神なるもの
あなたが地獄に行くまでの話をしてもいいでしょうか。
いきなりごめんなさい。でも、手紙って修正が効かないんです。やっぱり一旦、形式に則って近況でも書いてみましょう。わたしは元気です。この間会った限りではあなたも元気そうに見えましたが、どうですか。
いつかのために、いつかのわたしのために書き始めたものだから、今は見せることができません。ごめんなさい。わたしの部屋を勝手に漁るような人ではないから、読まないとは思うのですが、もしうっかり見てしまったのなら、ここで読むのを止めてほしい。お願いします。
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──某日 ハルバラ共和国 フィーヴルホテルにて
シャワーを浴び終えた男は、カジュアルなシャツとパンツを見にまとい、一人掛けのソファーに座っていた。手にした端末をじっと見つめ、それから小さくため息を吐く。地平線の間際は既に淡く明るんでいるが、女が戻ってくる気配はない。
女は大抵の場合、戻る時間などを告げずにどこかへ行ってしまう。男は女の行動には基本的に関心がなく、帰りを待つ時もあれば待たない時もあった。今日は訳あって前者である。
男は端末の画面を落として立ち上がり、レースカーテン越しに街並みを見下ろした。貧富の差があまりないハルバラ共和国においても、ある程度裕福な層というのは存在している。ここフィーヴルホテルは、観光客を含め、平均的な所得の人々では背伸びしなくては届かない価格帯のホテルである。部屋から見える景色も忙しなさとは程遠い。
五分だけ待ってやるか。
と男は考え、再びソファーに腰掛ける。女は待ち合わせの時間などはきっちりしているが、時間を決めていない事柄に関してはとにかく間が悪く、男もあれを待つのが無駄なことだとは百も承知だった。連絡も頻繁には返ってこないため、女に用事があるのならどこかへ行く前に声をかけなければならない。そのことを男は面倒極まりないと思っており、時折女との付き合い自体馬鹿らしくなるのだが、未だ男は女と共に過ごしている。女の話す奇妙な世界に興味を惹かれるからか、付き合いが長いためかは分からないが。
▽
いつだか、愛と信仰について話したことがありましたね。覚えていますか。あなたはあなたが思うよりも律儀ですから、きっと覚えているでしょう。
愛と信仰の違いについて、軸が違うから比べられないとあなたは言いました。愛には種類があり、信仰はそのうちの一つだと。なるほど、そういう考えもあるのかと感心しました。わたしにとって、愛とは信仰そのものでしたから。それから、わたしなりに考えて──あなたといると考えることがたくさんあります。まだぼけずに済みそうです──理解できたんです。わたしなりにですけど。
△
男の予想に反し、待ち始めてから三分ほど経った頃、着信が入った。
「もしもし?」
『ああ、シャルナーク。すみません、連絡を返せなくて』
「いいよべつに。で、今どこ?」
男は携帯を耳に当てたまま肩で挟み、腕時計をつけた。車の通る音。電話をしてきたということは近くにいるのだろう、分かっていながら聞いたのは男のほんの少しの憤りからだ。理不尽な怒り。犬猫の戯れと同等だと理解しているから、男はそれを態度に出さない努力をする。
『もうホテルに着きますよ。あなたは?』
「準備できてる」
『分かりました。では』
「ん」
急ぐだのなんだの、言えばいいのに。媚びもせずのうのうと現状だけを告げる姿勢に、男の唇から何度目かのため息が漏れる。会ったら一言文句を言ってやろうと、怒りを抑える考えは捨て、男は端末をポケットに突っ込んだ。
▽
あなたは神ではない。わたしが神ではないように。
わたしたちは、地獄に落ちるのでしょう。これもいつだったか、話しましたね。わたしがあなたの存ぜぬところで命を落としたとき、神を恨むと言ってくれたこと、今でも覚えています。嬉しかった。わたしには神を恨むことなどできません。嫌味じゃありませんよ。素直に尊敬しているの。
あなたの考え方、本当に素敵だと思います。神を信じないあなたが、素敵なあなたのその人生が、祝福されてほしいと心から思っています。身勝手でしょうか? それとも上から目線? 確かに、わたしはあなたでなくとも祝福されるよう願いますよ。そういうふうにありたいから。
わたしは、取り返しのつかない罪を犯しました。あなたもそう。分かっていながら、繰り返しています。そうやって生きていくんです。その上で、地獄へ行くのに祝福があってほしいと願っている。神は──神は、都合の良いものなのですから。
△
女はホテル前の木のそばに佇み、何を考えているのか口元に笑みを浮かべながら濃紺の空を見上げていた。男が片手を挙げると、応えるように小さく首を傾げる。
「待ちくたびれた」
並んで歩き出すと、男は拗ねたような声音で呟いた。女の控えめな笑い声が風に流されていく。
「待っているとは思いませんでした」
「まあ、お前を待っててもしょうがないからね」
「そうですか?」
「そうだよ。そろそろ自覚しろって」
「期待は無駄?」
「お前は特にね」
女は男の言葉を聞き、楽しげに髪を揺らした。
「ねえ、シャルナーク」
「ん?」
視線だけ女に向け、続きを促す。女は右の手のひらで自身の腹部をさすった。黒い布に覆われた、肉のあまりない腹部。
「いいニュースがあります」
「悪いニュースは?」
「そんなもの、考えればいくらでもありますよ」
「ふーん……じゃあ聞こうかな」
「どちらから?」
「悪い方」
「予定外の殺しをしてしまいました」
返答に男は得心がいった。女にとってそれは悪いニュース以外の何物でもない。後頭部で組んでいた手をほどき、ポケットに突っ込む。
「いい方は?」
「映画のチケットが手に入りました」
「ふーん」
「観に行きましょう」
「え、いつ?」
「仕事終わりで間に合うと思いますよ」
「呑気なやつ」
「神の思し召しです」
「はいはい」
男のあきれたような仕草に、女はまた、笑った。
▽
わたしたちは、いつまでわたしたちでいられるでしょうか。いえ、すみません。また定義の曖昧な話になってしまいました。でも最近、よく考えるんです。この間なんて特に。
ふたりって、片方が死んでいたら成り立たないんでしょうか。死んだら全て終わりなのでしょうか。わたしもあなたもいつかは死ぬのに、せっかく、わたしたちになれたのに。
神はいます。なぜなら、わたしが信じているから。
神はどこにおわすのでしょう。どこにでも? わたしは以前、そのように口にした記憶があります。いえ、そう信じていた。わたしの中に、神は存在するのです。
愛と信仰の違いについて、わたしなりの結論を述べます。信仰は愛であり、愛もまた、信仰である。ですが、あなたのことは信仰していません。あなたは神ではないですから。ただの人、わたしの幼なじみであり、今は仲間でもありますね、とにかくわたしと同等の存在です。
不思議です。あなたは神ではない。でも、どこにでも、いつでも、いつまでも、存在している。そう、思ってしまうこと。
不思議です。
△
女がこれから映画を観に行くと言うと、仲間の一人はアホらしいと鼻を鳴らし、また別の一人は肩を竦め、もう一人は、そうかと肯定でも否定でもない返事をした。男は少しだけ居心地悪そうに携帯をいじっていたが、その言葉にちらと視線を上げた。
朝方の映画館は人が少なく、傍から見ればカップルであろう二人は異質だった。子連れや老夫婦らしき二人組、あとはひとりがぽつぽつと。
「静かですね」
女の小さな呟きに、男は曖昧な頷きを返す。エスカレーターに乗り受付のある階に上がると、中央のモニターで映画の広告が流れており、静けさは少しだけ和らいだ。
カウンターの奥に座る店員は、口をへの字にして新聞を読んでいる。世の情勢を憂いているのか、元来機嫌の悪そうな顔つきなのか、やることがないので面倒そうに読んだふりをしているのか。女が声をかけると渋々といった様子で立ち上がり、注文を聞いて、また渋々紙コップを手に取った。
「神のご加護がありますように」
トレーを受け取りながら女が言うと、店員は眉をひそめ、女の後ろに立っていた男も内心ぎょっとした。女は少しの曇りも見せず、笑みを深める。そうして、気味の悪いものでも見たというふうに店員が奥に戻っていくのを見送り、また歩き出す。女の立ち振る舞いは、黒のワンピースも相まって敬虔な聖女そのものだ。その背中に、男が呆れを投げかけた。
「あのさ、お前たまにやるだろ、あれ」
「なんです?」
「神のご加護」
「はい」
「あれなんなの?」
「なんなのとは?」
女には男の言葉の意味が分からなかった。女の様子に男はふいと視線を逸らし、黙り込む。
▽
すこしだけ、現実的な話をします。あなたは神の話や、わたしの思想について聞くのが好きではないでしょう? 分かっているのに書き連ねてしまって、ごめんなさい。
あなたと暮らし始めてからどのくらい経ったでしょう。わたしはわたしの、あなたはあなたの不満がありつつ、なんだかんだやっていけていると思います。わたしは、この暮らしがいつまでも続いてほしいと願っています。あなたはどうですか。
ふたりで映画を観ましたね。オペラにも行ったかな。料理は大抵わたしが作っていましたが、あなたもたまに作ってくれました。わたしはあなたの冷蔵庫を勝手に処分しましたし、あなたはわたしのサボテンを勝手に捨て、わたしはあたらしく冷蔵庫を入手し、あなたはあたらしく種類の違うサボテンを持ってきてくれた。あなたが時々煙草を吸うことをわたしはあまり快く思っていませんが、あなたもわたしの何かしらの行動に関しそのように思っているでしょう。
素晴らしいことです。奪い合う世界で生きてきた、生きていくであろうわたしたちが、このような生活を営んでいること。
△
女は映画を観ている間、頭のどこかで男の言葉について考えていた。女にとって、神を信じること、またこの世の全てに加護があるべきだというのは、当然のことだった。そして、自身を聖女のように思っているのも事実であり、だからこそ皆のために祈るのは自分の仕事だと考えていた。対価が存在しないので、仕事というより無償の奉仕だが。
男は神を信じていない。女もそれを分かっている。その上で、行動の意味を問うのは何故なのか、理解ができなかった。
スクリーン上に教会が映り、女ははっとする。手を組んだ妙齢の男が、懺悔を呟く。
──愛してしまった。私は彼女を、誰よりも愛している。神よ、お許しください──
女の唇が動く。神よ。空気の震えに隣席の男が気づき、視線だけ女に向ける。女はただ無表情に、息で、神に許しを乞うている。膝の上で組んだ手に少し力をこめて。男は女のそれを奇妙だと思いながら、スクリーンに視線を戻した。
家族がない、戸籍もなく、あるのは力と仲間のみ。二人の人生には共通点が多くある。大きく違うのが、信仰だった。
──神よ。
神よ。
眉根がすこし、寄せられる。
▽
ねえ、シャルナーク。
ここまで色々ととりとめもなく書いてきました。読むのが苦痛だったかもしれません。読んでいるかも今のわたしからは分かりませんが、読んでくれたのなら、ありがとう。
初めに、いつかのために書いていると書きましたね。いつかって、つまり、どちらかが先立つ時です。"わたしたち"が、終わってしまう時。あまりこういうことを言葉にするのは好まないのですが、手紙ですから。
あなたはよく、期待をするのは無駄だと言っていました。先日も。わたしにはその意味がよく分かりませんが、わたしのこれはきっと期待なのでしょう。あなたにこうあってほしい。こう思っていてほしい。勝手な期待です。傲慢ですね。でもね、わたしは時々本気で思ってしまうんです。あなたに、わたしの死を悼んでほしいと。わたしたちがわたしたちのままでいることを望んでほしいと。
△
映画は古典を元にリメイクした愛憎劇で、男は観る前からそれとなく内容を把握していた。ラストが違うと気づいたのもそのためだ。
「改悪だな」
映画館を出てすぐ、男が言った。映画が終わった後黙り込んでいた男が一言目に発したのがそれだったので、女は思わず笑みを隠すために口元を抑える。
「なんだよ」
「いいじゃないですか。ハッピーエンド」
「だってあんなの、主人公が死ななきゃ収まりつかないだろ」
「現実とは違いますから」
「……んなこと分かってる。けど、元の方がよかった」
「そうですか。……そうですね」
女は物語のエンディングに関して、あまり興味がなかった。元となったストーリーを知っているのは女も同じだが、流れが違うからといって何の不満もない。
女の中の神は、都合のいいものだ。女が勝手に信仰している神なのだから。だが物語でまで皆が救われるべきだとは考えないし、物語の上で何が救いなのかも分からない。愛に生きられる彼らが羨ましいとすら、思ってしまう。
女は胸の内で考え、言葉にしないことを選ぶ。何はともあれ、男が良いと思っていないらしかったので。
「ご飯食べて帰りましょう」
穏やかな声で女が言う。男は女が言いたいことを飲み込んだと気づき、肩を竦めた。
▽
わたしたち、死んだら地獄行きですね。一緒に行きましょう。わたしが先に死んだら待っています。あなたが先に死んだら待っていて。あなたの嫌いなハッピーエンドです。いえ、失礼、あなたはハッピーエンドが嫌いなわけではない……のかな、分かりませんが。
わたしは、あの映画みたいに複数の男性から愛されたりはしていません。時折神の代わりに信仰されることはありますが、その場合信者はわたしの語る神を見ているのであって、わたしを見ているのではない。わたしの愛が誰に、どのように向いていようと、物語には影響がないのです。主語をあなたに置き換えても同じでしょう。
あなたにとってこれは、わたしが死ななければ収まりのつかない物語ですか?
命がけでわたしやあなたを守ろうとする者や、愛と自身の信念との狭間で苦悩する者がいたとしても、わたしがあなたを愛することを祝福してくれますか?
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食事の後、ホテルに戻った女はシャワーを浴びた。男はその間に帰ったらしい。人のいない部屋に差し込むやわらかな日の光に、女は目を細める。
いいお天気。
窓の方へ歩みを進めると、肩にかけていたバスタオルが落ちた。それを振り返った時、女の中に、かすかな予感が芽生える。男が、女の関わらない仕事に呼ばれていることを思い出す。裸のまま女は窓に近づき、外を眺める。当然、男の姿はない。窓ガラスに指先だけで触れ、車のナンバーを順に目で追いながら、最後に見た男の笑顔を思い浮かべる。
今頃男も日差しに目を細めているのだろうかと、思う。
▽
わたしはどこかで孤独ではない気がしていたんです。物心ついた時からあなたたちが傍にいましたし、みなどこにも行かないと思ってしまっていた。でも今は、あなたが一人で出かけることなんていくらでもあるのに、どうしようもなくひとりを実感しています。なぜでしょう。勘、というか。実際にあの頃の仲間を何人も失ったからかもしれません。
あなたの死がこんなにも身近です。いえ、元々身近だったんでしょうね。少しの間でも、そのことを忘れさせてくれて本当にありがとう。
読まれることを"期待"してこの手紙を書いたから……笑ってこれを見せる時が来ることを願っています。
あなたの旅路に幸多からんことを。
愛をこめて より
△▽
書き終えた後も、私はしばらくぼんやりとペンを握っていた。読み返しても文章が頭に入ってこない。無心で書いていた自分に気づくが、それをどうすることもできずにただ文字を眺める。
あの日、彼を追わなかったことを後悔している。声をかけられなかったとしても、彼についていくべきだった。死んだとは限らない。ただの勘だ。どのような内容かも聞いていない。なのに胸騒ぎが治まらない。
ようやく、ペンを置く。
便箋を畳んで、封筒に入れる。
胸の前で手を組む。
目を閉じ、その瞬間鳴った着信音に、思わず眉をひそめる。
日差しから守るように、組んだ手で目元を覆う。
祈りと祝福だけが満ちた、部屋のなかで。
企画サイトkindred様に提出/220217