深い深い春




 きゃあきゃあと、はしゃいだ声がしている。子犬がじゃれあいながら転がるような。
 オズはその光景を、ソファに深く腰かけて眺めていた。見守るというにはやや淡々としすぎ、黙認というには寄せる情がいくらか込み入った、そういうまなざしで。家具に頭を打ち付けるからやめなさいと、走り回る小さなアーサーに忠告してからというもの、勢いを持て余したふたつの影は絨毯の上で新しい遊びに興じている。こどもの遊びの知識などないオズからは、それが如何な遊びかは察しがつかなかったが、ごろごろともつれる姿からはおおよそ秩序というものは感じられなかった。

「ふふ、ああ、待ってアーサー。走ってはダメ」
「走っていません!」
 はずんだ声をあげた小さな身体は、しかしいまにも走り出しそうだ。オズはゆっくりと立ち上がってそれを受け止める。
「アーサー、その辺りに」
「オズさま!」
 顔を上げてオズを確認したアーサーは、瞳を輝かせると身体を押し付けるようにして抱き着く。こどもが一度はしゃぐとなかなか落ちつけないことを、オズはここ数年でよく学んでいた。細い銀髪をかき上げると、いくらか汗ばんでいる。身体を冷やしてはいけない。
「あら、もうこんな時間」
 視界の奥では、女がゆっくりと起き上がるところだった。スカートの裾を正しながら時計からオズへと視線を移した女は、ゆるく微笑んだ。窓の外では、幾日続いているかわからない嵐が吹き荒んでいる。
「今夜はシチューにしましょう」





 は、旧い時代の魔女だった。オズ自身、いつから知人と認識していたのか思い出すことはできない。時折、師の家を出入りしていた記憶が最も古く、征服時代も顔を合わせることは幾度かあったが、兄弟子のように手を貸そうとすることもなければ、オズのマナ石を欲して邪魔立てする気も見せなかった。旧く強い魔法使いの大方がオズの手によって石に変えられたあの時代を経てなお、がいまだ形を保っているのは、ただ彼女がオズに対して悪意や敵意というものを向けることがなかったことによる。あの時分と変わらず気ままに暮らしているらしい女は、不定期に城に訪れては、オズの拾った子どもによく構っていた。城の中にあってはどんな魔法使いであってもオズの意に反して幼いアーサーに危害を与えることなどできはしないし、アーサーも珍しい客人に喜んでいたので好きにさせている。
 北の国の一年のうちひときわ寒く乾いたその日も、女はどこそこの流行だという菓子や玩具、衣類を持って、オズの城に訪れた。挨拶もそこそこに土産物を抱えさせられたアーサーが、オズのもとに駆け寄る。オズが視線の高さを合わせるために膝をつくと、アーサーは色とりどりのキャンディが詰まった瓶を両手に抱えて見せた。
「オズさま、キャンディを頂きました! 食べてもいいですか?」
「ああ」
 パッと笑顔を浮かべたアーサーが瓶の蓋を開けようとするがうまくいかず、瓶ごと取りこぼしそうになる。オズが手を差し伸べる前に軽やかな呪文が響き、アーサーの手を離れて宙に浮いたそれから、大粒のキャンディがひとつ飛び出した。小さな両手を差し出して落ちてくる黄色の粒を受け止めたアーサーの後ろから、ゆっくりと歩いてきた女が浮遊する瓶を支える。
「どうぞ」
さま、ありがとうございます!」
「アーサーはお礼が言えてえらいわ」
 女が細い手で小さな頭を撫でる。アーサーはくすぐったそうに笑うと、キャンディを口に放り入れた。期待に満ちた表情は、数瞬の間をおいて、驚きにとって代わる。何事かと声をかけようとすると、彼は「ぱちぱちします!」と高い声を響かせてオズを見上げた。
「ぱちぱち……」
「レモン味はぱちぱちするのよね」
 女が言うと、「おいしいです」とアーサーが笑う。「もう一個ください!」と言うアーサーに、女が赤いそれを摘まんで手渡した。ひとつずつ食べなさいと声をかける前に、オズにそれが差し出される。
「オズさまもどうぞ」
「いや……」
 断られるなどとは微塵も思っていない無垢な瞳に圧されてとうとう受け取り、口に含む。ベリー特有の甘酸っぱさに遅れて、弾けるような感覚が舌を刺激した。
「これは」
「ルージュベリー味はびりびりするの」
「オズさま、オズさま、びりびりしますか?」
「ああ」
 オズが答えると、何がそんなにうれしいのかアーサーはさらに表情を明るくした。小さな身体は跳ねそうなほどだ。こどもとはみな、こうも返事ひとつを全身で表現するものなのだろうか。立ち上がったオズがアーサーを見下ろしていると、女の視線が自身に向いていることに気づく。時折女が見せるそのまなざしの色を、オズはここでない場所で見たことがある。例えば師や兄弟子が、過去を物語るときに。
「なんだ」
「いいえ。それよりもアーサーに渡したいものがまだあるの。あなたもご覧になって」
 女が呪文を唱え、華やかな包装を施された箱がいくつも現れると、次々にリボンがほどけ包装紙が開いていく。積みあがる箱のひとつを覗き込んだアーサーが「お洋服です!」と声を上げた。
「西の国で見ていたら止まらなくなってしまって。きっとどれもアーサーに似合うわ」
 そこからは目まぐるしかった。色とりどりの服が代わる代わるアーサーに着せられ、小さな身体が翻る。女がそれを見て、服の丈や幅を魔法で調整していく。彼らに問われるがままに似合うと返せば、二人はひとしきり喜んでまた次の服へと移っていった。こどもの姿をとった師の衣装の作りに似たクラシカルなデザインの物もあれば、もこもことしたシルエットの動物を模した部屋着もあった。西の国の流行の服だという見慣れない衣装たちは、細部の違いを説明されてもオズにはよくわからなかったが、いずれもアーサーによく似合っていた。
 着せ替えは魔法で行われていたが、それでもすべてを試し終える頃には日が落ちていた。「あっという間」と女が見やった窓を雪の混じった強い風が叩く。背後に隠れてそわそわと様子を窺っていたアーサーの頭をオズが軽く撫でると、小さな彼はとうとう意を決したように、荷物をまとめようとする女のもとに駆け寄った。
「ああアーサー、今日はとっても楽しかったわ。ありがとう」
「私も楽しかったです! それで、さま、アーサーは、あ、私は、料理ができるようになったのです」
「素敵。オズのお手伝いをたくさんしたのね、えらいわ」
 褒められたアーサーが得意げな顔で笑う。
「ポトフを作れるようになりました! なので、今日は」
「うん」
 よろしい? と尋ねる女に、城の主は頷いて返した。
 オズとアーサーが暮らすこの城はひどく静かだ。寂しい思いはさせないようにしているつもりだが、それでも客人が帰った後にアーサーが気落ちしている様子があるのはわかっていた。最近はこどもなりに引き留める口実を探しては、拙い駆け引きを持ちかけている。いじらしく、あわれとも思う。オズは駆け引きを成功させて浮き足立つアーサーに向けて両手を広げ、飛び込んでくる身体を受け止めた。ポトフ、私はちゃんと作れます、ねえオズさま。オズは頷きながら、こどもの手を引いてキッチンに向かった。
 アーサーは料理ができると宣言するが、調理中のアーサーの主な役目は、オズの切った野菜を鍋に放り込んだり、魔法で固定された鍋をかき混ぜたりすることであった。踏み台に立ち、世界の命運でも任されたかのような顔つきで木べらを往復させているアーサーに、「そのくらいでいい」と告げる。アーサーがここにやってくるまでは、料理を教えたことがないのはもちろん、自身が料理をした経験すらなかったが、ポトフやシチューは、アーサーがここにやってきた当時に比べて大分形にできるようになっていた。アーサーが最初に料理をしたいと言い出した時は何から手を付けさせていいかわからず好きにさせたが、落とした包丁が足に突き刺さりそうになってからは、刃物は持たせていない。それでも今はまだ満足しているようだった。時間の問題かもしれないが。「私はちゃんとできていましたか?」と尋ねるアーサーの言葉を肯定して、オズは魔法で配膳を行う。魔法を使ってを呼び出すこともできたが、アーサーが部屋まで呼びに行くというのでそのようにさせた。「喜んでいただけるでしょうか?」。アーサーの表情に、期待と少しの緊張がのぞく。問題ないとオズは言った。慰めではなく、そうなるだろうと確信していたからだ。女はアーサーが何をしても喜んだ。起きようが眠ろうが、悪戯をしようが。
 アーサーが女の手を引いて食堂に辿り着く。どうぞと笑ったアーサーに応えて慎ましやかな晩餐を口にした女は、予想の通り「美味しい」と笑った。
「オズさまが教えてくださいました! オズさまは、魔法だけでなくて、お料理も教えてくださいます!」
「素敵な先生ね」
「はい!」
「アーサー、零している」
 オズがアーサーの口周りを拭っている間、アーサーは固く目を閉じてそれを受け入れた。拭いているのは口の周囲なのに、目を閉じるのはなぜなのか。食事に戻ろうとしてあげた視線の先で、女を見た。彼女は小さな口に何度もスプーンを運ぶアーサーを見つめている。それが親愛を含むものであることはオズにもわかったが、女がなぜアーサーを殊更に目にかけるのかは、オズには理解できない。そもそもオズは目の前の女が何を好んでいて、厭うているのかをほとんど知らなかった。
 食事を済ませたアーサーがソファでうつらうつらとし始めたころ、は窓に寄り、じっと外を見つめていた。「吹雪いてきた」。呟く通り、天候は荒れ始めている。「箒は使わないほうがいいかしら」。オズも外を見やったが、確かに転移魔法を使うのが賢明と思えた。女の魔力であれば吹雪を避けながら飛ぶことはできようが、それでも常時より消費は大きい。
「そろそろお暇しようかな。……アーサー、眠ってしまった?」
 女がささやくと、アーサーは「寝てません」とぼんやりした声で宣言した。
「おねむさんのところごめんなさいね。おやすみなさい、アーサー」
「帰ってしまわれるのですか……」
「うん、また遊んでね」
 ソファから身を起こし、名残惜しそうに眉を下げるアーサーの額を撫でて呪文を口にしようとした女は、しかし唱え終わる前に口をつぐんだ。顔には緊張と驚きが浮かんだが、それも一瞬のこと。その変化に気づかなかったアーサーが、呪文をやめた女を不思議そうに見つめる。
さま?」
「……やっぱり今日はお世話になろうかしら。あなたとオズがよろしければ」
「本当ですか?」
 睡魔に蕩けた目に溌溂とした光が瞬き、期待に満ちた視線がオズに向く。オズにとっては女がいつ帰ろうと大した問題ない。アーサーが喜ぶのであればわざわざ否とするほどの理由もないが、しかし。女に視線を投げれば、微笑で返されるだけだった。それが有意味な微笑であるということは、オズにも察せられた。
「わかった」
「ありがとう」
さま、ではもう少しアーサーと遊んでくださいますか?」
「アーサーはもう寝る時間だ」
「夢の中で続きをしましょう、アーサー。何をして遊ぶ?」
「えーと、えーと、お外で追いかけっこがしたいです」
「仰せの通りに」
 アーサーは、恭しくおどけた女の言葉に力の抜けた笑みを浮かべると、そのまま再びソファに沈みこんだ。
「アーサーをベッドに寝かせてくる」
「ええ」
 シーツの上に寝かせても、遊び疲れたのだろう、アーサーは身じろぎひとつしなかった。夜中に起き出すこともないだろう。以前は興奮しすぎて熱を出すことがあったが、最近はそれも減っている。オズはアーサーの細い前髪をかき分けて、小さな額に触れた。きっと望む夢を見るだろう。


 この城の主であるオズにとって、城の中にある魔法使いの気配を辿ることは、呼吸ほどに容易い。の気配が既に先の部屋にはなく、城の上部に移っていることは把握していた。北の国の全貌を捉えることさえ出来そうな、塔の先端。そのバルコニーに女はいる。吹雪は勢いを増し、すべてを漂白せんとばかりに吹き荒んでいたが、オズの力の及ぶ城の内側を侵すには至らない。バルコニーも同様に、烈風や雪の影響を受けてはいなかった。
 女はオズを一瞥すると、自身の手元に視線を促した。翡翠色に輝く、女の拳程度の大きさの鉱石が掌に乗せられている。女が呪文を唱えると、それは絹羽鳥へと姿を変えて羽ばたいた。鳥は、強い意思を感じさせる飛翔で吹雪の中へと姿を消す。探索の魔法だ。触媒が希少なほどその力を発揮する。女が使ったのは、並みの魔法使いから得たマナ石程度では取引できない程度に、強い神秘を持つ原石であった。にも関わらず、その気配は城の周囲を巡り、やがて途絶える。
「やっぱりダメ」
 女は目を伏せて、首を横に振った。
「転移魔法がうまく使えなかったから、おかしいと思っていたの。探索も使えない。ただの嵐じゃないみたい」
 オズはの言葉に、呼吸ひとつの間をおいて呪文を唱えた。精霊の気配が強まると共に、空間の境がゆっくりと開かれていく。北の国と西の国の境界に繋がるはずだったそれは、オズの意図を逸して、北の国の荒れた空を映すだけだった。どういうことだ、という呟きも猛雪のなかに消えていく。オズは再び厳かに呪文を口にした。天候を鎮める強い意思を持った魔法も、しかし空を晴らすことはない。それはこの北の国で、あるいは世界のどこにあっても異常なことだった。
「見に行ってくる」
 女が言い、外したピアスを中空に放ると、箒がそこに現れる。
「私が行く方がはやい」
「アーサーがいるもの。あなたはここにいらして」
「……わかった」
 オズの返答を聞くと、は優美な仕草で箒に腰かけた。細い爪先が地面を軽く蹴り、箒は先ほどの絹羽鳥と同じく吹雪の向こうに消えていく。オズは注意深く、女の気配を辿った。鉱石の鳥とは違い、急に途絶えたりはしない。
 十分程度か、オズが佇んでいると、城を目がけて強い風が吹いた。何かの兆しであることはじゅうぶんに察せられた。視界に広がる吹雪の奥から急速に迫る影を、城に衝突する前に魔法で留める。鈍く骨の軋む音。慣性を無視した不自然な制止に、それは手を離された糸繰り人形のように脱力すると、そのまま床に崩れ落ちる。座り込んで俯くは、ひゅう、と肩を揺らして息を吸い込んでは、大きく咳き込んだ。
「なにがあった」
「弾かれちゃった。でも、わかったことが少しだけ」
「なんだ」
「うん、なかで話しましょう」
 冷えちゃった。頬に張り付く髪をすくって、女は言った。


「あなたにどうにも出来ないなら、こんなことは誰にも出来ない」
 浮かんだティーポットが、カップに紅茶を注ぐ。暖炉では変わらず、不規則な間隔で薪が弾けていた。どんな夜でもこの光景は変わらない。オズは女の向かいのソファに着く。不可解ではあったが、この状況を特段脅威には感じない。細い指でカップを持ち上げるも同様のようだ。
「わかったことと言うのは」
「嵐が向こうの山岳まで飲み込んでいること。それと、核がないこと」女は指先で円を描いた。「魔法使いが意図したことなら、源があるはずでしょう。でも、どこにも感じられなかった」
「……」
「隠匿の魔法だと思う?」
「いや、その可能性は低い」
 女も浅く頷いた。この規模の魔法を使いながら、その存在を隠匿することなど、全盛期の師が二人がかりでもなければ不可能だ。そんな魔法使いは、この時代にはいない。
 しかしそうであるならば、これは何者の意図も伴わない現象ということになる。それもまた不自然であるように思われた。
「スノウさまとホワイトさまならなんて仰るかしら」
「……すでに試した。連絡がつかない」
「そう」
「精霊以外に感じる気配は」
「いいえ。あなたはなにか感じる?」
 オズは目を伏せていくらか沈黙することで、否定を示した。しかし、と続ける声は重々しく響く。
「厄災の狂騒に似ている」
「まだ月は遠いのに」
「……陣を敷く」
「でもあまり強引だと、精霊の機嫌を損ねてしまうかも」
「問題ない」
 断言はしたものの、オズは薄い唇を引き結んだ。精霊たちの狂騒が何に依るものであろうと、己の力であれば干渉することはできるだろう。例え鎮めるに至らなかったとしても、なにがしかの収穫はあるはずだ。しかし女の言う通り、精霊の反感を買う可能性もある。オズならばその程度では影響をほとんど受けないだろうが、この城で暮らす幼いこどもはそうも行かない。オズの目があっても一瞬で怪我をするこどもが、この厳しい土地で、万が一にも精霊の加護を失うなどと言うことにでもなればどうなるだろうか。
 思案するオズに、女は場違いに思えるほど穏やかな声音で「様子を見ましょうか」と言った。
「私、今夜はもう眠くなっちゃった」
「……」
「そんなお顔なさらないで。だってどれほど吹雪いたって、ここは及ばないのでしょう」
「ああ」
「それなら、考える時間はあるわ。案外、待っていればどうにかなるかも。……ね、だから、また明日」





 こうして吹雪の過ぎるまで、はオズの城で過ごすこととなった。不穏な情報を伏せられたまま、滞在の延長だけを伝えられたアーサーはいたく喜んだ。そして、吹雪を喜ぶことはいけないと思い直したのか、眉間にぎゅっと力を込めては、しかしすぐに新しい遊びを提案しようと口許を綻ばせ、オズと女の手を引いた。
 オズはと言えば、アーサーの機嫌が良いのであればそれで構わなかったし、女はこどもを喜ばせる方法をよく知っていたので、そのうちのいくつかは参考になった。例えば、グラタンの作り方、心を弾ませる音楽、児戯のような魔法。
 夕餉のシチューに入っていたニンジンが薔薇を象っていたのには、オズも少しばかり驚いた。細工を施しているところは見ていたが、魔法を使っている様子はなかったので、女の技巧によるものだろう。今度アーサーにねだられたなら、オズであれば魔法を使う。


 食後の時間は大抵、暖炉の側の長椅子に深く腰掛け、体力をもて余したアーサーの相手をして過ごした。砂糖菓子を薄く引き伸ばしたような、曖昧で仄甘い時間。
「見ていてね、アーサー」
 女が呪文を唱えると、アーサーが覗き込んだ女の手元からひらりと大きな蝶が浮き上がった。ひとつひらめくたびに翅は鮮やかさを増し、輝く鱗粉がこぼれる。不規則な軌道でアーサーに近づいては離れ、アーサーもまたそれを追おうとしてふらふらと両手をさまよわせる。一向に捕らえられそうにないが、アーサーはそれでも楽しそうに翻弄されていた。銀色の小さな頭がくるくると回ったかと思えば、オズたちの座るソファの周りをあちらこちらへと移動する。
「ハンカチが蝶々になってしまいました! オズさま、見てください! 蝶々!」
「見えている。あまりやると目を回す、アーサー」
 見かねたオズが指を差し出すと、蝶は導かれるようにしてその先で翅を休める。ターコイズ・ブルーの翅に、さまざまに偏光する繊細な模様が浮かんでいる。それは女が使う魔方陣に似ていた。よく出来ていると、眺めながら思う。
「オズさますごいです」
 オズの膝に手をつき身を乗り出したアーサーが、目を瞬かせながら指先のそれを覗き込んだ。「オズさまは蝶々を捕まえるのもお上手なのですね」。先ほどまで声を上げて走り回っていたこどもが、一転声を潜めて言う。目まぐるしい。見つめてくる青い瞳のきらめきに、しかし適当な返事も見つからず、頭を撫でた。


 嵐の日々が続く中、アーサーの様子はそれでも変わりなかった。否、むしろ平素より浮足立っており、機嫌は良いくらいである。窓の外の様子を見ても土地の生き物の心配をしこそすれ、己が身の危険を感じているようではなく、オズが「大丈夫ですよね、オズさま」と伸ばされる小さな手を取って肯定すれば良い、それだけの話だった。
 ただ、こどもの持て余した体力の行き先は考え物だ。当初は本を読んだり、絵を描いたりして“おとなしく過ごす”ことの物珍しさを楽しんでいたものの、ここ数日ではそれにもすっかり飽きてしまい、城のなかを忙しなく駆け回っていた。もともと活動的なこどもだ。少し目を離した隙に、アーサーが階段の手すりを跨いで滑っていた時には、さすがのオズも血の気が引いた。女はと言えば、アーサーを抱えて滑ったり、魔法で階段を波打たせたりして一緒になって遊んでいると言う始末だったので、嵐にかき消されていなければ、オズの雷の落ちる音が城に響いたことだろう。
 危険な遊びを一通り禁じられ、アーサーが最終的に気に入っていたのはかくれんぼうだった。しかし、これもオズにとって良かったとは言い難い。
「世界で一番かわいい王子さまはどこかしら」「……」「世界で一番強くてかっこいい魔法使いの、とってもかわいい一番弟子さんはー?」「はーい!」「あ、見つけたわ!」「見つかっちゃいました! えへへ」「うふふ」。ふたりは一日中飽きもせず、そんなやり取りをオズの目前で繰り広げた。さらには、女が「世界で一番強くてかっこいい魔法使いさんはどこかしらねえ」と呟けば、「世界で一番強くてかっこいい魔法使いのオズさまはどこですかー? オズさまあ!」とこどもの声が城中にこだまするのである。オズはいつになく疲弊した。
 そんなこともあったが、荒ぶ城外とは裏腹に、過ぎる日々は概ね穏やかなものだった。


さま、さま、オズさまが蝶々を捕まえました。……さま?」
 応えない女をアーサーが覗き込む。オズが隣に視線を移せば、ここ数日の様子から予想はしていたものの、やはり傾いで寝息を立てていた。
さま、また眠っておられます。私とお昼寝もしたのに」
 おねむさんです、と女が使っていた言葉を口にしてアーサーが笑うと、女の睫毛が震えた。「ん……」鼻にかかった吐息が漏れ、薄い目蓋が持ち上がる。
「……うーん、うとうとしちゃった」
「ここで寝てはお風邪を引いてしまいますよ」
 それはいつもオズがアーサーにしている忠告だった。女はぼんやりとした瞳のまま、どこか得意気なアーサーに手を伸ばしその淡く紅潮した頬を擦る。
さま、オズさまは蝶々を捕まえるのもお上手なのですよ。こうして指を伸ばしたら、蝶々が止まりに来るのです」
「ふふ。うん、そうね。私の作った蝶々だから、オズのことが大好き」
「……アーサーのことは好きではありませんか……?」
「大好き! だから、こうして遊んでほしくなっちゃう」
 女が細い指で指揮を執ると、蝶はオズの手を離れ、アーサーの肩や、鼻先、頬を軽やかに掠めた。懲りずに伸ばされた手をすり抜け、戯れにひらめく。アーサーはいつまでも捕まらないそれに幼い抗議の声を上げながらも、きゃあと笑ってくるくると身を翻した。自分の尾を追いかける子犬を連想させる。
「あまりアーサーをからかうな。この時間にはしゃぐと寝つきが悪くなる」
「あら、大変」
 おいで、アーサー。女がこどもの名を呼ぶ。アーサーはぱっと視線を寄越すと、オズと女の座るソファに駆け寄って二人の間に収まった。飛び乗るように腰を下ろしたアーサーの身体が、勢いを持て余して小さく跳ねる。落ち着くようその背を撫でれば、照れを含んだ笑顔がオズに向けられた。
「アーサー、手を出して」
 アーサーは女がして見せた通りに、手を受け皿のように差し出す。すると、やってきた蝶はアーサーの目前で挨拶とでも言うようにひとつ宙で返って、小さな手のなかで羽を休めた。
「あっ」
 鱗粉のきらめきだけを残して、それはもとの姿に戻る。残された白いレースのハンカチを見つめるアーサーは、明らかに気を落としている。女は慈しみを含んだ手つきで、アーサーの髪をかき上げた。
「ごめんなさい、どうかそんなお顔なさらないで。ハンカチは差し上げる。あなたがたくさん魔法の練習をしたら、もっと素敵な蝶々になるわ」
「本当ですか? 私もできるようになりますか?」
「ええ、きっと」
 ハンカチを抱きしめ、女に礼を述べたアーサーが、オズを振り返ってふにゃりと笑う。
「オズさま、魔法、たくさん教えてくださいね。そうしたら、オズさまが乗れるくらい大きな蝶々にします」
「……そうか」


 夜半、オズはの部屋を訪った。ささやかな吐息すらどこまでも届きそうな夜のことだった。
 アーサーが怖がるので、今は城外の物音は遠ざけている。どんなに静かな夜でも、北の国には獣の哮りや森の息づく気配があった。この夜にはそれすらもない。久しくこんな沈黙が続いているような気がしたが、オズは日付の感覚がもとより薄いため、実際幾日が過ぎていたのかいまいち判然としなかった。恐らく、幼いこどもにとって短すぎるということはないのだろう。
 そうして思えば、がこれほど長く城に滞在していることも、これまでにないことだった。思うままに漂っているような女だ。すべての国に居があるのだとも聞いたことがある。オズやアーサーに対する振る舞いは献身的と言ってもいいが、その実、我を抑え込んで何かを捧げたり切り売りしたりする魔女ではない。例えアーサーが惜しんだとしても、空が元に戻ればまたどこへでも行くだろう。オズはそうした女の自我のあり方が嫌いではなかった。過去にそれを「不都合がない」と表現したことがある。それを聞いた師たちは、何故かなんとも言えない顔をしていたが。
 ノックをして数瞬待ち、返事がなかったのでドアを開けた。

 明かりのない部屋の中、薄い寝着をまとった女の形が、ぼんやりと浮かぶ。オズが女の名を呼ぶ声は確かに部屋に響いたが、ドアに背を向けて窓の傍に立つ女は振り向かない。無音の雪嵐を、ただ眺めている。再度呼ぶが、女は肩を揺らすことすらなかった。気づいていないのか。
 オズが訝しんでいると、女の細い腕が揺らめき、窓へと伸ばされる。オズは女のもとに寄り、冷たいガラスに触れる前にその手首を取った。
「……オズ?」
「なにをしている」
 女はオズを不思議そうに見上げ、それから掴まれたままの手に視線を移した。「多分、なにも。……ああ、いいえ、外を見ていた、のかしら」。呆気にとられたような顔で、女は首を傾げた。流れた髪がオズの手の甲を撫でる。
「なあに?」
「あまり魅入られるな」
「魅入られる? ……ううん、ちがうの。ちょっとぼんやりしてしまったけれど」
「……」
「ああ、でも、あなたの仰った通り厄災の気配に似ているから、少しあてられてしまっていたかも」
 この現象にとって、厄災は決して無関係ではないだろう。しかし、まだ月が近づく時期ではない。そして、厄災の力は大抵の魔法使いが人為的に利用できるものでもない。その程度のことはオズももとうに考えたことだった。何度かの短い話し合いを通して、月の石をはじめとした強い媒介の利用も検討したが、その見込みは薄いということで見解は一致している。それだけ強力な媒介であれば、厄災の気配に混じったところでオズに感じ取れないはずがないからだ。
 すべてが不自然であるに関わらず、しかし何ら支障はなく日々が過ぎている。
「それに、それだけじゃなくて、なんて言えばいいかな。なにか思い出せそうな気がするの」
 は再び、じっと窓の外を見つめた。豪雪の果てを見つめる視線は、徐々に焦点を失ったものに変わる。ふいに女の身体が不自然に脱力した。
「……、ありがとう。うーん、眠いわ」
 掴んだ手に力を込めれば、女の意識が再びオズに向く。女は少しの間、オズの顔を不思議そうに見つめると、微笑に似た表情を浮かべた。
「なんだ」
「心配なさらないで」
「心配などしていない」
「そう」
 手を放そうと指を解けば、いやに滑らかな手つきで今度はオズの方が捕らわれる。白魚のごときそれは泳ぐようにオズの手のひらを滑って、指の間を辿った。絡められるのは瞬く間。指間の薄い皮膚が擦れ合い、隙間なく重なる。感覚の閾が低い箇所をふいになぞられ、オズは肌が粟立つのを感じた。
 なんのつもりだと眉をひそめて視線で問えば、女は悪びれずに笑って、あっさりと指を解く。オズの反応に関わらず、最初からそうするつもりだったと言うように。
「あんまり近く来て下さるから、いいかと思って」
「なにが」
「あなたに触れても」
 誘惑と言えるほどの媚も感じられず、からかいと言うほどの悪意もない。魔女の寝室には不釣り合いなほど、邪さを感じさせない声音だった。故に言葉に詰まる。
 しかし、そんなオズの沈黙も構わず女はあどけない仕草で笑うと、やはりあっさり流れを打ち切った。
「ご用でいらしたのでしょう」
「……話がある」
「私も」
「お前は」
 言いかけて、しかし口を閉ざした。特定の条件を満たせば、オズがそうと気づくように仕掛けた魔法が発動したのだ。柳眉をひそめて入ってきたドアの方を気に掛けるオズに、女は不思議そうに声をかける。
「オズ?」
「……アーサーが目を覚ました」
 伝えたのはそれだけだが、女はなにかを思案するように細い指先を口元にあてた。
 オズが呪文を唱えると、アーサーのベッドの前に立つ。目元を赤くしたこどもは、日中よりもいっそう幼く見える。半身を起こしたアーサーは、丸くした目を擦って言った。呪文を唱えることもなく部屋に明かりを灯す。
「オズさま、……さま?」
「こんばんは、アーサー」
 オズの呪文に便乗したらしい。女はアーサーに微笑みかけると、靴を脱いでシーツの上に腰を下ろした。
「あなたに会いたくて、オズについて来てしまったの。お邪魔してもいいかしら」
 アーサーは頷きながらもいまだに驚きがさめない様子で、女とオズの顔を見比べ、最後にまたオズを見た。オズはベッドのふちに腰かけ、銀色の髪をかき上げるように撫でた。熱がこもっている。
「アーサー」
「オズさま、私はまたちゃんと眠れます」
「……無理をするな」
 数度繰り返したやり取りだった。そのたびにオズはアーサーが再び眠るまで傍についていたが、根本的な解決にはなっていない。
 無理などしていません、と震えた言葉が虚勢だというのは感情に疎いと言われるオズでもわかる。しかし、アーサーの眠りが浅いその理由はわからない。普段であればアーサーが隠し事をすることなどなかったし、不安になったのなら自らオズの部屋を訪れるはずだ。
 そんなオズの内心を知ってか知らずか、はアーサーの熱い頬を両手で包んで軽く持ち上げた。冷えた手が心地よいのだろう、アーサーが目を細める。
「まあ、かわいそうに。お顔がこんなにあっついわ。悪い夢を見てしまった?」
 粉砂糖を振るうかのように落とされた声に、アーサーはぎくりと肩をこわばらせる。「ちがいます」と首を振る姿は怯えていた。
 記憶や夢を覗くことは容易いが、師や兄弟子からは精神に深く干渉するような魔法は極力施さないよう忠告されている。アーサーが全く眠らなくなったり、食事を摂ることがなくなった時にはオズも躊躇うことはないだろうが、幸いというべきか、まだそのような事態には陥っていなかった。
「怖いことがないならいいの」
 女が手の甲をアーサーの頬や首に緩くあてる。
「それじゃあ、オズにホットミルクを淹れてもらいましょうね。ねえアーサー、東の国のホットミルクの作り方はご存じ? 北の国のレシピでも美味しいけれど、東の国ではね。ああ、まだ秘密にしておこうかしら」
 宙に浮いた羽ペンが、紙の切れ端に文字を綴る。ひらひらと舞い終えたペンはアーサーの机に、切れ端はオズの前に舞い降りた。エバーミルク、ガロン瓜、魔法使いのシュガー、そのほかいくつかの材料。古代語の癖がやや残る流麗な筆跡だった。
 何故己がという訴えは、期待を含ませてオズを見上げる幼気な瞳に封じられる。
「いいのですか、オズさま」
「ああ、待っていなさい」
 言って立ち上がったオズを揺れる瞳が引き留める。
「どうした」
「オズさま……、お待ちしています」
「……ああ」
 やはり不安げなアーサーの様子にわずかに違和感を覚えたものの、小さな頭をもう一度軽く撫で、オズはキッチンに向かう。

 レシピはさして難しいものではなかった。オズが知るものとそう変わらず、温めたミルクにいくつかの調味料を入れ、味を調えたものである。味を見たところ、北の国のものがスパイスの利いた体を温めることに優れているものであるのに比して、東の国のものはまろやかで甘みが強いらしい。
 こども部屋のドアを開けると、アーサーが弾かれるように顔を上げた。そのままもつれながら駆け寄ってくる姿を見とめ、オズはとっさにカップを宙に浮かばせる。抱き着くよりもぶつかるという表現が適当だろう、その必死さにどうしたことかと眉を寄るのを感じながら女に視線を投げるが、返されるのは微笑ばかりだった。
「オズさま! アーサーは、アーサーは……」
 話そうとすればするほど感情が昂るようで、終いにはくしゃくしゃと泣き始める。熱の塊のような身体を抱え上げ、ベッドへと戻る。頭にも背中にも熱が溜まっているというのに、靴を履かないでベッドを出たせいで足は冷えてしまっていた。体の異常は、しかしそれだけのようだ。以前風邪をひいたときのような発熱でもない。トントンと背を緩く叩く。
「落ち着いてからでいい」
「オズさま……」
 シーツの上に下ろすと、落ち着き始めていた呼吸がまた跳ねる。アーサー。名を呼ばれたこどもはオズを見上げた。
「どうした」
「あの、オズさま、私は……」
「ああ」
「……」
「……嵐が怖いのか」
「オズさまがいて下されば怖くありません」
「では、なんだ」
 銀の眉が八の字を描く。
 眠りに支障が出るほど嵐を恐れているのであれば、後のことなど構わず天候に干渉するつもりでいた。その後何が起こるか知れなくとも、オズの力のすべてを持ってしてアーサーを守ろうと。しかし、そうではないと言ったアーサーの言葉からは偽りは感じられない。
 小さな手がシーツをきつく握った。
「ず、ずっとこのまま遊べたら良いって……」
 見る間に涙の膜が張る。
「オズさまと、さまが、ずっと私と遊んで下さったらって、でも、私がそんな風に思ったから、嵐がやまないのかもって、そんなことないって思ったのに、よくない夢、たくさん見て、言ったらほん、ほんとに、なってしまいそう、思っ、言えなっ……」
 泣くのをこらえては、余計に呼吸が不安定になる。しゃくりあげるたびに跳ねる肩を女の細い腕が抱き、丸い後頭部に頬を寄せると、アーサーは小さく安堵の息を吐いてオズを見上げた。涙に濡れたまつげが光を反射する。
「そのようなことは起こらない。それほどの力は、お前にはない」
「はい……」
「……不安か」
「いいえ、オズさまが仰るのなら」
 涙の膜が張った瞳は、それでもオズをまっすぐに見ていた。無条件の信頼が、ただひたすらにオズに向く。オズはアーサーの背に腕を回し、身体を冷ますように大きく撫でた。アーサーは微笑みながら、オズの腕に額を寄せる。こども部屋は、しばらく静かだった。人肌程度の温かさを持った沈黙が満ちる。そうして、うとうととしたアーサーが眠るかと思われた頃。
「まだホットミルクを頂いていません!」と、幼い声が跳ね上がった。
「眠いなら眠りなさい」
「思い出したら目が覚めてしまいました」
 アーサーが気の抜けた笑みを浮かべる。それが先ほどは異なり、ひどくリラックスした様子であったので、オズはさらに気の抜けた心地だった。
 ベッドサイドのテーブルに置いていたカップを手に取り、温くなったそれをアーサーに手渡す。物心がついてからろくに緊張などした覚えはなかったオズだが、ここ数年でそれがなんであるのかを知った。例えば、アーサーが森にかけ出した時、地面の裂け目を覗き込んだ時、飲み物の入った熱いカップを渡す時。
 そんなことを知らないアーサーは、にこにことカップに口づける。
「甘いです」
「そうか」
「おいしいです!」
 アーサーは今度は女に向き直ると、高揚した調子で言った。
「オズさまが以前作ってくださったのも、暖炉の火をおなかにくべたみたいにぽかぽかしておいしかったのです」
「素敵。私も教えてもらおうかしら」
「はい!」
 勢いよくカップを傾けてあっという間にミルクを飲み干したアーサーは、腹が満ちたこともあってか、再びまどろみ始めた。今にも眠りに落ちてもおかしくないように見えたが、むずかるように目を擦るばかりである。オズは、アーサーが今よりもさらに幼い頃に何度かそうしたように、アーサーの腹の辺りを淡雪が降り積もるよりもごく軽く、一定の間隔で叩いた。
「ねえ、アーサー。もしまた悪い夢を見たら、オズと私があなたを迎えに行くわね」
「ほんとうですか?」
「ほんとう」
 女は微笑むと「内緒のお話」とアーサーの耳に口元を寄せた。アーサーは内緒という言葉に惹かれたのか、目を輝かせる。女とアーサーは半ば布団に潜り込みながら言葉を交わしていた。
「私、夢の魔法だけは、オズよりちょっと上手なの」
 その“内緒”はオズにも十分に聞こえていたが。「オズさまよりですか?」声を潜めることを忘れたアーサーの言葉に、シィと女の吐息が返される。遅れて、くすくすと笑う気配。
 オズはこの場ではもはや公然となったその秘密を、わざわざ壊すようなことはしなかった。魔力の質や量、実践のすべてにおいて比べるべくもなかったが、が夢の扱いに長けているのは事実だったからだ。そして、言葉にして確認したことはなかったが、それだけの理由があるとオズは推測している。
 まもなく眠りに落ちたアーサーの呼吸は穏やかなものだった。この分であれば、朝まで心配はいらないだろう。
 それにしても、アーサーはずいぶんと幼い悩みを抱えていたものだとオズは思う。その程度の憂いなど、打ち明ければすぐに晴らしたものを。
「特別なひとだから、伝えがたくなってしまうことってあるもの」
 女の言葉を理解できないと切り捨てることはできなかった。アーサーは時折そのような素振りを見せる。
 そしてオズにも気にかかることがあった。オズがこれまで世界に対して行ってきた所業を、アーサーはまだ知らない。いつまでも知られないままではいられないことも理解している一方で、できることなら今のままでいてほしいと願っている。
 アーサーが望むのであれば、嵐など止まずともよいとさえ。
「かわいいこ。毎日おまじないをかけて差し上げればよかった。かわいそうなことをしたわ」細い指が銀の髪を梳いた。

 女がオズを見上げる。
 過去オズの知る限り、女の声は常に、この国の湖水の清潔さを帯びていた。それが今は、ぬるいまどろみに揺れている。そういったことが、ずいぶんと多くなっていた。
「話がある」
「ここで?」
 オズはアーサーに結界を施した。ごくごく薄いそれは、オズやの気配までは断たないだろう。話す声が幾分届かなくなる程度のものだ。
 女はそれを察すると、ややあって身を起こす。再び視線が重なった時にはもはや気怠さは窺えず、常の微笑みが浮かんでいた。
「なあに?」
「お前の眠りは異常だ」
「そうね」
「……お前が夢と通じていることに関係があるのだろう」
「うん」
 女は頷いた後、オズが黙っているのを催促と捉え、言葉を続けた。
「私は魂に欠けがある。欠片は夢に置いてある」
 のそれに瑕疵があることは知っていた。恐らく、オズが出会ったときにはすでにそうであったように思う。多少力のある魔法使いであれば見て取れるようなことであったし、それをわざわざ口にする必要は感じなかった。この時までは。
「夢っていう、世界そのものとのつながりなの。私は夢に、魂ちょっと分の統治権を持っている。夢も魂少し分の支配権を、私に対して持っている。そういう酬い」
「お前の身体は、もはや均衡を欠いている」
「肉体は衰えるけれど、夢の世界は不変だものね。夢が私を支配する力に、私の身体はもう耐えられない。少ないけれど前例はあるの。夢に浸った者の末路。最後は眠ったまま石になる」
「……」
「この身体はもうすぐ夢のもの」
「そうしてお前は眠り続けるのか」
「そう」
 眠って、石になるまでは一年か、十年か。百年と言うことはないけれど。穏やかな抑揚だった。オズは健やかな寝息を立てるこどもに視線をやる。
「いつまで保つ」
「この冬の間は」 
 春は決して遠くはない。女は言葉を重ねる。
「大丈夫。この子の前でそんな風になったりしないわ。お別れには違いないけど、ひどい終わりにはしたくないものね」
「……そうか」
「春になる前にはもう会えなくなることもお話しするつもりだったのだけれど、ここにいるとつい先延ばしにしてしまって」
「その後は」
「え?」
「ここを発って、お前はどうする」
 オズ自身、なぜそんなことを尋ねたのかわからなかったが、尋ねられた女もまた戸惑っているようだった。微かに震えた女の唇は、しかし瞬きの間に綻び、オズは女の動揺が何によるものかを尋ねることはできなかった。女は答える。
「石になるまで、私は私を封印する。魔法使いの身体なんて、いくらでも使い道があるもの。二度と目を覚まさないとしても、眠っている間に誰かに使われるのはいや」
 石になってしまったら、あとはどうなるのも構わないけれど。言いながらも声はやはり穏やかで、オズに向けられた視線は満ち足りていた。死を前に見せる諦念とも受容とも異なる、過不足のない矜持だけがあった。女は持てる力のすべてを持って、自身を封印するだろう。
 アーサーに影響が及ばないのであれば、女がどのように終わろうとオズの関わるところではない。問う意味など、やほりなかったはずだった。
「あなたのそんなお顔を見るのははじめて」
 女の指は、しかしオズの頬に辿り着く前に静止した。形の良い目が徐々に見開かれ、睫毛がゆっくりと持ち上がるさまは花のようですらある。そこには先ほどまでの満ち足りた空気はなく、砕けるグラスを見つめる一瞬のような、はりつめた儚さがあった。
「はじめてじゃない」と女が呟く。オズが問う前に、女はもう一度同じことを繰り返した。

「はじめてじゃなかった」
「どういう意味だ」
「わかったの、オズ。これは、この嵐は」
 女はふつと糸を断つようにして崩れ落ちた。受け止めると、規則的に呼吸をしており、眠っているだけであることがわかる。名前を呼ぶが、女は身じろぎひとつしなかった。
 いったい何が起きている。違和感と焦燥が胸を打ち、そして。
 前後の記憶は消失している。





 私たちは思い出さなくてはならない。





 ささめきが鼓膜を淡く撫でる。光の泡が弾けるようなそれが、ひそやかな笑い声だと気づいたのはもうしばし後のことだった。
「オズさま、オズさま!」
 ひたと頬に伸ばされる手に瞼を上げる。無遠慮に顔に触られているにも関わらず、不快さを感じないというのは不思議なことだと思う。いつの間にか眠っていたらしい。
 起きていると告げれば、首元に抱きつかれた。同じ部屋で眠ることは久しくなかったので、甘えているのかもしれない。オズも珍しいことに随分と深く眠っていたのか、覚醒しきらない心地で小さな身体を支えた。その背後から、もうひとつ笑い声がする。
「おはよう、オズ」
 視線を上げれば、シーツに手をついたがこちらを見下ろしていた。
「今日はね、ピクニックをしましょうってお話ししていたの」

「……は……だから。ね、オズ。聞いていらした?」
「……なんだ」
「もう、ぼんやりさん」
さま、ベリーのヘタをとりました! 次はなにをいたしますか?」
「素敵だわ、アーサー。それじゃあ、大事なお仕事を頼んでもいいかしら」
「はい!」
「大きなクロスとバスケットを見つけてきてもらえる?」
 アーサーはもう一度大きく返事をすると「一番大きいのを探してきます!」と、厨房を飛び出していった。とアーサーが何を話していたのか知らされていないオズは、女がブレッドにナイフを入れるのを硬い面持ちで眺める。外では変わらず嵐が吹き荒れている。ピクニックと言っていたが。
「危ないことはしないわ」
 いつにも増して沈黙しているオズをどう思ったのか、女は言った。
「お外に出られないと、気分も落ち込んでしまうものね。私やあなたにはあまりわからないことだけど、あの子は」
「……」
「早く晴れるといいのだけど」
「……」
「マスタード、食べられるかしら」
「……ああ」
「アーサーのことよ?」
「……ハニーマスタードであれば」
 女はナイフを置くと、オズを見上げて「ぼんやりさんね」と笑った。朗らかな声だった。もう直に消える女のものと思えないほど。
 女はごく自然にオズへと歩み寄り、その手を伸ばした。冷えた頬に触れた白魚の手はやはり冷たく、ぴたりと添う。「お熱はないわ」とささやく声に、まだ夢の中にいるような心地がするのが居心地悪く、薄い手を引きはがす。
「お前が気にする必要はない」
 深い眠りの名残か気怠さが付きまとうのは事実だったが、それを伝える気もなかった。今気遣うべきがオズの不調だとも思えない。
「私? 私は元気。起きている時はずっと元気よ。たくさん眠ったもの」
 女はからりと言い放つと、そのまま作業へと戻っていく。
「鴨のテリーヌ、多めに作っていてよかったわね。あ、そうだわ。果物はどうしようかしら。そのままでもいいけれど、サンドにしてもいいし……」
「フルーツサンドは作ってやったことがない」
「じゃあ、フルーツサンドにしましょう」
 女はオズの返答に、もともと良さそうだった機嫌をさらに良くしてふわふわと浮かべた調理器具を操った。





 ピクニックという言葉で思い浮かぶ光景がある。
 師らに魔法でがんじがらめにされ、無理やりままごとに付き合わされる形でティーセットに向かわされたそれではない。
 背丈がまだ伸び切る前のことである。双子の戯れに耐えかねたオズは、箒にまたがり屋敷を飛び出した。こんなことならフィガロの買い物に付き合っていればよかったとさえ思ったが、こうして屋敷を出るのを妨げられなかったということは、あちらも本気ではなかったということだろう。青灰色の空は骨を刺すほど冷たく、オズの肺を洗った。
 行く当ては特段なかった。氷の森や永久凍土ならオズの求める静寂があるはずだ。夢の森や時の洞窟もひとけはないが、音が多いので好まない。夜が更けるまでに戻れば探しに来られることもないだろうと、いくつかの村の上を通り過ぎてしばらくのことだった。
 ふとオズをとりまくものがあった。すんと香りを吸い込む。花の香りが微かに混じる、清冽な水の気配。空の上では場違いなそれ。魔法使いが意図して干渉してきているのだ。悪意や害意は感じられず、とは言え気づかせるということ以上の目的を感じないそれに、どのような意味があるのかわからない。
 眼下には浅く霧がかかり、深い森に囲まれた湖の姿が浮かび上がっている。この季節であれば、おそらく薄氷が張っていることだろう。人影は見当たらない。
 オズはゆっくりと下降した。己の力でもってすれば大抵のことはどうにでもできることを知っていたし、もとよりいずこに用があるわけでもない。処理をするのならば、余計な縁が濃くなる前に動いた方が望ましい。
 背の低い草を踏みつければ、くしゃりと凍った感触が靴に返る。湖畔からはやや外れた木々の狭間。霧は視界を妨げたが、悪い気分ではなかった。精霊たちの厳かな沈黙と、冷たい生のにおいが立ち込めている。
ゆらりとそびえる木々のシルエットの背後から、それは徐々に浮かび上がった。オズよりほんの少しばかり背の高く、しかし華奢な人影。
「オズ」
 水面を打つさざ波の冴えを思わせる声に聞き覚えがある。名は何と言ったか思い出せず、しかし思い出す必要も感じなかった。双子の屋敷に出入りしている少女だということがわかれば事は足りる。少女はいつも機嫌良さげに微笑んでおり、時折リュラを弾く。
 何の用だ、と問うた。
「あなたが見えたから、近くにいらして下さったらいいなって思ったの」
「何故」
「近くにいらして下さったら、うれしいから」
「……」
 少女の言うことはよくわからなかった。オズを呼び寄せるのに用いた魔力の気配と同様に、悪意はないが意図が知れない。
 ね、こっち。少女はひらりと踵を返した。先には湖がある。オズは霧に薄れる細い肩を見つめ、かき消える前に歩き出した。
 やがて視界が開け、凍てついた湖面を臨む。中空の塵が反射し、まばゆさに瞬く。目を細めた一瞬で見失った少女の姿は、しかしほど近い木陰にあった。身の丈ほどもありそうなスカーフを敷き、そこに腰を下ろしている。コルクを抜かれた水筒から湯気が立つ。香りを熱いと思ったのははじめてのことだった。
「どうぞお掛けになって」
 少女はマグカップに水筒の中身を注いで差し出した。オズが受け取らず、鈍赤色の暗く小さな水面を見つめていると、少女はスカーフの空いた半分にそれを置き、もうひとつ取り出したマグカップに同じものを注いだ。そして、そろそろとカップに口付けた赤い唇で、グロッグ、呟いた。オズは少女を見下ろす。
「ワインを熱くして、スパイスと果物のシロップと、シュガーをいれたの」
 そのようなものを双子に出されたことがあったような気がした。あれは確かグリューワインと呼ばれていたが。
「双子さまはそうやって呼ぶのね。師はね、グロッグと」
「お前の師は、今」
「双子さまのところ。私はお邪魔なのですって」
 すれ違いであったのは、オズにとって都合の良いことだ。あるいは、双子はそのためにオズが出ていくよう仕向けたのかもしれない。ともあれ、なおさらしばらく戻らないのが良いことにはかわりなかった。
 オズはカップを手に取り、そこに腰を下ろす。毒が仕込まれていたところで、たいした問題ではなかった。そのようなものでオズを脅かすことはできない。ひとくち含めば喉を通じて胃に熱が灯る。星を呷ったようだと思う。
   ふ、と熱い息を吐いたオズを見て、少女は木の脇からからバスケットを取り出した。そしてそこからさらになにやら取り出すと、真新しいハンカチーフに載せていく。
「マーシアの実とくるみがあるの」
 どうぞ、と差し出す指先が雪に透けるようで、思わずハンカチーフごと受け取ってしまった。マナ石以外の物を摂る意義などいまだに感じないというのに。もて余し、とりあえず膝の上に置く。
「ここでなにをしている」
「ピクニック」
「……」
「お外で食事をするのよ」
「何故」
「楽しくておいしくてわくわくするから。だから私、ピクニックが好き」
「……」
「あなたのこともとっても好き」
 少女は微笑んで、それきり何も言わなかった。
 どこかで獣が枝を踏んだ。鳥が飛び立ち、雪垂りが響いた。それがすべてのようだった。
 湖月が冷たく揺れるまで。





 懐かしいわけではない。そもそも懐かしむというのがどういう感覚なのか、オズにはよくわからなかった。ただそんなことがあった、と思う。
「そこのお部屋よ、アーサー」
「ここですか? エントランスに向かうのではないのですか?」
 が指したのは、城内の一室だった。アーサーが重い扉をそっと開け、中を覗く。そして静かに扉を閉めると、いやに深刻そうな表情で声を潜め「がらんどうです」と呟いた。アーサーの言葉に間違いはないだろう。事実、使われていない部屋である。
 女はのんびりと「どうしましょうねえ」と笑って、白い指に石灰をとると、扉に魔方陣を描き始めた。
「これで十分だと思うのだけれど」
 何をするつもりか問う前に、呪文が響く。扉に変化はない。しかし、その向こうで大きな魔力の流れが生じていることはアーサーにも感じ取れたようで、そわそわとした顔がこちらを見上げた。
「アーサー、開けてくださる?」
「は、はい!」
 そこには見渡す限りの平原が広がっていた。
 萌ゆる緑は色濃く、溢れんばかりの生命がにおいたつ。柔らかくあたたかな風が髪をさらい、きゃあと幼い歓声が上がった。
「すごいです!」
「待ちなさい、アーサー!」
「はーい!」
 駆け出したアーサーは、オズの制止に返事をするなり顔からべしゃりと転ぶ。芝に覆われた地面の上ではさして痛みを感じなかったのか、それでもにこにこと笑っていた。
「夢か」
「夢よ。でもほら、ランチはここに」
 オズは眉をしかめる。その言葉が真実であれば、容易い魔法ではない。
「うん。でも、これくらい大丈夫。……ううん、だから、大丈夫なのかしら」
「どういう意味だ」
「調子がいいの、今日は」
 女はそれだけ言うと、バスケットを置いてアーサーのもとへ駆け出した。そのままどちらともなくもつれると、大袈裟なほどごろごろと転がる。動物のようなスキンシップだ。アーサーから抱き上げたり、撫でたりすることを求められることはあるが、それよりも原始的な触れ合いに見える。
「オズさまあ!」
「今行く」
 オズはバスケットを持って、二人のもとに歩み寄った。踏みしめる土の感覚は夢とも思えない。持ち込んだ食事が本物と言うことは、現実と夢の狭間とでも言ったところだろうか。
 女は「ありがとう」とバスケットを受け取ると、魔法を使ってぱたぱたと準備を始める。クロスが敷かれ、ティーセットの用意が整う。バスケットにはオズが思っていたよりも様々な食物が詰まっていた。
「アーサー、まずはどれにしましょうか」
「私は玉子のが、あっ、オズさまとさまはどれになさいますか?」
「気にしなくていい」
「玉子と、なにがいいかしら。私はトマトのにしようかな。フライドチキンもあるのだけれど、オズ、召し上がる?」
「……頂こう」
 慣れた手つきでカトラリーに食事が盛られていく。渡された皿を両手で受け取ったアーサーが嬉しそうに笑う。女は食事を娯楽としていた。規則的に食事を摂る習慣はなかったようだが、ここで過ごしているうちはアーサーに合わせているようだ。
 オズが拾う以前からの習慣からか、アーサーはマナ石を摂りたがらず、人間とほぼ同様の頻度で肉や野菜を調理した物を食べたがった。最初はマナ石を与えておけば十分だと思っていたが、アーサーには食事が必要なのだと双子らに指摘されてからは、オズもなにかとそれに合わせるようになった。アーサーが望むからともに食事をしているだけで、今となってもオズは食事それ自体に意味を感じてはいない。ただ不都合はない、と思う。
「オズさま、ベリーのサンドイッチがおいしいです。オズさまも召し上がられますか?」
「私はいい。落ち着いて食べなさい」
「はい。さま、さまは……」
「うん、頂くわ」
 がアーサーの頬についたクリームを掬いながら笑った。
 遊びたい盛りのアーサーは目に見えてそわそわとしていたが、それでも食事の作法は守ろうとしていた。オズの城に来るより前から宮でよく躾けられていたのだろう。そうしていつもより少しだけ口数の多い食事を終えると、紅茶を飲んで一息つくのを待ってから「あっちを見てきてもいいですか?」と花の咲く場所を指差した。女を見やると危険はないと頷かれる。
「遠くへ行くときには一度戻ってきなさい。それから、生き物を見ても不用意に追いかけないように」
「はい、行ってきます!」
 前のめりの危うい駆け方で小さな背中が離れて行ったかと思うと、花の群生する一角でぺたんと座り込むのが見える。遠目にも白い花が多く目についたが、花の名どころか実在する物なのか否かすら、オズにはわからない。
「私、あの子のことが大好き」
 女が真実を語る声音で呟く。恐らく、返事を必要としているのではなかった。
「それでね、あなたのことがとっても好き」
「……知っている」
 必要としていないことをわかっていながら、オズは答えた。
 がゆっくりとオズを向き、瞳に姿を映す。とうに失われたものを懐かしむように、あるいは失われゆくものを慈しむように、まなざしはオズの表面を撫でた。己はなにかを忘れてはいないか。仄暗い焦燥。オズはそれをゆっくりと振り払い、言う。
「昔から、お前が私になにを望んでいるのか、私には理解できない。理解することもないだろう」
「あら。……ふ、うふふ」
「……」
「茶化したのではないの。ご機嫌直して」
「損ねていない」
 女は紅茶を淹れなおすと、歌すら聞こえてきそうなほど軽やかな手つきで、オズと自分のカップに注いだ。
「わがままはもうたくさん叶えてしまったの。あなたとダンスをしたこともあるし、お食事したりお酒を飲んだり、ピクニックもして、他にもたくさん」
「そのようなことがお前の望みか」
「あなたと過ごしたすべての時間が、私の望み」
 少女めいた顔で女は笑う。
「だから、難しいことはなにもないの。……あら、難しいお顔。ご不満?」
「やはり、理解ができないと思っただけだ」
「ふふ」
「なにがおかしい」
「あなたがたくさん考えて下さるから、うれしくて」
 戯れのようにもたれてきた女の柔らかな髪がオズに流れる。オズは依然理解できないまま好きにさせた。
 思えば二千年近い時の間、女はオズの認識に依らず好きにしていたし、オズにとってそれは理解できないものの大抵あまり不都合ではなかった。理解できないと告げたことも、女の望みについて考えたことも、これが初めてで、恐らく最後となる。
 ただ、時間ばかりが過ぎていく。
 ふと女が何か気づいたようにアーサーの名を呼んだ。こどもがいるはずのその場所を見やると、小さな身体が転がっている。ころんと寝返りを打つところを見ると、眠っているのかそのように遊んでいるかのどちらかだろう。
 様子を見てくると告げ、オズはその場を離れた。背の低い花園に足を踏み入れると、仰向けのアーサーがオズを見つめる。
「オズさま」
「なにをしている」
「花冠を作りたかったのですが、なかなかできなくて困っておりました。前はできたのに……」
 小さな手が掲げた数本の花は、弄られた後なのか幾分くったりとして、白い頭をもたげている。確かに苦戦しているようだ。
「書庫から本を……。いや、来なさい、アーサー」
 かがんで広げた腕の中に、当然のように飛び込んでくる身体を受け止め、拾い上げる。歩幅が違いすぎるのでこうした方が速いことも、最近学んだことのひとつだった。
「あらアーサー、抱っこしてもらったの。よかったわね」
「はい!」
 女は屈託なく笑うアーサーに、同じくらい幸せそうに微笑み返す。こどもの身体がオズの手から女の腕へと移された。
「なにをして遊んでいたの?」
「花冠を作ろうとしたのですが、できませんでした……」
「うーん? ああ、花冠には少し茎が細すぎるかしら」
 萎れかけた花の束を握るアーサーの手が女のたおやかな手に包まれ、呪文が響く。指の間からかすかに輝きが溢れ、ほどかれた手の中から現れた花は瑞々しさを取り戻していた。
「あ!」
「あなたから冠を賜るはずだった幸せな方はどなた?」
「ええと、オズさまとさまと、ホワイトさまとスノウさまとフィガロさまと……」
「私にも? うれしい」
「でも……」
「みんなのは難しいけれど、こういうのはどうかしら」
 細い指が一輪を手に取り、アーサーの銀髪を手繰ったかと思うと、そのこめかみの上あたりに花が挿されていた。耳にかけただけではなく髪を弄ったようだが、構造はよくわからない。ただアーサーの銀髪によくなじんで見えた。女も時折、器用に髪型を変えているのを思い出す。
 女がコンパクトを開いて、アーサーを映した。
「うん、かわいくできた。編み込んでみたの。冠とは違うけれど、いかが?」
「すごいです! 私にもできますか?」
「もちろん。じゃあ、オズ」
 なにが“じゃあ”なのか。問う前に二人はオズの背後にまわった。「触れてもよろしい? いたずらはしないわ」。女がささやく。魔法使いにとって体の一部を掠め取られることは、致命的にも成り得る。そうするつもりはないと言いたいのだろう。オズは「好きにしろ」と返した。触れられるのも、別に初めてのことではない。
「結び目を低くして、緩く編んでみようかな。アーサー、ここの髪を少し掬って、こうして……」
「こうですか?」
「そう、上手」
 髪を軽く引かれる感触は正直心地よいものではないが、オズは黙って受け入れていた。些末なことだからだ。視界の外では今が幸福とばかりの笑い声。
さま、さまはこの花がなんという名なのかご存じですか? 私は初めて見ました」
「私も知らないの。ここ以外に咲いているのを見たことがないから、ほんとうは存在しないのかも」
「どこにもないということですか? 少し寂しいです」
「オズに創って頂く?」
「……私は創造主ではない。新しい種を作ることなど」
「冗談よ」
 夢は所詮夢だもの。凪いだ声からは感情を窺い知れない。
 ふと、アーサーから「あ、そうだ」と声を上がった。
「春になったら、オズさまが北の国でも咲く花を見に連れて行って下さるのです」
「まあ、楽しみね」
「はい! ですから、さまもご一緒に行きませんか?」
 髪に触れる指先にはわずか程の動揺もない。
「お約束はできないの、アーサー。私たちは魔法使いだから」
「はい……」
「でも、そうできたらいいわね」
「はい、きっと」
 ややあって、「はい、できた」と女が手を離す。
「素敵よ、オズ。でもこの角度だとあなたからご覧になれないのが残念」
「必要ない」
「オズさま、とってもきれいにできましたよ」
「……そうか」
 意味があることとは思わなかったが、覗き込んできたアーサーが喜んでいたのでこれで良いのだろう。頭を撫でると、犬のように丸い目を細める。「オズさま」「なんだ」「お膝に失礼してもよろしいですか」「……座りなさい」「はい!」。いそいそとオズに背を向ける形でひざに上がり込んできたアーサーが、ぽんと芝生を叩いた。
「次はさまですね。こちらに座ってください」
「はあい」
 女は言われるがままに、オズとアーサーに背を向けて座った。豊かな髪が陽光を照らし輝く。アーサーはその波間に手を入れ一房を掬い上げるが、二、三と掬おうとするうちに取りこぼしてしまう。手の大きさが足りていない。「こうか」。見かねたオズが手を貸して、やっと何とか形になりそうだった。髪はひんやりとして指に絡む。
「誰かに髪を触れられるのは久しぶり。なんだかわくわくしちゃう」
「あ、動いちゃだめですよ」
「はあい」
 こどもじみた返事をして、女はくるくると喉を鳴らして笑った。
 アーサーが最後の花を挿し、「はい、できました」と手を離す。先ほどの女を習った仕草のようだ。
「よくお似合いです、さま」
「ありがとう。お褒めに預かって光栄だわ」
 振り向いた女と視線が合う。「どうかしら」「……アーサーが似合うと言っている」「うふふ」。実際、花は女の髪によく映えた。もとより白のなじむ女である、と思う。確か、そんな風に感じたことがある。湖面を覆う薄氷のような、浮かぶ花弁のような、白が。
 女はオズの傍らに寝転んだ。目は伏せられ、睫毛が頬に震える影を落とす。
「眠るのか」
「ううん」
 ならば今は眠らないのだろう。アーサーは、しかし女がいつものようにまどろんでいると思っているようで、「私も後でお昼寝したいです」と呟いた。
 ここにはあたたかな風が吹いている。穏やかな時間がもうずっと続いているように思えた。そして、これからも続いていくようにも。
 錯覚であると理解している。
 遠くない未来に女は石となる。オズとていつか石になる運命からは逃れられない。アーサーも幼いままではなく、やがて青年となるだろう。中央の国の王子に。不変の物が存在しないことなどオズはとうに知っているし、それについての感想は今も昔もない。
 だから、この焦燥は喪失に対するそれではありえないのだ。違和感は次第に強くなる。
「オズさま、オズさま」
 膝の上の軽い体重がオズに寄り掛かる。こちらを見上げる顔に視線を落とした。
「あったかいですね」
「そうだな」
「春になったら、また花冠に挑戦したいです」
「ああ」
「夏はどうしましょう、私は虫を採ってみたいです。それから秋には木の実をたくさん拾って、冬は……」
 夢中で語る声はだんだんと覇気を失い、眠気を帯びていく。
「ずっとこんな日々が続いていくといいですね」
 オズは返事をしなかった。
 まどろむ目元を擦る幼い右手は、けがれひとつない。まばゆく、まっさらな手の甲。中央の国の王子のそこには、やがて痣が刻まれる。
 賢者の魔法使いたる証が。
 オズが今知るはずのないそれ。中央の国の王子となる青年の姿を、賢者の魔法使いとして降り立つアーサーを、しかしオズはすでに知っている。前触れなく、もう焦燥の影はない。
 思い出した。
 これは、と乾いた唇が紡ぐ。
「これはお前の夢だな、
「いいえ。これは私と、あなたの夢」
 女は言う。
 ほどいてほしいの、あなたに。





「嵐は来なかった」

 アーサーは中央の魔法使いの使命を背負った十七歳の王子であり、オズもまた北の魔法使いの立場を返上し中央の国の魔法使いとして召喚された。幼いこどもはもうおらず、オズは厄災の傷を負い、は北の国で眠っている。
 まやかしの嵐の元、共に過ごした時間などなかった。実際の決別はあっけなく、昨晩告げた通り女は自らを封印した。
 花は散り、草原は消え去る。部屋は城内の一室へと姿を戻し、しかしそれすら現ではない。正体に気づけば虚飾が剥がれるのは、呪いの常套だ。今に城も崩れ去るだろう。アーサーももはやここにはいない。オズとだけが、残されている。
 出られないこの城こそが夢。偽りの過去を再演するための装置。
 厄災の力で活性化した遺物が異変を起こしたケースは、もはやそう珍しくもない。
「元凶は大いなる厄災、触媒は」
「私の身体」
 女はオズを見つめた。
「うん、今も私の屋敷にあると思う。最後に会った時からどのくらいかしら」
「十年ほど」
「じゃあ、放っておいてももう崩れるかな」
 轟音とともに足元が揺らいだ。城の崩壊が始まっている。この部屋も長く持たないだろう。
「ねえ、オズ。あなたはどうしてここにいらっしゃるの。あなたほどの魔力を持つ人が、どうして」
 声には動揺が滲んでいる。
 女の疑問はもっともと言えた。かつてのオズであれば、いくら厄災の干渉と言えど、このように夢に引き込まれることなどなかったはずだ。
 オズはが眠っている間に世界で生じていた出来事について語った。厄災が力を増し、先の儀で魔法使いたちが深手を負ったこと。各地で厄災による異変が生じていること。厄災の傷により、オズは夜の明けるまで十分に魔法を使えないこと。
 はそれらを静かに聞き、ゆっくりと瞬きをした。オズがすべてを思い出したということは、魔力が戻り始めている証左だ。
「夜明けが近いのね」
 同時にそれは、ここにいる間の出来事が、一晩の夢に過ぎないということも示唆している。
 じきにオズは己の魔法でここを脱する。崩壊に巻き込まれ損傷を負うこともない。
「お前は、いつから気づいていた」
「昨日の晩。ここでの、昨日の。お伝えしようとはしたのよ。でも無理に抗えば、厄災が干渉を強めるかもれなかったから」
 昨晩から記憶の欠落があることや、意識が明瞭でない時間があることにも、オズは自覚できようになっていた。女から何らかの働き掛けがあったとして、不思議の力を厄災に吞まれている女と、力を十全に使えないオズではどうにもならないことは自明だ。それをわざわざ咎めようとは思わない。
「ピクニックはね、あの時出来なかったことをしてみようと思ったの。記憶と大きく乖離することをしてみたら、何かほころびが見つからないかと思って。……今なら、ただ夜明けを待てばよかったのだとわかるけれど」
 轟音と地響きは一層増している。
 ひときわ大きく音を立て崩れた塔を見つめていた女が、ややあってオズの方を向き直り、言った。
「ごめんね」
「なんのことだ」
「どうして巻き込まれたのがあなただったのか、おわかりでしょう」
「厄災が」
「いいえ、私が。私の魂があなたを覚えていたから。この器があなたを求めたから」
「……」
「だから、ここは私とあなたの幸福が重なるよう誂えられた」
 女にとってはオズがいる光景を、オズにとってはアーサーが城で暮らしていた時間を。知らず醒めないことを望むように。
 失われたものを見せつけた。
「あなたは私を、今すぐ粉々にしていいの」
 最後の壁が崩れ落ち、もはや部屋とも呼べなくなった空間が風にさらされた。止まらない崩壊は女の足元にも及び、たやすく呑み込もうとする。
 掴み引き寄せた身体は、石のように冷たかった。
「必要がない」
「そう」
 声は寄る辺なく、オズの胸元に落ちる。それきりオズは何も言葉にせず、もまた身じろぎひとつしなかった。必要がなかった。この他になにも。
 やがて夜が明けるまで。





 小鳥が囀ずっている。窓から差す明けの光がシーツに帯を降ろす。
 オズはゆっくりと窓辺に寄り、庭から舎へと歩いてくる人影を見とめると、階下へと向かった。
 今朝の魔法舎はいつにも増して静まり返っていた。人の気配のないロビーでオズを見つけた青年が、相好を崩す。生まれに違わぬ品の良い面差しに勇敢さと優しさを湛えた、銀髪の青年である。子犬のような人懐こい笑みは、どの記憶の中でも変わらない。
「オズさま、おはようございます。ただいま戻りました」
「一晩中仕事をしていたのか」
 目の下にうっすらと浮かぶ隈を見つめながら問うと、アーサーは眉を下げながら笑みを作った。
「どうしても早く終えて、魔法舎に戻ってきたかったのです。今日の昼食がネロのキッシュだと聞いて」
「……変わりはないか」
「はい、私は元気です」
「ならばいい」
 そうオズは頷いた。王子としてアーサーがそうしたいと思うのであればそれでよいと、そう思う一方で、度を超すようであればオズも思うようにするだろうという確信もある。どんなに時が経とうとも、オズが守るべきこどもであるのには変わりない。
 そんな内心を知らず、オズが頷くのを見て嬉しそうにしたアーサーは、次にオズの持つ箒に視線を移した。
「オズさまはお出掛けですか?」
「すぐ戻る」
「でしたら、昼食はご一緒させてください」
「考えておく。お前は早く休みなさい」
「はい、そういたします。いってらっしゃいませ、オズさま」
 オズは少しだけ振り返り、ぱたぱたと廊下の先へと消えていく背中を見送った。
 玄関を出て庭を臨む。飛び立つ前に呼び止められ、花壇の方に視線を向ける。
「おはようございます、オズさま」
 声の主は南の兄弟の片方だった。兄弟子フィガロが懇意にしている、大魔女チレッタのこども。長兄の名はルチルと言った。
「お出掛けですか? 今日は雲が少ないですから、飛ぶには持って来いのお天気ですね」
 オズは「ああ」と返事をして、それからルチルの顔を見ると少しの沈黙ののちに「泥がついている」と指摘した。
「あら、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
 そう言って、ルチルは手に持っていた花を見せる。
「魔法舎に飾るお花を摘ませて頂いていたんです。それから、ミチルとフィガロ先生と、レノさんと、ミスラさんのお部屋に飾る分も少しだけ。あ、それから先ほどお会いしたので、アーサーさまにも」
 花弁は透けるように白い。小ぶりで、葉まで瑞々しい、オズは名を知らない花。アーサーも持っていたのには、疲れた様子ばかりが目について、気が付けないでいた。
 ルチルはいそいそとグラスに収まる程度の小さな花束を作り、オズにそれを差し出す。
「オズさまもよろしければどうぞ」
 言われて、オズはまず断った。オズ自身は花を必要としていなかったし、贈る相手もいない。すでにアーサーが受け取っているなら、それでいい。そのようなことを手短に伝えると、ルチルは「まあ」と朗らかに笑った。
「お花はどなたに贈ってもいいんですよ。大切な人にでも、そうだった人にも、これからそうなる人にも、そうでない人にも」
 手渡されるとそれ以上固辞する理由もなく、オズは受け取った。押しの強さは母親譲りだろうが、それが欠点にならないのは、彼の持ち前の朗らかさと聡明さによるものだろう。

 それから、オズは箒に乗って北の国を目指した。
 ルチルの言葉の通り、飛行しやすい気候だった。いくつかの山を越え、街を跨ぎ、白い地平を見下ろしながらオズはそこに降り立つ。
 時が止まっているかのような静謐さでもってして、屋敷はそこにあった。
 門は容易く開き、玄関の扉もオズを迎え入れる。ホールから階段を上がり、廊下の奥へと進む。その部屋を覚えている。オズは足を止め、ドアノブに手をかけた。
 部屋の奥にはベッドがひとつ、厚い天蓋に覆われている。描かれた魔法陣は主を失い、もう用を成さない。オズはそれを取り払い、シーツとそこに残されたものを窓から差し込む陽の下にあらわにした。

 オーロラ色に輝くマナ石が、陽光を反してきらめいている。

 オズはふとささやかに息を吐くと、横たわる欠片に手を伸ばし、降ろした。触れてどうするのか、答えを持っていなかった。
 そして届かなかった指先の代わりに小さな花束をそこに落とすと、オズは窓へと向かいそこを開け放つ。
 静寂を解かれた部屋は、再び時を刻み始める。
 雪解け水とほのかな緑の薫る風がオズのもとを通り過ぎ、ベッドの上の花弁を揺らした。

 春が来る。



企画/永遠 title by alkalism/2022.5