運命

 目を覚ます。はっきりしない頭で時計を見ると午前二時すぎであることが分かる。眠る前隣にいたはずの男がいないことに気づき、私も寝台を抜け出した。
 彼は私を愛しているらしい。私も彼を愛していると言った。けれど私たちにとってその意味を理解することはとても難しく、そんなことができるのであればその瞬間人生が変わってしまうのではないかとさえ考えていた。
 廊下は暗く、すこし肌寒い。隣の部屋の扉が小指の先を挟める程度に開いていたので、私はそこに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。
 彼は窓から月を見ているらしかった。今夜だか昨晩だか、明日の晩だかは満月だ。私にとっていつが満月なのだか正確な日を知ることは重要ではなかった。とにかく月の光は明るく、乱歩さんを照らしている。扉の音で気づいているのだろうけれど、彼はこちらを見ない。ここで声をかけるのは無粋な気がして、私はそのまま部屋を出た。
 ついでに水でも飲めばよかったかと寝室に戻ってから後悔する。彼は一体何を思っていたのだろう。考えても無駄なことだ。どうせ分からないのだから。でも、考えるという行為に意味はある。それもたぶん、愛の一種だ。

 しばらく天井を見つめたり寝返りをうったりしていると、このままでは眠気が訪れないとが分かってしまう。もう一度隣へ行こうかと考えるが、彼が表立って嫌がらないにしても、彼への配慮は欠けている。
 ばたん。
 隣の部屋の扉が閉まる音だ。体を起こし、扉を見る。ぎいと音を立てながら開いた扉の向こうに、彼が立っている。

 彼の柔らかい声が言う。
「はい」
「おいで。お茶でも飲もう」
「喜んで」
 再び寝台を出て、彼の待つ廊下へ。彼とここで暮らし始めてもうすぐ半年になるが、彼が夜中にお茶を飲むのは珍しいことではなかった。むしろ職業柄(作家という面でも、探偵という面でも)夜に活動することの方が多かったし、日中は寝ている印象が強い。私もそうだが、芸術を生業としている人間は、自分の感性が鋭くなる時間を分かっている。そしてほとんどの場合それは夜なのだ。彼が手を差し出したので、自分の手をそこに乗せる。
 彼に手を引かれて隣の部屋へ戻ると、机周りの照明が一つ点けられていた。
「まあ」
 机に並べられたカップやお菓子を見て、思わず声を漏らす。
「驚いたかい?」
「ええ、もちろん。どうなさったの、これは」
「こうやって話す時間も、以前より減っただろう? 僕の原稿や、君の作品のことで」
「ええ」
「だからさ。もちろん、月の光に中てられて、おかしくなってしまったっていうのもあるかもしれないけどね」
 悪戯っ子のように笑いながら、彼は私のために椅子を引いてくれた。
「月は魔性ですわ」
「ああ、違いない」
 可愛げのある男なのだった。彼も席につき、お菓子の入った籠を持ち上げて私に見せてくれる。
「君の口に合うといいけど」
「不思議なことをおっしゃるのね」
「そう?」
「だって、あなたが私の嫌いなものを薦めてきたことなんてないもの」
「僕は探偵だからね。それでも、君に関しては不安になるのさ」
「おかしな人」
 どれもこの国では有名な洋菓子屋のもので、彼はこの時を楽しみにしていたのだろうと思う。肋の奥、心臓の横、胃の上のあたり、私の中心部がどうしようもなく切ない。想いが同等でなければこの関係は成り立たないのに。
「もう一つ、おかしなことを言っていい?」
「ええ、どうぞ」
「君は月みたいだ。月は僕を照らしてくれる。それが偽りの光だったとしても、僕は一向に構わないんだ。その光の虜になっているからね」
 紅茶を一口。それから、彼の目を見る。眼鏡に光が反射して、私の目を潰そうとしている錯覚に陥ってしまう。一度そこから目を逸らして、手元のお菓子の包みを破り、柔らかい焼き菓子を取り出す。
「ねえ乱歩さん」
「なんだい?」
「私にとっても、あなたは月なんですよ」
「僕が?」
「驚くことかしら」
「そうだね。とっても」
「私は暗闇なのだわ。そしてきっと、あなたも。けれど、一緒にいると何故だかお互いを光だと思ってしまうんです。魔性の月だと」
 一口、二口、咀嚼、三口、咀嚼、紅茶。口どけが滑らかで、甘さは控えめなお菓子だ。乱歩さんは、私がそれを食べるのを黙って見ている。
「僕は君を誰にも見せたくない」
 唐突に呟かれた愛しい言葉に、顔を上げる。
「ずっと閉じ込めておきたいんだ。僕だけの君でいてほしい。ひどいだろう? 月みたいに美しいものは、僕には釣り合わないよ」
 包み紙を机に置き、ちり紙で手と口を拭う。心のうちに秘めておくべきだというのは、この人も百も承知なのだ。だけど堪えられない。愚かで脆くて、でも優しい人。閉じ込めても構わないのに、それをしないところもそうだ。
「あなたは、私を愛していると言ってくれましたね」
「ああ、言ったね」
「私がどんな人間でも……それに、愛を理解できていなくても、あなたはそれを口にするのですか?」
「愛を理解するなんて、端からできないよ。それでも僕は君を愛していると思うし、だからこれが愛なんだ。つまり、たとえ君がどんな人間だったとしてもってこと」
 この人は私を愛している。私もこの人のことを愛している。似たもの同士なのかもしれない。
「同じことです。あなたがひどいかひどくないかは、私にとってあまり重要ではない。とにかく私はあなたを愛していて、あなたが眩しいのです。分からなくってもいいわ。でも、そうなのよ」
 きちんと視線を交わして、私は彼の手をとる。私といてこの人が不幸になるなら、それでも構わない。私たちがこうして一緒になったのは神の思し召しなのだ。二人の行く先がずっと暗闇だとしても。この光が、錯覚なのだとしても。苦しみが私たちを支配するとしても、私はあなたを愛しています。彼の透き通った瞳が安堵に染まる。
 濃紺の髪を、月が照らしている。



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