whiteout

 寒い日の朝は、その透明で張り詰めた空気に、めまいがする。
 出社前に家の近くの喫茶店でトーストを食べるのが私の日課だった。ハムチーズトーストだったり、ただバターを塗って焼いたものだったり。おなかがいっぱいにならないほどのそれを食べ、熱いコーヒーを一杯飲むと気分がすっきりする。私は仕事の前でなくても、たいていそうして朝を過ごした。決め事みたいなものが好きだったし、自分をコントロールできることは嬉しかった。
 店にはどこかの国で店主が買った奇妙な置物がたくさんあった。ニスのすっかり剥げた木目調のカウンターに、それらはよく馴染んでいた。私が座るのは、決まって奥のボックス席だった。張りの失われた黒い革は私を安心させた。その席のさらに奥、突き当たりにはオルガンがあって、右に曲がったところに古くて小さなトイレがある。店主の奥さんは昔オルガン奏者だったらしいけれど、本当のところはどうだか分からない。薄ら埃のかぶったそれが私は好きで、入口側に座るのだった。
「おはよう」
 シズクは言って、私の向かいに座った。いちおう、返事をするけれど、ピリオドまでを読み終えてから、本を閉じる。
「なに考えてたの?」
 この子は、ずっと子供みたいだ。顔つきが幼いというのもあるが、それだけでなく、時が止まってしまったみたいな不思議なひと。
「あなたと初めて会った日のこと」
 そう言うと、シズクは少しだけ首を傾げて、ふうんと答えた。
 あの日、私がいつものように店に来ると、誰も座らないことになっているはずのボックス席で、シズクは本を読んでいた。だいたい、この店に私より早くお客さんがいることなど今まではなかった。あったとして、それだけ早起きで熱心な人というのはカウンターに座りたがるし、長居しない。店主に目をやるが、彼は知らんぷりを決め込んでいる。
 私が近づくと、シズクは顔を上げた。かわいらしい顔、と思ったのを覚えている。ずり落ちそうな眼鏡の奥で大きくて丸い瞳が瞬く。その目を見ると、たちまちどうしたらいいのか分からなくなった。予約しているわけでもなければ、ここでなければならない理由もない。それでも直前までは、自分の縄張りを荒らされたような心地で、ブーツの踵を鳴らしていたのに。
 ──座らないんですか?
 困った私に、とても不思議そうな顔で彼女が言った。コートのポケットに入れた手は汗まみれだった。仕方なく、私はそこに腰を下ろした。彼女はオルガンに背を向けるように座っていたので、結果的に普段通りの位置に座ることができた。
 それが、私とシズクの出会いだった。
「髪、伸びたね」
 連絡先を交換したのは、それからすぐ後のことだった。私は口数が少なく読書家な彼女を気に入ったし、シズクも拒絶することはなかった。
 一か月ぶりの再会を喜ぶ素振りもなく淡々と述べた彼女に、肩を竦めることで答える。
「心配したのよ。うんでもすんでも言ってほしいものだわ」
「ケータイ、壊れちゃったんだもん」
「聞いたわよ」
「これ、おみやげ」
「なあに。お菓子?」
 シズクの差し出した紙袋を受け取り、中を覗く。
「ううん。置物」
 塗料がかすかに香るそれを取り出してみると、見た目に反してずっしりと重く、彫刻らしいと分かる。どこかの伝統品だろう、人間にも太った動物にも見えて、なんだかよく分からない。
「どうして?」
 一旦袋に戻し、鞄の横に置く。突拍子もないことを言うし、やる子だ。ふわふわとしてつかみどころのない、わたがしみたいな女の子。そういうところを私はとても気に入っている。
 彼女は、店主が運んできたブレンドに角砂糖を一つ入れた。
「たぶん、高く売れると思うよ」
 置物のことだと分かるのに、時間がかかった。
「すごくいいものなんだって」
 驚く私に彼女が続ける。私はあわてて、口を開いた。
「貰い物を売ったりしないわ」
「うん。分かってるよ」
「じゃあ」
「でも、あたしにはそういうものでしかないから」
 換金してほしいのでも、いらないものを押し付けたのでもないのだろう。シズクの、断絶された価値観は時々私を不安にさせる。まるで一人で生きてきたみたい。私は何も言えず、冷めたコーヒーを口に含んだ。

 持ち帰った謎の置物を、ケヴィンは喜んで飾った。ケヴィンは、価値の分からないものが好きだ。丸々と太っていて、転がした方が速く進めそうな彼が、そのパンみたいな手で棚の上のコレクションを整理している。私が仕事だとかでもらってリビングのテーブルに放置するものを、たまに来る彼が勝手に並べている棚だ。
「すっごくいいものだよ」
 シズクと同じことを言った彼に、私は苦笑した。
 ケヴィンとは二年の付き合いだ。私が編集を担当しているものとは別の雑誌で、小説を連載している。売れ行きはそこそこ。筆が乗らない時は、男性にしては高い声でよくうなっている。
「アルがね、ちゃんのこと褒めてたよ」
 作っておいてくれたご飯を温めながら、ケヴィンは嬉しそうに言った。
「そうなの」
「奥さんが買ってくれてるみたいでさ。聞いた?」
「どうだったかしら」
 ケヴィンと違い、冷たい印象を与える聡明な編集者は、私を愛していると言う。私たちの間に必要のない言葉のひとつだ。骨ばっている指がすき。年齢の割に老けている目じりがすき。でも、それだけ。充分だけれど、行き止まりだ。
「あ、猫。かわいいなあ」
「そうね」
 つられて視線を向けたテレビでは動物番組が流れている。ほっそりとした白い指先は、私に触れることがない。黒猫みたいな彼女を想う。
 ケヴィンを、愛している。私を抱く彼の手の優しさに、くらくらする。行き止まりなんかじゃなくて、愛おしさが沸き上がる、お砂糖みたいなひと。いつ別れを告げようか、ずっと考えている。



 見慣れたソファーにシズクが座っていると、妙な心地になった。二人分のコートをハンガーにかけ、じっとテレビを見つめるその横顔を盗み見る。
 先日購入した本を読んでしまおうとまた喫茶店に行くと、先客がいた。一週間前のように連絡をとって会う以外にも、唐突に遭遇することがある。あの店に行けば私に会えると分かっているのだろうけれど、会いたくて来ているのだかは分からない。あまり表情の変わらない子だし、わざわざ言葉に出すたちでもない。
って、どんなところに住んでるの?」
 猫の話から、ペットの話になり、シズクが言ったのがそれだ。そうして珍しく暇だという彼女を家に招き入れた。
「紅茶でいい?」
「うん」
「貰い物でね。コーヒーより賞味期限が早いのよ」
 と、言い訳をしてみる。
「ふうん」
 案の定、シズクは興味なさそうに相槌を打った。自分が浮かれているみたいで、恥ずかしい。
 充分に熱の引いたマグカップをふたつ、食洗器から取り出す。アルフレドの横顔はほっそりとして美しい。あの人は自信に満ち溢れていて、でも賢明だから、それに支配されきったりしない。ウォーターサーバーからお湯を出し、ティーバッグを浸していく。ほんとうは我慢できるくせに、ソファーで女の手を握る狡猾さは、ケヴィンにはない。
 ティーバッグを捨て、カップを持つ。シズクはいつの間にか立ち上がって窓の外を見ていた。
「普通の家でしょ」
 ソファーに腰を下ろし、その背中に声をかける。
「ふつう?」
「ありふれていて、つまらないってこと」
にとっては、そうなんだね」
 お昼のニュースが始まった。
「冷えるでしょ。こっちにいらっしゃい」
 もちろん、私よりも慎ましやかな生活を送っている人がいるとは分かっているけれど、自分を特別お金持ちだと思ったことはない。年齢と、年収と、家を総合して考えれば、平均的だろう。
 声をかけてからもしばらく動かなかったシズクだが、お菓子があることを思い出して立ち上がるとこちらを向いた。
は、この家が好きなの?」
「え?」
 間を空け、シズクは一度視線をテレビに向けた。
「あたしは、好きじゃないな」
 それから、リビング全体を見回して、また私を見る。私は、その目に見つめられるとどうしようもなくなってしまう。
 雪に埋まり、暖まることのない体を想う。ずいぶん前に、私は絶望と出会っていたはずなのに、まだ先があることを知らされる。私に降りかかる雪の粒は、しんしんとかわいらしい音を立てる。焦燥のない自身に、ここは、現実ではないのだと知る。
 首を傾げ、シズクは口を開いた。
には、大切な人っていないの?」
 頬がかっと熱くなる。
 どうしてそんなひどいことを言うのか、と思った。それはほとんど憤りだった。
 答えられないでいる私をよそに、シズクはソファーに戻ってきて、ゆっくり腰掛けた。
「ありがとう」
 そう言って、紅茶を一口飲む。
「好きじゃないのに、どうして座るのよ」
 口をついて出た言葉が想像より強く、すぐに後悔した。帰れと言っているみたいだ。いや、間違いなくそう伝わっただろう。シズクは、うろたえて突っ立っている私を見上げた。
はここから出ないんでしょ?」
「私の家だもの」
「そうだね」
 平然と答えるシズクに、なんだか体の力が抜けてしまって、私はへなへなとソファーに腰を下ろした。
 ケヴィンの手で並べられた、いつだかアルフレドがくれたアロマキャンドルと、シズクがくれた謎の置物、他にもおみやげの類がたくさん。どれも大切で、だから時々泣きたい心地になることを、この子は理解してしまった。
「あなたには、大切な人がいるのね」
 紅茶の表面で揺れるテレビ画面を見ながら、問うてみる。
「いるよ」
 微かな期待を込めて投げかけた言葉には、絶望しか返ってこない。いつも。



 雪が降る朝の目覚めは、冷たくて、すこし寂しい。男がベッドを抜け出したしばらく後に、温もりの失われたシーツに触れたときの気持ちと似ている。
「禁煙よ」
 換気扇の下で煙草を吸っていた男は、肩を竦めた。「バレたか」と笑いながら、携帯灰皿にそれを押し付ける。ガサツという表現とは程遠いひとであるのに、貸した部屋着のまま煙草を吸う、分かりやすいかわいげのある男。
「積もりそうね」
 カップを二つ取り出し、それぞれにコーヒーの粉を入れる。
「きみって雪に敏感だよね」
 びんかん。アルフレドは私の答えを待たず、着替えるため寝室に戻っていった。
 雪は嫌いだ。静けさに支配されて、己を保つためのすべてを、失ってしまう。
 雪の積もった街中を歩く。見慣れた景色はどこにもない。ずぶずぶと沈んでいく。やがて腰のあたりまで積もっていることに気づく。どこまでも真っ白だ。誰も踏み荒らしていない、白くて、ひたすらに静かな空間に閉じ込められた私は、声を出すことすらできず、ただ立ち尽くす。
 雪が嫌いだ。
 仕事が残っているので会社に行くと言うアルフレドと、トーストとコーヒーだけの朝食をとった。いったん家に帰って、奥さんに挨拶するのだろう。私に愛をささやく唇で。その姿を想像すると、なんだか嬉しくなってしまう。
 玄関先で、コートを着た彼に抱きしめられた。ぞわりと鳥肌が立ち、振り払いたい衝動に息を飲む。
「愛してる」
 初めて会った日の、シズクの瞳。硬質な、渇ききった黒。愛しているというのがどういうことなのか、すっかり分からなくなってしまった。
 吐き気がする。やんわり胸元を押し、立ち眩みを誤魔化すためにこめかみを押さえた。
「ん、気分でも」
「雪なんて嫌いだわ」
 顔を上げ、男の言葉を遮るように告げる。アルフレドは苦笑した。ありふれていて、つまらないひと。
「もう来ないで」
 しんしんと、積もっていく。
 男が出て行ったあと、私は寝室に戻って、しばらく泣いた。涙を流したままにしておくと、幾分気が楽になった。ケヴィンの作ったポトフが食べたいと思った。
 顔を洗って、コーヒーを淹れた。仕事がひと段落ついて寝ていたらしい彼は、あわてた様子ですぐに行くと言ってくれた。
 嫌になるほど静かな、雪の気配。カップを置き、窓際に向かう。触れた窓の結露が外の寒さをよく伝えてくれる。いつから降っていたのか、眼下の街並みはすっかり白く、行き交う人々の傘にも積もっているのが分かる。
 雪が降る時、分かりやすい音はしない。静寂。繰り返し。氷の崩れる音すらも。
 ケヴィンは私の顔を見ると、ひどく傷ついた顔をした。それを見て、安心するほかなかった。いくらか躊躇ったあと、彼は荷物を下ろし、コートにまばらについた雪を払うことなく私の頬に触れた。冷え切った毛糸の感触が滑る。
「ポトフを食べる顔じゃないよ」
 無理やり笑って見せたケヴィンに、いっそう悲痛な気分になった。それで私は、彼を抱きしめた。彼が断らないと分かっていて、部屋着が濡れるのも構わず、ほんとうに傷ついた女のように。
 彼は当然、力いっぱい抱きしめ返してくれた。体積の圧に息苦しくなる。
「ケヴィン」
「うん」
「あなたには笑顔が似合うわ。雪の降らない国に行ったらどう? きっと素敵よ……」
「……ちゃん」
 私は、アルフレドと浮気をしていたの。ずっと。あなたをばかにして。
 でも、愛していた。いつか結婚する気でいたし、そうしたら少しは痩せてほしいかななんて思っていたのよ。
 着信音がリビングから聞こえ、ふっと体の力が緩む。やさしく肩を掴まれるので、一歩後退した。やはりケヴィンは悲しそうな表情で私を見つめている。
「鳴ってるよ」
「信じて。愛しているし、大切なのよ」
「分かってる。だから、なにも言わなかったんだよ」
 頭が痛い。
「そうじゃない、んだよね。君は、たとえば、傘を差してほしいわけじゃなくて、雲を晴らしてほしかったんだ」
 着信音が止み、ケヴィンの目を見ていられなくなる。外の雪はどんどん積もっている。
「今日は帰るよ。ごめんね」
「ケヴィン」
「おやすみ」
 きっと、もうここには来ないだろう。私の声なんて聞こえていないみたいに、ドアは音を立てて閉まった。傘を傘立てから抜き取る音が聞こえる。
 疲れた。
 別れとは、どうしてこうも面倒なのだろう。私はその場に座り込み、再び鳴り出した着信音をただ聞いた。男の残した袋を見る。愛しているし、大切なのだ。あの時は、気が動転していただけ。
 音が消えてからもしばらく、私はこれまでのことを思い返していた。委縮する血管を感じながら、ゆっくりと横になる。ひんやりとした床が心地いい。汗をかく暇なんてなかったはずなのに、それが引いた後のような寒気があって、体を丸めた。
 二日もあの喫茶店に行っていないと思い出す。それから、まだ開けていないワイン、棚に並んだ不要なもの、新しく出たリップ、シンクに置いたままのマグカップのこと。コーヒーなんて、おいしくもない。鳥肌が立っているのを感じながら、目を閉じて、きちんと息を吐き出していく。

 それから、どうやって寝室に行ったのか覚えていない。
 目が覚めたとき、私はきちんとベッドで布団にくるまって横になっていた。どれが夢でどれが現実なのだろう。窓の外はすっかり暗く、夜だろうと思った。ずいぶん寝てしまったようだった。ひっそりと、ベッドを抜け出す。雪はまだ降っている。
 リビングで何か音がすると気づいたのは、目の腫れを自覚するのとほとんど同時だった。思わず足を止め、息を飲む。どうやらテレビの音らしい。つけたまま戻ってきたのだろうか。覚えがない。ただし、私がテレビをつけっぱなしにしてリビングを出るとは考えにくかった。なんとか目を凝らすも、こう暗くてはスマホがどこにあるのかまでは分からない。どちらにしろ、リビングには行かなくてはならないと悟って、静かに深呼吸をした。
 音を立てないように慎重に開けたドアの隙間から、見覚えのある黒髪が見えた。
「シズク?」
 ドアを開けきって、不安を抱えながら呟く。
「おはよう」
 こちらを見たシズクは、普段通りの挨拶をした。
 着信履歴は、一件が先輩から、もう一件がシズクからだった。先輩からはメールも来ていて、既に解決した旨が書かれていた。ひとまず水を飲み、のろのろとシズクの隣に座る。テーブルの上には紙袋があったが、それ以外は特に変わったものはなかった。
「水いる?」
「じゃあ、それもらう」
「あ、そうなの」
 彼女が私の持っていたコップを指して言うので、面食らって間の抜けた返事をしてしまう。渡したそれを両手で持ち、ちびちびと何口か飲んだシズクは、またテレビに視線を戻した。
 バラエティ番組では、セントバーナードが走っている。飼い犬を競わせるという趣旨らしかった。
「犬、好きなの?」
「どうだろ」
「ここは嫌いなんでしょ」
「うん」
「ふふ」
「なに?」
「だって、それじゃ私に会いにきたみたい。嫌いな場所で、好きでもないテレビを見るのが楽しいとは思えないわ」
 シズクは少しだけ拗ねたような表情を見せて、また水を飲んだ。珍しい反応に気を良くした私は、立ち上がった。カーテンを閉め、暖房をつける。ついでにトイレに行き、戻った時にはシズクはコートを脱いでいた。まだ部屋は暖まりきっていないと言うのに。
 隣に腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取る。
 現実なのだ。アルフレドのことも、ケヴィンのことも。玄関にはケヴィンの買ってきたポトフの材料が置いてあったし、瞼は少し腫れている。何も面白い番組はやっておらず、犬の番組に戻してリモコンを置いた。
「怒らないんだ」
 と、シズクが言った。
「何が」
「勝手に入ったこと」
「盗られて困るものもないし。ベッドまで運んでくれたんじゃないの?」
「運んだよ。邪魔だったから」
「変わってるわね」
「なんで?」
「普通の女子はそんなことできないもの」
「ありふれていて、つまらないおんなのこ?」
 言葉に詰まって、口を閉ざす。もうあの会話をしたのが随分昔のことのように思えた。シズクがコップを置く音が響く。

「ん?」
「散歩しよう」
「え?」
「あたし、雪は好き」
 雪が嫌いだ。私は驚いて、コートを羽織るシズクを茫然と見つめた。コートのボタンを全て閉め終わると、彼女がこちらを見たので、必然的に目が合う。
「行かないの?」
 パジャマのズボンを見下ろし、数秒考えたのち、私は立ち上がることにした。

 長靴の底が、さくさくと音を立てながら雪を固めていく。夕方にでも除雪車が通ったのだろう、靴が沈んでしまうほどには積もっていない。
「ねえ」
 雪の上を歩くのに疲れてしまった私は、どんどん歩を進めるシズクの背に呼びかけた。立ち止まりこちらを向いた彼女に追いつくため、できる限り速く足を動かす。
 黒い髪にかかった雪が、街灯に照らされ、きらきらと輝いている。
「体力ないんだね」
「うるさいわね」
 傘を下げ、シズクのいない方に向けて閉じたり開いたりする。積もった雪がばさばさと落ちる音。
「なんだってこんなものが好きなのよ」
 シズクも入れるよう、もう一度傘を差し直す。
「なんでだろうね」
 傘の隙間から、どこか遠くを見つめ、シズクは言った。アイジエン系の幼い顔立ちが、やけに大人びて見える。
 ふと、どうしてこの子とこうして過ごすようになったのか、疑問に思った。行きつけの喫茶店で縄張りを荒らされたと感じた日のこと。他国に赴いてはおみやげを買ってきてくれること。貸してくれた本の内容や、理解の及ばない価値観。
はね」
 いつの間にか下げていた視線を上げ、変わらずどこかを見ている彼女の横顔を視界に入れる。
「一人じゃ生きていけないんだと思うよ。だから、雪が好きじゃないんでしょ」
「……一人で生きていける人なんて、いないわ」
「一人で生きていかなきゃいけない人は、いるよ」
 一拍空いたことで、言葉を選ぶ必要があったのだと分かった。
 シズクは、ポケットに入れていた手を出し、手のひらを傘の外に出した。
「今は一人じゃない。だから、いつかまた一人ぼっちになったって……」
 雪の粒が、白くて小さな手のひらに乗っては消える。
 遠くから、車が走っている音が聞こえる。誰かと二人で雪に降られるのが、初めてのような気がした。スノードームの中にいるみたいだと思った。誰にも邪魔されず、この子とどこまでも行ってしまいたかった。
 自分の口から吐き出される息の熱さに、びっくりしてしまう。歳をとると涙腺が緩くなって敵わない。それに気づいたシズクが、こちらを見た。
「あたし、には死んでほしくないなあ」
 雪を乗せていない方の手のひらが、頬に添えられる。
「なに、それ」
「一緒に逃げる?」
「ふふ……どこに?」
「うーん、雪が嫌いならあったかいとこかな」
「でも、あなたは好きなんでしょ」
「あたしは、どこにでも行けるもん」
「自由ね」
「自由になりたい?」
「どうかな。なりたくないのかもね……」
 片手を振って、水気を飛ばす姿に笑いが漏れる。
「守れるよ」
 いつものように首を傾げ、シズクは言った。ママを大好きな小学生のようだ。
「何から守るって言うのよ」
「うーん……じゃあ、雪から」
「引っ越せば解決することじゃないの」
 いい加減腕が疲れて、私は傘を下ろした。
 似ても似つかない闇色が、私を見ている。両の手のひらで頬を挟まれ、熱が引いていく。瞼に押された涙が頬を伝うけれど、行方は分からない。私も彼女の頬に触れ、目を閉じ、唇を寄せてみる。
 雪が、私たちの上で溶けていく。
 世界から音が消えてしまったみたいだった。たぶん、私は雪と和解できていた。それは祝福であり、呪いでもあった。男たちと過ごした日々を思い出す。彼らはみんな、何かに囚われていたのだろう。私が傷ついていると思って、傘を差すことしかできない人たち。それで充分だったけれど、もちろん行き止まりなのだ。
 唇が離れて、鼻を啜る。
「会社の人に見られてたら、どうしよう」
「殺しとこうか?」
「物騒ね。照れ隠しでしょ」
「ふうん」
 もう一度触れたそれは、ぬるくなっている。殺すだって。この子なら、ほんとうにやりかねない。私は嬉しくなって、キスの余韻もそこそこに、彼女に抱き着いた。
 引っ越したら、猫を飼いたい。あたたかいベランダで、ソーダ味のキスをしよう。お腹いっぱいご飯を食べて、それで、一緒に眠ろう。
 どうしてか、涙が止まらなくなった。いっそうきつく彼女の体を抱きしめた。背中に回された腕の感触が、痛々しい。
「静かだね」
「……ほんとにね」
「二人っきり」
 シズクが、私の肩に顔を埋めた。手の甲に冷たい粒が触れ、溶ける。それがかさなって、重みを持ち、滑りおちるさま。めまいがするほど透明な空気に、震えてしまう。
 やっぱり、雪は嫌いだ。



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201101