訓練
※後日談 オリキャラ回です。
ケトルをセットし、お湯が沸けるのを待つ。戸棚の中に最低限の食器しかないことが、ここが彼女の本来の家ではないという話に説得力を持たせている。隠れ家として、あるいはこうして弟子たちが休むスペースとして利用しているのだろう。振り向いてただ置いてあるだけのシンプルな家具たちを眺める。テレビを始め、生活に必要ないものは一切置いていない空間。ローテーブルの上のサボテンだけが、唯一気を緩める要因となる存在だった。
──貴様から金銭を受け取る気はない。週に一度、サボテンに水をやりに来い。そして、コーヒー一杯飲み終わるまで出るな。こちらの要求は以上だ。
硬く、澄んだ声色で女は言った。ケトルがかち、と音を鳴らすので、コーヒーの粉をマグカップに入れ、そこにお湯を注ぐ。
──ここにあるものは自由に使ってよし。週に一度以上出入りしても構わない。ただし、指定の曜日以外に何があろうと責任はとれない。
──煙草はベランダですか。
──馬鹿者、禁煙だ。個人を特定できる痕跡を残すな。他に質問は。
──どうして、サボテンの水やりだけで、稽古をつけてくれるんです。
思い出したら煙草を吸いたくなってしまった。猛暑の中帰宅(家ではないが)し、コーヒーの匂いを嗅いでいる。まだ三回目だが、このルーティンに慣れる日は来ないと確信している。熱すぎる液体に顔を顰めたところで、記憶の中のミス・ヴォンがその目で私を射抜く。
──ちょうど世話係が死んだのでな。他に、貴様に任せるべきこともない。
──コーヒー一杯分出るなっていうのは。
──貴様はアルコール依存症らしいな。この部屋で精神を落ち着けろ。肉体を破壊し続けていては、いつまで経っても個性を伸ばす段階には進めんぞ。
嫌になるくらい真面目な師匠だった。というか、嫌になっている。自分で始めたことだし強くなれるのであれば従うつもりではあるが、こんなことなら大金を積む方が楽だ。決められた周期で決められた行動をとるというのが不得意な私にとって、この部屋に来ること自体非常に苦痛である。しかし、従わずに破門されたとして、また一から師匠を探すという苦労を考えれば我慢しなくてはならない。
余ったお湯を捨て、中を水で冷やす。牢獄のようなこの場所で、私は精神統一を強いられている。こんなことをされたって酒をやめるわけではないのに。
苦行を終え、その足で訓練場に向かう。ミス・ヴォンの所有している、射撃場を含め様々なトレーニングルームがあるだだっ広い地下施設だ。感情をぶつける対象が的になったというのは、ありがたい話かもしれない。
一発。左にずれた。ダーツならワンビット。二発。インブル。最高。三発。ブル。及第点。
安定はしてきたが、実際に発砲する機会があるとしたら動く的相手だろう。ミス・ヴォンがそれを用意することはないだろうし、実戦でいきなり人に向けて撃つことになる。
あいつも、昔はこうして修行したりしたのだろうか。ブル。狙いがどうこうより頭を使う戦い方だから、そんなにしていなさそうだ。ブル。元々頭はいいのだろうし。インブル! ようやくハットトリックだ。ため息を吐き、一度腕を下ろす。
「ダーツか」
「……ハット狙いで」
いつの間にか師匠が近くのパイプ椅子に座っていて、驚いてしまう。よく分かりましたねと口にしそうになるが、そんな言葉は言い飽きた。
「道理で筋がいいわけだ」
「いいんですか?」
「だからこそ、こうして見張っている。才能を過信するな」
「厳しいっすね」
「当たり前だ。甘やかすことなど誰にでもできる」
彼女の言葉に苦笑し、再び銃を構える。怠け者の私にとっては、厳しいくらいでちょうどいい。ミス・ヴォンに限って私情を挟んだりはしないと分かっている、信用しているからこそありがたいと思えるのだけれど。
「エンターテイナーと知り合いらしいな」
「えっ」
大幅な下降。三のトリプルはいついかなる時でも最悪だ。
「手を止めるな」
「す、すみません」
「手癖の悪さやら要領のよさやらがそっくりだな。あれに付き合うのは簡単ではないだろう」
「……そうでもないですよ。私は馬鹿だから」
「自分を馬鹿だと思うことで困難から逃げてきた類の人間か? そこまでの愚図には見えんがな」
「……」
重くなる指を誤魔化すように、三発目を撃つ。どれも妙な位置に逸れてしまって、思わずため息を吐いた。
「三角形を作るんじゃない」
「ほんとですね」
「数えるほどしか話したことはないし、それも十年近く前だが、馬鹿を傍に置いておくほど間の抜けた男には見えなかったぞ」
「そう……見えるかもしれませんけど」
「……貴様も人間だな」
「な、なんですかそれ」
「コンプレスの存在が貴様の弱味になりうるという意味だ」
「弱味……」
「強味にもな。手を止めるな」
「……はい。あの、ミス」
「なんだ」
「私は人間くさい方だと思うんですけど」
「主観的かつ差別的意見だが、何事にも気力のないやつを人間らしいとは思わない。そういった意味では安心した」
「そういった意味では」
「そうだ」
言葉を切ったミス・ヴォンが立ち上がり、手のひらを下に向けた。私が握っている銃がそれに合わせて下げられ、はっとする。私と同じ個性? 彼女はそのまま私に近づいてきて、手にしたコーヒーの空き缶を宙に放り、今度は的の方へ手を払った。鈍い音と共に、的の中心に大きく開く穴。缶を操作し的に当てたのだ。あの軽い動きで、あれほどの勢いを出せるとは。
「これも主観的な意見だが」
ミス・ヴォンの言葉が、めりめりという音を遮る。
「あの男と深い関わりを持つことは推奨しかねる」
埋まっていた缶が彼女の手に戻ってきたのを見てから、顔を上げた。私を見ていたらしい彼女と、当然のように目が合う。
「どうしてですか」
「欺くことに長けているからだ。その上貴様は悪に染まることへの抵抗がなく、危うい」
「……親みたいなこと言うんですね」
「私が貴様の親なら、そもあのような人種と出会う生き方はさせないだろうな」
「あいつのこと、嫌いなんですか」
「嫌いだ」
あまりにはっきりと即答されてしまい、笑うしかない。彼女は眉間の皺をそのままに手の中の缶屑をゴミ箱に投げた。どういう知り合いかは知らないが、確かに相性は悪いだろうなと思う。
「その個性」
「貴様のものとは違うが、使い方は同じだ」
「だから教えてくれるんですか?」
「サボテンの世話係が死んだと言わなかったか?」
「聞きましたけど」
「我々の個性には似たものが多くある。縁を感じるほどのことではない」
「そうですか……」
「個性の訓練に移行できるよう励め」
「はい」
結局どういう個性なのか教えてくれないのか。どうして見せてくれたのだろう。ああいう使い方もできると言いたかったのかもしれない。
その後出勤してきたミス・ヴォンの部下たちと共に射撃の訓練をし、さぼっていた基礎トレーニングもさせられて汗をかいた。着替えて水を飲んでいると彼女がじっと見てくるので、そちらに顔を向ける。色素の薄い瞳が瞬き、美しさに見とれる。
「貴様はやはり、悟子の子だな」
「えっ……母とも知り合いなんですか?」
「ああ。まあ、いずれ話してやる」
「楽しみにしてます」
「ゆっくり休め」
「はい、ありがとうございました」
得体の知れない人だと思っていたが、母の知り合いと聞くとなんだか現実味が出る。私から見て迫とミス・ヴォンは同じ類の人間だし、世に言うヴィランなのだろうが、母は違う。もっと早く教えてほしかったなと思いながら、施設を出た。