風鈴
※後日談 「夏の夜・夢の中・風鈴」
あつい。今日の海はいつもよりも明るく、月が大きいのだと気づく。熱など持たない白さが黒い空の中浮かんでいる。どうやら沈むだけではないらしいので、歩いてみることにする。
暗い海に沈んでいくだけの夢。今日は向日葵はなく、月が大きい。不思議な世界だ。夢だと分かっていても、没頭してしまう。何かの暗示だろうか。起きたら忘れてしまうのだけれど、次に海に足を踏み入れる時、何度も見た景色だと思い出す。海に抱かれたこと。向日葵を抱え、太陽に焼かれる日もあるが、それも海の夢と地続きであること。そしてこの世界では、現実のことが何も思い出せないこと。
漠然とした不安感がここにはある。沈まなくていいというのは気楽だ。今日は随分優しいねと心の中で言いながら、月を見上げる。満ち足りてなどいないのに、不安は少しずつ取り除かれていく。やけに生々しい海面の温度が踝の骨を撫でるので、くすぐったくてまた足を大きく前に出す。
海に沈む時、あるのは死への恐怖ではない。大きな絶望と、愛に似た深い感動だ。
口から聞き覚えのある曲が漏れだす。どこで聞いたのだろう。何も分からないのに、口は勝手にメロディーを刻む。波の音に呼応するように、私は歌を口ずさむ。
そうしてまた、思い出す。理解する。ここに人は来ないことや、緩やかな自殺は必ず誰かの手によって終えられるということを。
くちびるの感触で目を覚ます。瞼を持ち上げて、離れていく男の顔を認識する。夢を見ていたらしく、意識がぼんやりしている私に笑いかけ、男は私の頬を撫でた。
「……さこ」
「おはよ、眠り姫」
「朝……?」
「昼だな」
「なんで、キスしたの」
「したかったから。まさか起きると思わなかったけど」
「なんか……起きなきゃいけなかったの。そしたら、キスされた」
「また夢か? よく見るなあ」
「わかんない」
背中と膝裏に汗をかいている。夢の中でも暑かったような気がするけれど、男の体温によるものだったのかもしれない。
一週間ぶりにこの家に来て、そのまま酒を飲んで寝たということだけは覚えている。最近は何かと忙しく、以前のようには酒を飲めなくなった。そのせいで昨晩はタガが外れたのか馬鹿みたいに飲んでしまった。馬鹿だ。
夜中に一度目が覚めた覚えがあるが、それから既に十時間近く経っている。この頭痛や全身の痛みは、寝すぎたせいもあるだろう。二日酔いはともかく。
「あつい」
「冷房ついてるけどな。汗すげえ」
「下げる……」
「ああ、おい、風邪引くからやめとけ」
引き寄せたリモコンが途中で男にとられてしまう。風邪がどうとかはどうでもいいので、今はとにかく涼しい状態になりたい。うつ伏せになってシーツに顔を埋める。男が触れたうなじのあたりは特に汗がひどく、触られることでよりそれを意識する。
「シャワー浴びてくれば?」
「めんどくさい……」
「おじさんも一緒に入ってあげるから」
「なんだこのおっさん……」
「いいだろ、たまには」
「セクハラ」
「そう言われちゃなあ」
「……たばこ……」
体を起こし、這うようにベッドを降りる。夏は嫌いだ。暑くて、体がとにかくだるい。我ながら大きすぎるため息が漏れ、後悔する。代わりに同じくらい大きく息を吸い込み、よしとした。
吸いながらぼーっとテレビを見ていると、男が向かいに座った。テレビでは各地の夏祭り特集が流れている。
「風鈴てさあ、いいよね」
「風鈴か。いい音だとは思うけど」
「頑張って鳴いててかわいい」
「なんだそりゃ」
「でも、自由みたい」
「……たまに詩人みてえなこと言うな、お前は」
現実主義の男には伝わらなかったらしい。風に吹かれて全身で鳴く、一生懸命なかわいい子。それでも、気ままに揺れているように見えるからいいのだ。昔はどうだか知らないが、少なくとも今は好き勝手生きているこの男には分からないのかもしれない。いや、私も似たようなものか。ため息ごと煙を吐き出し、花火の映像を眺める。
「最近、鍛えてるんだって?」
「え、なんで知ってんの」
「風の噂。は裏じゃ目立つから」
「ふーん……まあ、流れでね」
「そうかい。分かってるだろうが、気をつけろよ」
「大丈夫。なんかあったら言うよ」
「ま、なんもねえとは思うけどな。ヴォンだろ?」
「知り合い?」
「ってほどでもない。名の知れたやつだからな」
「美人だしね」
「それもある。とにかく、やり手のガンマンさ。底知れねえが、仕事に関してはきっちりしてる」
「真面目だよね。最初会った時、稽古つけてくれるなんて思わなかった」
「あいつももう歳だし、若いのがかわいいんだろ」
「へー。ありがたい」
言うほど歳をとっているようには見えなかったが、貫禄があるので何歳でも納得がいく。迫よりは上なのだろう。下手をすれば親より上かもしれない。
「よかった」
「何が?」
「やばいやつなら止めようと思ってたんだよ」
「そういうのうまいから」
「いい才能だ。ま、程々にな」
「うん」
煙草を揉み消し、鞄からお茶を引っ張り出す。まさか鍛えていることもその師匠のことも知られているとは。テレビの特集はいつの間にか終わっていて、流れ出すニュースを脳に入れる。
ミス・ヴォンは真面目だ。見た限りいい人だし、そうでなくてもきっちり稽古をつけてくれるのでそれでいい。美人で酒が強いというだけでも、一緒にいる価値はあるけれど。
その日、ジムに行ってからしこたま飲んで帰ると、窓辺で聞き馴染みのある音がした。
「粋な男ぉ」
「そりゃどうも」