あやす牙先

 私は空腹を認めるのが苦手だ。それを認めてしまったら何かが私を襲ってくるような気がして。その恐怖の正体を知っているから、今の私はただ胃のあたりを人差し指でずぶずぶと押し込むばかりである。

「変な癖」
「え、何が」
「それ。いつもやってるよな」

 初めてできた直属の部下は生意気だった。まあ私は問題さえ起こさないでくれたら何も文句は言わないけれど。
 胃。押し込んでいた手をポケットに入れ、もう片方の手でハンドルを握る。信号は変わらない。

「腹が減るとやってしまうんだ」
「……なんでそんなに腹を空かせてるんだ?」
「昔からそうなんだよ」
「俺は食べるなよ」
「馬鹿だな。食べるとしたら真っ先にお前だろう」
さんが言うと洒落にならない」

 渇いた笑いで冗談を演出しておく。いやいや、こんな会話を執事長に聞かれたら面倒だ。さっさと用事を済ませて戻ろう。ようやく信号が変わり、突っ込んだままだった片手をポケットから出してアクセルを踏み込む。盗聴器なんて安いもの、あの男が使っているとは思えないけれど。


 戻って部下を部屋に返し、荷物を届けがてら報告に向かう。廊下を歩いているとすれ違った男がこちらに手を出した。反射でそれを避け、手首を打つ。同僚であるところのサロは笑いながらそこを押さえる。

「なんだ、お腹減ってんじゃないの?」
「減ってるよ。だからなんだ」
「賭けててさ。は空腹時の反応がどのくらい速いのか」
「それ、賭けになるか? 私報告行くから、遊ぶなら後で」
「お、久しぶりに!」
「お前が負けたら飯抜き」
「そりゃないよー」

 この環境でよくあそこまで明るく振る舞えるものだ、と思う。しかし私も他の執事たちも、雇い主と接する時以外は肩肘張る必要もない。あれら以上の敵はこの世界には存在しないのだから。
 執事長室の扉をノックする。数秒置いて、入れと聞こえたのでそこを開けると、部屋の主は何やらパソコンに向かって難しい顔をしていた。一瞥もくれずソファーを差すので、いつものようにそこに腰掛ける。

「ザウルは」
「問題ないよ」
「そうか」

 眼鏡を押し上げ、男はキーボードから手を離した。と思えば今度は引き出しから紙を取り出しそれを広げる。相変わらず忙しそうだ。

「夕飯前にトレーニングルーム借りる」
「今日は埋まってる」
「埋まってる? 全部?」
「覗いてみればいい」
「いや。他に仕事は」
「これをハルイに渡してくれ。後は好きにしろ」
「分かった」

 立ち上がり男の差し出してきた書類を受け取る。残念だ。今日は久しぶりにそこそこの戦闘ができると思ったのに。内容を見ないよう紙を伏せると男と目が合う。

「その癖はあまり表に出すな」
「どれ?」
「犬歯だ。お前が思ってるより目につく」
「邪魔で、つい」
「だろうな……」

 犬歯を舌でなぞるのも癖らしい。胃のあたりを押すものよりはやっていないから、意識することもできていないのだろう。思い切り眉をひそめた男はパソコンに視線を移した。男の指先が動く。自分の癖には気づいているのだろうか。



 鋭い視線が刺さる。男の手から目を逸らさずにそれを受け止め、握っていた手を開く。

「抑えろ」
「……明後日あたり」
「分かっている。それを届けたらさっさと部屋に戻れ。ついでに爪もなんとかしろよ」

 言われて書類を持っていない方の手を見ると、人差し指の第一関節から血が出ている。親指でそこを刺すのも癖だ。いつもそうだ、朝切っても、この時間には深く刺さるくらい伸びてしまう。……厄介な。
 視線から逃げるように部屋を出る。廊下の窓からは赤く染まる空が見え、思わず立ち止まるがすぐ書類に意識を戻した。とにかく仕事を終わらせなければ。