ゆめみる偽悪者
※流血描写あり、死ネタ
契約者は夢を見ない。未来に想いを馳せないし、寝ている間に幻覚を見せられたりもしない。なぜなら契約者は合理的判断を優先するからだ。
目が覚めてすぐ、強い倦怠感に支配される。貧血だろう。ずっと使っていた血液袋がついに死んでしまったので、日常的に摂取することが難しくなった。またどこかで調達してこなければ、いざという時に力を使えなくなってしまう。腹の虫が鳴り、仕方なく体を起こす。
米を炊いている間に、昨晩買った切り落としの豚肉を冷蔵庫から取り出し、ビニールを剥がす。私の通り名は吸血鬼らしいが、別にレバーを好むわけでも、にんにくが嫌いなわけでもない。ニラを適当に切りながら、テレビで流れる天気予報を聞く。曇り時々雨。ついでに、日差しを浴びてもなんともない。豚肉、ニラ、もやしをフライパンに放り込む。数秒後、肉の焼ける音がリビングに響く。
先日、スーパーに行った帰りに不思議な少女と出会ったことを思い出す。
「今日のご飯は、キムチ鍋?」
パーカーにキャップという少年のような恰好をした彼女は、存外明るい声音で話しかけてきた。契約者だろう、逃げた方がいいかな、でもなぜか、逃げたくない気持ちの方が強い。琥珀色の大きな瞳には濁りがなく、今までに出会ったどの契約者よりも恐ろしく感じるのに。
「初めまして、。あなたの力を貸してほしいの」
立ち止まったものの何も言えずにいた私に、彼女は言った。握りしめたビニール袋が音を立て、自身の動揺を知る。見えない力に導かれるように、私は了承の返事をした。
地獄門が現れたとき、私はまだほんの子供だった。しばらくして能力が発現した──というより、自分の内側に何かがあることを、不意に理解した。まるで初めからそこにいたみたいに。ただ埋められた種が芽吹いただけみたいに、私は人を意のままに動かす力を得て、その対価として人の血を飲んだ。
便利な力だ。これまで様々な組織から勧誘を受けたり、狙われたりした。体力があるわけでも、戦闘能力に優れているわけでもなかったので、一時期は日々が地獄だった。もうあれから五年は経つだろうか。今更私に声をかけてくる契約者がいるとは。
暗くなり、血液袋を見繕いにいこうと外に出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。金属のてすりが濡れ、ドア間の照明に照らされた錆が光っている。
街灯の下に、彼女はいた。
私が傘を持っていないことを知っているようだった。頭皮と、睫毛に雨粒がかかる。私に気づいた彼女は大人の女性らしい笑みを浮かべ、腕にかけていた傘の柄をこちらに向ける。
「夕飯、まだなんだけど」
受け取った腕を引っ込める前に、そう呟く。どう見ても私より年下なのに、なぜ大人だと思ってしまったのだろう。
「そうだよね。ついてきて」
「……あんた、名前は?」
「アンバーって呼んで。よろしくね」
彼女──アンバーは手を差し出してくる。名を知られているということは、力も。一瞬ためらうが、私はやはり、アンバーと握手せざるを得ない。外気で冷えた、小さい手のひら。
連れていかれたのはアパートの一室だった。建物全体から人の気配がしない。キッチンで何かを調理している大柄な男と、ソファーからじっとこちらを見る少年がいる。
「座って」
少年の向かいに座らされ、緊張が募る。契約者の集まりだとしたら、何をされるか分からない。
「こんにちは」
少年が、感情のこもらない声で呟く。
「こんにちは……」
能力にもよるが、この子が外見に関係しない力を持つ契約者であれば、人間だった期間よりも契約者となってからの方が長いだろう。なおも私を見ている少年をどうすることもできず、アンバーを探す。鍋からお湯を捨てる男の後ろ姿しか見つからず、嘆息する。
静寂の中で数分待つと、アンバーが戻ってきた。その後ろに、顔の半分が火傷のような痕で覆われている男がいる。血の匂いがひどく香って、唾液を飲み込む。視線を下げ、血が男の腕から流れているらしいことが分かった。
「紹介するね。天霧と、マキ、こっちが魏」
ウェイと呼ばれた男は、凶悪な笑みを貼り付けたまま黙っている。視線をアンバーに戻し、続きを促す。
「魏は、の助けになってくれる。あなたは死にやすいから、魏と行動してほしいの」
「行動って」
「これから、たくさんの契約者や人間と戦うことになる」
思わず眉を顰める。何か面倒ごとに巻き込まれたらしい。
「あなたにも、力を使ってもらわなくちゃならない。魏の対価は、血を流すこと。あなたたちはとても相性がいいんだよ。ね、魏」
男はすっと右腕を上げ、血の流れ続ける腕を見せた。細かく切り傷が見え、確かに戦闘の度に血を流しているのだろうと思う。不気味な男だが、私の対価と見合ってはいる。
「じゃあ、家まで送ってあげて」
「分かりました」
「ここにはいつでも来ていいよ。何かあれば、こっちから連絡する」
「……分かった」
帰れということらしいので、立ち上がる。結局なんの組織なのかは全く分からなかった。ただの戦争屋には見えないし、何かしら大きな目的があるのだろう。三人に会釈し、ウェイと共に部屋を出る。外には血の跡が点々と続いており、雨臭さと鉄のにおいが混ざる。
ほとんど止んではいるけれど、傘をもらっておけばよかったと後悔する。髪も服も、少しだけ湿っている。しばらく歩き、一応挨拶をしておくべきかと思い口を開く。
「ウェイだったか」
「はい」
「悪いな」
「アンバーの意志です。私の邪魔をするようなら別ですが」
「分かってる。足を引っ張らないようにするよ」
こいつにはこいつの目的があり、そのためにアンバーに従っているだけなのかもしれない。どうでもいいが、相性がいいというのは、能力と対価に関してだけだろう。
血は完全に凝固したようで、漂っていた香りが落ち着いた。不意に男が立ち止まるので、それに倣う。いつの間に巻いたのか、ウェイは右腕の包帯を解いていく。
「血を欲しているのでしょう?」
彼は言って、小さなサバイバルナイフのようなものを取り出した。
「私の能力をお見せします」
切り傷から鮮血が吹き出し、彼の服に飛び散ってしまう。そんなことは気にも留めず、彼が指を鳴らす。すると地面が発光し、爆発が起きた。
「……血液の爆発?」
「少し違います。……アンバーは私のこれを知っていて、あなたに飲ませようとしている」
彼がこちらを向き、好奇心の宿る細目を見つめる。鋭い、ナイフのような。ぱらぱらとコンクリートが落ちる地面と、男の服を交互に見る。
「あんたの服には異常がない」
「ええ、そうです」
血液の付着した任意の箇所を……爆発だか、何かする能力。彼の血を飲んだとして、彼が力を使えば、当然体が弾け飛ぶだろう。
「アンバーは……何を考えてる」
私が死にやすいというのも、よく考えてみれば意味が分からない。確かに一人で戦う力が強いわけではないが、何か別の意味合いがある気がしてならなかった。損にはならないだろうと思いついていったものの、目的を聞かずに従うほど感情が消えているわけでもない。
男は問いに答えず、包帯を巻き直した。そこにじわりと赤が滲む。
「洗脳の使い手は貴重です」
「……」
「何より、アンバーが認めた契約者だ。協力ならしますよ……人間を攫う方が楽だと言うなら、止めませんが」
「あんたが私を殺さない保障がない」
「ですから、止めません。お好きにどうぞ」
私がすぐには返答しないだろうと思ったのか、男は歩き出す。やはりアンバーに協力しているのも心からの忠誠などではないようだ。一緒に行動しろと言われたにも関わらず、殺さないと言わなかった。合理的判断で、私を殺した方が得だと思えば殺す、ということだろう。契約者らしい。
▽
それからしばらく、どちらからも音沙汰はなかった。結局適当に連れ去った人間の血を飲んでいるが、食生活が悪かったのだろう、あまりおいしくない。もう少し品のあるやつを連れ去ればよかった。味が改善される注射を打つと多少薬品くさくなるので、なるべく通常の食事で済ませたい。
今度は長生きしてくれるとありがたいのだけど。放っておけばあと数日も持たないだろう、血液袋の寝顔を見る。夢は見ないが、きっと実現しない未来を願うことくらいある。
思い出す。契約者となった直後、試しに教師を操作してみた時のこと。同級生ではなかっただけ、私にもまだ情があったのだろう。誰の血を飲めばいいのか分からず、そのまま帰宅し、母親を刺したこと。恐ろしかった。平常心で親を刺せてしまう自分が……。
轟音が、耳に届く。はっと立ち上がり、ドアに走り寄る。どさ、と何かが落ちる音。人の怯えたような声。侵入者──ならば、怯えないはずだ。誰かに追われた一般人? 面倒だが、状況を確認したい。ドアを開け、気配を探りながら廊下に出る。
血の匂い。
喉の渇きを感じながら辿り着いた玄関先は、悲惨な有様だった。渇きはじめた血の香りは豊かでなく、単純に不快だ。そこに立つ男と、目が合う。
「すみません」
「は?」
「対価は生き血でしたね。死んでしまったかと」
男が床を指すので、目を見開いて絶命している人間を認める。男の足が死体を転がし、いたずらに踏みつける。
「状況が読めない」
「そろそろ血が足りなくなる頃ではないですか?」
「アンバーの指示か?」
「まさか。これは私の仕事ですよ。やり残したことと言った方が正しいですが」
「ついでに私に血液を提供しようと」
「ええ。近かったもので」
「ドアに穴を開けられるのは困る」
「鍵が開いていませんでした」
白々しさに、肩を竦める。とにかく場を片付けなくては、通報でもされると面倒だ。ついでに言えば派手な音を立てられるのも困るのだが、言ったところでどうしようもない。
掃除屋に連絡し、待ちながらテレビをつける。ウェイは少し前から部屋を物色しているが、死体をどうにかしようという気はないらしい。報道される失踪者の写真を眺めながら、ケータイを手に取る。
ウェイ・チージュン。あれから知り合いに教えてもらったところ、香港系マフィア青龍堂の生き残りで、今でも青龍堂関係の人間を殺して回っているらしい。青龍堂を壊滅させたのだろうが、結局アンバーについているわけだし、何がしたいのかは分からない。
気配を感じて振り向くと、男が廊下からこちらを見ていた。しばらく見つめ合う。
「あなたは、何故私を洗脳しないのですか」
テレビに視線を戻そうとしたところで、男が言う。
「それとも、できないとか」
「……あんたみたいなやつは、洗脳が解けやすい。少なくとも、私のものにはできない」
「なるほど。合理的ではないと」
「まあ、そうなるな。別に必要もないし」
「必要」
私の言葉を復唱し、口角を上げて壁に寄り掛かった。何もおかしいことは言っていない。
少しして掃除屋が到着すると、男は何も言わず帰っていった。きっとあいつも、必要がないから私を殺さないのだろう。機会があれば血をもらうくらいはいいかもしれない。
▽
数日後、アンバーから組織の目的を聞いた。今後人間による地獄門消失作戦が動き出すため、地獄門を不可侵領域とし、消失を防がなければ契約者は全て消えてしまうこと。そのために必要な流星の欠片──ゲート内物質は既にこちらの手の中にあり、あとはヘイという契約者を引き入れるだけだということ。目的を知らない契約者組織や、阻止しようとする国家との戦いになるだろうこと。
アンバーは時間に纏わる能力を持つ契約者らしい。対価は若返ること。そのため使用回数に限りがある、とは天霧の談だ。未来視ができるためにあの言動だったのかとようやく納得がいく。
ウェイはきっと、件の契約者が目当てなのだろう。他に協力する理由が分からない。
ヘイ──黒。その名前には聞き覚えがあった。メシエコードBK201、五年前に南米で起きた天国戦争にて活躍した、黒の死神というのがそれだろう。今はどこかの組織に属していると聞いたことがある。あまり契約者同士の問題に関心がなかったので詳しくは知らないが、相当強い上に、現状アンバーの誘いには乗っていないことから、何かしらのこだわりがあろうことが分かる。
タクシーの中で先ほどの内容を思い返していると、ケータイが震えた。ちょうど赤信号に変わり、車が止まる。
「もしもし」
『だな』
聞き覚えのない声だ。金額を見て、財布を取り出す。
『先日同胞が君を勧誘しにいったはずだ。彼の居場所を知っているか?』
運転席のシートを叩き、振り向いた運転手に金を渡す。すぐに車を降り、家とは逆方向に歩き出した。
「記憶にないな」
『EPRに入ったというのは本当らしい。残念だ』
「どこの組織の者だ」
電話が切れ、仕方なくケータイをポケットにしまう。EPR──イブニングプリムローズ。あの中から私を狙いに来るのは正しい。銃に手をかける。十字路に差し掛かると爆発音と共に焦げ臭さが広がる。火柱が上がっているのが見え、厄介な敵だなと嘆息する。
炎の中に人影。少女だろうか。直接体に引火できるのであれば、姿を見られるのはまずい。周りに人間がいない状態で力を使いたくはないが……。
壁を背に思案していると、道路を挟んだ向かいから嗅いだことのある匂いがして、顔を上げる。吹き出た血がぼたぼたと地面に落ち、男が笑う。
焦げ臭さ漂う現場から、男と共に家の近くまで逃走する。あの契約者も男も、警察に居場所を観測されたはずだ。息が切れ、走るのをやめる。ついてきていた男もゆっくりと隣に並び、煤を払った。
「燃やされたのか」
「少しね」
言われてみれば、確かに服の裾が黒くなっている。
「助かった。アンバーに言われたのか?」
「今あなたに死なれるのは、アンバーにとって本意ではない。それを汲んだまでです」
「あんたの目的は黒の死神だろう」
「おや、ご存じで」
「そこまでアンバーの意志を尊重する必要があるのか?」
「フッ、必要ね……あなたは大局を見るのが苦手らしい」
以前もその言葉を復唱されたことを思い出し、眉を顰める。目的に何が必要なのかまで知らないのだから、その疑問が出るのは私にとって当たり前だった。契約者のくせに嫌味な言い回しをするやつだ。
「知っていますか? あなたの死因の五割は、私の血を飲んだことによるものだそうですよ」
「……私を殺して、お前になんの得がある」
「さあ、状況までは聞いていませんが……残りの五割は、私が守れなかったのだろうと」
「あんたを洗脳しても意味がないんだ。知り合ってしまった時点で、そうなるのは必然なんだろ」
「その未来を見ておきながら、あなたに私をつけたのは何故だと思いますか?」
立ち止まり、街灯に照らされる男の顔を見上げる。醜い火傷痕はきっと、黒の死神にやられたものなのだろう。男の笑みからは、感情を読み取ることができない。
「何が言いたい」
「あなたの洗脳はそれだけ強力だ。状況によっては私を潰すこともできるはず。あなたが失踪し、私が自殺する未来もあったそうですから」
「そうならないうちに殺しておくか?」
「私と手を組みましょう。VP320」
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。アンバーが知っている限りで、私はどれだけこの男に殺されているのだろう。手を組んだところで、きっと殺される未来は変わらない。殺せると確信した瞬間──私がなんらかの理由で力を使えない場合、殺されるに決まっている。ただ、相手も同じように思っているのかもしれない。私に洗脳されて自殺をするなんてことがないように、それからアンバーの意志に沿って私を殺さず済ませるためには、手を組んでおくべき。
男に一歩近づき、右手を差し出す。触れた方が洗脳にかけやすいと、こいつなら知っているだろう。男は笑みを深め、私の手をとった。つめたい、陶器のような手のひら。
▽
実際、手を組んで得をしたのは私だった。ウェイは能力が強く、対価もあってないようなものだ。常に近くにいれば無駄に力を使わずに済む上に、使ったとしてもいつでも血を飲める。向かいで私の作ったムニエルを口に運ぶ男を眺める。元々血液袋に食べさせていたのと同じようなメニューなので、用意するのも苦にならない。
どうなることかと思った奇妙な共同生活だが、この二日は特に問題ない。大抵の契約者は、人間と違って静かだ。米を咀嚼しながらテレビに視線を移し、爆破事件のニュースを見る。契約者絡みだろうか。アンバーの計画ももうそろそろ本格的に動きそうだ。
「変わった契約者ですね」
不意に男が呟く。視線で続きを促すと、珍しく真顔のまま、男は箸を置いた。
「まず、食事に興味がある。そして怒りや喜び、合理的でない疑問」
お茶で口の中のものを流し込み、男の口元を見る。確かに、感情が残っている方だなと思ったことはある。食事に関しては血液の管理が目的なので、多くの人間と同様の興味ではないだろうが。
「あんたも変わってるよ」
「そうですか」
「執着心がある。あんたにとっては合理的なんだろうけど」
「……」
心外だったのか、表情を変えずに男は押し黙っている。暖房の風によってか、男の肌や服に付着した外気が臭って、小さく息を吐く。
「シャワー浴びてきたら? 外くさい」
「そうします」
においが気になるというのも、ウェイからしたら契約者らしくない点だろう。人間だった頃の癖なのかもしれない。浴室に向かう男の背から目を逸らし、食事に戻る。
風呂に入った後、ベランダに出た。充分に暖まった肌に冷気が刺さる。
母親が死んでしまってから、仕方なくそれを見ていた父親も殺した。人間って簡単に死ぬんだなと思った覚えがある。血まみれの自分と、倒れた両親、二人の血は遺伝子が同じだからかあまりおいしく感じなかった、目が眩むほど濃い血の匂い、確かな恐怖と、悦び。空腹感を覚えた私は母の作った煮物と、焼いたサンマ、ブロッコリーのサラダを食べた。それから、二人の死体を浴室に移動させ、リビングを掃除した。この先どう生きていこうか考えながら。
窓の開く音がして、振り向く。寝室にでもいるのだろうと思ったが、寝てはいなかったらしい。
「外の臭いは嫌いなのでは?」
「自分のはそこまで」
出てこられては男に臭いがつくので、手すりから手を離し、室内に戻る。男が私の背中を見ているのが分かった。シンクの前まで歩き、袖を捲ってから蛇口をひねる。ハンドソープを手のひらに出し、こすり合わせて泡を立てると、爽やかな石鹸の香りが広がった。
「私たちって、なんのためにこんな力を得たんだろうな」
答えのない、合理的でない疑問だ。ぬるい水が徐々に冷たくなっていく。芯まで冷えるのを感じながら、丁寧に泡をすすぐ。
「それを知っても、何も変わりませんよ」
「知ると安心するだろ」
「安心?」
「血を飲む時みたいに……私は、安心したいんだ。それだけだよ」
かじかんでうまく動かない指先で蛇口を締め、タオルで拭く。意味がない。何にも意味がないと感じる、契約者らしい私。男は、分からないという風にすこし眉根を寄せている。
「分からないか」
「ええ、まったく」
「そうか。今日はリビングで寝る」
「なぜ?」
「血を飲みたくなるかもしれないから」
「手を組んだ以上、殺しませんよ」
「はは……そうじゃない。ただ、心配なんだ」
「……本当に、契約者らしくない。私に殺される以上の心配事があると?」
「契約者らしくないからな。合理的じゃないんだ」
こいつの血はきっとうまいだろう。根拠もないのに、出会った時から確信していた。私は、こいつを食い殺さない自信がない。殺してでも飲んでやりたいと、自分のものにしたいと願う姿を容易に想像できてしまう。飲む時のために食事の管理をしているのに、そんな機会は来ないでほしいとすら。
契約者は夢を見ない。感情は希薄で、合理的判断を最優先する、無機質な殺人マシーン。
アンバーの見た未来で、何故私は死にやすいのか。不可解だという感情を隠そうともしない男の顔に、笑いが漏れた。
▽
アンバーから、私たちに指令があった。黒を見つけ次第、アンバーのもとへ案内すること。前線にいた私はウェイを探し、合流した。男は特に何も言わず、それを受け入れた。私はまた、昔のことを思い出す。
「心配と言っていたでしょう」
隣を歩く男が独り言のようなトーンで呟く。数日前の会話だ。まさか、覚えているとは思わなかった。
「なぜですか?」
「どうして今更聞くんだ」
「今だからです」
相変わらず冷たく硬い横顔。聞きたいこととは違うが、なんにしろあれから何日も経って聞いてくるおかしさに、答えてやろうという気になる。
「あんたの血を気に入ったら、色々困るからだ」
「色々?」
「たぶん、私はあんたを殺そうとする」
「それでは対価にはならないのに?」
「死んだら私のものになるからな」
「なるほど。やはりあなたは変わっている」
変わっているのはお前もだろうと言う前に、男は包帯を解き、ナイフを取り出した。黒が見つかったのかと思い前方を見るが、何もない。
「アンバーが、何故私をあの男の案内役として指名したのか……」
刃を皮膚にあてがい、ゆっくりと滑らせる。一筋に滲み出る血に、殺意は感じられない。言動の意図が分からず黙ってそれを見ていると、男はついに立ち止まった。
「どうぞ」
「え?」
目の前に出された餌……血の滲む腕に、眉を顰める。私の反応が愉快だったのか、男は口角を上げた。
「最後のチャンスですよ。BK201と会えば、アンバーに従う理由はなくなる。あなたを殺さないという約束もできません」
人間味のある男だった。この行為も別に私に情があるとか、優しさからくるものではないだろう。でも、私も、これが最後であると直感していた。何故案内役を指名されたのか。BK201と会いたいはずの、彼がいなければ目的を果たせないはずのアンバーが、よりによって彼を殺したがっているこの男を。
男の手首をつかみ、固まり始めた血に唇を寄せる。甘い香りに動悸がした。舌で傷痕をこじ開け、その奥から流れ出す血液を吸う。数日間だったが、育てた甲斐があった。何故だか、眼球が熱い。あまりのおいしさに、眩暈がする……それが本当の理由でないことくらい分かっていた、私は契約者だ、感情から来る眩暈なんて、馬鹿馬鹿しい。
口の端から零れた唾液と、顎を滴り落ちる血を男が拭う。それでようやく口を男の腕から離し、口内に残った血の味を噛みしめる。男の服の袖が薄ら赤く染まっていて、息を飲んだ。男と目が合うが、なんとなく見ていられず、逸らしてしまう。
「まるで薬物中毒者だ」
「自分が心配になるだろ?」
「吸血鬼の異名には違わないでしょう」
男は包帯を巻き直しながら言った。それもそうだなと納得し、歩き出した男の背を追う。
結局、それが私と男の最後の会話になった。
魏志軍は、私の目の前で自爆した。会いたくて仕方がなかった黒の死神に勝つこともできず、最期は彼らに道を開けるために、助からないであろう自らの体を使って爆発を起こした。絶対に手を出すなと言われていた私は、どうすることもできずただそのさまを眺めていた。BK201と、一緒にいた少女、それから黒猫が、私に何かを言った。彼らの姿が完全に見えなくなってから、コンクリートの山に近づく。爆発ではないとすると、物質転換だろうか。男が死ぬ際に飛び散った、あるいはコンクリートに潰されて出てきた血がところどころに見える。その一つに頬を寄せ、目を閉じる。ぱらぱらと天井からかけらが落ちてくる。私が本物の吸血鬼なら──お前を眷属にでもできたのだろうか。近くに大きなかけらが落ちたのが分かった。能力なんていらない。ああ、もし生まれ変われるなら……。
企画サイト明日がない!様へ提出
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