ただ一つの明日を照らしてくれ
※広島弁ネイティブでない・隊舎の認識が曖昧・檜佐木と一角の関係性が分からない・読点と中点が混在する・名字は射場固定 諸々ご了承ください
瀞霊廷通信の編集を終え、自室に戻った私は、兄からの連絡を受けて七番隊舎に向かっていた。雨が降っている。足袋越しに伝わる床板の冷たさに、空を仰ぐ。兄からの呼び出しなぞ、母に関することか、ただの飲みしかない。今日はきっと後者だろう。
兄は酒が好きで、十一番隊にいた頃から誰よりも強かった。私も遺伝的に昔から強いし、酒自体も飲みの場も大好き。ただ、私の所属する九番隊でも、兄のいる七番隊でもあまり大規模な飲み会は開かれないため、仲のいい数人で集まって飲むことが多かった。結局みんな潰れて、私たち兄妹だけになってしまうこともままある。
今度の瀞霊廷通信には各隊の飲み会の様子でも載せようか、と考えながら歩いていると、曲がり角の先に見知った後ろ姿を発見した。隊舎にいるとどうも気が緩んでいけない、こんな霊圧、見なくたって分かるじゃないか。
声をかけるべきか逡巡し、歩みを緩める。兄の良きライバル兼飲み友達であり、私も随分世話になった。良くしてくれるがそれも兄の存在ありきだし、もっと言えば彼は基本的に誰に対しても態度が変わらない。漢気のあるやつが好き、戦闘能力の高いやつが好き、女々しいのとべたべたした関係は苦手で、それ以外には興味がない、良くも悪くも分かりやすい人。
私は一時期、彼に稽古をつけてもらっていた。檜佐木副隊長には心配されたが(あの人はそのへん甘っちょろいので仕方ない)、私は、気兼ねなくボコボコにしてくれるのが嬉しくて、向かってくる彼の瞳が好きで、幾度となく、自分の斬魄刀が直接攻撃系であったらよかったのにと考えた。あるいは学院時代から剣技に打ち込んでいたら。あるいは、私自身が兄であったら──もっと言えば男なら、彼の傍にいられたのにと。
今思えば、あれは諦めるための言い訳だったのだろう。兄には子供扱いされるが私もいい大人なので、自分の立場にも、もちろん斬魄刀にも納得がいっている。恋とかくだらないし。好きだけど。
それにしても何故七番隊舎にいるのだろう。兄に用事だろうか。まさか兄が彼も誘った?
不意に、彼が立ち止まる。ぎくりとしてこちらも立ち止まり、ゆっくり振り返る彼の耳を、眺めてしまう。
「」
目が合う。雨音。湿気って、この世に必要なものなのだろうか。ど、ど、ど、ど、ど。な、なんてやかましいんだ私の肉体は。
「うっ……違うんです!」
「は?」
彼の目力の強さに思わず後ずさる。余計なことを口走ってしまった。弁解するように両手を上げたり下げたりして、最終的に襟元を正す。
「あ・いや……尾けとったとかじゃ」
「はあ? そりゃそうだろ」
「じゃけえ、えーと……お久しぶりです」
「おう……なんだお前、しばらく会わねえうちに随分しおらしくなったな」
「元々しおらしいっすけど!」
「どこがだ! つーかいたんなら声ぐらいかけろよ」
「いやあ……なんでここにおるんかと思って」
「なんでって……射場さんだよ。お前も誘われたんだろ?」
「そうなんすけど、用件は聞いてないんす」
「ふーん。どうでもいいがお前、なんでそっから動かねえんだ?」
「え……緊張してしもうて」
「緊張なんかするタマかよ!」
「私をなんじゃ思うとるんですか?!」
「だいたい、緊張するようなこと何もねえだろ……いいから行こうぜ、どうせ目的地一緒なんだからよ」
呆れたように言って歩き出す彼に、仕方なく小走りでついていく。兄は何を思ってこの人を誘ったのだろう。私が慕っていると知ってからは、三人にすることもなかったのに。いや、もしかしたら他にも呼んでいるのかもしれない。
「一角さん」
「あ?」
「他に誰かおるんすか?」
「と飲むっつってたし、いねえと思うぜ」
「あ・そお……」
ちらと襖の並びに目をやり、湿気でべたつく首元を押さえる。兄のことだ、特に他意はないのだろう。あの人は元々大人数で飲むのが好きでない。彼は大欠伸ののち、首を鳴らした。
「ワリィな、兄妹水入らずに邪魔しちまって」
「ええ、まさか。二人で飲む機会はなんぼでも作れるんで」
「だが貴重だぜ。隊も違うしな」
「一角さんとも違うじゃないですか」
意外だったのか、彼がちらとこちらを見る。
「お前……そう思うなら断んじゃねえよ」
「えっ断りましたっけ?」
「しかも忘れたのかよ!」
「い、いやあ、編集で忙しかったんじゃないすかね……」
全く記憶にないが、きっと編集作業に追われていたのだろう。それか、気まずかったか。
「ハァ……まあいいや。今度付き合えよ、弓親も会いたがってたぜ」
「弓親さんが?」
「あいつ、お前のこと気に入ってるみてえでよ」
「意外……別に美しゅうないのに」
首を傾げながら言った彼に、こちらも首を傾げる。弓親さんは一角さんと同じく十一番隊士で、何度か飲んだことがある。美しさ、自分が美しいと思うかどうかを全ての判断基準にしている人なので、他人にはそこまで興味がないのだと思っていた。最後に飲んだのはいつだったか……私たちと比べて酔っ払うのが早く、泣いたり怒ったりして面白かった覚えがある。
ふっと雨足が強まったのを感じ、遠くの空を見やる。美しさ。きれいとかかわいいとか、多くの女性が喜ぶであろう他者からの評価を私が得ることはあまりない。兄の存在が大きいのか、比較して言われることはあるが。
「弓親さんって……」
口に出してから、この人に言うことでもないなと思い、つい口を噤む。続きを待っているらしい彼の視線に、また私は、ぎくりとする。
「なんでもないです」
「なんだよ」
「弓親さんは関係のうて」
「はあ」
「え、言う流れすか?」
「は? 言いたきゃ言えよ」
「変な勘違いされんのが嫌なだけです」
「なんだ、勘違いって」
「なんか、なんじゃ、じゃけえ……変な」
「だから、変な勘違いってなんだって」
「何?! 喧嘩売ってんすか?!」
「はあ?! 喧嘩売ってんのはお前だろ!」
「売ってません」
「俺の方が売ってねえよ!」
顔が熱い。とりあえず、話題が逸れたようでよかった。墓穴に入らずんば。じゃなかった、墓の子を得てどうする。一旦落ち着かなければ、また阿呆みたいなことを口走りかねない。
どうやら私はこの人と話すと喧嘩腰になってしまうらしい。形のいい耳の裏を見上げる。それから、自分の背中がじっとりと汗ばんでいることに気づく。せっかく兄と、久方ぶりに一角さんも交えて酒を飲めるというのに。
口喧嘩が再開する前に、兄の私室に辿り着く。声をかけようとしたところで襖が開き、兄がぬっと顔を出した。
「おう、二人とも。よう来たな」
「遅うなってすまん」
「ええ、ええ。入り」
「邪魔するぜ」
「おう。雨止まんのう……傘あるんか?」
「まあた風邪の心配か!」
「体強おないじゃろうが。持ってきたんじゃろうな」
「持ってきた、持ってきた」
少し眉根を寄せて苦言を呈した兄に、ため息を吐く。たまたま雨の日に風邪を引いたことがあるだけで、そう頻繁に体調を崩しているわけではないし、兄は過保護すぎる。小言を受け流しながら部屋に入り、用意されていた座布団に腰を下ろす。
「お前、風邪とか引くんだな」
「引きませんよ」
「引かんわけないじゃろう」
「私は一角さんに言っとるんじゃ」
「わしも一角に言うとるわ」
「変わんねーなあ、あんたら……」
隣に座った彼が、半ば呆れたように呟く。兄のことは尊敬しているし、根本的に嫌いとか苦手とかではもちろんないのだが、いくつになっても幼子のように扱うところは嫌いだ。兄は向かいにあぐらをかき、頭が痛いという主張のためにこめかみを押さえた。
「誰に似たんか、そん頑固は」
「兄貴じゃ!」
「あ、射場さん。これつまみ」
「ん? なんじゃ、見たことない包みじゃな」
心底どうでもよかったのだろう、一角さんは手に持っていた包みを机に置いた。簡素な竹籠から出てきたのは揚げ物で、匂いに食欲が刺激される。
「天ぷらか」
「最近出来た店らしい」
「あー副隊長が言うとった」
「あいつ、流行りもんに弱いよな……記者だからか?」
「趣味じゃないすか、知らんけど」
「ほいじゃあ、今日の主役じゃ」
「おー」
今度は兄が、どんと音を立てて一升瓶を置く。貼られた紙を見るが、どうせこれを何本も飲むのだ、味などすぐにどうでもよくなるなと思い蓋に手をかけた。
どれだけ飲んだだろう。夜はすっかり更け、雨もいつの間にか止んだらしかった。全身が熱いのに、体の内側が冷たく、浮遊感がある。愉快だった。潰れはしないが、酔わないわけではない。
「おそいなあ」
「ん?」
「いっかくさん」
「ほうじゃのう。探しにいったらどうじゃ」
「厠行ったやつを! アハハ。てかなんで今日一角さん呼んだんじゃ、忘れとった」
厠に行くと言ってふらふら部屋を出ていった彼が、しばらく経っても戻ってこない。この話題の途中で帰ってきたりしたら面倒だなと質問してから気づくが、酔いの回っている今、そんな些事は構うまい。兄は一合瓶をぐびぐびと飲んだあと、口角を上げた。
「なんでじゃ思う」
「私が聞いとるんじゃけどお」
「わしがあいつと飲みたかったからじゃ」
「くそお!!」
「いうのは冗談で」
「冗談言うようになったんか。成長したのう」
「アホ! わしは昔から冗談も言うとるわ」
「顔がマジなんじゃ。ええから教えんさい」
「いや・半分本音じゃ。と一角とで飲みたくてのう」
「じゃけえ、残りの半分は」
「お前があんまし避けるけえ、あいつ不審がっとるぞ」
「不審?」
「嫌われとるんじゃ言うて」
「帰ろかな」
「待て待て」
立ち上がりかけた私の肩を兄が引っ掴む。酔っていなかったら自害していたかもしれない。だがまあ気づかれたわけでもないしどうでもいいかと思い、座り直す。全員酔っていることだし。何本目かも分からない一升瓶を持ち上げ、一合瓶につぎ足す。
「お前どがいな避け方したんじゃ。あいつがわしに言うんは相当じゃぞ」
「避けたいうてもなあ……覚えとらん。顔に出とるんかもしれん」
「阿呆、お前が気まずい言うけえわしも誘っとらんかったんじゃろ。顔に出してどうする」
「無意識なんじゃ。どうしようもない」
不審に思われるほど避けた記憶はない。彼の言う飲みを断ったというのがそれなのだろうか。他には瀞霊廷通信の原稿をもらう時くらいしか話していないし、不自然な言動はなかったはずだ。
一合瓶を置き、机に肘をつく。
「嫌いなわけないのになあ」
「……男っちゅうんは、ちいと優しゅうされたばっかしで勘違いするもんなんじゃ。逆も然り。あいつはまだ若いけえ尚更じゃろう」
「私だってそうじゃ」
「お前は……男のこととなると途端に臆病になるんは、なんなんじゃ」
「なんじゃその言い草は! 男が全員臆病ちゅうことんなるで」
「女に弱いちゅうことじゃ、特に戦のことばっか考えとるようなやつらぁな」
「んにゃ、私もそうじゃな」
「もうそれでええわい」
「兄貴は浮いた話ないんか。ないかあ」
「おう、喧嘩なら買うで」
「アハハ」
笑って流すと、兄は少し渋い顔をした。
「まあ・わしもいつ死ぬとも知れん身じゃ。今更身を固めようとも思わんが……おふくろに心配かけるんはのう」
「私も姉が欲しいしなあ」
「ほうか……お前があいつとどがいかなったら、あれがわしの義弟になるんか」
「どうもなりゃせんよ。根本が兄貴と似とるけえ」
「似とるけえなんじゃ」
「そがい目で見んじゃろ」
「ちぃとも気にしとらん相手に、嫌われとるか気にするやつじゃない。ちゅうか……なんぼなんでも遅いな。潰れとるんか?」
「ええ? 一角さんが?」
しばしサングラスの奥の目を見る。どうやら探しにいけということらしいので、ため息を吐いて立ち上がった。彼のことだから潰れているわけではないだろうし、放っておいても大丈夫だとは思うが。
廊下に出てすぐ、彼の霊圧を把握できた。そう離れていないが、小さく揺れているので酔ってはいるのだろう。右に曲がり、まっすぐ歩き出す。
湿ったにおい。土や草が水分を吸ったあとの、生命のにおい。
彼は、少しも気にしていない相手に嫌われているかを、いちいち気にするような人ではない。分かっている。しかも、ほとんど態度に出している自覚もないほどのそれをだ。しかし、先輩の妹として思っているだけだろうとしか──。
「?」
はっと声の方を向くと、彼が立っていた。部屋に戻るところだったのだろう。
「どしたァ。厠か?」
「いや、探しに」
「探しに……?」
「全然帰ってこんけえ……心配で」
「まさか……俺を探しにきたってのか? は、ガキじゃあるまいし」
「私もええかな思ったんすけど。まあ酔い醒ましも兼ねて」
「ふーん。そんな経ってたか……悪いな」
まさか自分を探しにくるとは思わなかったらしく、彼はバツの悪そうな顔をした。
「酔ってんすか」
「ぼちぼちな」
この人が、本当に、私に嫌われているかどうかと気を揉んでいたのだろうか?
彼とのやり取りはあまりに自然で、分からなくなる。兄がそんな嘘を吐くとも思えないし、実際言ってはいたのだろうが。部屋に向かって歩き出した彼の背を追う。
「あの」
「ん?」
普段より穏やかな声に胸が苦しくなる。律儀に立ち止まってくれた彼の、目元の、朱色。
「兄貴に……」
私が死神になってすぐお世話になったのは、兄と、当時から上官だった檜佐木現副隊長だった。それから必死こいて席官に上り詰め、その地位に慣れた頃、この人と出会った。
「私が、一角さんを嫌っとるんじゃないかって、言っとったって聞きました」
「……」
「ええと……聞いてしもうてすんません。でも、ありえんし……なんちゅうか……嬉しかったです」
「……嬉しい?」
「気にしてくれて」
「なんだそりゃ……」
付き合いは浅い。兄を通さないと飲みにも誘えない。私の斬魄刀は鬼道系で、打ち合いも得意ではない。それでも、向こうから飲みに誘ってくれるし(弓親さんも一緒だっただろうし私はその記憶を喪失したが)、なんの得もないのに稽古をつけてくれて、その上私の感情を多少なりとも気にかけている。
そんな人に想いを伝えるのがどれだけ馬鹿なことか、分かりきっていた。部屋に戻るため、足を一歩踏み出す。
「そんだけです。とにかく、嫌うなんて今後もないんで」
「……」
「戻りましょう」
「……おめーよ」
「は、はい?」
彼は少しの苛立ちを滲ませながら、私を呼び止めた。つま先を滑らせ、彼に向き直る。彼の視線はまっすぐ私に向かっている。なんだか分からないがこれ最悪殺されるんでは? 殺意すら感じる瞳に、体の後ろで組んだ指先に力が入る。
「この際だから言うが……そうやって誤魔化すから、信用されてねえんだって思うんだろ」
「……誤魔化す」
「一つ訂正しとく。俺が射場さんに言ったのは、好き嫌いじゃなく、信用されてねえってことだ」
信用。嫌いより余程厄介な単語に、心臓が嫌な音を立てる。
「嫌いじゃねえのは分かったよ。つーかそんぐらい分かってるわ。じゃてめえが俺を避けてたのはなんだ? なんかしら理由があって、顔合わせづれえってこったろ。俺はその内容が知りてえんだ。弁解が聞きてえわけじゃねえ」
この人、無自覚でこんなことを言っているのか? いや、分かっていて言う人じゃないな。「えーと……」どうにか目を逸らし、背を丸める。酔っているせいか。酒のせいにしよう。
「あのお」
「んだよ」
「黙っとったのに聞き出すんじゃけえ、この話のせいで嫌な思いしても私の責任じゃないんすけど」
「隠されてる方がムカつくっつってんだよ」
「いやあ……一角さんのこと好きなんで……」
「あ?」
「好きって自覚したらなんか気まずくて……」
「な……はあ?」
「いやだいたい予測できたでしょうが!」
「できるかボケ!!」
「うそお……アホなん……」
「アホだあ?!」
「深夜に他隊で出す声量じゃないっす……」
ここまで疎いといっそ恐ろしい。
「とりあえず部屋戻らんと……兄貴心配しとるし」
「どんな顔して射場さんに会えばいいんだよ……」
「知らん」
「テメエ……」
怒りを露わにする彼に背を向け、歩き出す。あーあ、言ってしまった。まあどうせ避けている件に関してはいつかは言及されていただろうし、別に構わないが。席官同士、避け続けるわけにもいかない。
互いに一言も発さないまま部屋に辿り着き、襖を開ける。兄は寝転がっていつかの瀞霊廷通信を読んでいた。私たちに気づくとこちらに顔を向け、ゆっくりと体を起こす。
「潰れとらんかったか」
「……潰れるかよ」
「ほうか。まあ時間も時間じゃ、そろそろお開きかのう」
兄の言葉を聞きながら、一度元いた場所に腰を下ろす。酒が足りない。半分ほど残っていた一合瓶の中身を飲み干し、一升瓶に目をやる。私たちがいない間に飲んでしまったらしい。
「もうないんか、酒」
「持って帰るか?」
「なんじゃ、ほんまに終わるんか」
「眠うて敵わん。ほれ、好きなだけ持っていき」
「ありがとお」
「一角は?」
「いや、いらねっス」
戸棚に入っていた中から四本取り出し、両腕に抱える。立ち上がると、瓶同士がぶつかって重い音が鳴った。
「んじゃ帰るわ。片付けんでええか?」
「ええ、ええ。あんまし騒がんで帰れよ」
「騒いだんは一角さん」
「誰のせいだ」
「なんじゃ、仲直りしたんか」
「喧嘩してねえよ!」
「そうそう。じゃ兄貴また」
「おう」
兄に見送られ、二人で部屋を後にする。喧嘩はしていないが、仲直りどころか、これまでより今の方が気まずいのは確かだ。
外を見ながら、入口で預けた傘を受け取って帰らないとなあとぼんやり考えていると、軒から雨粒が垂れるのが分かった。明日も降るのだろうか。じっとりとした空気のせいで、いつまで経っても汗が引かない。
そういえば、九番隊舎を出る時檜佐木さんに傘がないか聞かれたが、大丈夫だったのだろうか。対応するのが面倒で、ないとだけ答えて出てきてしまったけれど。今に始まったことではないが、私は少し薄情すぎる気がする。情に篤く漢気溢れるよくできた兄がいるのに、何故だろう。甘やかされすぎただろうか。
「それ、一人で全部飲むのか」
「え? はあ」
不意にかけられた言葉に驚いて振り向くと、当然目が合って、そのことにもびっくりする。沈黙が気まずかったのだろうか。私を甘やかさないひと。
「一緒に飲みますか?」
「……いいぜ、付き合ってやっても」
「なんすかその間。嫌ならいいすよ」
「嫌なら言わねえ」
どうかな、と思うが口には出さず、瓶を抱え直す。このはっきりした人にだって、嫌ではないがよくもない、みたいな時はあるはずだ。まあそれを言ったところで、男に二言はないとでも言うのだろうが。
「お前は、どうしてえんだ」
「はい?」
「その……俺を好きとか言っただろ」
「言いましたけど……どうもなんもないですよ」
「はあ?」
「元々言う気もなかったし、今まで通りで」
「……変わってんな、お前……」
「すんません、他人事みたいな言い方して……忘れたらええんじゃないですか?」
「忘れるわけねえだろ。はっきりさせねえと気持ちわりぃんだよ」
「はっきり」
「正直よお……」
誠実な人だなあと思う。門に着いてしまい、黙った彼を他所に門番から傘を受け取る。
一緒に飲むにしても十一番隊舎では色々と面倒だろうと思い、九番隊舎に向かう。ふつう三席以下の隊士に個室は与えられないが、私が席官となった当初は近しい立場に女がいなかったので、ありがたく一人で使わせてもらっている。歩いているとどこからか声が聞こえ、他にも酒盛りをしている連中がいるのだと分かった。
「死神になってから……十一番隊に配属されてからは、その手の話題は避けてきたんだ。んな面倒なもん、相手したくねえからな」
「はあ」
「まあ別に、元々そう頻繁にあったわけじゃねえけどよ。とにかく、最近じゃ興味もなかった」
「はい」
「だから、正直……戸惑ってる」
「……」
確かに、浮いた話は一切聞いたことがない。ファンというか、彼に好意のある隊士は見たことがあるし、元々人に嫌われるタイプでもないだろうが、何せ所属が十一番隊だ。避けなくとも恋愛沙汰とは縁がないだろう。
間を空け、彼は続けた。
「お前を女として見たこたぁねえが……一緒にいて面倒だとか、やりづれえと思ったこともねえ。ただそりゃ居心地いいってだけで、たぶん、お前の言う好きってのとは別だろ」
「どうでしょうねえ……」
「……だいたい、お前とそういう……男女の仲になったとして、何が変わるってんだよ」
「ええ……肉体関係とか?」
「は、おま、……男みてえなこと言うな!」
「男も女もないじゃろ……」
別に付き合うことになったからといって肉体関係を持つ必要もない。だが性交渉や肩書等を抜かしてしまうと何が変わるのか、私にもよく分からなかった。
「なんかねえのか、どうしてえとか」
「そうじゃなあ……まだ一角さんのことよう知らんし、知りたいなあ思いますよ。一緒に甘味屋とか行きたいし」
「か……いや、そんぐらい今でも行けんだろ」
「え……なんで?」
「なんでって……なんかおかしいかよ」
「だって、甘味好きでもないのに、直属の後輩じゃない私が誘ったからって……」
「……」
「……」
「別におかしくねえだろ」
「え、言い訳諦めたんすか」
「言い訳ってなんだよ!」
「ていうかそもそも、付き合ってなんか変わるとかより前に、私を好きになるかどうかやないすかね」
「そりゃ……まあ……好き……かもしれねえし」
「かもお?」
「んだよ!!」
「……もしかして照れとるんすか?」
「うるせえな! お前が女に見えて驚いてんだよこっちは!」
「初めから女じゃけど?!」
「そ、そうじゃなくてよ……」
そうこうしているうちに九番隊舎に着き、口を噤む。つまり、彼にとって私は「射場さんの妹」でしかなかったのだろう。これから意識してくれるのだろうか。いや、既に意識し始めているからあの反応なのかもしれない。私もたいがい意地が悪い。
自室の近くで、不意に霊圧を感じ、立ち止まる。これは檜佐木副隊長だ。案の定曲がり角の先から現れた副隊長は、私たちを見てわずかに眉を上げた。
「あれ、射場……と、斑目か」
「おう」
「お疲れ様です」
こんな時間まで編集作業をしていたのだろうか。確か明日は休みだったなと思い出す。副隊長は私の腕の中に目をやり、首を傾げた。
「なんだ、そんなに酒抱えて。二人で飲むのか」
「兄貴と飲んでたんすけど、眠い言うんで」
「そうか。ほどほどにしとけよ」
「はい。おやすみなさい」
「おー」
ひらひらと手を振って部屋に戻っていく副隊長の背を見送る。何を思っているかは知らないが、こういう時にからかうことのない人でよかった。男気には欠けるがさっぱりしていて付き合いやすい人だ。
そういえば、こんなことになるとは思っていなかったから部屋を片付けていない。一人で使うには充分すぎる広さなので、まあ散らかっているようには見えないだろうが、素面ではありえない行動をとってしまったことを反省する。緊張。醒めてきたせいで。
「部屋汚いかも」
「どうでもいい」
「そうすか」
「んなことよりよぉ……」
彼は何か言いかけるが、結局黙ってしまった。促す間もなく部屋に着き、襖を開ける。
「んなことより、なんすか」
酒瓶を机に置き、明かりをつける。
「いや、いい」
顔を上げると彼の目線は壁の掛け軸に向いていた。
「あっ」
旭日昇天。下手なりに自分で書いたものを、何年も飾っている。部屋に溶け込んでしまって、存在を忘れていた。
「いいじゃねえか。お前が書いたのか?」
「そ・そお……なんすけど」
「なんだよ」
太陽の昇るように、まっすぐと。朱色から目を逸らし、座布団を敷く。
「何を恥ずかしがってんだ?」
「なんでも……ええから座ってください」
何も分からなかったらしい。安堵のため息を吐き、散らばった服をまとめて隅に寄せる。
大人しく座った彼はまだ部屋を眺めている。彼が最後にここを訪れたのはいつだっただろう。弓親さんと一緒に乱菊さんに連れてこられた時だろうか。途中で檜佐木副隊長も引っ張ってこられて、なんだか大変だった覚えがある。あの時はまだ掛け軸もなかったし、何よりばたばたしていて部屋の内装どころではなかっただろう。
棚から徳利や一合瓶を取り出し、机に並べる。雨も止み、静寂に包まれた室内で好いた相手と二人きり。先ほどまで何を話していたのかすっかり分からなくなってしまって、ひたすら気まずい。
一合瓶に酒を注ぎ、徳利と共に彼の前に置く。
「ありがとよ」
「いえ、つまみもなんも用意しとらんで、すみません」
「急だったしな」
「あんましここに人が来ることなくて……」
「そうなのか? てっきり、松本とかとよく飲んでるもんだと」
「飲むにしても、わざわざここまで来ないすよ。私が十番隊舎行くか、居酒屋か」
「そうか」
「ん。乾杯」
「おう」
そもそも乱菊さんとは特別仲がいいわけでない。女性の席官が少ないためよくしてもらっているが、他の女性隊士と同じ扱いだ。私は相当飲まない限り酔ってもそこまで態度が変わらないし、一緒に飲んでもあまり面白くもないだろう。
「まだ気まずいかよ」
少し渋い顔をした一角さんと目が合う。咄嗟に目を逸らすが、それが気まずさに拍車をかけた。ぬるい酒を飲み込む。
「二人じゃし」
「あー、まァ、今までなかったか」
稽古をつけてもらっていた頃、終わった後にご飯に行くくらいのことはあった。でもそんな時にする会話など戦闘技術に関することしかない。
「にしても、よう分かりますね。そんな顔出てますか?」
「別に。ただの勘だ」
「野生の……」
「誰が野生だ! オメーの考えてることぐれえ俺じゃなくても分かるわ」
「顔出とるってことやないですか!」
「でっかく書いてあんだよ、気まずいです・ってな!」
「そ、そんなあ……」
「だいたいなんでテメェが気まずいんだよ! 俺の方が気まずいっての」
「じゃけえ言うたじゃないすか、嫌な思いしても知りせんよて」
「んなこと言ったって、そんな内容だとは思わねえだろ」
「じゃあ今までも顔に出とらんかったちゅうことで」
「大事なことを顔に出しやがれ!」
「無茶言わんでください!」
「……」
「……」
「飲むか」
「そうすね」
なんだか、大声を出したらすっきりしてしまった。瓶の中身を一気に飲み干し、またそこに注ぎ足す。
私は、自分で思っている以上に隠し事が下手らしい。こんなことでどうするのだ。振られても、受け入れられても、保留されても、だから今後、一角さんと外で会う度に気まずいという顔をしてしまう。あの場でいくら怒られても隠し通すべきだったかもしれない。まあ忘れてくれないらしいのでもうどうしようもないが。
コポコポと音を立てて一合瓶に流れていく酒。何回か一気飲みしたらさすがに酔いが回り始めた。内臓の熱が心地良い。
まさか想っていた人とこうして二人で飲み交わすことになるとは。生きているとこういうこともあるんだなあ。それも私の兄が射場鉄左衛門であったからなのだろうが。
「ずっと、姉が欲しくて」
こぼれた言葉に、向かいの彼が視線を上げたのが分かる。
「兄貴は男らしい。男らしすぎて、たまに嫌んなる……や、尊敬しとるけど」
「……けど、嫌なのか」
「嫉妬っす」
「……」
「分かっとるんじゃ、兄貴みたいんなる必要はない・って」
彼はじっと私を見つめている。
姉が欲しかった。妹でも、弟でもなく。それを思うたび、自分がいかにわがままかを理解してしまう。
「一角さんにも、嫉妬しとるんかなあ……」
酒を持っていない方の腕に頬をつけ、目を伏せる。余計なことを口走った自覚があった。ただの独り言、慰められたいわけではないし、もう納得した問題だ。
うだうだ考えていると、後頭部に手が触れた。はっと目を開けるが、上げようとした頭を押さえつけられ、脳内が混乱する。
「い、痛いっす」
「ん、ああ……」
抗議すると彼は手の力を緩めてくれた。それでも手が離れることはない。ぐしゃぐしゃと髪を混ぜられ、さらにわけが分からなくなる。
「よく分かんねえけどよォ」
「え」
「要するに、強くなりてえってことだろ?」
「ほうか……」
「お前には射場さんも檜佐木も、俺や弓親だっているだろ。うじうじ一人で悩んでんじゃねえよ。稽古ぐらいいつでもつけてやる」
「……はい」
「俺じゃ不満か」
「一角さんがいい」
「女だからって手加減しねえぞ」
「知っとります」
「は、だよな」
悩みの本質は、もはや解決しようのないことだ。それを理解しているのかいないのか、とにかくできる範囲でどうにかしようとしてくれたこと。ようやく手が離れたので、顔を上げて酒を呷る。
この人、頭撫でたりするんだ。
口の端から酒がこぼれ、我に返る。時間をかけて口の中身を飲み込んで、手の甲で口を拭った。
「なんだ、もう酔ったのか」
「え?!」
「な、なんだよ」
「よ、酔ってますよ。なんすか」
「いや、顔あけえ……お前まさか、」
「照れとらん!!」
「……自白してるようなもんだぜ、それ」
「だって、あたま……」
「あ?」
「きゅ、急に頭撫でられたんすよ!」
「はあ?」
心底呆れているという顔をされては敵わない。好きな人に撫でられて照れることの何がおかしいと言うのか。まあ、こんな反応をされるとは思っていなかったのだろうが。
「」
「はいっ」
「……お前、マジで俺のこと好きなんだな」
「はあ?!」
「いや……言われてみりゃ、気づく機会はいくらでもあったなと思ってよ」
「そ、そうなんすか?」
一角さんは、私から目を逸らし、机に肘をついた。飲めば割と早い段階で顔が赤くなる人だ、照れているかどうかの判別がつきにくい。
きれいな横顔。細い吊り目と、通った鼻筋、うすいくちびる。機嫌が悪いように見えやすい顔のつくりだな、と思う。
彼は視線だけこちらに寄越し、それからため息を吐いて徳利を持ち上げた。
「不器用なやつ」
「え……一角さんには言われとうないすけど」
「うるせえ」
自覚があるらしい。
「ったく……今でよかったぜ。まあ、だから俺も気づかなかったんだろうが……」
「え、なんの話すか?」
「言ったろ、面倒だって。あの頃気づいちまってたら、邪険にしてたかもしれねえ。だから今でよかった」
「……今も、面倒ではあるんじゃないんすか」
「知っちまったもんはしょうがねえだろ」
あの頃というのは、稽古をつけてもらっていた頃のことだろうか。確かに、その時に気づかれなくて助かった。なんだか知らないが、今は面倒という気持ちが落ち着いているようだ。私も、あの頃よりは多少大人になったことだし。
「で、どうする」
彼は頬杖をつくのをやめ、こちらに向き直った。普段通り鋭い視線に心臓が跳ねる。
「お前さっき、今まで通りでいいって言ったな。その気がねえなら、忘れてやってもいいぜ」
「……その気」
「俺は、……他のやつは知らねえが、お前と恋仲になるんなら……命を預けてえし、預かってやりてえ」
「……」
「俺もお前も、いつ死ぬかも分かんねえだろ。関係を持っちまったら、互いが死ぬ時傷つくハメになる。お前はその覚悟ができるやつだ」
「はい」
「分かった上で俺を選んでるんだな」
「そうです。……私はもっと強うなる。そんであなたと並んで、先に進みたい」
兄も言っていたように、死の付き纏う仕事だ。特に、私たち──副隊長よりも下の席官は、常に命のやり取りをしているという危機感を持たなくてはならない。立場を守ることが大事なんじゃない。瀞霊廷と流魂街、この尸魂界を守る使命だ。こんなに穏やかな日も、明日には終わるかもしれない、と。分かっている。分かっているから、同じ死神で、戦闘専門の十一番隊に所属している、危なっかしい戦い方をするこの人を想った。
「いつ死ぬか分からんけえ……一角さんといたいんです」
あの、瞳。殺すのも厭わないという気迫で私に向かってきた、熱い眼。稽古だっていうのに。馬鹿みたいに真っ直ぐな、剣裁きすらも。
「……そうかよ」
ほんとうは、この人に殺されてもいいと思っていた。死にたかったわけじゃない。死ぬのならせめてこの人の手でと思っただけだ。それから何年かかけて、この感情を恋とした。そうしたら不思議と、隣を歩きたくなった。殺されたいのではなく、共に生きたいと思うように、なってしまった。
酔いで頭がぐるぐるする。酔っている時に大事な話をしないでほしい。でも、酔っていてよかった。正気で聞かずに済むから。ため息のような、彼から漏れる呆れの音。
「今まで通りでいいってのは、言い訳だろ」
「いやあ……」
「初めからはっきり言やぁいいんだよ」
「そがぁ簡単じゃないんじゃ」
「簡単だっつの」
「じゃあ返事くださいよ」
「じゃあってなんだよ」
「簡単に言葉にできるんじゃろ」
「いちいち言わんでも分かるだろ」
「分からん」
「嘘つくな」
「だってなんも言うてくれんけえ」
「だから……まあ、いいって」
「なにがあ」
「お前が、いんのがよ」
「なんじゃそら」
要領を得ない答えにむくれていると、向かいから手が伸びてきて、そのまま頬をつねられた。痛い。
「ええ?」
「顔あっちいな」
「なんすかあ」
「べつに」
机の幅がもっとあればよかったのに。悪人面して、私を見る彼の目がうっとうしい。
「いはぁい」
「間抜け面」
近いって。いたいって。うるさいって。はやすぎる・って。
いてもたってもいられなくなった私は、身を乗り出す。頬から彼の手が離れ、裾が空の一合瓶にぶつかって倒れる、音、両手で挟んだ頬のあついこと、
「まぬけづら」
「うっせえ」
唇に飲み込まれる、私の息。
ずっと触れたかった。あなたを独り占めしたかった。ぜんぶ知りたかったし、知ってほしかった。でもそれら全て、叶わなくても構わない。唇を合わせるだけで浮かれきってしまう私には、必要のない願いだ。
「いっかくさん」
初めての接触を終え、私は彼の首に抱き着いた。
「もおなんもせんけえ、隣行ってええ」
うなじにあてがわれた手のひらが案の定熱を持っていることに、安堵を覚える。
「……そりゃ俺の台詞だろ」
「ほかに言うことあるんとちがう」
「あー、だから、朝な」
「なんでえ?」
「酔ってっから」
「取り消さんでね」
「アホ、んなことするかよ」
わがままでごめん。この程度なら記憶も残るので酒のせいにはできないが、彼自身への言い訳と同様、酔っているせいだと思ってくれるといい。いい加減肩が疲れたので体を離し、そのまま立ち上がって向かいに回った。
腕が当たるくらい近くに座ると、彼の手が頭に乗せられた。また先ほどのように撫でられるので、黙ってそれを受け入れる。
「すんません」
「何が」
「いろいろ。でも、ありがとうございます」
「しおらしいな」
「元からしおらしーんすよ」
「は、どこがだよ」
「男のことんなると臆病って、兄貴が」
「かわいいとこあんじゃねえか」
「はああっ、ずい、こと、言う」
「やめろ、こっちまで恥ずかしくなるわ」
手の力が強くなり、抱えた膝に額をぶつける。彼は、何度目かも分からないため息を吐いた。
「……お前が、どんだけ抱えてきたか知らねえけどよ……」
離されない手のひらに、顔を見られたくないのだろうと思う。不器用なひとだ。私よりよほど。
「付き合うのは構わねえが、今すぐ好きっつっても信じられねえだろ。釣り合うぐらいになったら、俺も言ってやるよ」
「……分かりましたけど、じゃあ朝言うってのは」
「そりゃ、だから、付き合うってことをだよ」
「真面目か」
「うるせえな。つーかテメエからもちゃんとは聞いてねえぞ」
「えー言いましたよ」
「告白はされてねえ」
「告白してほしいんすか……」
「引いてんじゃねえよ!」
「びっくりしたんすよ」
彼の手が肩に落ち着いたので、少し頭を上げ、彼を窺う。照れてくれないだろうか。何も言わなくていいから、少しは照れてほしい。目が合って、脈が上がったのが分かる。
「すき」
「……」
「……です」
「……あ、ああ」
「ああって!! ひとん一大決心を」
「う、うるせえな! 急に真面目な顔すんじゃねえ!」
「ひどお!」
「ったく心臓にワリィ……」
照れてくれたらしい。お互い様だが。真っ赤な耳朶を見て笑みが漏れる。
一升瓶を掴み、直接酒を呷る。口を離したところで、肩に回された腕が上がり、手の甲で私の濡れた唇を拭った。酔ってくるとどうも口元が緩くていけない。
もう片方の手が、唐突に目の前に現れる。ぼーっとしていたことに気づく。その手が頬に触れ、肩に落ち着いていた腕は外される。目が合う。ああ、もう、駄目だ。そんな目で見ないでくれ。これまで一度もそんな素振りを見せなかったくせに。
目を閉じ、彼の唇を受け入れる。息遣いがやけにはっきり耳に響く。唇の隙間から、酒を含んだ呼気が漏れている。それを捕まえるように、塞がれる。薄くぬるいが存外柔らかい、男の唇。唇と唇が離れるたび鳴るいやな音。緊張と快楽に押され、私はもはや泣きそうだった。なんでこんなことになってるんだっけ。私が口を滑らせたからか……。
軽い口付けを何度か与え、彼は離れていった。徐々に肩の力を抜いていく。緊張した。彼は何を考えているのか、何も言わずに私を抱き寄せた。じっとりと湿った首筋に鼻をつける。汗のにおい。
「いっかくさん」
「ん」
「帰んないで」
「お前な……」
「手出してもええよ」
「出さねえよボケ」
「帰るんすかあ」
「いや、別にいるのはいいけどよ……やっぱお前、今まで猫かぶってたんだな」
「ええ?」
「んな駄々こねてんの、初めて見た」
「まあ、わがまま言える立場じゃないけえ」
「飲みの場でもか?」
「それは……私のせいで兄貴がなんか言われたら嫌じゃろ」
「気にしすぎだ」
「気にもするわ」
「まなんでもいいが、他のやつには見せんなよ」
「うわあ独占欲」
「いいだろ別に」
「うん」
うんって……とまた彼はため息を吐いた。私は彼に呆れられる才能があるのかもしれない。
いつの間にか随分飲んでしまっていたようで、彼の腕の中にいるとすぐにでも眠れそうだった。気が緩んだのかもしれない。
「寝るか?」
「んん」
「布団は」
「……いらん」
「ん」
返事とほとんど同時に体を横たえられ、閉じていた瞼をうっすら開けて彼を見る。今起きたことは全て夢なんじゃないか。本当は一人で飲んでいたんじゃないか。
「なんだよ」
「……現実なんかなって」
「なんだそりゃ」
「私が起きるまでいてください」
「急ぎの討伐がなけりゃな」
「ん、仕事、入んなかったら」
「ああ」
これが夢でないなら、次に目が覚めた時、私はこの人の恋人になる。ぶん殴ってでも起こさなくては。
目を閉じる。今日言ってくれたことを思い出す。私に一角さんの命を預かるなんて大層なことができるかは分からないが、私にはできると思ってくれているのだろう。ならばその期待に応えるだけだ。
意識を手放す直前、口付けが落とされた気がする。せめて今日だけは傍にいて、できることならその先も。おやすみ。やわらかい声を聞いて、今度こそ私は眠りに落ちた。
▽
現世で言う梅雨の時期は、雨続きで気が滅入る。そうすると体調まで悪いような気がしてくるから不思議だ。ぱらぱらとページをめくり、表紙と棚番号の一致を確認してから棚に戻す。
──ここんとこ働き詰めだったろ。雑誌の方はいいから、ちょっと休んだらどうだ。
今朝、編集室に着いた私を見て、副隊長はそう告げた。確かに前日までにほとんどの作業は終わっていたし、校正は私でなくともできる。二週間以上稽古、討伐、編集で睡眠不足の日々が続いていたので、顔色も悪かっただろう。ありがたく暇をいただき、少し眠って気晴らしに書庫整理に来たのだが、湿気がひどく、心地よいとは言い難い。部屋にいても同じようなものだが。
「あれ……じゃないか」
ひたすら手に取って確認、棚に戻すという作業をこなしていると、明るい声が降ってきた。顔を上げ、数歩先の通路にいる弓親さんを見つける。
「弓親さん」
「やあ。書庫整理?」
「はい。弓親さんも?」
彼は抱いていた数冊をすぐ傍の棚にしまい、また別の本を手に取った。
「十一番隊でこんなことできるの、僕ぐらいだからね」
「九番隊が主に担当してますし、そう無理せんでも……」
「まあ、そうなんだけど。暇だし、雨で参ってるし、気晴らしさ」
「弓親さんでも、雨で参ったりするんすね」
「髪のセットがうまくいかないだろ。じめじめして気持ち悪いし」
「確かに」
弓親さんの言うことが、先ほどまで私が考えていたこととほとんど同じで笑ってしまう。気分が落ち込んでいる時に遭遇してもこう気楽に話せるので、弓親さんはいい友人だった。十一番隊、というか弓親さんは変わった理由で序列が決まっているので、実質私よりも上の立場なのだろうし、先輩であるから友人と呼ぶべきではないのだろうけれど。
「ところで、君あんまり寝てないだろ」
「はい?」
顔を上げると、特に心配そうでもない弓親さんと目が合う。私の反応に、彼は肩を竦めた。
「顔色が悪いよ。休みをもらったのに、じっとしていられなくてここに来たってとこかな」
「あはは。心配してくれるんすか」
「まあね。美しくない状態の君と、出かける気にはならないからさ」
「ああ……お昼時ですね」
「そのつもりで声をかけたのは事実だけど、寝た方がいいよ。隊舎まで送ってあげようか?」
「まさか。まあしばらくしたら寝ますよ」
「……君はそういう子だったね」
「頑固?」
「お兄さんに似たのかな……いいよ、この棚が終わったらご飯行こうか」
「はい」
大体、寝た方が云々は半分冗談だったのだろう。本気で心配していたら、顔を見た瞬間に「寝なよ!」と叫ぶような人だ。私は寝不足でも人前でいきなり倒れることはないし、そこまで自分の体調がまずければそもそも長時間外に出たりしない。そのあたりの信用はあるらしい。
「君と話すの、久しぶりな気がするな」
手早く本を確認しながら、弓親さんは言った。私も彼の方を手伝うため、隣に並ぶ。
「そうですね。私も忙しゅうて……」
「最近よくうちに来てただろ? 稽古つけてもらってるんだってね」
「はい、まあ。終わった後にでも飲みにいけりゃよかったんじゃけど……生憎、編集作業が」
「面倒な隊に入ったもんだよね」
「楽しいですよ。昔からの先輩が傍におるんはありがたいですし……十一番隊の方がよっぽど大変そうじゃ」
「僕も、楽しいからね。馬鹿ばっかりだけどさ」
「なんちゅうか、弓親さんも好きですねえ」
「そうさ、君と同じでね」
「ええ、ラ、ライバル宣言?」
「言っとくけど、僕は流魂街にいた頃から一緒なんだ。ライバルにすらならないね」
「そ……そがな言い方せんでも!」
「ふふ。君って本当、分かりやすいな」
「……よう言われます」
「君らは似たもの同士だよ。不器用で、変にまっすぐでさ」
「似とらんけどなあ」
「ていうか、やっぱり付き合ってるんだね」
「は……」
「うまくいってるみたいでよかったよ。よし、大体終わったし行こう」
ぽんぽんと言葉を返していたら話があらぬ方向に転がってしまった。何を言えばいいか分からず唖然とする私をよそに、弓親さんは軽く背表紙を押し、笑みを見せ、出口に向かって歩き出す。
相談などをしたことはないが、弓親さんには以前から分かりやすいと言われてきたので、気づかれているだろうとは思っていた。深く詮索してくるタイプでもなく、そもそも他人にあまり興味がない人に見えたので私も気にしていなかったが、何故か付き合っていることまでバレてしまったらしい。言い方から察するに私というより彼の態度で勘づいていたのだろう。そうであってほしい。
お昼時ということもあり、食事処は大変賑わっていた。見知った顔に会釈し、たまたま空いた席に座る。
「混んでますね」
「そうだね」
注文を済ませ、弓親さん越しに外を眺める。頬杖をつくと弓親さんの視線が私に向くのが分かり、思わずため息を吐いた。
「なに?」
「なんでバレるんかなあ・って」
「君らが分かりやすいからだよ」
「心許しとるっちゅうことじゃ」
「光栄だな」
「さっきも何も言っちょらんのに、何がやっぱりやったん」
「そうだな……ただ片思いしてるだけなら、話題に出た時点で君は多少なりとも悲観的な顔をする。で、うまくいってなかったらもっと悲しい顔するか、動揺するんじゃないかな」
「あー……専門家みたい」
感心した私に少し得意げな顔を見せ、弓親さんはお茶を啜った。
「ちなみに一角は、君のことを話さなくなったよ。前は話題に出ることも多かったし、僕から振ったら心配してる言い方したけどね」
「そもそも私の何を話すっちゅうんですか」
「この前までは怒ってたな。避けるなって」
「そ、それは……自覚したら気まずくて」
「そんなところだろうと思ったよ。だから不器用だって言ってるのさ。もちろん、気になってるのにそうじゃないふりした一角もね」
「そりゃ不器用ちゅうか、タイミングなかったんじゃないすか」
「避けられてるって思うってことは、遭遇はしてるんだろ?」
「まあ……別に避けとるつもりもなかったですし」
「じゃあ、その時に探りでも入れればいい」
「そうですね……」
「そしたら君の態度でなんとなく勘づくんじゃないの?」
「うーん」
先日こちらがはっきり言葉にするまでまるで分かっていなかったので、それはどうだか分からないが。
「君の分かりやすさは置いておくとしても、一角は敏い方だと思うし」
「バレずに済んでてよかったっす」
「僕は随分前から気づいてたけどね」
「でしょうね……当人じゃ分からんこともあるんすよ、きっと」
「そうかもしれない」
やはり随分前から気づかれていたらしい。面白半分で本人に伝えるような人でなくて助かった。
「そういえば、弓親さんが私に会いたがっとるって」
「え、一角が?」
「はい」
「はは! そう。まあ、君面白いからね」
「な……何がおもろいんじゃ」
「いや、別に。でもそれ、前に断られたのを本人が根に持ってるんだろ。そりゃ僕も残念だったけどさ」
私は面白くない。笑いながら話す弓親さんにむっとしながら、私もお茶を飲む。
その後、食事を済ませ、私は自室に戻った。雨足は少し弱まったものの、未だしとしとと降り続いている。弓親さんは今日一日書庫にいるらしく、また今度と行って去っていった。三人で飲もうねと。
押し入れから布団を引っ張り出し、床に敷く。そろそろ洗濯に出さなければ。湯を浴びにいく気力もなく、べたつく肌を不快に思いながら寝転がり、天井を見つめる。
あの日、酒に酔って口を滑らせた私を一角さんは受け入れてくれて、私たちは恋仲となった。あれから気づけば一ヶ月ほど経つが、未だ二人の時間はとれていない。稽古はほとんど人の多い十一番隊舎で行うし、そうでなくても稽古が終わればすぐ九番隊の仕事に戻らざるを得なかったので、必然的に。
──ライバルにすらならないね。
もちろん冗談のつもりだったのだろうが、実際、彼と昔から一緒に過ごしてきた弓親さんには勝てる点がない。そのことを弓親さんはどうとも思っていないだろう。鬼道系の斬魄刀で十一番隊にいられるというのもあって、私が一方的にライバル視してしまうだけだ。
気力が限界だったのか、自然と瞼が下りてくる。段々と思考に靄がかかるのが分かり、ちゃんと眠るために布団を肩まで引っ張りあげる。
湿ったにおい。いのちのにおい。石鹸のにおい。あの人の唇。命を預け合う約束、私には荷が重すぎて、侵される心地。死んでいるにおい。自分の、肌のにおい。頭が痛い。深く息を吸う。吐き出しながら、溶けていく。
雨の音があまりにうるさくて、目を覚ます。心臓が騒いでいる。全身がじっとりと湿っていて、覚えのない焦燥に気付かされる。嫌な夢でも見ていたのかもしれない。体を起こし、はだけた胸元を直す。
外は随分暗く、どれだけ寝てしまったのかとぼんやり考える。布団から這い出て、机に置いていた水差しの中身を湯呑みに注ぎ、一気に飲み干すと、ようやく脈が落ち着いてくる。とにかく肌が気持ち悪い。湯を浴びたいが、今は何時だろう。
部屋の明かりをつけるために立ち上がり、そのまま襖を開ける。ちょうど夕飯時だろうか。
「おい」
ガタッと襖が鳴る。声に驚いた自分の手が、そうしてしまったことに気づく。
「えっ?!」
遅れて声が漏れ、柱にもたれるように座っている彼の姿を認識する。私の反応に、彼はため息を吐いた。
「ようやく起きたか。待ちくたびれたぜ」
「待っ、とっ、たん……ですか」
「別に、待ってたわけじゃねえ」
「む、矛盾しちょる……」
いつからいたのか、待っていたわけではないらしい一角さんは、座ったまま首を鳴らした。ひとまずその場にしゃがみこむ。まさかいるとは思わなかったから、髪はぼさぼさだし、服もぐちゃぐちゃだ。
「えっと……すんません、何か用事でした? 昼ぐらいに寝てしもうて……」
「……用事ってんじゃねえよ。疲れてたんだろ」
「は……はい。いえ、まあ……」
私を見ずに呟いた彼に、ますます頭が混乱する。用事もないのに部屋の前で待つわけがない。もしかして、弓親さんが何か言ったのだろうか。寝不足ではなく、体調が悪いとか。
「弓親のやつが……顔色ワリィっつうからよ。ぶっ倒れてんじゃねえかと」
予想通りの言葉を呟き、彼は居心地悪そうにうなじに手をあてがった。要するに心配してくれたということだろう。不甲斐ない。組んだ指に力をこめ、ゆっくり息を吐き出す。
「ありがとうございます。すんません……」
「……そんだけだ。邪魔したな」
「あ」
そう言って立ち上がろうとした彼に、思わず手を伸ばす。指先が裾に引っかかり、彼は中途半端な姿勢で動きを止めた。目が合うが、いたたまれなくてすぐに逸らしてしまう。「あの」謝るために口を開きながら指を離すと、その手がとられ、柔らかく握られる。それだけで、壊れてしまうほど心臓が騒ぎ出す。
「風呂……入るけえ」
「……ああ」
「えと……待っててくれますか」
急ぎの用でもなければ待ってくれるだろうと思った。分かった上で頼んでしまった。でも、手を握る力は強まるし、内蔵全て吐き出してしまいそうな心地になる。俯いて足の親指と人差し指を交互に眺める。
「晩飯は?」
少しの間ののち、彼が言った。ぶっきらぼうな声に、視線を上げる。
「え……食べてないです」
「じゃ、待っててやるから、早く風呂行ってこい」
「あ……ありがとうございます」
手を引かれ、彼と共に立ち上がる。優しさに甘えている自覚はあったが、疲れているのだと自分に言い訳をしながら。それに、言われてみればお腹が空いた気がする。よく寝たなあ。立ち上がってからも手は離されず、繋いだまま緩く左右に振ってみる。
「なんだよ」
「え、なんも」
「……」
「うっ……動かん」
「……ちっと隊舎戻るからよ」
「あ、はい」
「支度して、ここの入口でいいだろ」
「分かりました」
「何食いてえんだ」
「なんでも」
「ん……じゃ後でな」
手の力を緩めると、それはすんなり離れていった。彼は離した手で私の頭を撫で、背を向ける。流れるように夕飯の約束を取りつけられてしまった。曲がり角の先に彼が消えてから、室内に戻る。引き止めたことといい、寝起きであまり正常な判断ができていなかったのかもしれない。迷惑だっただろうか。謝っておかなければ。……尚更気を使わせる気もするけれど。
お湯を浴び、身支度を整えて待ち合わせ場所に向かう。傘に雨粒が当たる音は、今の私には心地よい。さっぱりしたばかりの肌がどんどんべたついていくのに、むしろ一汗かいたあとみたいな清々しさがあって、だから、本当はずっと会いたかったのだと気づかされる。
関係性が変わらなくてもいいと思い続けていたせいで、付き合うことになった今でも、会いたいとは気軽に考えられなかった。当然、本人に伝えることなどできるはずがない。一角さんはあれで意外と気にしいだし、たぶん、付き合うことになったからにはできる限り私を大事にしようとするだろう。好きでも、そうでなくても。片思いが長かったことで彼に理想を抱いている部分はあるが、そういうふうに見える以上、その優しさにつけ込む真似はしたくなかった。まあ今回は単に忙しくて声をかけられなかっただけなのだが。
とにかく、一緒に過ごせるのが嬉しい反面、断れないだろう状況を作った罪悪感もあった。引き止めずにいられなかったのは私の弱さだ。でも、この考えを顔に出すわけにはいかない。深呼吸をひとつ挟んで、気持ちを切り替える。
九番隊舎の前、門番から少し離れたところに腕を組んで立っている彼を見つける。傘の柄を肩に乗せ、足を組むようにして。
彼はすぐに私に気づき、ちらと視線を寄越した。それから、組んだ足を解いて傘をちゃんと持つ。小走りになると、雨が跳ねてぱしゃぱしゃと音が鳴り、足も裾も濡れていく。私はあの人と待ち合わせができるのだ。体調を心配してわざわざ部屋を訪ねてくれる人に、付き合うことを受け入れてもらって、あまつさえ夕飯に誘ってもらえたのだ。
「すんません、お待たせして」
「……んな待ってねえよ。お前のその、すぐ謝んのどうにかなんねェのか」
「えー……じゃあ、ありがとうございます」
「じゃあってなんだよ!」
「待たしたんは事実じゃろ」
「だから待ってねえって言ってんだろ」
「頑固じゃのう」
「お前がな」
「あ」
さっさと歩き出した彼を追いながら、軽口の言い合いさえ嬉しくなって、笑ってしまう。
「一角さん」
傘の当たらない距離がもどかしい。普段より大きな声で彼を呼び、こちらを見下ろした彼の目を見る。
「でも、ありがとうございます」
「……礼を言われる謂れはねえ」
「言いたいけえ言っとるんです」
「そうかよ」
「感謝はしちょるんはほんまじゃけど」
「一体何がそんなにありがてえんだ、てめえは」
「いろいろですよ」
「……わっかんねえヤツ」
感謝の言葉はほとんど自己満足だが、感謝しているのは本当だ。分からなくても構わないけれど。
よく行く居酒屋に入り、また、見知った顔に会釈をして席につく。全く、どこに行っても知り合いがいるというのも面倒なものだ。席官ともなると一方的に知られていることも多いし、何より今は連れが目立つ。昼は別の目立つ人といたので、なんだか気まずい。
向かいの一角さんは、じっとメニューを見ている。昼は定食屋をやっているこの店では、夜もそのおかずを頼むことができ、それが人気の点だ。雨のせいか普段ほどは混んでいない店内に目をやり、それからまた、メニューのサバを見る。
「これ食べたいです」
「おう」
「あれ飲んでみたいんすよ。ビール? でしたっけ? 現世のやつ」
「あー……あれか」
「なんすか、苦手っすか」
「俺は普通の酒でいい」
「はあ。あ、あと小松菜」
「ん」
「うーん、明太子か……いなりもええなあ」
「どんだけ腹減ってんだ」
「ほんまですね」
「体調悪いんじゃねえのか、お前」
「ああ、いえ、ただの寝不足ですよ」
「そうかよ」
しっかり寝たおかげか、だいぶ調子がいい。今これだけ元気なので、いつもの時間に眠れないかもしれないが。
それにしても、一角さんがここまで心配してくれるとは思わなかった。というより、態度に出すとは。気づかれたくなければもう少し遠回しに様子を尋ねるだろう。それか、今度稽古で会う時に近況を聞くとか。いや、せっかちな人だからそれは難しいかもしれない。
注文を済ませても、彼の視線が私に向くことはない。ここぞとばかりに観察していると、さすがに嫌だったのか、彼は頬杖をついたまま視線だけこちらに寄越した。少しの間目を合わせ、また観察に戻る。あ、ほくろ。小さなため息ののち、彼は観念したように姿勢を正した。
「んな見たって、なんも出ねえよ」
「どうですかねえ」
「いや、どうもこうもねえだろ」
「そこにほくろあるっすよ」
「あ?」
「耳のふち」
私が自分の右耳を指すと、言っていることを理解した彼は居心地悪そうに耳たぶをつまんだ。もっと上だけど。
「……まあ、あるだろ。ほくろぐらい」
「あ、私小指にあるんすよ。ほら」
「……。……そういや、次いつ来んだ」
彼は私の小指を一瞥し、あからさまに話題を変えてしまった。表情を見るに、恥ずかしかったらしい。
「稽古っすか? 明後日かなあ」
「そうか」
「明日連絡します」
「ああ」
「いや話逸らさんでくださいや」
「逸らしてんだから戻すんじゃねえよ」
「照れとるけえ」
「照れてねえよ!」
場を意識したのか控えめに叫び、それでも我慢できなかったようで、彼は机に拳を落とした。それなら顔が赤いのはなんなのだ、とは指摘しない方がいいだろうか。「お待たせしましたぁ」いつ笑いだそうか迷う生ぬるい沈黙は、酒やつまみを持ってきた店員によって破られた。口元に手をやり、笑いを抑えるために深呼吸する。彼はそっぽを向いて、ため息を吐いた。
たらふく食べてある程度酔いも回った私たちは店をあとにした。雨足は弱まったものの、傘を差さずに帰れば体に障るだろう。傘を開くと、水滴が散る。
「どうします」
「寝足りねえだろ」
「飲み足りん」
「だよなァ」
「居酒屋でもええし、こないだの残っとるけえ部屋でもええけど」
ついてきてくれるなら、という言葉は飲み込み、彼の死覇装から伸びた手首を見る。そこから、裾、胸元、首筋へ。私は浮かれている。時間の許す限り一緒にいたいし、いくらでも話したいし、照れる横顔を見ていたい。浮かれきっている。雨による憂鬱も吹き飛ばせるほど。目線を一度下げ、それから彼の目を見ると、彼はなんだか驚いた顔をした。
「なんです?」
「いや」
すぐに目は逸らされ、遠くを見やる彼の横顔を見つめる。
「……ま、なんでもいいけどよ」
「え?」
「行こうぜ」
「は、はい」
背を向ける彼に、慌てて返事をする。どこに向かうのか分からないまま、まあそれでもいいかと思いながら。
そうして、すんなりと九番隊舎にたどり着いた。すんなりと。要するに、行き先に意識を向けるまでもなく、ただ彼についていったら見慣れた隊舎の前にいたということだ。
「ええんですか」
もう少しで部屋に着く、まだ引き返せはするが聞くには遅すぎるところで、耐えきれず問いを投げる。
「何がだよ」
彼は振り向かずに言った。一呼吸置き、口を開く。
「その……私の部屋で」
「よくなかったら来てねえ」
「まあ、そうじゃろうけど」
「……てめえこそ、そうほいほい部屋に上げていいのかよ」
そう呟いて、彼はようやく立ち止まる。別にほいほい上げているつもりはないし、こちらも誘う際に緊張しているのだが、そもそも一角さんでなければ、異性と二人の際に自室を提案するなどありえない。つられて止めかけた足を滑らせ、隣に並んで顔を窺う。目を見てくれた彼に安堵し、笑みが漏れる。
「分かっとるじゃろ」
「あ?」
「一角さんだけじゃ」
「……は、……そうかよ」
「照れとる」
「照れてねえっつの!」
「いたっ、あはは」
よほど見られたくなかったのか、彼は私の頭を鷲掴みにし、軽く押すようにしてから、再び歩き出した。せっかく整えた髪が崩れたてしまったので、手櫛で直す。
まったく、なんてかわいらしい人だろう。こういちいち素直な反応を見せられては、遠慮ができなくなってしまう。勝手知ったる様子で私の部屋の襖を開ける彼に、内心ため息を吐く。
諸々準備し、本日二度目の乾杯をする。ぬるい酒が喉を焼く感覚に、胸がときめく。やはり外で飲むのとは気分が違う。一気に八割方なくなった徳利に注ぎ足していると、見られていることに気づいて視線を上げる。
「なんすか?」
「おめえは……生粋の酒飲みだな」
「え?」
「射場さんが用意した酒だ、この前初めて飲んだわけでもねえだろ。うまそうに飲むもんだと思ってよ」
「え、うまくなぁすか?」
「いや、うめえけどよ……血は争えねえな」
「ほうじゃのう、兄貴も母さんも酒好きで……でも一角さんも酒好きじゃろ」
「まあな。じゃなきゃ、射場さんともお前とも飲んでられねえよ」
「んー、まあ、そうかもしれんなあ」
隊士の前では特に無茶な飲み方をしないせいか、あまり酒飲みとは認識されていないようだが、量に驚かれることはある。兄と飲む時以外は基本的に気を張っているので、ひどく酔っ払うこともないし、余計だろう。
散々顔に出ると言われる私ではあるが、うまそうに飲むとは言われたことがない。だから浮かれていると言うのだ。酒はもちろんおいしい。おいしいけど。
この調子で飲み続けて大丈夫だろうか。先日の二の舞になるのではないか。それがいいことなのか悪いことなのかも分からない。そもそも、ちゃんと反省していたら同じ状況を作らないので。彼のお猪口に酒を注ぐ。
「そういや、弓親がよく休めっつってたぜ」
「えー、心配性ですねえ」
「そんだけ顔色悪かったんだろ」
「ちょっと寝とらんかっただけやのに……」
「お前、会わなきゃ昼飯抜いてたんじゃねえかって」
「まあ、たぶんそん時間寝てましたよ」
「だろうな……」
「あっ……じゃけえ夕飯誘ってくれたんじゃ」
「別に、なんつーか……それもあんじゃねえか」
「じゃあ、私とご飯食べたいって思っ」
「ワリィかよ!!」
「嬉しっす!!」
ドン! と勢いよく徳利を置く彼に、思わず両手を挙げる。一拍置いてお猪口の中身が彼の手と机に広がったことに気づき、布巾に手を伸ばす。少しの間もう片方の手で目元を覆っていた彼は、瞳を顕にし、私の顔をちらと見たあと、大きくため息を吐いた。
「……悪ィ、こぼしちまった」
「大丈夫っすよ、そがぁ照れんで」
「てめえ、いちいちよお……」
「一角さんがいちいち照れるけえ」
「照れてねえ!!」
「ほしたらなんじゃ?! 酔うたんか?!」
「こんなもんで酔うわけねえだろうが!」
「照れとるんじゃなぁすか!」
「しつっけえなテメェ!」
「私は照れとるんが見たいんじゃ」
「趣味悪ィ……」
両耳が真っ赤なのは目の錯覚ではないはずだ。素直な反応にどうしてもからかいたくなってしまう。
なんだかこちらまで恥ずかしくなってきて、徳利の中身を一気に飲み干す。喉の奥が熱い。呼気の酒臭さに少し嫌気がさし、鼻で息をする。自分の肩口に頬を寄せ、トリートメントと石鹸の混ざった匂いを感じてから、一升瓶に手を伸ばす。彼に目をやると視線が交わって、そのことにも安堵する。
「よかったっす」
「あ?」
「心配も嬉しいけど……一緒に食べたいって思ってくれたんが」
「……まあな」
「ちゅうかそう言うてくれたらええのに」
「言うわけねえだろ」
「なんでえ」
「お前も言わねえだろうが」
「言いますよ。言っとるし」
「……いや、言われた覚えねえんだが」
「さっきは……けど、断れんか思うて」
「は?」
「頼んだらおってくれそうじゃけん」
「それの何が悪いんだよ」
「うーん……怖いんじゃ」
「はあ?」
「いやもうよう言えん……なんちゅうか……まあええわ」
「んだよ、キモチワリーな……」
思考が雑になっているせいでうまく説明できず、結局押し黙る。そもそも分かってもらう必要もない。というか、説明をしたところでそれはただの言い訳だ。
最終的には本人の気分次第なのだろうが、一対一の状況であることと関係性を鑑みれば、頼めばいてくれるだろうことは想像がつく。まあその分、断られた場合のショックは大きいだろうが。
私は一体何が怖いのだろう。彼の意思でなく私の要望で事が運ぶことか。選びとってもらえたと思いたいのだろうか。
「そーいや、気になってたんだけどよ」
「はい?」
「お前一応三席なんだし、敬語いらねえだろ」
「あー……まあ、年上じゃけえ。仕事外じゃ基本抜いてるつもりですけどね」
それに、檜佐木さんへの対応からして年齢で敬語の如何を決めているだろう人には言われたくない。
「んなかしこまられてもよ」
「かしこまっとるんじゃのうて……癖っちゅうか」
「……まあ、そうか」
「嫌ですか、敬語」
「別に。お前がいいならいいんじゃねえか」
「しばらく完全には抜けんじゃろうなあ」
「そーかよ」
拗ねたように口を尖らせ、彼はお猪口に手を伸ばした。本当に、嫌なわけではないのだろう。ただ気になるだけ。たぶん、私が三席だとかそういうのとは関係のない、個人的な感情によって。
「あんなあ、私あなたのこと好きなんですよ」
「……だからなんだよ」
「じゃけえ……私んこと気にしてくれるんが嬉しいんじゃ。些細なことでも」
「……おめーは……ったく、単純なやつ」
「たんじゅんん?」
「そうだろうが」
「違うじゃろ」
「いちいち喜びやがって、何がちげえんだよ」
「…………ほくろで照れとったくせに」
「一緒にすんじゃねえ!」
「ちゅうか単純なんと喜ぶんは関係ないじゃろ!」
「関係あるだろ! 喜ぶ理由とかよ」
「純粋なんじゃ」
「うるせえ」
単純というのを、チョロいという意味で使っているのであれば、それは正しい。認めたくはないが。
それにしても、部屋にほいほい上げる云々もそうだが、彼は私が彼相手だからこれほどチョロいのだと分かっているのだろうか。分かってくれなくても構わないが。
徳利の中身を二回で飲み干してしまうせいで、一本目の一升瓶がもうなくなりそうだ。先日兄からもらったのは残り一本。開けてからしばらく経つ焼酎は何本かあるものの、一応客人である彼に出すのははばかられる。考えつつ一升瓶の残りを徳利に移し、瓶に蓋をする。
「もうなくなったのか」
「飲まんけえ私がほぼ飲んでしもうた」
「おめえ速すぎんだよ」
「こんぐらいで飲まんと、飲んだ気せんわ」
「だからすぐ酔っ払うんだろ」
「せっかく飲むんじゃけえ、少しは酔っ払いたいじゃろ」
「そりゃ……そうだな」
「けどこれあと一本なんじゃ……もう開いとるんしかないんじゃけど」
「なんでもいいが……まだ飲むんだろ」
そう言って彼は立ち上がった。
「厠?」
「買ってくる」
「え?! ええですよ」
混乱しつつ慌てて私も立ち上がる。付き合わせている以上、彼に行かせるわけにはいかない。付き合わされているとは思っていないかもしれないが、そうでなくとも先輩なのだ。
「私が行きます」
「てめえの部屋だろうが。大人しく待っとけ」
「いや、行ってもらうんは」
「開いてる酒でも飲んでりゃいいだろ」
「行かしたとしても飲みませんよ!」
言い合いながらも一角さんは体の向きすら変えず、とうとう襖に手をかけた。私も枠に手をかけ、閉じる方向に力を入れる。どうせ彼が本気を出せば開いてしまう(というか襖が壊れる)のだが、どう対抗すればいいのか分からない。
目が合ってからしばらく、お互いに言葉を発さなかった。負けず嫌いの頑固者同士では、すぐに決着がつかないのも仕方ない。くだらないけど。
「どけよ」
「嫌じゃ」
ミシ、と襖が音を立てる。修繕費は請求しよう。彼は眉根を寄せ、私を見下ろしている。
「私が行きます」
「俺が行くっつってんだろ」
「待っとったらええじゃろうが」
「お前がな」
「何が不満なんじゃ」
「こっちのセリフだボケ」
これは、本当に埒が明かない。たぶんただ行ってくれようとしただけで、不満も何もないのだろうし、確かに彼には引く理由がない。でもそれは私も同じだ。
彼が目を逸らし、はっとする。視線を追い、自身の手に行き着くと同時に、彼の手がそこに触れ、握られる。驚いて襖から手を離すと、そのまま開けられてしまった。
「卑怯じゃ!」
「うるせえ」
「じゃあ私も行く」
「ああ」
「ああって……」
最初からそのつもりなら、そうと言ってくれればよかったのに。手を引かれながら、歩き出す彼を見上げる。数歩のうちに手が離されなかったので、素直に、握り返す。彼がこちらに視線を寄越し、自然と目が合う。すぐに逸らされて、舌打ち。からかったところで言い返されるだけだろう。
深夜だし、雨だし、暑いし。
言い合っていたことなど忘れ、すっかり愉快な気分になった私は、彼の腕に額をぶつけてみる。
「んだよ」
「一人になりたかったですか」
「はあ?」
「ついてきてしもた」
「……いちいちうるせーんだよ、てめえは」
「不安なんじゃ」
「だから……言ったろ、別にいいって」
「え、いつ?」
「うるせえ。忘れたわ」
「ええ?」
それ以上の言葉はなく、諦めて外に目をやる。なんの話だか分からないが、まあ、いいらしい。手の力が少し強くなる。ずっとこうしていられたらいいのに。そうしたら不安もなくなるのに。繋がれた手を見て、隙間を埋めるように手のひらをちゃんと寄せる。彼の小指がそれを受け止めてくれるので、私はまた嬉しくなって、腕に頭をぶつける。今度は何も聞かれない。呆れているのかもしれない。過度に構ってこないところが好きだ。ところも? 嫌だな、どんどんすきになってしまって、馬鹿みたい。
「一角さん」
「あ?」
「好きです」
「ッて、てめえ……外だろうが」
「え、部屋なら」
「部屋ならいいって話じゃねえ!」
「ええー! 言わしてくださいよお」
「チッ、調子狂うぜ……」
未だに好きとは言われていないけれど、照れてくれるのでよしとしよう。彼は私をそれなりに大事に思ってくれているみたいだし、口下手なのは分かっていたことだ。
雨は降り続いている。部屋に泊める口実があることに安心する。酒を買って、帰って飲んで、眠くなったら寝て、それでいい。また触れさせてくれたら嬉しいけれど、それはそれとして。
「部屋で言うけんね」
「うるせえ」
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