ひえたねむり

 ──夢を見ていた。


 森の奥、幾分死臭のない荒野の隅に、私の休息地はある。同等の虚を食らい続けてアジューカスとなった私の周りに、もはや敵も味方もいなかった。しかしここを荒らされるのも時間の問題だろう。各地であのような争いが起きていることは想像に難くない。
 私たち──堕ちた魂は、こうして淘汰される運命にあるらしい。
 ヴァストローデになるためにはきっと今以上の闘争心と戦闘力が必要だった。のし上がりたいという意欲が他の個体と比べて強くない私には、難しい話だ。死にたくはないが、誰も犠牲にしたくないだとか、そういう美しい思想があるのとは違う。生前の人格が影響しているのだろう。
 粗方食い尽くしてからは、自分より少しでも強い虚が現れたら私は死を受け入れるだろうと思いながら、ただ生きていた。ぼんやりと。生命力の弱まりを感じては休息地を離れ、退化しないために必要な程度の同族を食らう日々。
 生きた魂魄を探しに現世に赴いたこともある。アジューカスになってから、つまり自我を持ってからは一度だけ、しばらく探して見つからなければ帰るつもりで。


 起こしてしまわないよう、そっと彼に近づく。蹄にくっついては離れていく砂塵を感じながら、鼻先で石英の木を避ける。もろい枝は容易く折れ、砂に落ちて埋もれてしまう。


 現世には様々なものがあった。人間も霊体もたくさんいた。生きた世界だった。いのちを燃やしていた。同族食いを繰り返し、気を抜けば死ぬような危うい生き方をしている私たちよりよほど。
 街灯。花。衣服。表情や身振りでさえ、色のついている世界。
 生前は普通だったはずのそれらに目を奪われ、恐ろしくなった私は、魂魄を食すこともできずに逃げ帰ってきた。この何もない虚ろの地へ。


 彼は木でできた巣の上で丸まって、静かに目を閉じている。またこうして触れられる距離まで近づけたことに、安堵する。


 現世での光景を思い出すたび、あの魂魄たちを食べなかったことを後悔した。あるのは輝きの渇望だった。私も大切な人を殺すことで虚となったのだ、当然と言えば当然だったが、それでも再び現世に赴く気にはなれなかった。そのうち、周りの同族を食い尽くして私は独りになった。
 彼もまた、孤独だ。ある時どこかからやってきた異形の虚──おそらくヴァストローデである、口のない真白い大虚。


 不気味なほどの静寂が彼を包んでいる。腕を畳んで横に伏せ、彼を見つめる。


 私は食事を済ませて休息地に戻る途中、茫然と立ち尽くす彼を見つけた。本当は茫然としていたのかどうかも分からない。見た目から相当強いと分かるのに、攻撃の当たる範囲に入った私に一切敵意を向けない彼は、何も知らない無垢な存在に見えた。
 私が名を尋ねても、視線も体もしばらく動かなかった。間が空いて、それから、ゆっくりと頭を傾け、彼は私を視界に入れた。
 まばたき。あなたの瞳に、なにひとつ宿っていないことを知らしめる間。
 ──ウルキオラ。
 ──ウルキオラ……。
 ──名はあるのか。
 ──え…………です。
 ──
 私の名を復唱し、彼は先ほどまで向いていた方へ向き直った。何故私を殺さないのか。何故私は、名など尋ねてしまったのか。
 歩き出した彼を見送り、休息地に戻った私は、眠るまで彼のことを考えていた。名前を呼ばれた瞬間の高揚を誤魔化すこともできずに。


 風が吹き、砂が舞う。目を瞑り、やり過ごして頭を軽く振って落とす。次に目を開けた時、視界に入ったのは彼の羽だった。
 あれからどれだけの時間が経っただろう。彼は時折ここを訪れるが、いつも眠っている。眠っているのか、目を閉じているだけなのかは定かではないけれど。
 羽が動く。はっと彼の顔に目をやる。
 出会った時以来、私は彼の声を聞いていない。私が傍にいると彼は目を覚まさないので、その瞳を見ることも、羽が震えるところを見ることも敵わなかった。食えもしない虚の、眠るさまをただ見守るためだけにここに来てしまうのは何故か。庇護欲だろうか。私よりよほど力のある存在なのに。
 彼が目を開け、一度の瞬きののち、私を見た。
「あ……」
「何故、ここにいる」
 驚いていると、彼の手がこちらに伸ばされ、鼻先に触れる寸前で止まる。目が合っている。何も映さない瞳。無機質で、熱のない。
「お前は何故、俺の傍に来る」
「……」
「なぜだ」
「……わからない」
「お前に俺を捕食することはできない」
「はい」
「何もせずそこにいるのは何故だ。機を窺っているというなら、無駄だ」
「……分かっています」
 体を起こした彼の指先に、緑青の光が宿る。彼を見つめる。ここで殺されるのか。彼は目を逸らさない。
「怖いか」
「いいえ」
「戯言を」
 彼の、もう片方の手が上がった。確かに、私は彼が恐ろしい。彼には何もないと分かっているのに、だから殺されるという恐怖ではない、ただ煌めきを目の当たりにして、あなたの美しさに震えてしまう。彼の手が頭に乗せられ、思わず首を竦める。耳の真上で強大な霊圧が放たれたのが分かり、その直後遠くで爆発音が聞こえた。彼の手が頭から離れ、振り向くと大きな砂埃が上がっている。初めからあちらに撃つつもりだったのだろうか。

 彼は立ち上がり、視線を遠くに向けている。名前を憶えてくれているとは。私も体を起こし、目線の高さを合わせるために頭を少し下げる。
「お前は何を望む。力か、地位か」
「……わからない」
 私の答えに何を思ったのか、彼は再び私の鼻先に手を伸ばした。今度こそその細い指が触れ、温度のない彼を感じる。冷たいのではなく、そこらの木の枝のように、温度も何もない。存在の密度は高いのに、今にも折れてしまいそうな指が不思議でならなかった。
 それから、彼は何も言わずに歩き出した。私も当然、彼についていった。彼は何も言わなかったので、殺す価値もないと思ったのだろう。
「でも、あなたみたいに……」
 あなたみたいに、なってみたい。彼と目が合う。笑えもしない肉体ではなくて。彼は私から視線を逸らし、また、前を向く。


 ──夢を見ていた。


 天蓋の上、ぶつかり合う霊圧を感じながら、私は目を覚ました。もはや立ち上がることすら叶わぬ、弓で貫かれた肉体。ようやく人の体を、彼に相応しい力を手に入れたのに。腕を上げようとすれば全身に激痛が走り、死を避けられないと分かった。
 懐かしい夢だ。走馬灯かな。──馬鹿馬鹿しい。
 虚の霊圧を纏った死神によって、愛しの主が死に絶えようとしている。守らなくては。自嘲気味な笑いが漏れ、折れていない方の腕で体を支える。分かっている。端から私の敵う相手ではない。それに……。
 ウルキオラさま。
 這いつくばって、彼に手を伸ばす。正確には、伸ばそうともがく。体が徐々に砂に変わっていくのを感じる。虚化した黒崎一護に蹂躙されながら、ほんの一瞬、彼の視線がこちらを向く。
 あなたが手に入れた唇が好きでした。割れた仮面も、虚閃の色も、胸に刻まれた数字も。
 ──お前は何を望む。
 あの時の私には答えられなかった、彼と私を繋ぐ問いが過ぎる。
 虚の咆哮。
 真白い大虚よ、ねむる赤子のような、空虚なあなたよ、馬の骨など悼まず安らかに、永遠であれ。



主催企画に掲載(瞳)
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