「やーマジ泣けたわ、あんなの助けてやりてえよ」
「そうだね」
「なんとか記憶っつーのがなくなるんだろ?」
「実際それ系の敵出てきたらやべえよな」
「あ、いた」
「ん?」
 夕飯の食器を片付けつつクラスメイトたちと適当に会話していると、名前を呼ばれたので食洗器からそちらに顔を向ける。女子棟の方から耳郎が歩いてきていた。
「あー耳郎」
「ご飯食べたよね?」
「うん。探してた」
「なに?」
「あのさー……」
 視線を私の奥のみんなに向けた耳郎に、ここでは言いにくいことがあって、それすら言えないのだろうと直感する。上鳴だとか、芦戸、葉隠。ここには色恋沙汰で盛り上がる人間が揃ってしまっているのだ。嘘の下手な耳郎のことだ、うまい言い訳が思いつかないのだろう。
「ああ、あれなら部屋にある」
「へ? あ、ああ、そうそう!」
「今がいいよね」
「う、うん」
「じゃおやすみ」
「おーおやすみー」
 特に何も疑問に思わなかったらしい彼らに挨拶をし、耳郎と共にリビングを出る。エレベーターを待っている間、耳郎は気まずそうな顔をしていたので、勘は当たっていそうだと思う。
 エレベーターを降り、立ち止まって耳郎を見る。
「どうしたの?」
「とりあえずありがと。助かった」
「いいけど……なんの用事?」
「うん……部屋でいい?」
「いいよ」
 顔が赤い。これは十中八九障子絡みだなと思ってから、特に耳郎が赤くなる理由が思い当たらず内心首を傾げる。部屋に入り、暖房をつけると耳郎はいつもの場所に座った。
「全然大した話じゃないんだけどさ」
「うん」
「……クリパであんたの角やったじゃん?」
「……あー……なるほど」
「待ってそれで分かんの?! 緊張して損した!」
「うーん……障子でしょ?」
「そ、そう。ほんと、いや、びっくりしたわ、まさかお礼言われると思わなかった」
 そういえばそんな話があった。目を閉じて片手を顔にやる。そりゃあいきなり言われたら誰だって驚くだろう。
「ごめん」
「謝んなくていいけど……障子ってほんとにあんたのこと好きなんだなあって」
「はっ……な、い、いや言わなくていい、何も」
「だってフツー」
「言うなって!」
「彼女のこと飾ってくれて礼を言、わないだろ!」
「言うなっつの!」
 食い気味に答える私に耳郎も応戦する。言い方からして飾ってくれて礼を言う、とでも言ったのか。障子がそれを言うところも耳郎が驚くところも容易に想像がつく。頭が、角の付け根が熱い。
「あと可愛らしかったって」
「もういいから」
「恥ずかしいのはうちもなんだってば!」
「それはごめん」
「別にいいけどさ、マジであいつ天然なの?」
「いや、言っといてくれって言われたのを私が断ったから」
「あんたが悪いんかい!」
「だからごめんって! 私がそれ伝えるのやばいでしょ」
「そりゃ、まあ、そうかもしんないけど、あいつが言うのもやばいよ」
「だよね……」
 分かってはいたが、やはり私が伝えた方がよかったらしい。一時の感情に惑わされておかしな流れにしてしまった。何より言われる側の気持ちを想像しきれなかった、というより気づいていながら自身の要望を優先させたあたり、本当に情けない。
「障子に謝っときなよ」  耳郎は呆れたようにイヤホンジャックを指に巻き付ける。
「うちがあいつだったらついでに言いふらしてるね。上鳴とかに」
「ふざけんな」
「やってないじゃん……障子は特に何も思ってないかもだけど、あんたのためにわざわざ連絡してきたんじゃないの?」
「私のためっていうか……」
「ま、伝えたからお礼は言いなよ。あと心臓に悪いから次があるならからにして」
「分かった」
「素直じゃん」
「うるさいな。そりゃそうでしょ」
「そうそう。じゃ、すっきりしたから帰るわ」
「うん。おやすみ」
「おやすみー」
 耳郎が出ていき、部屋に静寂が訪れる。あの時謝った気もするけれど、確かに耳郎の言う通り私がわがままを言わなければこんなことになっていなかったのだ。仕方なくため息を吐きながらスマホを取り出す。さすがにまだ寝ていないだろうし、電話で済ませようか。いや、文面の方が気楽だ。今しがた行われたやり取りを簡潔に書き、礼と謝罪を送る。それからすぐに画面を消し、抱き枕に覆いかぶさるように寝転がった。内臓が圧迫され、顔を顰める。

 筋トレ後の熱はストレッチによって全身に染み渡る。開脚をしたまま角に触れ、筋トレのために退かしていた机に手を伸ばす。鏡に映ったそれはいつも通りなのに、何かが違う。どう考えても気のせいだが、このように感じるのはいつも不安な時だ。不意に彼の顔が浮かぶ。鏡をベッドに放り、体を倒す。ラグに額をつけ、目を閉じれば蘇るクリスマスのこと。いつもみんなと遊ぶ時は楽しいが、いつになく一体感があって楽しかった。股関節に感じる心地よい痛み。それに、彼と二人で遠回りをした。幾度となく思い返した一日ではあるが、既に細かいところは曖昧であり、覚えているというのは難しいと再認識する。先ほど見たドラマではないけれど。
 いっそ全て忘れてしまえたらいいのに。
 一通り柔軟運動をし、机を元の場所に戻した後、ベッドに放っていた鏡を机に置いてカーテンを開ける。窓に映るのは情けない顔をした自分と、明るい室内だ。ベランダに出るつもりでここに来たのに、それを見てしまえばなぜかその気が失せ、結局ベッドへ戻ることになった。壁に背中をつけ、ベッド上で胡坐をかく。連絡が来ていないか確認しようとスマホの画面をつけると、そこに彼の名前があった。気にしなくていいと一言送られた通知を眺める。二時間ほど経っているので、返信の必要はないだろう。クラスのグループを開き、リビングの忘れ物の写真を見る。角がしわしわとしぼんでいくような心地がした。一覧画面に戻る。画面を消してクマ吉に目をやれば当然目が合う。数秒見つめたのち、小さく息を吐き出し、既読をつけるべく再び電源ボタンを押す。
 彼とのやり取りは大抵短い。私はあまりまめな方ではないし、彼から連絡が来ることもあるにはあるが、きっと一般的には少ない方だろう。それに、私がスマホを頻繁に確認するタイプではないと分かったのか、急ぎの用事は電話で来る。画面をスクロールしながら掛け布団をめくる。冷え切ったそこに肌が粟立つが構わず潜り込むと、ようやく全身が弛緩した。
 あの時、なかったことにしていれば全て丸く収まったのだろうか。
 スマホを枕元に置いて抱き枕を手繰り寄せる。今日は寝てしまいたい。余計なことを考える前に、まっすぐに前だけを見ていられるように、自分を正しいと思うために。