背骨

 男が私の体に覆いかぶさるようにして、肩甲骨のあたりに唇をつけたのが分かった。腹を撫でる男の手のひら。するり。再びの唇。うごく。あたる。あたる。こすれる。ちからがはいる。あえ、ぐ。
 たぶん宏弥くんは私のことを愛しているのだろう。愛なんて理解できなさそうな脳の出来だけれど、少なくとも私はそう思う。あの目が愛以外のものでできていたらどれだけ楽だっただろうと考えてしまうほど。恐ろしい男だった。そして、そうやって俯瞰して考えることができるのだから、私は本当の意味で彼を恐れているわけではないとも、理解している。
 例えて言うなら落とし穴。私の人生に宏弥くんが絡む予定はなかったはずだ。私は品行方正だし、優等生なので。

 馬鹿みたいに鳴らされ続けるインターホンの音で目が覚める。そんなことをする人間は一人しか知らない。今時小学生でもやらないだろう。あくびがてら大きめの声を漏らし、のそのそと起き上がる。壁に目をやるとちょうど十時になるところだった。
「おう、
「なによ朝っぱらから」
「なんだ、寝てたのか。電話出ねえから、なんかあったんじゃねえかって思ってよ」
「心配性かっつーの……」
「あ?」
「なんでもない」
 猛獣を部屋に招き入れ、電気をつけるとようやく頭が覚醒してくる。電話に出なかったから家に来るって、そんな、馬鹿な。けれどそういう男だとは痛いほど分かっている。テレビをつけ、顔を洗うために洗面所に向かった。
 熱いお湯を顔面に浴びせ、再びため息を吐く。排水口に勢いよく流れていくお湯を見つめてそれで私は自分の動揺を知る。宏弥くんのことが心底苦手だ。何度も抱かれたし、私にとってのそれは確かに救いだったのだけれど、それでも。
 リビングに戻ると男はテレビを見ながらあくびをしていた。きっと本当に私の無事を確認するためだけに来たのだろう。昨晩の夢を思い出す。夢。そんなふわふわとした現実味のないものではないのに。
「朝食べてきたの?」
「あ? 食った。でもまだだろ?」
「別にお腹空いてないからいいや」
「そんなんじゃでかくなれねえぞ」
「いや、いいけど」
「なんでだよ! でかくなりゃ今より多少は強くなれんぞ」
「強くなる必要ないでしょ。あんたが生きてるうちは」
「……それもそうだな」
 桐嶋宏弥。隣に座り、輝くたてがみを撫でてみる。すると不思議そうに私を眺めたあと、同じように私の髪を撫でた。この男の手は意外と器用なのだ。きっと弱いものを守るために生まれてきた。だから本当なら、私が飼っていてはいけない。まあ他にきちんとした飼い主はいるようだけれど、詳しいことは知らないし、たぶん彼にも隠さなければいけない事情があるから言わないのだろう。
「なにしに来たの」
「さっき言っただろーが」
「あんたって馬鹿よね」
「はあ? 何言ってんだ?」
「今日はくじょうさんとやらはいいの?」
「仕事っつってみや……しよーにんに追い出された」
「ふうん。ていうか、そもそも電話してきた用事はなんなのよ」
「お前に会いたくなった」
 目が合う。
 呼吸と、手が一度止まったらしい。それはすぐに再開されたが、体が自分の意思では動いていない感じがして、とても心地悪い。宏弥くんの目は異常だ。そんなに感情を伝えることができるものなのかといつも感心する。ならば私の感情は、この人に伝わってしまうのだろうか。私は口元だけで笑い、男の頭から手を離す。男もそれに合わせて手を離したので、大抵の男にそうするように近づいて胸元に頭を預けた。
「なんだ? 今日なんかおかしいぞ」
「そんなことないわ」
「体温低くね? いつももっと熱いだろ。あ! こないだあいつが言ってた……あれだ、へんおんどうぶつ? ってやつか?!」
「何言ってんのよ、もう」
 おかしいと気づいてくれたことに安心しながら、その先の理屈がそれこそおかしいことに笑ってしまう。この男にまで失望していては、私が悪者になるじゃないか。
 宏弥くんは黙って私を強く抱きしめた。骨が軋む。うそ、うそ、うそ。あんたさえいなければ私は真っ当で正当で正常なただの女でいられたのに。「大抵の男」は体温の話なんてしないし、アホみたいな力で抱きしめたりも、そのくせ丁寧に背中を撫でたりもしない。どうなんだろう。本当ならこれが普通なのだろうか。私はそんな扱いを受けたことがないのに?
「宏弥くん」
「ん?」
「いたい」
「あ? あー、わりぃ、つい」
 泣いてしまう、と思った。だってこの男はただ道端でへたりこんでいたのを助けただけで、ちょっとお世話してあげただけで、こんなに私を愛している。馬鹿だなあ。別の男と会っている女を微塵も疑わない男が愛おしい。力が緩んだ隙に彼の腕から抜け出して、立ち上がる。
?」
「シャワー浴びてくる」
「おう、あったまってこいよ」
 やさしい男の声を背中で受け止める。ごめん。ごめんね、宏弥くん。謝ることすらできない私をそれでも愛してくれと、軋む背骨が泣いている。



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