パリジェンヌの墓場

 薄汚れたバスタブに水を張る。裸になって、そこに浸かる。後頭部に全身が引っ張られるような感覚の後、震えがくる。目を瞑り、首から上も水に入れる。
 目を開ける。
 脛と踝の骨、足の甲、赤い爪。ぜんぶぶよぶよになって、そこを漂っている。口から出た空気が泡となって水面を目指す。
 遠くから、彼の声が聞こえる。
 昨日、家を燃やした。無意味なことだと分かっていたから、笑いながら、泣いた。彼は私を軽蔑するように、小さく嗤った。心音がうるさくなる。くるしい。
「おい」
「ゲホッ」
 髪を掴んで水から引き揚げてくれたらしい。勢いよく咳きこんで、それから酸素を取り込む。彼の手が頭から離れ、支えを失ったそれがばちゃ、と水面にぶつかった。息を吐き出しながらゆっくりと顔を上げる。
 暗い目。私を軽蔑する目。ほんとうは、自分のことが一番嫌いなくせに。
「自殺未遂が趣味か? イカレてんな」
「さむい」
「見りゃ分かる。飯ぐらい食えよ」
「ありがと……」
 は、と鼻で笑い、男は浴室を出て行った。固まったゼラチンみたいな体を解き、水から上がる。震えは収まらないし、頭痛もする。ため息を吐きながら洗面所に用意していたタオルを手に取る。それを見た上であんな嫌味を言ったのだろうと、遅れて理解する。
 もう四月になるのに、ここ最近やけに寒い。春らしい日もあるけれど、何が悲しいのか、この三日ほどは長袖一枚では心許ない気候だった。頭痛も鬱っぽいのもそのせいだろう。融通の利かない女体を恨むばかりの日々。
 服を着て居間に行くと、彼は頬杖をついてテレビを見ていた。胡坐をかいた太ももに乗せられた右手に、スマホが握られている。
「何見てるの」
「ニュース」
「おもしろい?」
「ニュースが面白く見える生き方してんのか、てめえは」
「してたよ」
「フン」
 炎上する一軒家と、表示された両親の顔。「ぎゅうどん」「文句あんのか」ありません、と口に出さず、プラスチックの蓋を開ける。私が情けないせいで、随分時間がかかってしまった。あの人たちを地獄に落とすためだけにいい子を演じてきたし、最後までそれは完璧だった、だからこそ、泣いたのだ。笑いながら。
 油の染みたデロデロの牛肉と、べちゃべちゃのご飯に、吐き気がする。完全に箸を止めてしまった私をちらと見て、それから彼は、窓の外に視線をやった。
 カーテンを閉めきったこの薄暗い部屋で、この人が何を考え、どのように生きてきたのか、私には分からない。所詮一か月かそこらの付き合いだ。私にとってはその何倍、何十倍にも思えるような日々だったけれど。
 立ち上がり、台所に向かう。シンクに置きっぱなしにしていたコップを軽くゆすぎ、水を入れて一口飲んだ。今日の水はまずい。でも、油よりマシだ。もう一口、無理やり喉の奥に流し込んで、元いたところに戻る。雨が降ったり止んだりだと告げるアナウンサーの、深刻そうな顔が無性に腹立たしい。
 私が殺したわけじゃない。殺したかったのも、殺すために動いたのも、それがバレないよう振舞ったのも、全部私なのに?
「荼毘さん」
「あ?」
「……わたし……」
「なに、……」
 唐突に、テレビ画面が歪んだ。もうどこにも戻れない。あの人たちが死んだことは正しかったけれど、帰る場所は確実に失われたのだ。
「あいつら、死んでよかった」
「……そりゃ、よかったな」
「でも、……でも……」
 荼毘さんの手が濡れた髪に触れ、思わず両手で顔を覆う。嗚咽を漏らす私に大きくため息を吐いた彼は、私の顔をわしづかみにした。驚いて目を見ると、普段は眠そうなそれが怒りを孕んで私を見ていた。
「後悔してんのか」
「こ……」
「後悔すんならやめろっつったよな。忘れたか?」
「お、覚えてる。して、ない、けど」
「お前はこっち側になったんだよ。分かっててずっと俺といたんだろ? 何泣いてやがる、能天気女」
 鼻を啜る。私よりよほど悲しそうな顔をした彼から、目が離せない。最後だとでも言いたげな涙が零れ落ちて、彼の手を濡らす。
「なくなったものを、なく、なったって、にんしき、してるの」
「……」
「だから、ないてるの……」
 愛していたわけじゃない。有り得ない。ただ、私のかたちが分からなくなりそうなのが、怖いだけ。
 彼の目から熱が少し失われ、顔を掴んでいた手がすっと離れる。試すようにしばらく私の顔を見つめていた彼は、スマホを床に転がし、またテレビに向き直った。家から持ち出したパーカーに染みていく涙が熱い。きちんと失わなければ。柔軟剤の匂い。
「荼毘さん」
「なんだよ」
「……ごめんね」
「……いいから、食っちまえよ」
「油っぽいからいらない……」
「へぇ、餓死も趣味か」
「う、うそだよ。食べます」
 慌てて箸を持ち、冷めきって油の浮いたそれを口に入れる。鼻がつまっていて味が分からないせいか、もう吐き気はない。なんだか楽しくなって笑うと、彼は一度こちらを見てから、呆れたように首を傾げた。
「ありがと、荼毘さん」
「飯代はもらうぜ」
「ケチ」
「うるせえ」



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