後日談

 潮のにおい。波と、砂浜を踏みしめる音。包むように広がる暗闇、そこに浮かぶ星々。満ち足りていて、過不足のない空間。砂に足をとられそうになりながら、波打ち際まで歩く。
 恥ずかしさすらある別れから既に数ヶ月が経過している。事前に使いの者に手紙を持たせたので、私を忘れているということはないだろうが、しかし不安である。平常心で過ごしているつもりが無意識にそわそわしていたのだろう、従者から部屋を追い出されてしまった。シャツの袖に鼻をつけ、煙草臭くないか確認する。しっかり煙草臭い。ポケットに手を突っ込み、彼のために持ってきたものを握りしめる。吐き出されたため息に、いかにこの感情に振り回されているか自覚せざるを得ず、再びため息を吐く。
 ──人魚に恋したんだって? 機械しか友達いないのに?
 兄がああいった男だとは百も承知である。うんざりではあるが。一体だれが、ああいった男に、吹き込みやがったのか。私が口外していない以上、一部始終を知っているのは従者しかいない。
 ──楽しんでおいで。俺も土産話楽しみにしてるから。
 仕事として通すのに数ヶ月かかったということなのだが、さっさと通したかったのは私情なので謝罪すると、兄はそう言って送り出してくれた。ありがたいことに信用されているらしい。
 久しぶりだというのに街の皆は私のことを覚えていたらしく、温かく迎えてくれた。出入りの激しい国なので、よそ者の扱いに慣れているのかもしれない。どうせ到着したのが夕方だ、仕事は明日からと決め、いくらか酒を飲んだ。そのせいかすこし頬が熱い。
 しばらく歩くと、星月の明かりで照らされた岩場に、彼が座っているのが見えた。尾ひれはほとんど浸かっているが、間違いない。足音で気づいたらしい彼が顔をこちらに向ける。
!」
 暗くてよく見えないはずが、ぱっと表情が輝くのが分かった。緊張していた私が馬鹿みたいだ、と苦笑し、片手を挙げる。無邪気な子なのだ。
 彼は一度海に潜り、浜辺近くの岩まで近づいた。隣に来るよう言われるのは分かっていたので、躊躇わず海水に足をつける。伸ばされた彼の手にそのまま抱き留められ、私も背中に腕を回した。
「シャンタルだ」
「……ん」
 あたたかい声音に、体の力を抜いていく。いつから待っていたのだろう、いくらか冷たく感じる。
「久しぶり」
「うん」
「元気にしてた?」
「うん。君は?」
「さびしかった」
 ずるい返答だ。彼の腕が緩むので、体を離して彼を見つめる。大きなたれ目、傷一つない白い肌、きらめく水色の髪から雫がこぼれる。彼は私の頬を撫で、目を細めた。あの日々──鮮烈な恋が、昨日のことのように思い出される。彼の額に唇を寄せ、もう一度抱きしめる。
「おでこだけ?」
 からかっているみたいな声で彼が言う。普段接することのない素直さがひたすらまぶしく、笑みを漏らす。彼を解放してやると、かがむことを促すようにうなじに手のひらがあてがわれた。今度はちゃんと唇を重ね、彼のなめらかな肌に指を滑らせる。
「ふふ」
 くすぐったかったのか、彼は唇の隙間から笑い声を漏らすが、私を離そうとはしない。再び触れた唇は熱く、私の熱が移ってしまったのだろうと思った。
「ね」
「ん?」
 指一本分も距離の空いていない、彼の唇がささやく。
「嬉しい」
「……うん」
「おまえが、積極的なのも」
「せ、」
 抗議の言葉は押しこめられ、小さく息を吐き出す。積極的なんて。でも、私だってサラサに会いたかったのは同じだ。魔性の男……。姿勢がつらくなって岩に手を置くと、ようやく唇が離れていった。
「会いたかった」
 目が合うと、彼は首を傾げるように笑った。隣に腰かけ、彼に握られた手のひらに視線を移す。人魚に恋したんだって、と兄の声。笑顔を見るだけで何もかもどうでもよくなるのだから、まあ恋なのだろう。なんて。
「今回は、いつまでいられるの?」
「二週間かな」
「やった」
 君のために長めに設定したとは口が裂けても言えない。
「おまえに、見せたいものがあるんだ」
「え?」
「明るい時がいいな。明日のお昼頃、来れる?」
「ああ……明後日の方がいいかな」
「分かった」
「結構大きめの仕事だから……来るのは基本的に夜になると思う」
「うん。待ってる」
「ごめん。待たせてばかりで」
「おまえが忙しいのは知ってるから。……ほんとは、連れて帰りたいけど」
 サラサは海面を見やり、尾ひれをゆっくりと動かした。行動力のある子なので、自分からどうにもできないのはもどかしいのだろう。繋いだ手に力がこめられ、彼の横顔を窺う。
「僕はずっと、人魚とか、人間とか、関係ないって思ってた。おまえの言うように、憧れはあるけど」
「……うん」
「でも……人魚だからできないことって、やっぱりあるんだ。この何ヶ月か、おまえに会いにいけないのが……本当に、苦しかった」
 声は淡々としているが、髪の隙間から暗い表情が見え、胸が締め付けられる。誰かに頼まないと、彼は陸に上がることすらできないのだ。私と出会わなければ、あるいはそのことに気づかずに済んだのではないか。烏滸がましい考えが頭を擡げる。
に出会えてよかった」
「……え?」
 彼がこちらに顔を向け、今度は切なさを滲ませずに微笑んだ。
「たぶん、僕が人魚じゃなかったら出会えなかったし……あの時、ここにいたのがでよかった。つらい想いはこれから先もするかもしれないけど、それでも」
「サラサ……」
「だから、そんな顔しないで」
 彼の額が私の肩に触れる。謝罪の言葉を出すのは簡単だった。何を言えばいいのか分からず、空いている手で彼の頬を撫でる。
 しばらくすると彼は顔を上げ、愛おしげに目を細めた。サラサは私を愛している。言葉でも伝えてくれるけれど、この子の場合はそれ以上に、目が合うたび否応なく思い知らせてくる。魔法みたいな瞳を見ていられず顔を背け、ポケットに手を入れる。
「あ」
「ん?」
 渡すものがあったのをすっかり忘れていた。指先に当たったそれを取り出し、彼に渡す。
「なに?」
「ええと……プレゼント」
「プレゼント? 僕に?」
「あー……一応完全防水仕様の、懐中時計、っていうか」
「懐中時計……」
 繋いでいた手を離し、彼は丁寧に蓋を開けた。文字盤は小さく、下部に夕日と人魚が彫ってある。直接的すぎないかとも考えたが、結局他にしっくりくるデザインが思いつかずそのまま作ってしまった。
「使わないかもしれないけど、まあ、飾ってもいいと思う」
「もしかして、作ったの?」
「え? まあ……」
「すごい。僕の名前」
 そういえば裏面に名前を彫ったんだった。恥ずかしい。足を組み、頬杖をつく。
「一応、音も出る」
「音?」
「このねじ回すと、しばらく流れる」
「わあ、ほんとだ。ふふ」
 静かな海岸に、柔らかいメロディーが流れる。人魚が時間を気にして生きているのかは分からなかったが、私が幼少期に初めて作ったのが懐中時計だったのでそれにした。オルゴールでもついていれば時計として使わなくてもいいだろうと思ったものの、設計は専門でないため一人では難しく、従者や職人に手伝ってもらいつつなんとか形にできた。情けないので彼には言わないけれど。
「いい音……優しい曲だね。何かの曲?」
「いや……イメージだけ伝えて作ってもらった」
「ふふ、僕のイメージ?」
「分かってるなら聞かないでくれ」
「嬉しい」
「……動作確認はしたんだけど、もし壊れたら直すから言って」
「うん。ほんとにもらっていいの?」
「君に……何かあげたくて。こんなものしか作れないけど」
「ううん。ありがとう」
 気に入ったのか、彼はもう一度ねじを回した。どこまでも無垢で優しい、海の魔物。寂しさを含めないでほしい、と頼んだのは正解だった。私の曖昧すぎる依頼でこの曲を作ってくれたのだから、作曲家には感謝してもしきれない。
「すごいな、おまえは」
 彼は、懐中時計の紐を腰の装飾にくくりつけながら言った。裏面の名前をなぞる指先の繊細さ。
「すごいことなんてしてないよ」
「これの作り方、僕には見当もつかない」
「そりゃあ……」
「だから、すごい。おまえがいない時も、これを持っていれば寂しくないかもって思ったし」
 ものを贈るというのは、ある意味呪縛だった。日々使うものならなおさら、多少なりとも贈ってきた相手を思い出してしまうだろう。迷惑でないかと何度も考えたけれど、あの時、彼が愛を伝えてくれたからこそ私は何か贈ろうと思えたのだ。
「それに……」
 すごい、のは君の方だ。彼が海面から私に視線を移し、いつものように微笑んだ。
「僕を愛してくれてるから、作ってくれたんだろ?」
「な……」
「違うの?」
「……違わないけど」
 違わないが、本当にずるい。ふつう、はっきり相手に問えるものだろうか。
「贈り物自体ももちろん嬉しいけど、おまえが僕のこと考えてくれてたっていうのが、うれしい」
 夕暮れを思わせる、やわい光。夜にばかり会っていたはずなのに、思い浮かぶサラサの姿はいつもオレンジ色に包まれていた。
「サラサ」
「ん?」
「……ありがとう」
「うん」
 彼は笑みを浮かべ、私の頬に手を伸ばした。傷一つない、白く細い指が頬を滑る。
 ──泣きそうになったら、僕のこと思い出して。
 国に戻ってから、君の言葉を幾度となく思い返した。君がそう言ってくれたというだけで私は救われた気持ちになった。ずっと君といられたらいいのに。両手で頬を挟まれ、目を閉じる。私と君が、この海で永遠になれればいいのに。触れる唇のやさしさに、馬鹿みたいな願いが溢れる。私にも彼にも、捨てられないものがたくさんある。その中でこうしてまた会って、話して、キスをした。だから今は、これが現実だというだけで構わないのだ。
「好きだよ、
「うん……私も」
 まだ、夜は明けそうにない。