"L"の発音はラズベリーフレーバー

 いつも甘い匂いのする男だった。チョコレートを象徴するあの王子は、寂しさを処理するのが下手で、心の隙間を埋めるために甘ったるい塊をゆっくりと味わう。口に含み、溶かして、一度歯を立て、また、喉奥でどろどろにする。飲み込んだとき、一層香る肌に、体が痺れてしまう。
 毒薬のようなそれに、酔ってしまわないよう意識している自分に気づいて、閉じ込める決意すらできずに私は逃げた。

「今日は上の空ね」
 ちらと視線をやると、女は私の両の親指にふっと息をかけ、何度か瞬きをした。彼女は、我が国ではあまり普及していなかった、ネイルという娯楽を広めた功労者である。毎月こうして訪れてはいくらか話をしていたので、些細な変化でも気づかれやすい。
「考え込むことくらいあるわ」
 悪戯がばれた子供のように拗ねた顔をしてみせる。彼女は微笑み、仕上げの透明な液体を塗り始めた。女の爪はシルバーに染まっていて、ぼんやりとラメの煌めきを眺める。
「逃げたのよ。それだけ」
 男のせいで眠りが浅くなるなんてこと、今更経験するとは思わなかった。一拍間を置き、女は、そう、と相槌を打つ。それから、
「うまくいくといいわね」
 と、天気の話でもしているみたいな気軽さで言った。職業柄かもしれないが、女は普段から、こちらが話さないことを詮索してこない。それなのに、女の少し低い声には、すべてを理解しているかのような説得力があった。指先に力が入ってしまい、それに気づいた女が首を傾げるように笑う。

 店を出て、澄みきった空を見上げる。午後から店を開けるつもりだったが、これだけ晴れているとすこしもったいない。注文も入っていなかったはずだ。あの男は昼間から仲間たちとギャンブルに勤しんでいるのだろう。考えるだけで頭痛がしてくる。
 同情。傷の舐め合い。不健全な関係であるとも、深入りすべきでないとも、分かっていた。
 軽く昼食をとるため、よく利用するカフェに入る。昼食にはまだ早いが、普段よりも客が多い。奥の席も埋まっているし、これでは気を紛らわせることもできないだろうと思い、軽食を包んでもらうことにする。サンドイッチのパンを焼き始めたところだと言われ、レジの前に立って財布を取り出しておく。
 指先を見る。花屋という仕事柄、あかぎれや細かい傷が多く、乾燥した、お世辞にも美しいとは言えない手。
 ──綺麗だよな、手。
 ネイルのことだろうと言い返せず、享受するしかなかった手のひらの熱を思い出す。似つかわしくないビビッドピンクがその先端で存在を主張している。
「はーいお待たせしました」
「ありがとう」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。あ、ネイル変えたんですね」
 見ていたことに気づいたのか、店員の女が指摘してくる。
「ええ。派手すぎるかしら」
 否定をしないだろうと分かっていて、わざと言ってみる。お金をトレイに出し、袋を受け取ると女は快活そうな笑顔を浮かべた。
「いーえ、お似合いですよ。またどうぞ!」
「ありがとう」
 ほんのすこしだけ気分が軽くなり、やはり店を開けようと思う。我ながら単純だな。

 昼食をとり、階段を下りて開店準備を始める。店──花屋も、二階にあるプライベートスペースも、数年前に祖母から譲り受けたものだ。祖母はチョコレートが苦手で、甘ったるい匂いによく顔を顰めていた。不思議と花の香りは平気だったらしい。私はどちらも特に苦手というわけではないので、気にしたことはないけれど。
 一通り準備を終え、カウンターの奥に入る。お客さんが来るまで、自分の部屋用に花束でも作っていよう。プレゼント用のペーパーを確認し、暖色でまとめることにする。
 店先に出て花を選んでいると、いくらかお客さんが入ってくれて、私はしばらく接客に追われた。こうして店を構えている花屋はこのあたりだとうちくらいのものなので、丸一日休むと文句を言われることもあるのだが、放っておいてほしい。
 空が暗くなり始めた頃、ようやく暇になり、カウンター奥の椅子に腰かける。耐えきれず、金庫の上に置いたままにしていた煙草に手を伸ばす。
 肘をつき、煙草に火をつける。眩暈の感覚に、何日も吸っていなかったのかと思う。リカは……あの男は、煙草を嫌っている。行為の後に私が吸おうとすると、決まって不機嫌になった。人の家に来ておいて。灰を落とし、また深く吸い込む。
 ──今日で最後かもね。
 ──最後?
 縋るような目。突き放しきれなかった自分。額を押さえ、目を瞑る。今日は誰と眠るのだろう。あいつは性行為を必要としているわけではないし、案外つるんでいる仲間のところにでも行くのかもしれない。品行方正ぶって城に帰っていても、面白いけれど。
 考えていると、靴音が聞こえ、仕方なく煙草を揉み消す。顔を上げ、そこにいた人物に、息を飲んだ。
「リカ」
「その名前出すなって。暇そうじゃん?」
 浮かせかけた腰を下ろし、一瞬どうすべきか迷う。取り繕うには大きすぎる隙だった。リカは、夜に見せる寂寞の空気を滲ませず、カウンターに片手をつく。
「……煙草」
 不機嫌そうに眉を顰めたリカからは、変わらず甘ったるい匂いがする。なんだか無性に腹が立って、足を組む。
「私の店で何しようと、私の勝手でしょ」
「何も言ってないだろ」
「気のせいだったかしら」
 元々かわいらしい顔立ちではないので、機嫌を損ねたリカは怖い。こうして真正面から受け止めるのは初めてだけれど。色素の薄い瞳が、逡巡ののち私を映す。すぐに逸らされるかと思ったが、きっと男としてのプライドから、彼は逸らそうとしなかった。
「それで、なんの用事?」
「花束作ってほしいんだけど」
「……花束?」
「あれ、花屋じゃなかったっけ?」
 知り合ってからこれまで店に来たことはなかったので、花には興味がないのだろうと思っていた。なんだか分からないが、仕事の依頼ということなら断れない。
「ご指定は?」
「んー、お前がもらったら嬉しいやつ」
「私が?」
「そ。俺には女心が分かんねえらしいから」
 私に花束を渡そうとしている、にしては、明け透けすぎる気がする。でも、こいつが何を考えているのかは分からない。誰かに女心云々と言われ、花で機嫌をとるつもりなのかもしれない、と結論づけておく。
「どんなものでもいいの?」
「いいよ。お前に任せる」
 ある程度機嫌が治ったらしいその笑顔に、ため息を吐いて重い腰を上げた。

 もらって嬉しいもの、という指定は初めてではない。大抵は、どういうのをもらったら嬉しいのかな、というような、対象が私ではないことが分かりきっている言い方だったけれど。
 男はカウンターに寄りかかり、私の様子を見守っている。夕日が花々を照らし、色を変える。人通りはあるのに、ここだけ世界から切り離されているようだった。花の香り。近づきすぎると息が苦しくなる、強いそれが、自身を冷静にしてくれる。
 部屋に持って帰るために選ぶことも多いので、ほとんど悩まずに済んだ。今日も元々そうするつもりだったのだ、気分で選べばいいだけ。赤のラナンキュラスを主役に、ビバーナムとグリーンで軽くまとめたそれを、男の視線を感じながら包んでいく。細めのリボンを結び、先端をV字にカットし、全体の形を整え、息を吐き出した。
「どうぞ」
 顔を上げ、黙って見ている男に商品を差し出す。花から私へ視線を移動させ、男は瞬きをした。ほうけていた、のだろうか。
「なに、その顔」
「いや……ありがとな」
 花束を受け取った男の姿に、昨夜感じてしまった痛みが疼き出す。赤がよく似合う。気の強い色だ。指先のピンクにすら飲まれてしまう私ではとても敵わない。
 男は普段通りの笑みを浮かべ、姿勢を正した。
「で、。この後暇だろ?」
「仕事中よ」
「もう暗くなってる」
「いつ閉めるかは私が決めるわ」
「じゃここで待っててやるよ」
「諦めの悪い男ね」
「下手な逃げ方するのが悪い。素直になれって」
「早くそれプレゼントしに行きなさいよ。仕事の邪魔だわ」
「なんだよ、俺が他のやつのとこ行くと思ってんの?」
 言い合いも面倒になってきて、適当に束ねていた髪を解く。他に愛する人がいてくれたら、随分と気が楽だった。そんなに器用なタイプじゃないと分かっていたのに。
「素直じゃないのは、あなたもでしょ」
 エプロンを外し、椅子に座る。煙草に火をつけ、灰皿に置いて売上の計算をするためにメモ帳を出す。
「俺は」
「いいわよ、そこの椅子にでも座っておいて。すぐ終わるから」
「……手伝うことある?」
「あら、手伝ってくれるの? 王子様なのに」
「関係ないだろ。嫌味かよ」
「機嫌が悪いだけよ」
「ふーん……」
「外に出てる棚、適当に中に入れといてくれる?」
「分かった」
 花束をそっとカウンターに置き、男は店先に向かった。
 リカは、王子であると意識されるのが苦手らしかった。私はたまたま、本当に偶然それを知ることになったが、彼と親しくしている者の多くはただの国民だと思っている。立場や外見でなく、彼自身を愛してくれる存在を求めているのだろう。気持ちを理解できてしまうから、彼を受け入れ、逃げられなくなった……。

 閉店作業を終え、電気を消して外に出る。外はすっかり暗くなっていて、少しの空腹感を覚える。
「それで、どこに連れていってくれるのかしら」
 鍵を閉めながら聞くと、男は少し屈んで顔を覗き込んできた。仕方なく顔を上げ、目を合わせる。
「腹は?」
「まだ平気」
「そっか」
 すっと肩を抱かれ、反射的に身を硬くする。
「はは、緊張してんの?」
「驚いたのよ」
「なんだ、意外と初心なとこあんだなって思ったのに」
「悪かったわね、初心じゃなくて」
 私と同様に単純な男は、こちらの反論を意に介さず嬉しそうに笑い、歩き出す。驚いただけなのに、これでは照れ隠しみたいじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
 暗いとはいえ、メインストリートの近くで堂々と女の肩を抱いて大丈夫なのだろうか。具体的な場面を見たわけではないが、女にモテることくらい察しがつく。目をつけられでもしたらどうしてくれるんだ。女心が分かっていないとまでは言わないけれど、もう少し気にしてほしい。
 いくつかの、ほとんど通ったこともないような道を歩かされた先に、馬車が停まっていた。男が声をかけるのを聞き、城に連れていかれるのだろうなと思う。男に手を引かれ、馬車に乗り込む。
 小窓から外を眺めていたら、不意に腕を掴まれた。驚いて隣に顔を向けるが、目は合わず、男はただ、その手のひらで腕から手首までを撫でていく。御者に会話を聞かれたくないのだろう、男が何も言わないので、こちらも黙ってそれを眺める。切実な瞳の色。甘い沈黙。手のひらが重なり、男の長い指が絡む。
 恋人みたいだ。
 緩く握り返すと、胸の痛みが主張を強めた。だから逃げたのに。頭がどうにかなってしまいそうだった。

 城に着き、そのまま男の部屋まで連れていかれる。途中、話しかけてきた執事に夕飯を部屋に持ってくるよう伝えていたので、しばらくは帰れないだろう。
 部屋に入ると、男は花をテーブルに置き、上着を脱いだ。私もカーディガンを脱ぎながら、部屋を見渡す。さすがに広いが、想像より落ち着いた部屋だ。男の纏う匂いが充満している以外は。

 ぼーっとしているように見えたのか、男が私を呼んだ。テーブルに近づき、自分で選んだ花を見る。花瓶はあるのだろうか。考えていると男の指が頬に触れ、顔を上げる。
「なんで最後とか言ったんだよ」
 笑みを浮かべてはいるが、彼は戸惑っているらしかった。
「そのくせ、のこのこ部屋までついてくるし。分かんねえやつ……」
 きっと不安なのだ。女に逃げられたことがなかったのだろう、嫌われたと思っても不思議ではない。何も言わない私を抱き寄せ、男はため息を吐いた。強がっていても子供だな、と思い背中に腕を回す。
「ごめんね。あなたのこと、好きになりたくなかったの」
「……なんで」
「さあ……溺れたくなかったのかもね」
「……俺のこと、好きなの?」
「そうよ。あなたは?」
「好きだよ。分かるだろ」
「分からなかったでしょ?」
「……昨日、分かんなくなった」
「素直ね」
 男が腕の力を緩め、私を解放する。見上げた瞳には未だ戸惑いが浮かんでいて、随分傷つけてしまったらしいと気づく。頬に手を伸ばし、白い肌を撫でる。
「好きって言って」
 数回の瞬きののち、男は言った。
「好きよ」
 頬に触れていた手がとられ、また、指が絡む。
「俺も……」
 くらくらする。触れる唇の冷たさに、息の熱さに、鼻腔をくすぐるあなたの甘さに。
 唇が離れ、彼を見上げる。細められた瞳は、溶けてしまいそうな熱を孕んでいる。私もそうなのだろう。
「好きなの。責任とってよ」
 浮かされるように、呟いて、その瞳を見つめる。
「はは……いいよ。いくらでも」
 リカは今度こそ、安心したように笑った。

 二人で夕飯を食べ、他愛ない話をした。私は彼のことをろくに知らないし、彼もまた、そうだろう。彼の話からは、街で友達と遊ぶのがどれほど楽しいのかが伝わってきて、微笑ましい気持ちになる。
 彼が花瓶を探すと言って部屋を出たので、窓を開けて煙草をくわえる。花束なんていくらでも作れるから、というのは半分冗談だが、とにかく私はあれへの興味を失い、ここに飾ってもらうことにした。今思えばリカは、あんな頼み方をしておいて他の女に渡すほど恥知らずな男ではない。吐き出した煙が夜に溶けていく。
 ドアが開く音に、はっとする。男は、窓際に立つ私を見て眉を顰めた。
「ったく……ほら、花瓶」
「ありがとう」
 自分の部屋なのだから、もっと怒ればいいのに。面倒なことになるのは想像に難くないので、言わないけれど。ひと吸いして煙草を持ち運び用の灰皿に押し付ける。
「それやめねえの?」
 椅子に座った男は、不愉快そうに言った。
「今はやめないわ」
「俺が嫌っつってんのに?」
「そうよ。私が喫煙者ってことぐらい、初めから分かってたでしょ」
「そうだけどさ」
 テーブルに戻り、花束を手に取る。花瓶には水を入れてきてくれたようだ。リボンを解き、中身を掴んでそこに差す。きっと高級なものだろう、細身の花瓶は花をよく引き立ててくれる。
「かわいい花だな、これ」
「そうね、派手すぎないし」
「てか、座れよ」
「ああ、うん」
 帰りたいわけではないが、彼の中では私はいつまでいる予定なのだろう。口数は多い方なのに、肝心なことは言わないから昨晩のような事態になる……とは、言えた義理ではない。
 男はしばらく花を見ていたが、ふと視線をこちらに向け、笑顔を見せた。
「お前チョコ好きだよな」
「え? まあね」
 夕飯が乗せられていたカートの、一番下の段から彼が何かを引っ張り出す。銀のトレイに乗っているのは、いくつかのチョコレートだった。
「昨日、帰ってきてから色々考えてた」
 赤に近いピンクで花の模様が描かれた、小さな四角い粒。抽象化されていて、なんの花かは分からない。男が拗ねたような声で続けるのを、黙って聞く。
「なんとなく、ずっといれるもんだと思ってたんだよ。でも、お前はそうじゃなかった。俺はお前にとって、大勢いる男の内の一人だったのかもって思ったら、いてもたってもいられなくなって……」
 私だって、あの関係が続くものだとどこかで思ってしまっていた。リカを、その他大勢に放り込めたら──。
「今までなあなあにしてきたの、反省してる」
「なあなあにしたのは……」
「ま、お前も悪かったかもな。でも、しんどかったんだろ? お前もさ……初めは、寂しかっただけだろうから」
 そうだ。傷の舐め合い、ただそれだけの関係だった。かわいそうだと思っていたけれど、私もそう思われていたのかもしれない。テーブルの上で組んだ指先に力を入れる。
「お前のこと考えて作ったんだ。だから……お前に食べてほしい」
 これを食べてしまったらいよいよ終わりだ、と思った。飲み込まれる。溶かされ、歯を立てられて、どろどろになって。
 ──お前にチョコ作ったら、食ってくれる?
 唐突に、いつかの会話を思い出す。あの頃は上辺を取り繕っていたので、冗談として流したはずだ。それに、男、リカではなくて、私と夜を過ごす人間の戯言なんて、本音だろうか冗談だろうがどうでもよかったのだ。リカはあの時既に、私を想ってくれていたのだろうか。
 小さく、息を吐き出し、彼の目を見る。
「食べさせて」
 私の言葉に、リカは驚いたように目を瞬かせた。それからすぐに、普段の勝気な笑顔に戻る。
「いいの?」
「あなたこそ。逃げられなくなるわよ」
「逃げないし、逃がす気もねえよ」
 彼は笑い、チョコを一粒とって私の口元に運んだ。今まで何度も夜を共にしたのに、そのどれより甘美な気配を感じ、なんだか照れくさい。唇で挟み、彼の指が離れてから、舌に乗せる。コーティングが溶かされ、その奥の甘さが口の中に広がっていく。奥歯で噛みしめると、存外柔らかいそこから何かが溢れてくる。甘酸っぱい果実、ラズベリーだろうか。酸味と苦みが甘味に包まれ、混ざりあって調和している。私のことを考えて作ったのか、これを。複雑な気持ちになりながら、飲み込む。
「おいしい」
「ラズベリー苦手?」
「いいえ。どうして?」
「おいしいってだけじゃない顔してるから」
「……これを、私のこと考えて作ったんだと思ったら、ちょっと」
「ちょっと?」
「変な気持ち」
「変って。そこは嬉しいでいいだろ」
「あなたから見た私ってこうなのね。こういう形で伝わるのって、新鮮だわ」
 そもそも、真剣に伝えられる想いを受け止めること自体新鮮だ。変な気持ち。嬉しいわけじゃない。負の感情もない。ただ、どうすればいいのか分からない。
「ふーん。お前ってやっぱ……」
「なによ」
「いや、なんでも」
 なんだかろくでもないことを考えていそうで、眉を顰める。何がやっぱ、だ。
「なあ、こっち来て」
 彼がこちらに手を伸ばすので、立ち上がり、彼の手に捕まりにいく。腰に腕が回され、男の片足に座らされる。バランスをとるために彼の肩に手を置き、見上げることの多い瞳を上から見つめた。太陽を煮詰めたみたいな、溶けてくれない瞳。彼の顎に指をかけ、そっと唇を重ねる。腰を抱く腕に力がこめられ、私は今日、帰れないだろうと思った。

 唇を離すと、彼が甘ったるい声で呟いた。
「もう逃げんなよ」
「ふふ……かわいい子」
「かわいいのはお前だろ」
 否定の言葉を紡ぐ前にまた、唇を塞がれる。あまい。何もかも、眩暈がするほど。恋なんて──恋、なんて。どうしようもない私たちは、お互いの想いを伝えるために、なんでもできる気さえした。分け合うラズベリーチョコレートの熱。溶けてしまいそうな夜をあなたと過ごせることを、幸福と呼んでもいいのだろうか。



title by alkalism/210118