厄介
呻き声を漏らしながら歩く。寒い。足が痛い。どうせ自分のじゃないし、と思い、電柱にもたれてブーツを脱ぐ。安物はこれだから嫌だ。スマホを探すのもだるく、電話をすることができない。
ミス・ヴォンのところで調子に乗って飲みすぎた挙句、吐いて復活してまたバーで飲み明かし、キャパを超えて吐き、飲んで、飲んで、吐いて、飲んだ。しばらく禁酒していたせいで上限が下がってしまったらしい。
空が明るくなってきた。ずるずると座り込み、目を閉じたまま鞄に手を突っ込む。
足手まといになりたくない。私がいるせいで負けるなんて最悪だ。あいつは優しすぎる。強くならなきゃ。迫を守れるくらい。うずくまって、顔を覆う。
駆け寄る音、頭部に鈍い痛み、暗転。
私は恵まれていると思う。父は早くに死んだのでほとんど記憶にないが、少なくとも母との仲は良好、母の仕事のおかげで金銭面で家の心配をしたことはない。公立の中学から私立の高校に進み、そこで酒を覚え、仲の良かった人達と仲良く退学になった。母は悲しんだが、学んだことは多い。
個性も弱いとは言え二つ持って生まれてきたし、顔も含めて外見が悪いとは思わない。人に取り入る術を覚え、躊躇いなく盗みを働くようになった。そのことに大した罪悪感を覚えないおかげで人生はそれなりに楽しい。しかも、最近はいい男と付き合えている。
これで恵まれていないなどと言ったら、罰が当たる。今の社会は気に入らないし、子供みたいな言い方をするのなら世界なんて常に嫌いだけれど。それでも、だから私は、今大切にしたいものを、大切にするのだ。
気がついた時、腕が動かなかった。声を出そうとして、猿轡を噛まされていることが分かった。目の前も真っ暗で、透視を使わなければ何も分からない。硬い椅子に座っている。手足は、縛られているらしい。
なんだこれ?
混乱した脳で昨晩のことを思い出す。訓練後にミス・ヴォンとその部下たちと飲んだのは覚えている。それから一人で飲み歩いたことも。それで……。
足音が聞こえ、はっとする。顔を下げたまま視線を動かし、スニーカーを確認する。男物、汚れていて、紐が擦り切れている。男は立ち止まり、私の鞄(正確には盗品)を床に放った。化粧品や煙草、スマホが散らばる。すぐに複数の足音と会話が増えた。
「ほんとにこんなやつが?」
「念動力らしいっす」
「ご立派な個性だな」
「でもただの女ですよ」
酔っ払った時に殺したやつの仲間か何かだろうか。二日酔いもあって頭が痛い。いや、殴られたのかもしれない。少しの焦燥感が、脈を上げる。怯んでいる場合じゃない。ため息を吐きそうになるのを我慢し、脱出の算段を立てる。透視持ちだとは知らなかったようで、武器になりそうなものは散乱したままだ。というかどこだここは。廃工場か? ありきたりな殺り場所に反吐が出る。
念動力は本来、手をかざさなくても物を動かせる。動かしている感じがあるからそうしていただけだ。視界が塞がれてしまうと無理だが、それも透視でカバーできる。手足は視界に入らないので後回しにするとして、まず何人いるか把握しないと。個性も分からず下手に動くわけにはいかない。
スニーカーの男がボスだろう。その後ろに革靴の男が二人、グレーのパンツと、黒のパンツだ。それに厚底のブーツが見えるが、女は先程から会話に参加していない。
二日酔いだってのに集中させないでほしい。スニーカーが私に向かってくるので、とりあえず靴を脱がせてやった。
「うおっ!!」
「か、加田さん!!」
派手にすっ転んだ男に、グレーが駆け寄る。女がゆっくりと顔を上げ、私を視界に入れた。黒パンツが上げかけた腕に転がっていた廃材を投げつける。ちぎれる腕、血しぶきと、叫び声。素早く自分の足を縛っていたロープをちぎり、立ち上がる。
四人にそれぞれ廃材を突きつけたところで、軽快な音楽が鳴り響いた。
無様なので避けたかったが、仕方なく縛られた腕に片足ずつ通し、目隠しと腕のロープを外す。彼らの怯えた表情を横目に荷物まで歩き、電話の主を確認する。愉快だな、まったく。床に散らばったものを鞄にしまいながら、アイコンをスライドさせる。
「もしもし、王子様」
『おー、おてんば姫。捕まったって?』
「うん。面倒だから、殺しちゃう前に来て」
『仰せのままに!』
通話が終了するのとほとんど同時に、何か硬いものが地面に落ちる音がした。頭痛。スマホを鞄に放り込む。姫なら攫われたと言う方が正しいだろうと思いながら、背後に現れた気配に身を委ねた。
気づくと空の上だった。「うわ」「わりぃ」圧縮から解放される時の、妙な感覚。慌てて男の首に腕を回し、下を見る。
「ここどこ?」
「もうちょっとで家だな」
「ふーん」
「いやー危ないとこだった」
「なにが」
「あの女、確か洗脳個性だぜ」
「有名人?」
「そう」
「ふーん」
よっ、と声を出し、男は路地裏に着地した。男が屈むので腕から降り、髪を整える。顔を向けた時には、男は仮面やらハットをしまい、私服姿になっていた。
「来てくれてありがと」
「どういたしまして」
自力で脱出できたし、男もそれを分かっているのだろうけれど、それはそれとして。王子を立てるのも姫の仕事なのだ。鞄を腕に引っ掛け、差し出された手を取る。男の笑み。なんだか随分久しぶりに会った気がする。
「歩けるか?」
「よゆう」
「よし」
手を引かれ、裾から覗いた手首の痕が露わになる。自然とそこに視線を向けた迫は、眉をひそめた。
「これだから素人は」
「え?」
「痕つけるなんて、素人のやることだろ」
「痛かったしね」
「だろうなあ。すぐ治るといいが」
「んふふ」
「ったく、なに笑ってんだ」
「心配してんのウケるじゃん」
「あのなあ……」
ため息を吐かれてしまった。べつに、大したことじゃない。捕まったことも、縛られた箇所が痛むことも、傷が癒えないかもしれないということも。飛びつくように、迫の首元に顔を寄せる。ボディソープと香水、柔軟剤のにおいに、小さく息を吐き出す。
「ありがとう」
「ん」
迫の腕が背中に回される。抱きしめられて、それで、ようやく私は安心した。本当に。
家までの道中に、何故私が捕まったことを知ったのか聞いた。ミス・ヴォンの部下に千里眼系統の個性を持つ者がおり、偶然連れ去られる私を発見したらしい。そこから数人経由して迫へ連絡が回ったとのこと。次に訓練に行った時には皆に知られているだろうと思うと、げんなりした。
家に着き、シャワーを浴びる。私が持ち込んだ化粧落としや洗顔、歯ブラシなどがそのまま置かれているのを見るたび、明確に安堵し、それから自身の愚かさにため息を吐く。
一応家はあるものの、基本的に寝床の定まらない私にとって、ここが帰る場所となりつつある。そのことを私はきっと憂うべきだった。安心感が、不確かなものを信じてしまうことへの危機感より上回っている現状を。
風呂場を出てリビングに戻ると、迫は椅子に腰掛け、トランプを弄んでいた。ゆっくり、淡々と、重ねては分けを繰り返している。
「トランプマジック、見たことあるか?」
声をかけていいものか分からず黙っていると、迫が呟いた。ドアを閉め、思い出しながら近くに寄る。
「テレビで、昔、あるかも」
裏のまま差し出されたカードの束から一枚抜き取り、確認する。ダイヤの八。適当に戻し、男がそれをシャッフルするのを見る。
「わっ」
唐突に、束が宙に舞った。カードは不規則な動きでテーブルや床に落ちていく。全て落ちきる直前、迫はそこに手を伸ばし、一枚のカードを掴み取った。
「ダイヤの八」
私にも迫にも見えるよう表を向いていたカードは、確かに先程私が選んだものだった。タネは分からないが、想定通り。ショーと言うには静かすぎる、練習と言うには鮮やかな、マジックが終わった。なんだかおかしくて、笑ってしまう。
「苦手なの?」
口をついて出た言葉に、迫は少し驚いた表情をした。それから、普段通り人を食ったような笑みを浮かべ、肩を竦める。
「まさか」
「ふーん」
「拾うの手伝ってくれ」
「うん」
二人でその場にしゃがみ、散らばったカードをかき集める。
私は、助けになんて来てほしくなかったのかもしれない。捕まったのは自業自得だし、一人でなんとかしなければならなかったし、なんとかできただろうが、守られてしまった。こいつに頼らず生きていくべきなのに。
集めたカードを迫に渡し、つり目をのぞき込む。
「ん?」
「今日さ、二日酔いで」
「ああ」
「まあいつものことなんだけど」
「まあな」
「頭痛いし、なんか拘束されてるし、だるいし」
「うん」
「あいつら弱かったよ」
「そうだな」
「一人でなんとかなった」
「そうだろうよ」
「でも……」
顔に熱が集まり、眼球はもはや溶けそうだった。
「迫の顔見た時、ほんとに嬉しかったの……」
瞬きと共に涙がこぼれ落ちる。質量のある涙は、俯くと部屋着にぶつかって染みを広げていく。迫の手が頭に触れる。
私は恵まれていると思う。クソみたいな人生だけど、戦う力を得た上で、心配して駆けつけてくれる人がいる。泣けば慰めてくれるし、元気にしていれば安心してくれて、ついでみたいにマジックを披露してくれたり、大層なものを贈ってくれたりもする。そんな人がいて嬉しくないわけがない。でも、それじゃ駄目なのだ。
ぐずぐずと鼻を啜りながら、手の甲で涙を拭う。あーあ、面倒な女。でも許して。
「あんたが、いないと、だめ、みたいで」
「嫌なのか」
「やだ」
「うーん……お前、一人で生きてきたんだもんなあ」
別に、一人で生きてきたわけじゃない。なんだかんだ母を頼りにしていたし、色んな飲み屋の色んな人間とたくさんの名前のない関係を持った。きっと、迫の方が孤独に生きてきたはずだ。
迫は大人だ。おとな。孤独だから、許容できて、縛ることも放すことも、容易いのだ。喪失への恐れをとっくに乗り越えている。私と違って。
「」
睫毛のあいだに涙の膜が張って、それから弾ける。こぼれ落ちる前に拭われ、その指先に、黄色の花が咲いた。水分が瞬きの音を目立たせている。
「俺も、お前の顔見ると嬉しいよ。今日はまあ、安心したってのが正しいけど、いつもな」
おそるおそる腕を上げ、差し出された向日葵を受け取る。瑞々しい黄色はなんだか現実ではないみたいで、夢に見た海を思い出す。私は一人で波打ち際に立っている。夕陽を見る。沈むことを恐怖しながら、歩き続ける。
「こんな世の中、こんな生き方してんだ。生きて会えりゃ万々歳さ。で、お前が笑ってればもっといい」
腿まで浸かって、でも今の私は、立ち止まることができる。振り返るとそこには花畑が広がっている。あなたがいてもいなくても。俯いた私の後頭部を撫でる手のひら。
「ずっと一緒ってのは現実的じゃねえし、そもそもお前は一人で立てる人間だよ。でも一緒にいられる今ぐらい、駄目になってもいいだろ」
「……おもいじゃん……」
「重くないし、仮に重くてもそれでいいんだよ。お互い様なの、そういうのは」
「あんたは、だって……あたしがいなくても、いいじゃん」
「あのなあ。お前を好きで一緒にいるって分かってる? いなくていいわけないだろ」
「……誰にでもやさしそうだし……」
「まー、俺は基本的に紳士だからな」
「あんたはいつかいなくなるもん」
「お前もそうだろ」
「好きなんだもん……」
「俺もだよ」
「しってる」
「はは、そりゃよかった」
本当に安心したみたいに迫が笑う。向日葵の花。これじゃあいつまで経ってもダメなままだ。腫れた下まぶたを押さえ、鼻をすする。それでも構わないと思ったからこいつと一緒にいるのに、どうしてこう泣いてしまうのだろう。
「さこ」
「ん?」
「ごめんね」
「謝られる覚えはねえな」
「……でも、ごめん」
「ありがとうでいいんだよ、こういう時は」
「ありがと……」
ティッシュに手を伸ばし、引き寄せる。迫はいつかいなくなるのだ。私も。これほど甘えさせてくれる人を他に知らないし、知りたくもない、私はきっと、いなくなってもこの男を忘れられないだろう。一人で生きていけるくせに、わざわざ私なんかに優しくする変なやつ。
深呼吸ののち、どうにか腹に力をこめ、立ち上がる。遅れて立ち上がった迫に抱きついて、Tシャツの襟を嗅ぐ。柔軟剤。背中を撫でられ、額を押しつける。
「顔洗う」
「ん」
「さこぉ」
「おー」
「あんたの肉やわらかい」
「食べんなよ、腹壊すから」
「んふふ」
体を離し、男の頬にキスをする。少し驚いた顔をした男に気をよくして、その胸元に向日葵を差し込む。
「ったく」
呆れと照れが混ざった笑みを浮かべ、迫は私の頭を撫でてくれた。
キッチンのシンクで瞼に冷たい水を浴びせる。せっかくシャワーを浴びたのにこれじゃ二度手間だ。そういうどうしようもない部分を、特別視せず、許しも叱りもしないところ。流れる水のなか、目を開けて吐き出す息の熱さを認識する。
恋って厄介だ。なんでもできる気がするのに、なんにもできなくなる。なんにもできない気がするのに、なんでもできてしまう。やはり私はまともに恋愛をしてこなかったらしい。
「ねー!」
んー、とリビングから返ってくる。
蛇口を締め、置きっぱなしにしていたタオルを顔にぶつける。これでいい。ダメでもいい。私たちが私たちじゃなくなるまで、いつかいなくなってしまうまで、私はあなたを好きでいるから。リビングに戻り、迫に駆け寄る。
「なに?」
「すき」
「……敵わねえな、ったく」
「俺もだよは?」
「おれもだよ」
「んふふ」