僕らの今日を結び続ける

 彼との関係を保つために私は自分にいくつかの禁止事項を設けていた。かわいいと言わない。耳や尻尾を触らない。明確な理由もなく逆らわない。どれも彼に直接禁止されたことではなく(一つ目に関しては言うなと怒られたことがある)、そこまで怒らないだろうけれど、怒るかどうかは関係なく、とにかく私はそれらを忠実に守る努力をした。
 布と糸を相手にすることに嫌気が差し、縁側に出る。朝はすっきりと晴れて空気も暖かかったのに、細い糸のような雨が空から降り注いでいる。誰かが嫁入りした際のとは違う、単なる雨だ。もしかしたらあの人が降らせているのかもしれないと思ったが、日照りだったわけでもなし、数日前に土砂降りの雨が降ったばかりだった。
 縁側の湿った座布団に座り、ぼんやりと空を見上げる。風の都合で私に降りかかる霧のような雨に否が応でも彼を思い出してしまう。彼の屋敷にはしばらく顔を出していない。一年ほどだろうか。彼ら兄弟は私より時間の感覚が緩やかなので、十年単位でないと久しぶりだとも思わないだろうが。

「お絹」
「あら、姫様。お縫い物はどうされました」
 世話係の部屋を訪ねると彼女は耳をぴんと立て、何度か瞬きをした。そりゃああの部屋からここまで任された仕事を放って来るなんて余程のことがないと許されない。ざあああ。雨を見る。大福を買わねば。もう一度世話係に焦点を合わせ、耳たぶをつまむ。湿っていて、冷たい。
「飽きました」
「まあ」
「兄のところに行っても構いませんか」
「煌牙様ですか?」
「ええ」
「仕方のないひとねえ。昔の煌牙王子によく似てらっしゃる」
 お絹は言いながら帳簿を閉じ、文机に手をついて立ち上がる。その拍子にふわりと尻尾が揺れ、微弱な獣臭さと香のにおいが届いた。
「でしたら、準備をしてまいります。お部屋でお待ちくださいまし」
「いやに優しいじゃないですか」
「ちょうど今朝方、大福を作ったものですから」
「初耳です」
「あなた全部お食べになるでしょう」
「それもそうですね」
「そういうところもそっくりですこと」
 私は何も答えず、ただ笑って部屋を後にした。

 笠をかぶり、「不肖絹のとっておきの大福」を抱えて屋敷を出る。遥か昔は長兄に仕えていたらしいが、私が出現してからは母のように世話してくれている。彼女曰く、二番目の兄は気難しかったので私が来て助かったとのこと。確かに次兄は少々気難しいが、昔はもっと顕著だったのかもしれない。
 兄の家に着いた頃、日は傾きかけていた。私はよそ者だが一応民に受け入れられており、また滅多に外に出ないため、町を歩いていると声をかけられることが多い。そうして店を覗いているうちに到着が遅くなるというのが常だった。
!」
 兄の世話係に連れられ部屋に入ると、兄もまた耳をぴんと立てた。きらきらと輝く瞳に思わず体が硬直する。例によって仕事中だったようだが、そんなものお構いなしといった風に兄は私に抱きついてきた。
「会いたかったぞ、わしのかわいい妹よ! 怪我はないか? 絹に虐げられてなぞいないじゃろうな?」
「兄様落ち着いて……」
 苦しいほどの力で抱きしめられたかと思えば肩をぶんぶん揺さぶられ、思わず両手を挙げる。大体、かわいいと言われるのを嫌がるくせに私には言うというのはどうなのだろう。別に構わないけれど。
 しばらく近況などを話したのち、世話係が大福を運んできた。再び彼の目が輝きだして、思わず口元の力を緩めてしまう。
「もしや、お絹の手作りか?」
「ええ。たまたま作っていたらしくて」
「作る度におぬしに持たせるなりわしに連絡を寄越すなりすればよいものを! そうすれば大福にに一石二鳥じゃ」
「ふふ……お絹にも伝えておきます」
 文句のようなものを垂れながら、彼は大福を手に取った。二つの尻尾が揺れに揺れ、息を飲む。兄の小さな口に大福が飲み込まれるさまを眺め、口元についた白い粉を拭いたい衝動に駆られる。拭ってもいいのだ、妹なのだから。実際、そういう行動をとったことは何度もある。でも今の私にはできない。そして、ここ何年も同じ悩みに苦しめられている。兄の尻尾が止まる。ちらと彼を伺うとばっちり目が合ってしまった。どっと嫌な汗が出る。
「なんじゃ、。触りたいのか?」
「いえ、まさか。あまりに揺れるもので、つい見てしまいました」
「そんなに揺れておったか……」
「お疲れだったのでは? 脳が糖分を欲していたのでしょう」
「最近村での面倒ごとが多くてのう。おぬしくらいのものじゃ、わしを癒せるのは」
「光栄です、兄様」
 気づかれずに済んだらしい。いや実際のところはどうだか分からないが、たぶん兄は尻尾を触りたがっているのを隠しているとだけ思ったはずだ。次兄ではこうはいかなかっただろう。もしかしたらお絹もこのような思いだったのかもしれない。
「食べぬのか?」
「私は、屋敷に戻ればありますから」
「……自慢ととってよいな?」
「ち、違います。とにかく、これは兄様のためにお持ちしたものですので」
「ま、それもそうじゃな」
 満足したように彼は二つ目の大福を口に入れた。ふと閉じられた襖に目をやり、もう夜なのだと理解する。風はほとんどないが未だ雨は降り続いており、きっと帰らせてくれないだろうと思った。

 彼が仕事を片付けると言うので、その間にもう一人の兄にも顔を見せておくことにした。次兄は隣の屋敷に住んでいるが、森の方でふらふらしていることも多く、いつもいるわけではない。
 念のため大福を持って訪ねると従者に迎えられ、部屋で待つように言われた。いつ来ても嫌な空気だ。次兄は自室に私を入れようとしない。仲が悪いわけではないが、たぶん、あの男は気づいているのだろう。
 少しして、部屋の灯りが揺れる。顔を上げると襖の向こうに笑顔の次兄が立っていた。
「久しいな」
 言いながら入ってきた兄は用意されていた座布団に胡坐をかいた。確か前回長兄と会った時はここまで来なかったのだ。とはいえ二年も経っていないし、兄なりの嫌味だ。色々な意味で。
「お久しぶりです。お絹より大福を預かってまいりました」
「おお、そうか。あやつもよくやるな」
「お皿に開けていただきましょう」
「よい、よい。ぬしは変わらぬなあ。そう気を張らずともよいと言うに」
 次兄は風呂敷に手を伸ばし、それをその場に広げるが、手はつけずにまた私の顔を見る。
「結界が異常を来していたこと、ぬしも知っておろう」
「存じております。こちらで対処いたしましたので、ご心配なく」
「そのようだな。しかし、たまには我らを頼ってもよいのではないか」
「ええ、そうですね。すみません」
 次兄は人間や他国民の出入りする側の森を管理しており、結界に関して敏感だ。私も反対側の森を任されているので、一人で対処できる程度には技術や知識があるが、もちろん本物の天狐ほどの力はない。頼ってほしいという兄心からではなく、どちらかと言えば私を信頼していないから出た言葉だろう。
 私を拾ったのが長兄だからなのか、古い言い伝えを恐れているだけなのか、それとも単に私が人間であったからなのかは知らないが、やはりこの兄は私に気を許さないらしい。門前払いにならないだけいいのかもしれないとも、そうしてくれた方が気楽だとも思う。
 私の様子に、次兄は苦笑した。
「やれやれ。……兄上の屋敷に戻るのだろう?」
「はい」
 次兄の視線が襖に向く。雨足が強まっている。雨を司る兄弟が、何らかの思惑を抱えているのではないかと勘ぐるほどに。
「一つ言っておくが、あれはぬしを妹などとは思っていない。我なんぞより余程厄介な男だ」
 妹などとは。
「え?」
 一瞬、理解が追いつかずに間抜けな顔をしてしまう。背中が冷えるような心地がして、私は何かを恐れているのだと気づく。次兄が人を食ったような笑みを引っ込め、また口を開いた。
「ぬしがいるのは生ぬるい人間界ではないということ、肝に銘じよ。その目に映るのは化け物のみであるとな」

 次兄の屋敷から長兄の屋敷まで、数十歩で終わってしまう道のりをどのように伸ばすか思案し、私は裏の森に向かうことにした。この雨であるので長居はできないが、心を鎮めるのに最適だろう。
 着物の裾は水を吸って重くなっている。屋敷の裏側から森の入り口までの間を歩きながら、長兄に見つかる前に帰らなければと思う。逆らいたくない。心配をかけたくない。私のことなど、見つけないでほしい。顔を上げると雨粒が顔にぶつかり、ぎゅっと目を瞑る。
 煌牙様は確かに化け物だ。そして砕牙様の言う通り、砕牙様より余程厄介。しかし私のことは人間のおもちゃとして気に入っているのだと思っていた。それを妹だとか家族だとかへの情と勘違いしているのだろうと。感情自体が間違いでも、もちろんいつか捨てられるなんて思ったことはないし、あれはあれで愛であるように感じる。「妹などとは思っていない」。やはり次兄のことを信じるべきではなかったのだろうか。
 このまま突っ立っていればいつか見つけてくれるのではないか。見つけないでくれと願いながら、そう夢想する。私は家族ごっこをさせてもらえればそれでよかったのだ。彼が私に特別な情を抱くことさえなければ守られる関係。帰りの遅い妹を心配するのは兄として当たり前のことかもしれない。でも彼が探しにくるとして、それは本当に、妹への情愛なのか?
 雨が強く打ち付ける。私の中の約束事が破られてしまう前に帰らなければならない。彼を振り回してはいけないのだ。私に妹以外の選択肢はない、なんのための禁止事項だ。そう思うのに足は動いてくれない。段々呼吸が苦しくなって、足先の冷えがひどくなる。私はついにしゃがみこんでしまい、童子のように膝を抱えた。冷えていく体の中で瞼だけが熱い。
 煌牙様。

 聞こえた声にゆっくりと顔を上げる。番傘を持った次兄が、そこに立っていた。いつも通りの笑顔に焦点を合わせる。
「風呂敷を返し忘れておった。絹に叱られるのはぬしだろう」
 次兄は私の前に膝をつき、大福の入っていた風呂敷を差し出してくる。受け取らず黙って泥水に侵される次兄の着物を見ていると、硬く握っていた手のひらを開かされた。私と次兄の間で雨に降られてしまった風呂敷は濡れ、手のひらにじんわりと水分をもたらす。それを握りしめて森に目をやった。
「どういう意味ですか」
「うん?」
「しらばっくれないで。兄様のことです」
「おお、怖い怖い。そう睨むでない」
「……わたしを……あの人が人間の子供としてしか見ていないとはわかっています。でも」
「……ははは。やはりぬしは、兄を勘違いしている」
「勘違い……」
「少し脅しすぎたようだな。だがどちらにしろ、ぬしと違う存在であるということには違いない。それはぬしこそが理解しておかなければならぬことなのだ」
「……」
「立てるか。ここはあまり安全とは言えない。何かあったとして、我や兄がすぐに駆けつけることのできる場所というだけだ」
 次兄に差し出された手を数秒見つめ、それから私はそこに自身の手を置いた。


 彼の部屋に着くまで次兄は一言も発さなかった。ただ幼子を導くようにしっかりと私の手を握り、真っ直ぐ前を向いていて、私も何も聞かずに歩いた。何故だか、この男のことはちゃんと兄として認識できるなと思いながら。
 部屋の前で立ち止まるとこちらが開ける前に勢いよく襖が開く。驚く私を余所に次兄は手を離さず長兄と対峙し、長兄もまた、一度私を見たもののすぐに次兄を見据えた。
「なんのつもりじゃ」
「さて、我は迷子をお連れしただけですが」
「なんじゃと? わしを謀ろうなど、我が弟らしくもない!」
「兄上。忠告したはずだ、人間を囲うのであればそれ相応の覚悟が必要であると」
「そやつは既にただの人間とは違う。わしがこの百年、何もせずのうのうと生きておったとでも思うか?」
 百年?
 聞き流すことのできない言葉に私は瞬いた。それが何の年月を表しているのかは分からない。既にただの人間とは違う? まさか。次兄の、私の手を握る力が強くなる。
 私がここに来たのは、何年前のことだ?
「変わったな、兄上。あれほどひとの機微に敏かったというのに」
「何が言いたい」
「このままではが壊れてしまう。兄上にお任せした自分を恨むことになるのは御免だ」
 長兄が私を見る。一瞬泣きそうな顔になった彼はもう次兄を睨むこともない。手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑え、ただ長兄をじっと見つめる。そうしていると次兄が私を見下ろし、整った顔に優しさを滲ませた。
「分かるな、
「え……」
「我のものになりたくなくば、思いを兄上に吐き出すのだ。全てぬしと兄上の選択であるゆえ静観しておったが、もう我慢ならぬ」
「どうして砕牙様が……」
「ぬしを初めに保護したのは我だからな」
「えっ」
「それを兄上が欲しいと言うので預けた。ぬしもよく知っておるだろう、兄上は言い出したら聞かぬ男だ」
「黙って聞いておれば! もうよい……しばらく二人にしてくれ。ほれ、おいで」
 長兄がこちらに手を差し出したのを見て、次兄が私の手を離す。どうすればいいのか分かっていたが、この場において何が正解かは私が決めなければならないのだと思った。というよりは、決める権利がある。俯いて冷え切った足を眺め、隣に立つ次兄の着物に目をやる。それから二人の顔を順番に伺い、ようやく腕を上げ、煌牙様の子供のような手に触れた。
 手を引かれる。
 飛び込むように煌牙様の腕の中に収まった私は、随分疲れたなと思う。そのまま眠ってしまうのではという気だるさの中、離れようとする足音が聞こえてはっと顔を上げる。
「砕牙様!」
 兄は足を止め、振り向いて尻尾を揺らした。
「あの、着物、ごめんなさい。さっき……」
「ん? ああ、ははは。構わぬ、兄上に弁償させるゆえ」
「我が弟ながら傲慢なやつじゃ……」
「この歳になると、迷子を導くのも一苦労でな」
「……世話をかけた」
 本当はずっと心配してくれていたのだろうか。笑って背を向けた兄の言葉を考える。煌牙様を厄介ごとに巻き込まないために私を牽制しているのかと思っていたが、先ほどの説明を聞く限りそうではないらしい。

「あ、す、すみません」
 声をかけられ、触れたままだったことに気づいて慌てて煌牙様の肩から手を離す。それにあからさまにむっとするが彼は何も言わずにそっぽを向いた。
「冷えたじゃろう。湯でも浴びてくるといい。着替えの準備はこちらでしておく」
「あ……ありがとうございます。それから、色々とご迷惑をおかけして」
「謝るでない! わしは何も迷惑とは思っておらぬ。おぬしが……」
 垂れてしまった耳と尻尾、そして苦しそうな表情に、また心臓が暴れ出す。兄様と口の中で呟き、溜まった唾液を喉奥に流し込んだ。彼は顔をぱっと上げ、それから私の手から風呂敷を奪い、部屋に放り込む。制止する間もなく行われる動作を呆然と眺めていると、彼に手首を掴まれた。
「行くぞ。風邪など引かれてはたまらぬからの」
「あ、は、はい」
「帰りを心配するのも嫌じゃ。おぬしが出てくるまで前で待っておるが、よいな」
「はい……」
「あ、お鈴!」
 廊下を曲がった先で巻物を抱えている女性が見え、彼が呼び止める。のんびりした声で返事をしながら振り向いた彼女の顔には見覚えがあり、名前からすぐに記憶と合致させることができた。茶色に近い毛並みを持つ彼女の尻尾は、本人同様ふわふわと揺れている。
「暇そうじゃな。の着替えを用意してくれるか?」
「あらぁ様! お久しゅうございます、お鈴を覚えておいでですか?」
「ええ、もちろん。お久しぶりです。お変わりないですか?」
「相変わらずお優しいこと! 鈴はご主人様と違っていつでも晴れ晴れしておりますゆえ、ご心配には及びませぬ!」
「なんじゃおぬし! 一言余計じゃぞ!」
「そいじゃあお着替え、準備してまいります!」
「無視か!」
「うふふー、鈴も暇じゃないのですよ」
「全く……」
 お鈴が笑いながら去っていく。思わず笑ってしまう私を煌牙様が睨み、拗ねた表情でまた歩き出した。引っ張られている腕にばしばしと尻尾が当たり、そのこともおかしい。

 湯浴みを済ませ、彼と並んで部屋への道を歩く。外は既に真っ暗で、雨も降り続いている。いくらか小雨になったようだが、それでも雨のせいで昼間より肌寒い。お鈴が用意してくれた着替えに厚めの半纏があったため、湯冷めせずに戻れそうだ。
「夜は冷えるのう」
「ええ、本当に」
「寒くないか?」
「温まったばかりですから」
「そうか」
「雨、止みませんね」
「そうじゃの。ここのところは、わしが降らせんでもよう降ってくれる。雨が降ればおぬしを帰さずに済むゆえ、助かる」
「あ……そうですね」
「帰りたいか?」
 煌牙様が立ち止まり、雨を見たまま呟く。私は今日、ずっと選択を迫られている気がする。一つ一つ、違えてはいけない選択肢を与えられ、息が詰まりそうだった。今までは逆らわないことだけを念頭におき、ほとんど考えずに答えを出せていたから。
「帰りません」
 ぎゅうと自分の着物を握り締める。こちらを見た煌牙様と目が合う。
「帰りたくないし、帰りません。いずれにしても」
 煌牙様は少し困った顔になってから、私に手を伸ばした。その手が濡れた髪を避けて頬に触れる。
「おぬしにこの質問をするのはこれが三度目じゃ。出会った時。この国に留まらせるための儀式を行った時。そして、今」
 初めの二回は記憶にないが、この人の性格を考えるとそうなのだろうと思う。
「よいか、。わしは優しい人間と違うのじゃ。もう、聞いてはやらぬぞ」
 これが優しさでなくてなんだ。砕牙様も煌牙様もやたら人間を優しいものとして扱っているけれど、私が家族として接してきたのは天狐たち。書物や他国の情報以外で人間を知る機会などそもそもない。
 煌牙様の手に自分の手を重ねる。
「分かるでしょう」
 ぴくりと耳を動かした彼は、それでも表情を変えずに私を見ている。
「あなたのお傍に置いてください、煌牙様。今も昔も変わらぬ私の願いです」
「おぬしはわしより余程肝が据わっておるかもしれん」
「煌牙様のおかげですよ」
「そうかもしれんな」
 煌牙様の手が頬から離れ、私の手を取った。先ほどまでの不安そうな表情ではない。彼がすぐ横の襖を開けたことで、いつの間にか近くまで来ていたのだと気づいた。
 部屋に入ると布団が敷かれていて、それが二組あることに少しだけ安堵する。お鈴がついでにやってくれたのだろうが、あの時会っていなかったらいつも通り彼の分しか敷かなかったはずだ。長年妹として接してきたのだから別に同じ布団でも問題ないのだけれど、この精神状態で可能かは分からない。煌牙様は手早く机の上を整理し、羽織っていたものを脱ぐ。照明やら暖房器具はほとんど外に出ない煌牙様のために砕牙様がわざわざ他国から買い付けたものらしい。
「そういえば、腹は空いておらんか」
「いえ、平気です。来る前に町で色々食べたので」
「ならよい」
「兄様は?」
「煌牙」
「え? あ、こ、煌牙様は……」
「わしも大福で腹いっぱいじゃ。厨にいらんと伝えねばな」
 穏やかな顔で思案する煌牙様から目を逸らす。兄と呼ぶなということだろうか。想定外のことを言われ、妙に緊張してしまう。本人は特に気にしていないのか特におかしな様子はないが、今までどちらで呼ぼうが何も言わなかったのだから、意図して言っているに違いない。
 それから、ちょうど仕事の用事で部屋まで来た従者に夕飯の話をして、彼はもう今日は部屋に来なくていいと言った。私がいると大抵はそうなので、向こうも特に疑問を覚えなかったようだ。
 彼が布団に座る。近くに座れと言われるだろうと思い、彼の隣に正座をした。尻尾が背中に宛がわれ、隣を伺うと当然目が合う。
「あの……煌牙様」
「なんじゃ」
「私、あんまり何も分からないんです。今どうすべきかから出自まで、様々なことが……私と関係のないところで動いている感じがして……不安です」
「……」
「私にとって、お二人の妹であることは救いでした。昔のことはほとんど覚えていませんが、きっと私なりに大変だったのだろうと思います。ですから、妹という称号は本当によく私を助けてくれました。でも、お絹やお二人のご両親、国の方々から色々なことを教えていただくうち、私はどうしたって異質なのだとはっきり理解しました」
 煌牙様の尻尾が腰に巻きついて私の体を引き寄せるので、足を崩す。俯くとまだ湿っている髪が頬に貼りつき、指先でそれを耳にかけた。自分の白い手が薄暗闇の中で浮かび上がっているように見える。
「砕牙様は私を疎んでいるのだと思っていましたし……それも私が人間であるせいなのだろうと。その後、村の古井戸の話を聞きました。煌牙様は私に天狐の力を与えてくださいましたが、きっと私はここにいるべきではない。それでも、皆さんの好意を無駄にしたくなくて、……妹として愛してくれているあなたから、離れたくなくて……それから何年も迷い、私は……あなたをお慕いしているのだと気づきました」
……」
「古井戸の例があります。私が一方的に想うのであれば問題ないだろうと考え、この気持ちを気づかれないこと、あなたの心を乱さないことだけを念頭に置いてあなたと接していました。いつか区切りをつけなくてはと……あなたに嫌われた方がいいのかもしれないとも」
「おぬし、それで頑なにわしと距離をとっていたのじゃな。馬鹿なことを……しかし、それもわしのせいじゃの。すまなかった」
「ち、違います。煌牙様のせいでは」
 彼が私の手を握る。切なげに眉を下げた彼はそのまま続けた。
「わしは恐れておったのじゃ。いくらでも閉じ込める術はあるが、帰ると言われたらそれまでじゃからな。それを防ぐために、兄妹という関係性を維持させることを優先した……言うてみればおぬしと同じじゃよ。わしが男であり……そうじゃな、兄である以上、おぬしにいらぬ心配をかける前に話しておくべきじゃった」
「そんな……」
「これほどおぬしに執着することになるとは……砕牙から奪った時はただ遊び相手が欲しかっただけだというのに」
 煌牙様がもう片方の手を私の頬に伸ばし、するりと撫でた。執着という言葉は正しいのだろう。私にもこの感情がなんなのか、一言で表すことはできない。そのまま目の下あたりを指先でなぞる煌牙様に、気になっていたことを聞こうと口を開く。
「先ほど、百年と言っていましたけど……もしかして私がここに来てからですか?」
「ああ、そうじゃ。おぬしには長かったじゃろう」
「いえ……そんなに経っているとは思いませんでした」
 彼は目を細め、嬉しそうにそうかと言った。たぶん、本当の意味で私は既にただの人間ではなく、そのことが嬉しいのだろう。私もじわじわと喜びが沸いてくる。私を受け入れてくれた。恋とか愛とか、そういう定義づけは重要ではない。ただ煌牙様がきちんと私を想ってくれていたということが、それこそ救いなのだ。
 彼が両手で私の頬を挟み、子供のような笑顔を見せる。これまでの様々な思いが爆発してしまう前に、少しずつ消化していかなければならない。
「目……」
「目?」
「閉じた方が?」
「それはおぬしの気持ち次第じゃの」
「そうなんですか……」
「なんじゃ、ふてくされおって」
「……教えてくれないと、分かりません」
「ふふ、愛いやつじゃ」
「分かってて言ったでしょう」
「さあ?」
 今度は悪戯っ子の顔をして、彼は私に顔を近づけた。咄嗟に目を閉じる選択をし、直後触れる唇を享受する。やわらかい。ぬるい。衝動が心臓を弄ぶ。なんだろう。死にそう。分からない。どうしよう。痛いくらい、鼓動が、耳を、叩いている。固まってしまった肩に彼の手が触れ、ようやく唇は離れた。左右に揺れる尻尾が視界に入り思わず口元を押さえる。
「もしかして」
「ん?」
「す……こんなに……き、緊張するなんて」
「緊張も今のうちじゃ。すぐにおぬしからできるようになる」
「それは脅しですか?」
「はは! そう捉えても構わんぞ。ほれ、目を閉じたいんじゃろう?」
「え、あっ、もう……」
「ふふ。愛いぞ、
 一度。二度。指先が耳の下を滑る。三度。吐息。布団に置いていた左手を尻尾がくすぐる。全身が苦しい。彼がまた笑う。
「誰にも渡さぬ」
 慣れと破裂のどちらが先だろうと思った。愛おしくてたまらないという風な声で呟かれた彼の言葉に、頭が追いつかない。正真正銘この人のものとなってしまった日の朝、私はどんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、いつ屋敷に戻ればいいのか、その先のお絹の表情まで想像し、混乱してしまう。
 私たちの存在を世界から遠ざけるような雨は、きっと一晩中止まないだろう。



title by alkalism/190201