浴衣

 いつも通り軽く稽古をして、施設を出てからスマホを見ると珍しく春ちゃんから連絡が来ていた。今日明日は浴衣イベントで、浴衣を着ていくと安くなるらしい。イベントごとのイメージのない店だし、実際聞いたこともないので初めてかもしれない。オープンまで時間があることを確認し、春ちゃんに電話をかける。幸い彼女は二コールで電話に出てくれた。
『もしもし、エミさん?』
「もしもし。あれ見たよ」
『来てくれるんですか?!』
「うん。まあ、浴衣はないけど」
『それは全然……あっ、じゃあ、そうだ、今お店の近くにいたりする?』
「えーと、近くはないけど……三十分くらいで着くかな」
『駅の方にドンキあるでしょ? あたし着付けできるから買お!』
「え」
『どうせオープンすぐ暇だから! ドンキ前で待ってるね!』
「あ、うん……」
 若い子って怖い。未だに勢いのいい声が反響している。普通のバーなので(給料計算がどうなっているのかは知らないが)私一人行ったところで春ちゃんにはそこまで得がないはずなのだが、毎回ドリンクをあげているし、まず同性というだけで気楽なのかもしれない。ここからなら車を盗むより電車で行った方が早いかと思い、スマホを尻ポケットに入れた。

 特に断る理由もないので、待ち合わせてから安いセットを購入し、店に行った。言われるがまま着付けられ、若干苦しい腹を押さえる。
「似合う似合う」
 春ちゃんに促されて狭いキッチンから出ると、カウンターで煙草を吸っていたオーナーが言う。オーナーは浴衣どころか普段よりもラフな格好だ。
「え、オーナー私服なの?」
「動きづらいじゃない」
「着てって言ってんのにぃ」
 向こうから春ちゃんの声。そちらを一瞥し、彼は煙草を揉み消して立ち上がる。無視するつもりらしい。かわいそう。
「飲み放だけどボトルでいいの」
「うん」
「無視しないでください!」
「浴衣嫌いなんだよぉ」
「今日お通しなに?」
「お祭りだから、焼きそば」
「カップ麺?」
「春ちゃんに怒られますよ」
「ふふ」
 煙草を取り出し、火をつける。冗談ではあるが、本人の前で言わなくてよかった。
 着替え終わった春ちゃんと三人で喋りながら酒を口に含む。浴衣なんて久しぶりに着たが、動きづらい上に飲み物があまり入っていかない。まあ、浴衣を着るということ自体は非日常感があって好きだし、夏らしくて良いけれど。帰ったら風鈴があったことを思い出す。次の日は当然二日酔いで、風鈴の音も夢だったのではないかと思った。
 ──自由みたい。
 無機物にまで羨望を向けるほど参っていたのか、私は。
 ──たまに詩人みてえなこと言うな。
 笑い飛ばしてくれればいいのにと今になって不満を覚える。グラスを持ったままテレビを眺めていると、手元で氷が滑る音がした。
「花火大会行ったりしないの?」
 それにはっとする間に、春ちゃんが言う。グラスから垂れた結露が道を作るので、それを見る。
「……行かないかな。少なくとも、わざわざそれ目的でどこかに行くってことはない」
「あー、混むしめんどくさいよね。浴衣でデートとか、憧れるけどさ」
「家から近くないと無理だね」
「そーそー」
 人間関係を切り捨ててきた(正確には繋ぎとめる努力をしなかった)私にとって、ああいうイベントは憧れでもなんでもない。一緒に行きたいと思う人間もいないし、一人で行くには世間の目が厳しいのだ。それに、そこまでして行きたいとも。
「エミちゃんって結構めんどくさがりだよね」
「あはは、いまさら?」
「ずーっと思ってた」
「幹さんもでしょ、ポロシャツとか着ちゃってさあ」
「まだ言う……」
「そんなだからお客さん増えないんですよ!」
「まあまあ」
「浴衣着ても見せる人がいないなんて……エミさんが来てくれなかったらオーナーだけじゃないですか」
 春ちゃんは悲しそうに眉尻を下げ、グラスの中に視線を落とす。オーナーに目をやるが、春ちゃんの愚痴には慣れているのか肩を竦めるだけだった。
「まだ七時だしね。そのうち来るよ」
「エミさぁん!」
「慰めるのうまいなー」
「いや……オーナーが諦めるの早いだけ」
「そーだそーだ」
「いつもありがとね」
「なんすかその言い方?!」
「ふふ……祭りだしシャンパンでも入れようか」
「やったー!」
「太っ腹!」
 全く、調子がいいんだから。

 そうしてほどよく酔った頃、何人か客が入ってきたので店を出た。ミス・ヴォンと出会ってから、深酒をする機会が減ったせいか弱くなった気がする。酒癖が悪い自覚はあるので、弱くなってよかったかもしれないと思う反面、唯一の趣味がこれではと残念でもある。
 財布の中身を減らすより今度こそ車を盗んだ方がいいに決まっていたのだが、いつもと比べて身軽ではないのでタクシーを捕まえた。行き先を告げ、足を組む。寄りかかれもしないし、本来足も組むべきではないのだろう。花火大会ですか、と言う運転手に、いえ、まあと曖昧な返事をする。どこかでやっているのだろうか。通り過ぎる景色を眺める。今更、浴衣って目立つな、と思う。
 ぼんやりしていると突然スマホが震え、驚いて画面を見る。下四桁で相手を把握し、通話ボタンをスライドした。
「もしもし」
『もしもし? 車乗せてくんね?』
「タクシー」
『マジかよ、珍しいな』
「今どこ?」
『X駅の近く』
「じゃあ、Y駅で待ってる」
『OK!』
 足にする気満々じゃないか。電話を切り、ため息を吐く。来るまで待って、盗む行程はあいつに任せよう。

 タクシーを降り、駅前のベンチに腰を下ろす。喫煙所があった気がして記憶を辿るが、反対側だと思い出し、息を漏らす。缶チューハイでも買ってこようか、浴衣だと目立つから嫌だな、さっさと来てくれと考えつつ、鞄からスマホを取り出した。
 酔いもほとんど覚め、眠くなってきたところで人の気配に気づき顔を上げる。
「お待たせ、お嬢さん」
「車盗んできてよ」
「開口一番それかよ」
「おかげでほぼシラフなんだけど」
「悪い悪い。似合うな、浴衣」
「……ありがと」
 差し出された手をつかみ、立ち上がる。
「別人かと思った。どうしたんだ?」
「色々あって」
 歩き出した先で車の鍵を閉める男を見つけ、人差し指を曲げて男のポケットに入れられた鍵を引っ張り出す。
「色々ねえ」
 持ち主とすれ違いながら、引き寄せた鍵を浴衣の裾に入れる。車に辿り着くと、男の手が自然と離された。「そ」頷き、持ち主の背が駅に向かったのを確認してから、閉められたばかりのドアを開ける。
「結局お前が盗むんじゃねーか」
「運転もしてあげる」
「そりゃありがてえが、動きづらそうだな」
「そうなんだよね。でもあんた働いてきたんでしょ?」
「バレてたか」
「他に車乗せろって言う理由ないじゃん」
「あー……確かに」
 アクセルを踏み込んでから、膝に置いていた鞄を迫の方にやる。「煙草とって」「はいはい」どうでもよくなってきて背もたれに寄り掛かり、渡された煙草の箱から一本取り出した。
「花火したいなあ」
「花火? コンビニに売ってんじゃねえか」
「はーオイル切れ、クソ」
「口わりーなあ」
「吸いたくてしょうがないんだよこっちは」
「あー、このへん入ってんだろ、灰皿あんだから……あ、あった。ほらよ」
「やったぁ。大好き」
「おー、前見ろ前」
 車の持ち主が喫煙者だとこういうことがあるので気楽だ。窓を開け、くわえっぱなしだったそれに火をつける。
 なんだかんだ二週間近く会っていなかったのか。ようやく吸い込めたニコチンに安心しながら考える。いつ会っても特に緊張することはないし、大抵酔っぱらっていて記憶が曖昧なので、間が空いたところで支障はない。だから、そのせいではない……。
「そんで、色々って?」
「興味ないでしょ」
「あるよ。なかったら聞かねえだろ」
「……今日調子悪いっぽいわ」
「まあ、そんな気はしてた」
 別に、なんとなく気になったから聞いただけでもいいのだ。普段なら気にも留めないことで妙にイラついてしまっている自分に、あまり機嫌がよくないらしいと理解する。赤信号で停車し、ナビの画面で地図を確認する。もうそろそろ着くが、そのあたりのコンビニで乗り捨てていけばいいか。今は何を言っても駄目そうだと感じ、黙り込む。窓の外に灰を落とし、視界に入ったコンビニの明かりを目指す。
 車に男を待たせ、コンビニで花火と缶チューハイを買う。出る時、外に設置された監視カメラを曲げ、こちらに目をやった迫に降りてくるよう手招きする。
 二人で家までの道を歩き出す。いつものように歩けないせいでどうしても迫に合わせてもらう形になる。最悪。腹立たしいので、袋から缶を取り出して開ける。視線を上げると三日月があった。
「俺に怒ってんのか、もしかして」
「足に使われるのはムカつく。でも、そんなんで怒るほど心狭くない」
「だよなあ」
「気にしないで」
「してねえよ」
「しろよ」
「してるしてる。とりあえずなんで浴衣なのか知りたいんだけど」
「飲み屋で着せられた」
「なんだそりゃ?」
「一緒に着よって言われてドンキで買った」
「飲み屋でか?」
「若い子だから、断れなくて」
「お前そういうのに弱いなあ」
「すげーやすもの」
「まあ、生地薄いもんな。で、そのまま店から着てきたの?」
「なんか問題あんの?」
「おじさんに見せようとして?」
「ち、がう」
「ええ、図星かよ」
「ひとっ、ことも、言ってない!」
「はー。かわいいねえ」
「違うっつの」
「じゃあ、なんでそんな動きづらいもんずっと着てんだよ」
「趣味だし」
「へぇ~初耳。いてっ」
 缶の中身を一気に飲み干し、潰して男の背に投げつける。地面に落ちる前にそれを手元に引き寄せ、舌打ちと、何度目かのため息。馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。玉状にした缶を袋に捨て、仕方なくもう一缶手に取った。この不機嫌も飲めばなんとかなるだろう、たぶん。

 家に着き、男がシャワーを浴びている間に花火の準備をする。水を張ったボウルをベランダに持っていき、先ほどくすねたライターを窓際に置いた。時折鳴る風鈴の音が夏を感じさせる。つっかけの類がないことを確認し、玄関から自分のサンダルを持ってくる。
 花火大会に行くのは面倒だ。浴衣でなくても、ただでさえ人混みも暑いのも嫌いなのに、わざわざ花火を見るためだけに集まる人間の気が知れない。窓際に座り、サンダルに足を通す。でも、そういう面倒くささも魅力の一つなのかもしれないとは思う。一仕事終えた後のビールみたいな。三缶目を開けながら、煙草の箱を手に取る。
 ボウルに灰を落としつつスマホを見ると、春ちゃんからお礼のメッセージが来ていた。あの後客は入ったのだろうか。スタンプだけ送り、ニュースに切り替える。ふと思い立ち、SNSで花火と検索してみるが、今日は特に大会などはやっていないらしかった。手持ち花火の写真やそれに関する話題をぼーっと眺める。"夏っぽいこと"に対するこの、郷愁というか、感慨はなんなのだろう。若い頃にちゃんと経験しなかったせいか。現実的な悲しみを覚え、酒を呷る。
 窓枠に寄りかかり、目を閉じる。平日の夜は静かだ。背後から聞こえるドライヤーの音。しばらくして、それも消える。
 男がリビングに入ってきたのが分かり、顔をそちらに向ける。スマホをいじりながら椅子に座った男は、ちらと私を見た。
「シャワーは?」
「めんどい」
「脱ぐのめんどくさそうだしな」
「何盗んできたの」
「書類とか、色々。知り合いに頼まれてさ」
「仕事じゃん」
「言ったろ?」
「聞いてない」
「そうだっけ」
「花火やろうよお」
「はいはい、ちょっと待ってな」
 男の何かしらの活動についてを働いてきたと表現しただけで、仕事だと思っていたわけではない。三缶目を飲み干し、空き缶をコンビニの袋まで移動させる。次の缶を引っ張ろうとしたところで男がスマホを置いて立ち上がった。持ち上がった缶を男がつかみ、私に寄越す。
「いつぶりだろうなあ」
「花火?」
「やる機会ないだろ」
「ないね。どれがどれだかわかんないな……」
「これ線香花火だ。でかいやつからやりゃいいんじゃねえか?」
 ビールを飲みながら、袋を開けるの男の指先を見守る。サンダルが自分の分しかないことに気づき、一旦立ち上がってベランダに移動する。男は私が座っていたところにあぐらをかいて、中身を順番に出していく。
 ばかみたい。いい歳した大人二人で、真剣に手持ち花火を見つめているのがおかしくて、笑ってしまう。
「なんだよ」
「んふふ」
「楽しそうだなあ」
「これさ、一気に火つけたらやばいかな」
「ご近所迷惑?」
「エンターテインメント」
「そんならもっと上品にやろうぜ」
「わー美学持っててご立派じゃん」
「ギャラリーがいねえんだ、いくら派手にしても仕方ないだろ」
「あたし!」
はこっち側だと思ってたんだけど……」
「花火の話?」
「何もかも」
 半分ほど飲み、缶を地面に置く。煙草をくわえるが、風が吹いてうまく火がつかない。
 共犯者。私たちは、たぶん同じところに立っている。
 煙を吐き出し、缶の中身をなくして灰皿代わりにする。男を見ると目が合って、酔いを実感する。
「一本ちょうだい」
「どれ?」
「なんでもいいよ」
「じゃこれ」
「ありがと」
 受け取った太めのそれに火をつける。一瞬大きく炎が上がり、それからばちばちと音を立てて燃えていく。
「ライター貸して」
「ん」
「いやー、夏だね。風鈴つけて正解だった」
 大袈裟に言ってみせながら、男は私のとは別のものに火をつけた。その直後、勢いよく弾けていた私の花火は燃え尽きてしまい、仕方なくボウルの水に浸ける。ひとつの花火が燃えるさまと、焦げたようなにおい、それから風鈴の音。膝が痛くなって立ち上がり、煙を深く吸い込む。
「全部できるかなあ」
「できなきゃ捨てればいいだろ。またやりたくなったら、買うなりなんなりすればいい」
「あんたのそういうの、すき」
「そりゃどうも」
「浴衣似合う?」
「似合うよ」
「んふふ」
「俺も、お前のそういうの好きだぜ」
 吐き出した煙の奥で、男が笑う。ずるい。返す言葉を持たない私は煙草を捨てて、また、花火を手に取った。