嘘
※「角」の続きとして書きましたが、これだけでも読めると思います。
目が覚めた時まだ外は暗く、若干の頭痛を覚える。今日は雨が降るのかもしれない。それとも、雪。こんな日に、好きなように彼に会えないというのが、苦しかった。ぼーっと画面を眺め、メッセージアプリを開く。寝ぼけた頭でみんなからのそれに既読をつけていく。その流れでつい彼からのメッセージも視界に入れてしまう。昨日の夜に来ていたそれは私が起きているかの確認で、思わずため息を吐く。電話がなかったのだし、そもそも用事があれば起きているかの確認後に送っておくはずだ。寝ていた旨を返信し、体を起こす。
部屋の電気をつけ、ついでにテレビの電源を入れる。そのままパーカーを片手に窓のロックを解除し、ベランダに出た。
空に向けて吐いてみた息は白い。空気が湿っており、星も見えないのでやはり頭痛は気候の影響だろう。ポケットからスマホを引っ張り出し、返信の有無を見ると、障子から二件来ていた。仕方なく開き、それを脳内で読み上げる。
─おはよう。特に用事があったわけではない。
その文面を眺めながら角を握り、何を返そうか迷う。あまり頭が働いていないらしい。おはようとだけ返したあと、再び思案しているとすぐに既読がついてしまった。
─今から行ってもいいか?
もう嫌だ。目の奥が熱を持って感情の顕在化を訴えている。眼球を覆ってしまったそれを流さないために空に顔を向け、その状態で返信をした。画面を消してからスマホを額に当て、目を閉じて鼻を啜る。こんな都合のいいことが起こるなんて、意味が分からなかった。何も泣く理由はないのにこうしているのも。生理前かもなあとぼんやり頭の片隅で思う。
室内に戻り、窓を閉める。ちらとテレビに目をやると降水確率は九十パーセントと表示されていた。
廊下に出てドアに寄り掛かり、そのままゆっくりしゃがむ。目元に手をやると外気によって冷え切った指先が瞼を冷やしてくれた。バレたくない。でもこれを隠す術はもうない。慰めてくれるだろうと思った。わけの分からない涙を流す私を。だからこそ自分が嫌になるというのは、理解しないでほしい。馬鹿みたいな、女々しくて情けない感情だ。耳郎に意外と泣き虫と言われたことを思い出して少し笑ってしまう。
彼がエレベーターから降りてきて、挨拶を交わす。部屋に促し、またテレビを視界に入れる。映像がずっと流れているというのは、情報量が多すぎてよくない。テレビを消し、ベッドに腰掛けて片膝を立てる。前と同じところに座った彼はじっと私を見ている。
「今度は行くって言ったのに、ごめん」
「いや、構わないが……何かあったか」
「何もない」
「……何もなく泣いていたのか」
「泣いてないよ」
「……」
「でも、来てくれてありがとう」
どう見たって泣いていた、あるいは泣きそうになっていた顔だし、映画を見ていただとかも言わなかった。たぶん、分かり切った嘘を彼は咎めないだろう。あの時、嘘にしてしまう強さが私にあったなら。昨日からずっと考えるのをやめられない。角の件を嬉しく思うのと同時に、罪悪感を捨てきることができなかったのだと気づく。隠し通すべきだった。常闇との会話を思い出して、胸が苦しくなる。
「俺にその嘘を吐くのは、踏み込んでほしくないからなんだろうが……」
間を空けて彼が言う。まさか、嘘について言及するつもりなのか。何か言い返さなければ。違うと小さく口に出してみるが、意味がないことは明白だった。
「少し悲しい。……それに、お前の信用するに足る男でないことは、情けなく思う」
そういうことじゃないのだ。障子がどうとかではない。膝の上で組んだ腕に顔を押し付ける。優しい言い方をしないで。嘘くらい上手に吐かせてよ。再び熱を持つ瞳をどうすることもできず、ぎゅうと目を瞑る。
「お前の言うことにとやかく言うつもりはなかったが、今回はさすがに見過ごせない。慰めたいというのは、そんなにおかしなことか?」
「……おかしくない。ごめん」
「泣いているのを隠せばいいとは考えないでくれ」
「ばれた」
「そのくらいは分かる」
「はは……やだな」
嘘を吐くなとか、そういうことを言いたいのではないのだろう。どうしてここまで言ってくれるんだ。私は何もできないのに。唇を噛んで涙を止めようとする。また目が腫れては敵わない。
「」
「……ん」
「そっちに行く」
「うん」
ゆっくり、丁寧に、呼吸をする。そのリズムが乱れることには意識を向けないようにし、彼が立ち上がった気配を追う。すぐベッドが隣に沈んで、バランスをとるために一旦足を下ろした。そのことで顕になった頬に涙が流れていく。擦らないようパーカーの袖で押さえ、それからクマ吉に手を伸ばす。
「クマ吉」
呟いてから抱きしめる。それから、両足ともベッドに乗せ、クマ吉を障子に差し出してみる。なんだ、と言いつつ手を出してくれたので、そこに乗せた。どうすればいいのか分からないようで、迷ってから自分の太ももに置き、それをじっと見つめている。その姿に笑いが漏れて、ついでのようにこぼれた涙を拭った。障子が私を見る。
「君を巻き込まなきゃよかったって思った。私がこんなに弱くなきゃ、隠し通せたはずなの。嘘吐きだから」
「……それは」
「でもやっぱ嫌だな。君と友達に戻りたくない」
「……」
困ったような声で私の名前を呼び、彼はクマ吉を渡してきた。それを受け取ってそのまま彼の手を握る。顔を上げると目が合って、また、彼の顔が滲んでしまう。
「好きでいていい?」
「当たり前だろう」
「あはは。ありがとう」
「俺の方こそ、ありがとう」
笑いながら、握っていた手を頬に持ってくる。彼の親指が涙の痕を優しく撫でるので、鬱屈とした気分が晴れていく。何もかも、大丈夫な気がした。都合のいいことに。
「そういえば、なんで来てくれたの?」
「会いたくなったというだけでは、駄目か」
「だ、駄目じゃないけど」
「俺も、お前を好いているからな」
「そうなんだ」
「ああ」
「私は君と違って、何もしてあげられないのに」
「俺は別に何もしていない」
「来てくれたり、話してくれたり、全部嬉しいよ」
「……そういうものか?」
「うん」
「……お前が何かしてくれるから好きというわけではないが、それを言うならお前だってそうだろう。いつも、俺の言葉を聞いてくれる」
「そりゃ聞くよ」
「こうして部屋に入れてくれるしな」
「それは……だって私も会いたいじゃん」
「……なるほど。そうかもしれん」
どうして私のことを好きになってくれたのだろう。誰だったとしても、告白されたら真剣に考えそうな感じはある。頬に触れていた手がいつの間にか頭を撫でていて、心地よさに目を閉じる。ああでも、私の好意を知ったから、その上で考えてくれたのだとしても構わない、と思った。結果がこれなのだから。
「これは忘れていいが、お前のこういうところを、あまり他のやつに見せたくはない」
「……え」
絶対に忘れたくない言葉を吐かれ、思わず体が固まる。
「お前が……皆と仲良くしていたりだとか、そういうのは全く気にならないし、普段特に意識しているわけではないが」
気になっていたら困る。言葉を選んでいるのか、頭を撫でていた手の動きが止まった。
「……甘えてくれているんだろう。それが、俺にだけであればいいと思う」
この人、嫉妬みたいな感情が存在するんだ。私は甘えていたのか。様々な意味で恥ずかしいセリフが止む。
「急にすまん。忘れてくれ」
「忘れないけど……障子以外に、その、見せる気もさらさらないですけど」
「まあ……そうだろうな」
「分かってんなら言わないでくれる?」
「節操のないやつだとは思えない。俺が言いたくなっただけだ」
「なるほど……?」
「だから忘れてくれと言った」
「忘れないけど」
「本当に天邪鬼だな」
「天邪鬼だから、頑張って甘えてるんじゃん」
「……そう、だな。そうか」
「納得しないでよ!」
「納得できることを言われたからな……」
どんどん恥ずかしくなってきて、両手で顔を覆う。最悪だ。自分で言っておいて照れるなんて。彼の指先が顔を覆う手に触れ、びくりと肩を揺らす。恐る恐る両手を口元まで下げると、彼の腕たちが視界に入る。視線を上げていく。障子の指が前髪を避けるようにこめかみのあたりを滑る。目が合う。くすぐったい。触れられていない方に体を傾けてしまう。
「な、なんで?」
「何がだ」
「こ、これ、なに、これ?」
「……さあ、なんだろうな」
今日は隣に座る以外、なんの確認もされていないということに気づく。耳の少し上を指が通り、髪を耳にかけた。それがあまりに冷たくて、腹に力が入る。いつも触る時は聞いてきたし、私が驚いたら止まっていたのに。これがなんなのかは分からないが、何かしらまずいことをされているというのは分かる。目を逸らす。たぶん、顔に熱が集まりすぎて冷たく感じるのだろうと遅れて理解する。耳の下の生え際を撫でられ、息を止める。やめてほしい。本当に駄目な気がする。なんでだろう。なんなんだろう、この時間。いつかのキスを思い出す。
「ま、待って。分かった」
「ん?」
「また意地悪しようとしてるんでしょ」
「そういうつもりではないが、まあ、お前はそう思うかもな」
「わ……私が何しても怒らないって思ってる」
「……そんなことはない」
「嫌か聞かなくなったじゃん」
「嫌か?」
「とってつけたように聞くな」
「すまん」
すっと彼の手が離れていき、肩の力を抜く。意地悪のつもりはないが私が意地悪だと思うことは理解している? そういうのを意地悪と言うのだ! そもそも嫌だったり怖かったら最初に止めている。それも分かった上でやっているのだろうから悔しい。膝の上に置きっぱなしだったクマ吉を抱きしめ、顔が見えないように上半身を横たえる。
「」
「なんですか」
「拗ねているのか」
「怒ってる」
「本当か?」
「うそ」
「そうか」
「拗ねてる」
「分かった」
「障子」
「なんだ」
「……いちいち、確認しなくていいよ」
「……そうか?」
「嫌じゃないもん」
「お前は嫌だったとしても態度に出ないように努力しそうだからな」
「そうかも……」
嫌なことをされるところは想像つかないが、確かに本当に嫌だったら何も言わない気がする。
「まあ、確認しなかった俺が言うことではないが」
「確かに」
「悪かった。機嫌を直してくれ」
「上機嫌だよ」
「本当か?」
「ふふ、ほんと」
そう笑うと、後頭部に手があてがわれる。これまでより幾分ゆっくりと撫でるそれは、眠気を誘う。欲求に逆らうために体を起こし、クマ吉を壁際に置いて彼の肩に額をぶつけた。痛い。そのまま片腕で抱きしめられ、キスしてくれないかな、と思う。今日は散々からかわれているので自分から言いたくない。でも、この流れで障子からは言わないだろう。閉じてしまっていた目を開き、彼の太ももを叩く。
「どうした?」
「どうもしない」
これではただの暴力だ。ため息を吐きたくなるのを抑え、視線を彷徨わせる。
「?」
「ここ座る」
「……ああ」
「いいの?」
「断る理由がない」
「そうなんだ」
「断ると思ったのか?」
「ぜんぜん」
叩いたところに両手を置き、自分の体を持ち上げる。彼の方にある角を握りながらそこに座り、膝を立てた。爪先を座っていない方の足に乗せる。どう言い出そうか迷いつつ手を角から離す。彼の両腕が足と背中から回され、包まれるような体勢になる。なんとなく安心していると、別の腕で彼がマスクをずらすのが分かり、はっと顔を上げた。反対側の複製腕も手の形になっていたらしく、うなじに触れ、そのまま首筋を通って顎のラインを撫でられる、のが、やけに遅く感じる。焦って思わず彼の口元に両手をやってしまい、彼と目が合った。
「あ、あの」
「やめた方がいいか」
横から複製腕の口が言う。便利だ。いやそうではない。
「ち、違うんだけど、……えーと、まだ息できない」
「……それは……何度もしなければ、できるようにならないんじゃないか」
「そ……そうかも……え、何回もするってこと?」
「したくないのであればしない」
「えっ?! そうじゃない」
「そうか?」
「でも意地悪するじゃん……」
「してもいいと言わなかったか」
「言ってな……い」
言った覚えがあるし、キスしたくないわけではないし、なんなら、そのためにここに座らせてもらったのだ。ただなんだか羞恥心に急かされて口を塞いでしまっただけ。意地悪をしていいとは言っていない気もする。何をこんなに焦っているのだろう。ちらと視線を上げると彼はまだ私を見ている。
「怒ってる?」
「怒る? なぜ俺が」
「わけわかんないこと喚いてるから」
「わけは分かる」
「分かんの?!」
「恥ずかしいのもあるんだろうが、言葉に出すことで心を整理しているんじゃないのか」
「え……そうです……」
「無理に止めることはしたくない。だからといって、何ができるわけでもないが」
言葉に出すことで整理していたのか、私は。不思議な気分になる。彼が応えてくれなければ焦り続けていただろうから、言葉を出すことによって得られる効果かは定かではないけれど。
考えつつ、渋々、口を塞いでいた手を剥がしていく。何を考えているのだろう。面倒だなとか。また目尻のあたりを彼の指が通り、瞬きをする。
「大丈夫か?」
「え? だ、大丈夫」
私は猫ではない。人差し指の第二関節が顎を撫でるので、目を閉じながら思う。押し当てられる唇。目元を彼の前髪がくすぐる。静かな呼吸の音に脳がやられ、ぱっと片手を彼の胸元に押し付けてしまう。やわらかい筋肉の奥で心臓が脈打っているのが分かる。複製腕で呼吸ができるとしたら、私だけが不利ではないか。くるしい。だから余裕なのか、もしかして。湿った唇が一瞬離れてから角度を変え、その間に少しだけ呼吸を許される。酸素が欲しい。全身の疲労が限界を迎え、徐々に力を抜いていく。二度目のそれは存外早く離れたが、顎に触れる指が未だそこにあるので、目を閉じたまま乱れっぱなしの呼吸で「まだするの」と呟いた。「したい」「ちゃんと呼吸できるか」彼の指が口の端の唾液を拭い、下唇に触れる。「できる」できないけど。彼が小さく息を吐いた。どうしようもない女だとでも思われているのだろう。でも結局キスをしてくれて、私はうまく息を吸う努力をする。今何時だろう。あーあ、終わってほしくない。ずっと一緒にいられたらいいのに……。