない方がいいのだろうが、一番理解していそうな梅雨ちゃんは寝てしまっている可能性が高いし、常闇は論外だ。
「でも片想いって楽しいだけじゃないか。……片想い長かったんでしょ?」
「まあ……でも、それ言ったら別に両想いだからって楽しいばっかじゃないよ」
「確かに、そんな気がする……」
「よく分かんないな」
「ごめん、力になれなくて」
「え、謝るとこじゃないよ。話すの楽しいし」
「そっか。ありがと」
「こちらこそ」
積雪情報を眺め、足を伸ばす。前屈をしてみたら若干隙間が狭く、机に頭をぶつけた。
「あんたは嫌がるかもしんないけどさあ」
「なに?」
「本人呼んだらなんか分かるかもよ」
「本人?」
「障子」
「……は? 嫌だわ」
「うちは楽しい」
「最低だな、出てけ」
「うわ痛い痛い、いいじゃんたまには!」
角を伸ばして細い部分を太ももに突き刺す。何もよくない。当然角は掴まれてしまい、頭を振ってそれを縮める。引っ込めた勢いでこちらに倒れかけた耳郎の頭を押した。
「いつもの話聞いてて偉いなー、うち」
「ありがとう。おやすみ」
「わーっもう、頑固だなあ!」
「逆の立場だったら絶対許さないでしょ」
「ま、まあ……でも、自分のいないとこで話されるよりはよくない?」
「脅迫罪」
「それは冗談だけど! うちも恋愛沙汰に興味あるから」
「良心に訴えかけるじゃん……」
「あんたそういうとこあるよね」
ため息を隠し切れない。膝を抱え、額を膝がしらに当てる。確かに耳郎には色々と迷惑をかけているし、先ほどまで話していた内容からして、本当に興味があるのだろう。それこそ、逆の立場なら呼ぶよう仕向けるかもしれない。とはいえどうしてそんな辱めを受けなければならないのかはさっぱり分からない。
「あんたらっていつ会ってんの?」
「黙秘」
「出た……あんま会えないんじゃん?」
「うるさい」
「あんたは常闇嫌いかもしれないけど、あの二人一緒にここ来るならみんな何も言わないでしょ」
「別に嫌いじゃない……待って、なんで常闇?」
「梅雨ちゃんが前に言ってたなって思って」
「いやマジで困る、あいつにだけは見られたくない」
「あれ、事情知ってるんだよね」
「さあね」
「今それ禁止!」
「芦戸みたいなこと言わないでくれる?」
「それはそれとして、障子一人で来るのはさすがにまずくない?」
「なんで来ることになってんの?」
「なんかわくわくしてきちゃって……」
「もうやだこいつ……」
「ほら、あれ。背中押そうと思って?」
「梅雨ちゃんはこんな馬鹿みたいな提案しない」
「辛辣……」
辛辣にならずにいられるか。馬鹿みたいだという気持ちと裏腹に、障子には会いたいと思ってしまう。それを二人に見られたくはないが、耳郎の言う通りなかなか会えないのも事実だ。事情を知っている二人なら構わないか……。
「私常闇脅すわ」
「なんで?! 怖い」
「腹いせに……」
「DVかよ」
「まだリビングかな」
「え、これうちが障子を呼ぶ流れ?」
「そうだけど?」
「びっくりするから急に腹くくるのやめてよ……」
障子が一人で来るよりいいというのは同意するが、それにしたって私の部屋に耳郎とその二人が集まる理由が全く思いつかない。私が耳郎を誘ったらたまたま……という風に連鎖させていくしかないか。最終的に、たまたま、偶然、障子までたどり着いたということにすればいい。ここまで考えておいて引く気もせず、自分の無駄なプライドに嫌気が差す。スマホを操作する耳郎に、障子のことは常闇に誘わせるべきだと気づく。
「あ、待って」
「えっはい」
「もう声かけた?」
「いやまだ。打ってただけ」
「耳郎が常闇を誘って、常闇が障子を誘ったことにした方が都合がいいわ」
「言い訳のプロ!」
「なにその不名誉な称号……」
どう考えてもみみっちい。最悪だ。
その後どうにか話が障子まで届いたらしく、常闇から耳郎に返信があった。万が一他人に見られても誤魔化しが効くような会話しかしていないが、勘のいい人間なら分かってしまうだろう。これだからみみっちくて情けないのだ、私は。自己嫌悪の波がやってきて、思わず大きく息を吐き出す。
「てかどうでもいいけど障子起きてんだね」
トイレから戻ってきた耳郎が言うので、顔を上げる。
「さすがに起きてるでしょ」
「いやあいつよく分かんないからさ……やることないから寝たとか言いそうじゃん」
「……まあ……」
思い当たる節はあるし、私自身そういう日が多いのでそれ以上言い返せない。
「あ、これから来るって」
「ふーん」
「ふーんじゃないわ」
耳郎に見せてもらった画面から、リビングにいたやつらは私たちが帰ってしばらくして解散したようで、常闇は部屋に戻る道中だったことが窺える。切島はまだいるかもしれないがあいつは何も疑わないだろう。一体どうして私がこんなことを考えなければならないんだ。わくわくしてきちゃってという言葉が頭に過ぎる。明日も学校だというのに。
「緊張してきた」
「私のセリフなんですけど」
「って緊張すんだね」
「するわ。うわ!! びっくりした……」
「すげー緊張してる……」
ドアがノックされ、慌てて立ち上がる。情けない、情けない。穴があったら入りたい。ドアノブを回して開けると見慣れた黒い頭があった。その後ろに、未だ見慣れない巨体。見慣れていないんじゃないのだ。たぶん、まぶしい。二人とも何事か言いながら部屋に入っていく。なんとなく茫然としてしまい、首を振りながらドアを閉める。
広くはない部屋に四人もいると、詰まっているという印象が強い。耳郎はやはり妙な表情で二人を交互に見ている。
「どこに座ればいい」
「そのへん」
「何を怒っているんだ」
「、ずっと怒ってるんだよね」
「誰のせいだと思ってんの?」
「うちです……」
不思議な配置で突っ立ったままだった常闇を奥へやり、私はベッドに座る。障子が私と常闇の間に座ったのを見て、腰を浮かせていた耳郎もきちんと座り直した。どこを見ればいいのか分からず、流れ出したスポーツニュースを眺める。すっと手を挙げた常闇が視界の端に映り、他の二人と同様そちらに目を向けた。
「質問の許される場か?」
「え、質問が許されないことあんの」
「の前ではな……」
「余計なことを言うな」
「もー……で、なに?」
「耳郎は、……知っていて俺に障子を誘わせたのか?」
「知っていて? あ、うん。え、知ってんだよね?」
「……やはり耳郎に説明していなかったか」
「すぐ黙秘するからね」
「待って、ギブ」
「早っ! まだ障子喋ってないんだけど!」
常闇と障子はここに呼ばれた目的を分かっていないはずだ。目的なんてものはないに等しいけれど。顔を覆う。この状況で障子の顔を見ることができるはずもなく、深呼吸をする。
「帰った方がいいか」
「障子はいていい」
「うわー」
「愛の楽園」
「何この状況?」
「カップルを囲む会?」
「おい!!」
「なんだそれは……」
「うちも質問したい」
「するなするな」
「常闇はどこまで知ってんの?」
「それは」
「うわー!!」
「うるさっ」
「私ベランダにいていい?」
「いや駄目でしょ!」
「いやいいでしょ……」
「そもそも俺たちは何のために呼ばれたのだ」
「あ、そうそう。と恋愛よく分かんないなって話をしててさ」
「恋愛?」
結局常闇と耳郎の間で会話が進んでしまい、止める気力を失う。ついでに呼んだだけだと耳郎に言われ、常闇は落ち込んでいる。必死にフォローする耳郎を見ながら、許可してしまった自分を恨んだ。本当に心の底から憎い。これは、普段横柄な態度で接している報いなのか。楽しそうな友人を追い出すわけにもいかず、ため息を吐きながら抱き枕の上に寝転がる。
「恋愛って楽しいもんなのかってが言ってたんだけど、障子的にはどうなの」
流れを説明し終わった耳郎が言い、胃のあたりが掴まれるような感覚に襲われる。抱き枕のせいかもしれない。ベッドに顔を押し付ける。
「恋愛のことはよく分からんが……楽しいものという認識はないな」
「へー」
「俺自身がといて楽しくないという意味ではない。全体のイメージとして楽しさは先行しないと言えばいいか」
いつも通り静かな声で答える障子に、心臓が嫌な音を立てる。楽しいものという認識はない、けれど、楽しくないという意味ではない。どういう気持ちで聞いていればいいのか分からず、目を瞑る。
「じゃ、何がでかいの? イメージ」
「……喜怒哀楽で言うなら喜だろうな」
「へえぇぇ。だって、」
「うるさい」
「何が喜びなの?」
「答えなくていいから……」
「だそうだ」
「うわっ協力した」
大きく吐き出した息はシーツに染み込んでいく。言わないでくれて助かった。障子も障子で詳しい話はあまりしたくないのだろう。あんなこと。あんなこと? 思い出してはいけない類のことが頭に浮かび、叫びだしたくなる。一人だったらこの場で自分を殴っていたかもしれない。
「が障子を好きなのは見ててめっちゃ分かるけどさあ」
「呻き声を上げているぞ」
「ほんとだ」
「……障子の好意も見ていれば分かる」
「たまに分かるとびっくりしない?」
「存外分かりやすいがな」
「障子が?!」
「それは聞きたい」
「ウケる」
「……」
「障子も黙秘権使ってるし」
体を起こし、常闇と耳郎の会話に参加する。障子は腕を組んで押し黙っており、実際のところ何を考えているのか分からない。障子の好意が分かりやすいというのは初耳だが、やはり常闇くらい一緒にいれば分かるのだろうか。
「まあと違って嘘つかなそうだしね」
「君らにはそんなに嘘ついてないじゃん……」
「そうかあ?」
そうでもないけれど、実際耳郎や常闇に嘘を吐くことはあまりない。あるとして誤魔化したりはぐらかしたりするくらいだ。
「って障子の前だとどうなの?」
「どうもこうもないから!」
「もー障子に聞いてんじゃん」
「こうも秘密主義では埒が明かんな」
「芦戸じゃないけど、ほんとに口割らないからなあ」
「誰が好き好んで障子の前での姿なんて語るんだよ」
「わんちゃん障子が話してくれるかなーって」
「障子は誠実だからそんなことしない」
「そうかー」
障子は未だ黙っているので、仕方なく私が応戦する。その必要はないのだろうが、言い返さずにいられない。
それからも二人の言うことにどうにか反論し、障子の意見を引き出させないよう喚いた。どうしてこんなことをしなければならないのか。私の心の弱さが原因なのであれば今すぐ強くなりたい。
一旦静かになった室内にバラエティー番組の司会の声が響き、スマホの画面をつける。
「ほらもう九時半じゃん。ここにいてもなんの得もないよ」
「えー、常闇どうする?」
「俺はどちらでも構わないが、此奴らを二人にするか否か迷っている」
「あ、確かに。障子残るの?」
「一人で残るつもりはないが」
「ええ、なんで? あんまり二人になれないんでしょ?」
「耳郎はなんの味方なんだよ」
「え……二人?」
「大体、障子が一人で女子棟から出てっても大丈夫なら常闇いらなかったじゃん」
「何故俺がこのような仕打ちを……」
「うーん、十時過ぎたらみんな寝てるだろうし大丈夫じゃない? そのへんは言い訳のプロに頑張ってもらって」
「その呼び方やめて」
「障子はどうしたいのだ」
「……あまり遅くに女子の部屋にいるのは抵抗がある」
「本人がいいって言っても?」
「言ってねえ」
「障子はいていいとかなんとか、言ってなかったっけ?」
「いたいならいればいいし、帰りたいなら帰ればいいじゃん」
「耳郎はそんなに俺たちを二人きりにしたいのか」
「ええ? だってせっかく付き合えたのに、会えてなかったらかわいそうだなって」
会えているとは言えず、口をつぐむ。そのあたりの話はしたくないし、大っぴらに会えないのは事実なのだ。それに朝が早いことを考えると障子も長居はしないだろう。ちらと障子を見ると目が合ってしまい、帰ってもらうべきではないかという気がしてくる。
「お前は?」
「え?!」
「声デカ」
「もうしばらくいてもいいか?」
「い、いいです……」
「……分かった」
「う、うわー、マジで真っ赤じゃん」
「うるさい」
「俺たちは退散するとしよう……」
「そうだね……じゃ、誰かになんか言われたら映画見てたとか言っとくわ」
「よろしく」
立ち上がった二人を見送るため、ベッドを降り、同じくその場に立った障子と玄関に向かう。障子の分の言い訳は考えておいてくれるのだろうか。この二人が誰ともすれ違わないことを願うしかない。
「じゃーありがと。また明日」
「うん。また」
「俺たちはお前たちの味方だ」
「焼き鳥丼楽しみだな」
「くっ、まだ諦めていなかったか」
「すぐ喧嘩売るんだから……」
「おやすみ」
「おー」
ドアを閉め、ドアノブを握ったまま小さく息を吐く。もしかして、梅雨ちゃんの言っていたことを実践したのか。耳郎にその気があったのかは分からないが体よく二人にされてしまった。初めからこの状態になることを危惧しておくべきだった? いや、それなら耳郎を追い出していた。先ほどまでの私に耳郎を追い出す勇気があったとして、だけれど。
どうにかドアノブから手を離し、室内に戻る。障子は立ったまま腕を組んでテレビを眺めていた。ポケットに入れた両手が湿ってしまっていて、爆豪ならどれだけ爆破できるだろうと馬鹿なことを考える。私が肉食獣だったら爆豪みたいになっていたって、暴言ではないのか。やはり明日は焼き鳥丼以外にない。
「大丈夫か」
「え? あ、うん……帰りたかったら帰っていいよ」
「帰ってほしいのか?」
「全然……でも、乗せられちゃったし」
「まあ、そうだな」
「ほんと、こんなつもりじゃなかったんだけど。ごめんね」
「いや。……耳郎の言うことも尤もだしな」
「まあね……とりあえず、座って」
「ああ」
こんなつもりではなかった件についてもっと長々と述べたかったが、さすがに惨めなのでやめておこう。あの時のように乗せられたことに対する悔しさはないのだろうか。自主的に機会を設けようとしていた時との違いということか。彼が先ほどまで座っていたところに座ったのを見て、私は耳郎がいたところに座る。二人にされたところで何をするわけでもない。話すこともない。明日の授業のことくらいしか……。
「そういえば、尾白に、さんが肉食じゃなくてよかったって言われたんだよね」
「……なぜ急に?」
「テレビでやってて……怖いからだって」
「怖い?」
「私の言うことが怖いんじゃない」
「そうなのか」
「さあ。常闇には肉食なら爆豪みたいになるとか言われたし」
「……全く違うと思うが」
「だよね」
「まあ、お前は常闇への当たりが強いからな」
「なんかむかつくんだよね」
「……そうか?」
障子には理解できないだろう。説明するのも面倒になり、テレビを見る。内容は全く頭に入ってこないが、だからと言って他に見るものもないので、仕方ない。第一、障子からしたら小さい動物が二匹戯れているようにしか見えないのではないか。それもそれで腹立たしい。角を含めたら常闇より大きいのに。こういうところが情けないというのだ、全く。
「障子には怖いものとかあるの」
「怖いものか……」
「みんながいなくなっちゃうとか、そういうの以外で」
「……それ以外は特にはないな」
「でかくて力も強くて腕もいっぱいあって、そりゃ怖いわけないよな」
「お前も、力は強い方だろう。角もある」
「……今、理不尽な嫉妬を治めようとしてるからちょっと待って」
「……まあ、多少背は低いが」
「うるさい」
「すまん」
生まれ持ったものなのだからどうしようもない。障子は障子で、その外見を疎まれてきたのかもしれないのだ。背が低いからって何を怒ることがあるのだろう。とかなんとか、分かっていても腹が立つのが理不尽な嫉妬の面倒なところだ。体が小さい方が小回りも利くし、素早い動きができる、と自分を慰める。チビであることをそこまで気にしたことはないが、やはり障子を見ていると恵まれているなと感じざるを得ない。
「怖いものが多い方が、ヒーローとしてはいいんじゃないか」
「……なんで?」
「守るという意識が働きやすいだろう。人の痛みが分かると言った方がいいか」
「まあ……なるほどね。私が怖がりな前提で話されて癪だけど」
「いや……すまん」
「拗ねた」
「また拗ねたのか」
「うん。あ、お茶いる? ペットボトルのだけど」
「……ああ」
「拗ね終わったから入れてあげる」
「フ……ありがとう」
よく考えたらお茶も出していなかったと思い、立ち上がる。冷蔵庫から未開封のペットボトルを取り出し、グラスに注いでいく。今日はイレギュラーの多い日だ。夜なのに障子がいるし、あまりみんなのことを考えなくてもいい。
グラスを障子に渡し、私も飲みかけのペットボトルを開ける。そういえば、今は夜で、明日は学校なのだ。もう一度考えて、カーテンの外から感じる夜の雰囲気に脈が上がる。どこかのタイミングで部屋に帰さなくてはならない。普段五時には着替え終わっているであろうことを考えると、今すぐでも早くはない。耳郎のおかげでいてくれてはいるが、本当は寝たいと思っているかもしれないと思うと、私自身の感情を置いて追い出すべきなのではという不安が湧いた。いや、そこまですれば障子も不安に思うかもしれない。一応、私のことを好いてくれているらしいので。……だから駄目なんだ!
「?」
「え?!」
「……どうした。座らないのか?」
「あ、座る座る」
ぼーっと考えていると彼がこちらを見上げ、心配そうな声を出した。慌てて元いた場所に座るが視線からは解放されない。
「何か心配事でも」
「……いや、追い出そうか悩んでた」
「俺を? 出て行ってほしいなら」
「ち、違う。そうじゃなくて……明日早いから、帰った方がいいんじゃないかなって」
「……それを優先するのであれば、二人と一緒に帰っている」
「そう……ですね」
「お前は違うのか」
「違わない」
「よかった」
当然、私はこの人にここにいてほしいし、時間なんて経ってほしくない。それだけのことを確認するのにこうも考えなくてはならないのはなんなのだろう。ペットボトルを机に置き、膝を抱えてテレビに顔を向ける。どうも二人でいると、よくない。何かが浸食されていく感覚がある。悪い、というより、よくない。あれは駄目だ。駄目だと思い込むことで、きっと羞恥心を抑えているのだろう。それでも色々なことを欲してしまう自分を認めざるを得ないので、脳が混乱を引き起こす。障子は違うのだろうか。触りたいと思っているのは、私だけなのだろうか。そうなんだろうな。そうであってほしい。でも、向こうから触ってくれないと私にはどうにもできない。天邪鬼で、臆病な、草食動物。言い訳のプロってこういうこと? 最悪だ。ぎゅっと強く目を瞑り、顔を上げる。
「障子」
「なんだ?」
「……さ、……察してほしい」
「……努力はするが」
「待ってごめんごめん! 今の嘘! もう一回やらせて」
「……ああ」
「もう一回やる」
「分かった」
「しょ、障子」
「なんだ」
「さ……」
言えってば! 脳内の自分が大騒ぎしている。そこで詰まったらもうどうしようもない。さ。さ、の後、何を続ければいいのだろう。悶々としていると、沸き立つ脳と角の付け根を解すように、髪に障子の手が触れる。情けない悲鳴を上げ、私は両手で口元を覆いながら彼の顔を見た。普段通りなんの感情も伝わってこない顔に、焦りが募る。
「違ったか」
「ち、ちが、ちがわない」
「……そうか」
髪を梳くように柔らかく骨を撫でられ、私が動物でなくて本当によかったと思う。飼い主なしでも生きていける体に産んでくれてありがとう、両親。視線を障子の腹筋のあたりに落ち着かせ、深呼吸をする。私ばかり緊張している、これは、一生覆せないのだろうか。そもそもどうして今更、頭を撫でられるだけでこんなに緊張しなければいけないんだろう。親指の腹が角の付け根を撫ぜる、その感覚に肌が粟立つ。
「他には?」
「えっ?」
「触るだけでいいのか」
「よ、よくないけど……?」
「……すまん。意地の悪い言い方をしたな」
「分かる……びっくりした……」
私の混乱が見て取れたらしく、彼は申し訳なさそうな顔をした。だからと言って何があるというわけでもなく、ただずっと彼の手のひらに撫でられ続けている。生え際を滑る度、くすぐったい。
「ど、どうしたらいいの」
「どうしたいんだ」
「結局言わせんの?!」
「お前からなら、お前が嫌がるかを気にする必要がない」
「本音を言え」
「……今のも半分本音だ」
「え、の、残りは」
「……そうだな……放っておけば言うのか気になった」
「もうやだ……」
「すまん」
ふらふらと床に丸まった私の頭には未だ彼の手が乗っている。そんなところだけ挑戦的でどうするんだ。悔しい。いいように扱われているのが。
しばらくしてようやく手が離れていき、体を起こそうとしたら両角の先に痛みを覚えた。これは知っている。
「か……噛んでるでしょ!」
「悪い」
「なんなの? 私は食糧じゃないんですけど!」
「そうかもな」
「かもじゃないしちょっと、離してよ」
「すまん」
「謝ればいいってもんじゃねえから!」
この階に私以外がいなくて本当によかった。そこまでの大声を出しているつもりはないが、もし聞こえていたら大変なことになる。ようやく複製腕の口(見えないが、両方痛かったのでたぶんそうだろう)が離れてくれたので、顔を上げる。角を押さえながら彼を見るといつものように片膝を立て、そこに肘をついてこちらを見ていた。……ああ。ずっと前から負け続けている私が、この人をどうこうできるわけがない。本能が彼に従っていることが分かって、最悪の気分だった。手を伸ばされ、思わず身構えるがすぐ頬にそれが触れてしまう。自分が涙ぐんでいることに気づき、角から手を離すことができない。
「怖かったか」
「……こ、怖くはない」
「……本当に俺に甘いな」
「痛いから反省して」
「すまん」
「怖がらせたかったの?」
「いや……。それに、お前が本当に嫌がるだろうとは思っていない」
「……ずるい」
「そうだな。嫌になったか?」
「嫌になってたらこんな言い方しない」
「……そうか。よかった」
「なんでそんな余裕なの? 私なんも分かんないのに」
「……お前が相当恥ずかしがっているからな。俺までそうではどうしようもないとは思う」
「私のせいじゃん」
「そうは言っていない」
「だって私で遊んでるでしょ」
「……どうだろうな」
「……べつにいいけど」
角を解放してやり、頬に宛がわれた手が頬を撫でるよう促す。別に私で遊んでくれても構わない。怖くないし、この程度なら耐えられる。ぬるい手に包まれるのが心地よく、目を伏せ、親指に唇を寄せる。渇いた、分厚い皮膚。リップ音が脳髄を揺らし、心のどこかでこれはまずいやつだ、と思う。それが下唇を撫でるので、ゆるく口をひらく。私は夢中だった。今目を開けたらもっとまずいことになるということだけ感じていた。沸騰という表現が正しいだろう。彼の唇が下りてくることを祈って、でも、すぐには叶えられない気がした。人差し指が目じりのあたりを通り、中指と、薬指が頬を撫でて、小指から順番に顎に到達する。はやく。はやく。
「かんでいい」
「……駄目だ」
「かんだくせに」
口を開け、指を捕まえようとするもうまく逃げられてしまう。そのまま唇がぶつかって、手はうなじに回された。中途半端に開いた唇の間から熱いものが侵入し、それが舌であることを直感した。体が震えるのを止められない。大きい。息が詰まる。口が開いているせいか、私が必死なだけなのか、幾分呼吸は楽だが、彼の舌が大きすぎて、唾液を飲み込むことができない。舌が少しぎこちなく私の舌に触れる。やめて。喉奥からくぐもった声が漏れ、頭痛を認識する。やめないで。今までのそれとは比べ物にならない行為だった。全身が熱い。生理的な涙が滲む。くるしい。まだ、息、できないのに。噛んでしまいそうになったとき、舌が引き抜かれ、思わず口の中で小さく咳きこむ。大丈夫か、と言う彼の声にすら、くらくらする。まだ近くにいる気配がして、膝立ちになりながら適当に唇を押し付ける。よかった、これは口だ。たぶん。すると不意に膝裏と背中を彼の腕が包み、唇を塞がれたまま、驚く間もなく体が持ち上がる。腕だか、足だかに座らされ、指先に布が引っかかるのが分かる。マスクかもしれない。ああこれ、でも、また舌が入ってきたら今度こそ死んでしまう。やっとの思いで唇を離し、彼の口元を両手で覆った。部屋の明るさに目が慣れず、瞬きをしながら彼の目を見る。
「息が」
「そうだな」
「なんか……やばい……やばいこと、した」
「……そうかもな」
「……キス……?」
「まあ……そうだと思うが」
肺に空気を入れたくて、それ以上何も言えない。口の周りの唾液を彼が拭ってくれて、生唾を飲む。ティッシュを差し出して指先の唾液が拭い取られるのを見る。ゆっくり、彼の顔に視線を戻す。視線が交わる。どういう感情? マスクがいつの間にかずらされていて、いつもよりも表情は分かりやすいはずなのに、私が混乱しているせいか読み取れない。
今のは一体なんだったんだ?
「大丈夫か」
「全然大丈夫じゃない」
「……もうしない方がいいか?」
「ふ、普通の、普通の方……にして」
「分かった」
戸惑いつつ目を閉じる。重なるだけのそれに安心し、体の力を抜く。さっきのあれは、きっと暴力的だったのだ。障子がどうとかではなく、このキスとは何かが違って、言葉にするならば暴力だった。殴られているみたいだった。やめないでほしいと思ってしまうほど。私はあれが好きなのか。でも、あれのおかげでこっちに緊張しなくなったのは収穫だ。あれが本当の捕食だったのか! 以前よりうまく呼吸ができるようになってクリアな脳が余計なことを喚き出す。丁寧に触れてくれる唇が、いつものように名残惜しそうに離れていく。名残惜しいと思っていてほしいだけかもしれない。目を開け、視線を合わせる。
「しばらくはこれがいい……」
「ああ……怖がらせたな。悪い」
「怖くない……なんかやばい気がするから、こっちなら、安心する」
「……分かった」
私にはまだ早い気がする。やばい、とまずい、がごっちゃになって非常に大変な心持ちだった。なんだか、新しい世界を知ったような感覚だ。こういうのは誰に相談すればいいのだろう。インターネット? 障子の顔に角が刺さらないよう位置を調整しながら、抱きしめてもらう。どうにも疲弊したようで、眠気が襲ってきた。このまま眠ってしまいたい。何も気にせず泊まったり泊まらせたりできれば、焦燥感も少しはマシになるだろうか。彼の手に撫でられながら思案する。髪を掬いあげるようにふわふわと頭を撫でている、指。瞼が下りてきて、どうすることもできない。
「眠いのか」
「ねむい……障子帰さないと」
「ああ……勝手に帰るから、寝ていいぞ」
「角で固定して動けないようにしてやる」
「物騒だな」
「うそうそ。……はーあ」
どうにか目を開け、彼の体を押して立ち上がる。大きく伸びをし、テレビの画面を視界に入れる。あくびを抑えきれず、口元を隠す。障子も立ち上がり、もう一度頭を撫でてくれた。その胴体に抱き着く。
「またな」
「うん」
「耳郎たちには礼を言っておく」
「うん……え、いいよ、耳郎には私が言うから」
「そうか? なら、常闇に伝えておこう」
「うーん癪だな……よろしく」
体を離し、腕を掴んで玄関に向かう。この時間なら人はいないだろう。半分脳が寝ているのか、いらないことを口走ってしまった気がする。靴を履き終えた彼が振り向き、その場にしゃがんだ。ぼーっと見つめていると、頬に手が触れたので咄嗟に目を閉じる。マスク越しにされるとは思わなかった。すぐに離れたそれに、落ち着いたはずの鼓動が跳ね上がる。
「おやすみ」
ハグの直後、耳元で声がして肩が跳ねた。
「お……おやすみ。また明日」
「ああ、また」
エレベーターに向かう彼の背中を、部屋のドアから見守る。室内に戻ったと思っていたらしい彼は、エレベーターに乗り込んだ後、少し驚いたようにドアを押さえた。手を振る。ドアが閉まるまで眺めた後、私は部屋に戻ってテレビを消した。夢みたいな時間だったなと思う。眠いせいだと分かっていた。ベッドに倒れこむ。あのキスはなんだったんだ、とまた脳内で誰かが言う。あれはキスなんだろうか。知らない。分からない。明日、暇だったら調べてみようと思いながら、目を閉じた。