五線譜は私のために歌わない
例えば、星空。それも満天の。あなたにふさわしいアクセサリー、そうだな、お揃いの指輪なんてどう? 私が作ってあげるから、星をいくつか盗んできてね。月でもいい、あなたには、月がよく似合うから。
弦が苦し気な声を上げる。
枯れ葉を踏むのは誰かしら。外の階段に積もったそれがぐしゃりと形を崩すさま。紙袋にはまた新しいワンピースが入っているのでしょう。女の足音は細く響く。ヴァイオリンに混じって愉快なリズムを作り出すピンヒールは、扉の前で止まった。ドアベルが控えめに鳴らされ、外気を分けるように流れてくる香水。クレッシェンド。邪魔者を全て排すために、私はヴァイオリンを奏でている。
空気が震える。祝福のソナタ。余韻を脳髄に響かせながら、ゆっくりと瞼を開く。それを見て、女が拍手をした。
女の前に紅茶の入ったカップを置く。「ありがとう」長い指を柄にかけ、女はカップに口をつけた。昨日作ったクッキーを皿に出し、自分の分の紅茶と一緒にテーブルに持っていく。
「ちょうど、あなたのこと考えてたの」
女の目が細められ、選んだ言葉が正しいことを理解する。
「あら。嬉しいわ」
「ふふ……これ、昨日作ったんだけど、よかったら食べて」
「ありがとう。バニラと……」
「コーヒー」
「コーヒーね」
厚めの唇に肌色が挟まれるの見る。興味がないだろうに、それをおくびにも出さない彼女は、やはり美しい。人間としての作りがとても優秀で、私よりも上位の存在であるとさえ。
事実がどうであれ、彼女についてそのように感じる度に少しだけ泣きそうになる。
「おいしいわ」
「よかった。お昼は?」
「食べたわよ。は?」
「私も、サンドイッチを作ってね、庭で食べたわ。バジルがたくさん採れたから、夜はピザを作るつもり」
「そう、いいわね」
「食べていくでしょ?」
「ええ。手伝うわ」
「じゃあ、一緒に作りましょう」
「そうね。……ふふ」
「なに?」
「いいえ。元気そうで安心しただけ」
まるで幼子を相手にするような口調に、ムッとして見せる。それも長くは続かず、自分の滑稽さについ笑ってしまった。
私たちはティータイムをお喋りに費やした。会っていなかった間に起きたこと、昨日は何を食べたとかから始まって、彼女の友人のお話を聞いたり、育てた野菜の写真を見せたり、あまりに穏やかで、繊細な時間を過ごす。
彼女は幼い頃に庭で見つけたビー玉だ。懐かしく、今はここにないもの。誰が落としたのだかも分からない、誰のものでもなくて、きらきらしている魅力的な存在……。
ポットの先端から最後の数滴が零れる。お湯を注ぐために立ち上がり、別の茶葉にしようかと考えながら、蓋を開ける。
「パク?」
「なあに」
「今日は、泊まってほしいの」
「ええ、もちろん」
「ほんと?」
「本当よ」
やかんに水を足し、火にかける。彼女の、本当よ、が脳内に何度も流れる。ほんとうよ。何度も、何度も。ガサ、と薄くなった茶葉が落ちる。べちゃ。軽くゆすいで、戸棚から今朝ブレンドしたハーブティの茶葉を取り出す。
「親切なひと」
「そんなことないわ」
「でも、私の望みを理解してる」
「それを親切だと言うなら、そうかもしれないわね」
「親切よ。優しくて……素敵」
祝福のソナタは、過去に私が作曲したものだ。練習の時以外に弾いたことはなかったので、女が一番あの曲を知っている。彼女に背を向けたまま、やかんの表面をぼんやりと見つめる。美しいあなたに向けた曲を作る勇気は、まだない。趣味のアクセサリー作りにすら行き詰まっている私には、そんな資格はないように思えた。
「、こっちを向いて」
彼女が立ち上がり、こちらに来る音を聞く。淡い日の光が遮られ、見上げた先の瞳にやはり少し動揺する。頬を滑る心地のいい指先。彼女の望むように、目を閉じる。女の手が火を止めたのが分かった。
ゆっくり視界を開いて、長い睫毛から、視線を逸らす。
「あなたが一番素敵よ、。何よりも」
お湯が沸けたことなどどうでもよかった。口元をやさしく拭われて、彼女の口紅がついてしまったのだろうと思う。
「うそばっかり……」
「ふふ……かわいい子。ポットを貸して」
言い返す術を持たない私は、ただ黙ってポットを渡す。いつかは男性に許すはずだった領域を、初めて開いたのもこの人だ。私は自分のことを異性愛者と認識していたのだけれど、あれ以来考えれば考えるほど、彼女以外に明け渡したくはないことに気づかされる。
だから、彼女の言葉が嘘であっても構わなかった。どうせ狭い世界で一生を終える身だ。何もかも、信じていた方がうまくいく。
再び椅子に腰掛けるが、声を出す心構えが整わない。いつものことなのに妙に緊張してしまって、とりあえずハーブティを喉に流し込む。
「そうだ、これ。あなたに似合うと思って」
私の態度を見かねたのか、女が床に置いていた紙袋を手に取った。
「あ……ワンピース」
演奏中の霞がかった脳で理解していた存在に気づき、思わず口にする。言葉を聞いた女は、少しだけ目を見開いた。
「あら、よく分かったわね」
「……だって、私にワンピースを着せたがるもの」
「嫌だった?」
「ぜんぜん」
「ふふ、よかった」
高級ブランド(だろう、いつもそうだから)の袋から包みがいくつも出てくる。品のいい香り。
「開けていい?」
「もちろん」
カップを避け、袋を開ける。指に伝わる質のいい生地に、胸が躍るのを感じる。柔らかい小花柄、総レースの背中が大きく開いたもの、フォーマルなシルク生地……。やはり女の中で私は女性的なイメージなのだろう。よくこれだけ買ってこれるものだ、感心しながら最後の包みを開けると、見慣れない黒が見えた。
「黒だ」
胸元に華やかな赤い花が描かれたそれは、今まで女の用意したものとは明らかに違っている。
「珍しいね」
「……そうね」
女は曖昧に相槌をうちながら包みを重ね、四つ折りにして紙袋に入れる。服の類を持ってきてくれた時はその場で着替えること、アクセサリーの場合はつけてもらうことなどが当たり前になっていたので、女の言葉を待たずに立ち上がる。
「着替えてくる」
「それでいいの?」
「……どうして?」
何か後ろめたいことでもあるような目に、私の方が戸惑ってしまう。こどもみたい。追求すべきか迷っていると女が座ったままこちらに手を伸ばし、足を組んだ。スカート部分が揺れて膝に当たる。はっとして見やった女の表情が艶やかで、半歩ほど右足が後退した。
「着替えてきて」
「……うん」
女のあれはなんなのだろう。寝室に入り、着替えながらとりとめなく考えてみるも、思考は固まらない。でも、私自身のことも分からない……。チャックを閉め、背中との間に挟まった髪を引き出す。鏡に写った自分が暗く、日が傾いてきたことを知る。化粧が合わなそうだ。部屋の電気をつけ、鏡の前に戻る。
真っ黒なワンピースから覗く手足は白い。広がった裾をつまんでみる。演奏会で着るものもどれも淡い色だったし、ジーンズなりを除けば暗い色は進んで着ることがない。やはり薄い化粧では服に着られてしまう。
私じゃないみたい。
胃のあたりが気持ち悪い。砂のお城を完成させることもできず、もう遅いからと帰らされた子供の頃。次の日、完璧に作られたお城の写真を見せられた。その時は他のことばかり考えていたから分からなかったけれど、完成したものを目の前で崩されるよりも悲しい、と今では思う。
リビングに戻ると、肘をついて窓の外を眺める女の背中が視界に入る。緩慢な動きでこちらを振り向いた彼女にどういう顔をしていいのか分からず、急いで電気をつける。
テーブルに近づいて、彼女と目を合わせる。
「分かったわ」
突然、言葉が口から出てくる。楽しそうに笑んでみせた女に実感が湧く。
「あなたのものになってほしいのね」
「ふふ……そうよ。ずっとね」
ずっと。
永遠を意味する言葉が、何に対して使われているのか分からなかった。女は立ち上がり、私の手をとった。
「あたしのものになってくれなくていいわ。もう誰のものにもならないでほしいのよ。奪わなきゃいけないし……次はそれができるか、分からないから」
言葉を選びながら、女は私を抱きしめた。やわらかい胸元にファンデーションをつけないために、額を押しつける。
「パクみたいだったの」
「あたし?」
「これを着た私が……違う、あなたみたいなんじゃなくて……あなたが本当に着せたかったのはこれなんだって分かったのよ。同じところにいるみたいだった……」
「……」
女の腕の力が強くなる。だからその理解は本能的なものだった。同じところというのがどこなのか、そもそも違うところにいたのか、今まで贈ってくれたのはなんのためなのか、私には分からない。
ただ、女の着ているシャツからは、嗅ぎなれた香水の匂いがしている。
「お腹が空いたわ」
細すぎる腰に腕を回し、子供のように言ってみる。私は、こうすれば状況が改善されると知っている。
それから、二人でピザを作って、ゆったりと夕食をとった。私はすっかりいつも通りだったし、彼女もそれに倣ってくれていた。たぶん女は、私に笑っていてほしいのだと思う。ずっと。
「ピザって作るの難しいわね」
食器を洗いながら、彼女は心底穏やかな気持ちで出したような声で言う。
「手伝ってくれて助かったわ。一人でこねるの大変だから」
「そうね。いつもやっているんでしょう、驚いたわ」
「楽しいわよ」
「そうかも」
笑いあって、久しくこんな長時間共に過ごしていなかったのだと気づく。今日女が来てからどのくらい経っただろう、ようやく私の心に女の存在が馴染んできたらしい。
私がご飯を作った時は、女が皿を洗うと決まっている。服以外でも何か手土産を持ってきてくれるので、洗ってくれなくて構わないのだけれど、私のために動くのが苦ではないらしく、いつからか任せることになった。
最後の一枚を洗い終え、女が水を止めた。
「ありがとう」
「いいえ。すぐシャワー浴びる?」
「そうしようかな」
付けっぱなしだったエプロンの結び目をほどき、脱いだそれを椅子の背もたれにかける。黒い裾が顕になって、膝にかかるレースを見つめた。
いつだったか女がくれたパジャマを着て、ベッドに座る。久しぶりに泊まってくれるのだし、キャンドルでも用意しようと立ち上がると、壁に立てかけたヴァイオリンケースが目に入った。幼少期から使っているもので、もうぼろく、新しいものを買ってこようかと聞かれたこともある。実のところヴァイオリン本体もかなり劣化しているのだが、それでも私は苦楽を共にしたこの子たちを手放したくなかった。
世界的ヴァイオリニストのさんね。悪いけど、ついてきてほしいの。
女がどうして愛を囁くのか、考えた時期もあった。でも、あれから私も歳をとった。たったの数年だが、一人で過ごす時間は緩やかで冗長的すぎる。思考に沈んでしまいがちな私では、考えることをやめなければ狂ってしまいそうだった。愛についてなど、一等考えたくない類のことだ。
しばらくして、ドアがノックされた。返事をしてから本を閉じる。外の空気でキャンドルの火が揺れ、ため息を吐いてしまった。
入ってきた女は、この家に一着だけ置いてある彼女のためのネグリジェを着ている。黒いシルクが歩く度に体のシルエットを明らかにする。お待たせ、という声にすら熱を感じ、目を逸らして本をサイドテーブルに置く。
隣に女が座ったことで、そちら側にマットが少し沈んだ。キャンドルの甘ったるい香りの中で淡く漂う石鹸が、空気を甘やかに変えていく。
「ドライヤーの場所、分かった?」
「ああ、変わってたわね。使わせてもらったわ」
「そう」
女の手が頬に伸ばされる。薄暗闇の中、女が足を組んだのが分かった。思わず目を閉じて、女の唇を強請る。
口づけは真実だ。内包されるものが私にとって真実でないとしても。
髪が耳にかけられ、離れた唇は頬に触れた。心臓が嫌な音を立てる。相手にとって自分が正しい存在であることは、過去の私にとって非常に重要だった。この人は私の全てを壊そうとしている。あらゆる言葉や表情、声色がそのための嘘であったとして、私は許容できるだろうか。
緩く抱きしめられて、豊かな胸に手のひらを置く。
「ねえ、パク」
「ん?」
「……私はね、あなたがなんであってもいいの。でも……」
下着をつけていないために、やわらかさと温度が直に伝わってくる。
「」
「……なに?」
「あたしは、あなたの前では、あたしでしかないのよ」
「……」
「嘘だと思う?」
「うん」
「ふふ、素直ね」
「嘘でもいいの。いいのよ……」
たぶん、何もかも嘘なのだ。でもこれはなくてはならないもの。こうでもしないと、私たちは、一緒にいることすらできないのだろう。
「あなたのために、……私のために、作りたいものがあるの。聞いてくれる?」
「何を作りたいの?」
「お揃いの指輪。所有の証明になるでしょ?」
「ふふ……ぜひ作ってほしいわ」
「でもね、そのためには星が必要なのよ」
「星?」
「私は星、あなたは月。ここからじゃ手に入れられないから、あなたに用意してもらいたくて」
「星と、月ね。どうして?」
「きらきらしてるから」
「他のものじゃ駄目なのね」
「そうよ」
「そう……骨が折れそうな依頼だわ」
有り得ないことだと断じるのは簡単だろう。女の声はどこまでも愉快そうに響く。疑問を覚えることすらなくなるのだろうか。いつか。
「あたしからもお願い」
「なに?」
「何があっても一人じゃないってこと、覚えておいて。あなたは一人じゃない。夢を見てもいいのよ。そのためならあたしはなんだってするわ」
「嘘を吐いたりとか?」
「ふふ、嫌ね。心地のいい言葉が全て嘘だとは限らないでしょ」
女の声に悲しみが混ざる。信じるには充分すぎるほど、この人は私に尽くしてくれているのに、どうして納得できないのだろう。声に含まれる悲哀と、心音の跳ね方、それから私に触れる指だけ。女の腹を撫で、存在を確かめる。
私は何も知りたくない。分かってしまいたくない。妖精みたいに、ふわふわと生きていきたい。
宥めるように背を撫でる手が温かく、眠気を誘う。いつの間にか閉じていた目を薄く開き、女の首筋を眺める。女がどのように私の無茶ぶりをかわすのか、興味があった。でもそれだけじゃない。単純に、私には指輪のための星が必要なのだと、理解してほしかった……。
「」
「……ん」
「……愛してるわ」
気だるい体を引きずりながら、女を見送るために玄関に向かう。朝食はいいと言われてしまった。起きてみると、昨晩の出来事が全て夢だったかのように思えてくる。こういう時は大抵そうだが、今回は尚更だ。
ドアの手前で立ち止まり、女がこちらを向いた。
「ありがとう。また来るわね」
「うん、待ってる」
「何かあったら連絡して」
「分かった。気を付けてね」
女は返事の代わりに、髪を避け額に唇を寄せる。
「まだ嘘だって思ってる?」
「思ってる」
「そう」
想像通りの答えだったのか、女は大して落胆する様子も見せず、微笑んだ。目を閉じて唇を受け入れる。それから、いつものように優しく抱きしめられ、早く眠ってしまいたいなと思う。
「じゃあね。おやすみ」
「うん」
体を離し、女がドアノブに手をかける。開いたドアから入ってきた風で、ブロンドが揺れた。
広いお家がいいわ。もう一人だから、やってみたいことがたくさんあるの。それに広ければ広いほど、私は孤独を実感できるでしょ。
ああ、パクノダ。あの時の言葉を覚えていてくれたのね。
寝室に戻り、カーテンを開ける。それから、日差しに照らされたヴァイオリンケースを手に取る。テーブルにケースを置き、大げさな音を立てながら開けて、中身を取り出した。ネックを持ち、肩に置いて顎を寄せる。ゆっくりと弦に弓を当て、順番に音階を刻む。自分で作った曲のリズムですらめちゃくちゃにすることができない私に、この箱庭は広すぎた。眼窩が熱を持つ。
一人きりの部屋に響き渡る祝福のソナタは、誰にも届くことがない。
企画サイト吝嗇家様に提出
title by 天文学/200529