呪われているのだ

 部長になんて成りたくなかった。ただ一人、その役にふさわしい人がいるのは、誰が見てもとっくに明らかだったのだから。人を統べる才も、花を活けるための感性も、どこをとっても私では劣化版がいいところだったし、実際のところ、部の中心にいるのはいつだって彼だった。ただ、彼にはもっと着くべき座があるから、私は代理で雑用を勤めさせられているというだけの話だ。
 放課後の閑散とした廊下をのろのろと歩み、私はそこに辿り着いた。重厚な木製のドアは、いつでも艶やかに保たれている。分厚いそれは強めに叩かなければ、中まで音を伝えない。三回のノックの後、どうぞと予想通りの声が返ってきたことを確認し、私は片手で花瓶を抱えて鈍く光る金色の掴みを引いた。
「西園寺さん」
「あなたでしたか。今日もありがとうございます」
「いいえ」
「花はいいですね、心が洗われます。本当は部の方にももっと顔を出したいのですが、何分雑事の多い身でして」
「……黒霧さんは」
「彼なら先に帰しました。なにかご用が?」
「いえ」
 今日はこの人しかいないのか。二人きりと言うのは、どうしても緊張してしまうので、できれば誰か他の人もいてくれればいいのにと言うのが本音だった。最近は私が訪れる時に彼以外の人がいることの方が、少ないように思う。活けた花を一日おき、あるいは二日おき程度でここに持ってくるように、というのが彼の指示だった。花瓶を抱える腕が強張るのを無視して、私は壁際のローボードへと寄る。深い赤色の絨毯に、上履きが沈み混む。絨毯のみならず、この部屋はソファもカーテンも赤色で染まりきっていた。私が花瓶を置くこのローボードもよく見れば丁寧な細工が施されており、例に漏れず高価であることが推測できる。とてもたかだか数人の生徒のために用意された空間だとは思えない。が、それでもこの部屋の上座に君臨する男のためを思えば、足りないくらいなのかもしれなかった。少し崩れた百合とカスミ草の位置を手直ししていると、背後で小さく笑う気配がした。
「あなたの活ける花の姿は、可憐で清々しく、凛としていて、あなたそのもののようですね」
「……ありがとうございます」
「ええ、とても美しい」
 喜色を含んだ声に、ますますいたたまれなくなる。私なんかよりよっぽど美しく花を活けるくせに。恨み言のようにそんなことを思う。絶対に言えはしないけれど。そんなことを考えているときに名前を呼ばれたものだから、返事をする声が裏返ってしまった。幸い彼が気にした様子はない。
「このあとお茶でも一緒にいかがでしょう」
「お茶……」
「お抹茶です。なかなか良いものが手に入ったので」
「せっかくのお誘いですが、このあとは顧問の先生と話し合いがありますので」
「そうですか。ではまたの機会に」
 私は曖昧に返事をした。またの機会、なんてあるのだろうか。忙しい人だ、すぐに忘れてしまうのではないか。用事が終わったので立ち去ろうと爪先をドアに向けると、ソファの脇になにか落ちていることに気がついた。気がついてしまった、と言うのが正しいのかもしれない。
「ああ、きっと彼女の落とし物ですね。失礼、お手数ですが拾っていただいても?」
 視線を止めたのは数瞬だったが、彼はめざとくその事実を拾い上げた。私は、彼が常に万人に対して向けているあの完璧な微笑みを浮かべているものだろうと想像しながら、決して彼に視線を向けず、それを拾いに向かった。近づいてみれば、それはピンク色のシャープペンシルだった。どこででも販売していそうな、安価なそれだ。彼女、をきっと私は知っている。最近はここによく出入りをしているらしい、恐らく彼の気に入りの。私には到底浮かべることはできない、あどけなさの残る笑顔を思い出す。可憐、美しい、愛らしい、あるいはもっと他の言葉で、彼はそれを褒め称えるのだろうか。私はしゃがんでそれを手に取ると、彼のデスクまで近づいた。指先が冷えていく。彼と対面すると、私ですら未だ言葉にできない、彼への良からぬ想いを暴かれてしまうのではないかと恐ろしくなる。ばれたくない。いつか枯れるまで、私だけが知っていればいい。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 デスク越しに、彼の手にピンク色のそれが渡るのを確認する前に、私は自らの手を引っ込めた。安堵しかけたのも束の間、音をたてて立ち上がった彼に、腕ごと掴まれて引き寄せられる。あっ、と間抜けな声を上げるも、すでに視界は白いシャツに覆われていた。人の、彼の温度が、触れたところを介して私の肌を浸食する。掴まれた腕と、額と。彼の片手が私の背中を上から下へ滑るようになぞっていくのを感じて、呼吸もままならない。頭上でふふ、と笑う声がする。
「あなたからはいつも百合の香りがしますね」
 頬が一気に熱くなって、私は彼を突き放す。大した力でもなかったのに、彼の体はあっさり離れていった。呆然と彼を見つめると、彼は一瞬だけ目を細めて、それからいつものように微笑んだ。信じられない気持ちで、私は自分の腕を抱く。
「やっと目があった」
「……失礼します」
「ええ、お気をつけて。また明日」
 返事はしなかった。なりふり構わず駆け足でその場をあとにする。少しでも遠くにいきたいと思った。火照った頬はまだ冷めてはくれない。目蓋まで熱い。恥ずかしい。なにかとてもはしたないことが起きたような気がして、ひどく居たたまれなかった。また明日、なんて、どうしたら。


 私がその長さをどう感じようと、一秒の価値は変わらない。ただ粛々と過ぎ、降り積もる。そうして一日が経ち、七日が経ち、さらには十四日分の時が過ぎていった。その中で彼と顔を会わせたのは六度。これで七度。恐らく。実のところ、そんなに正確に数えていない。彼はあれ以来私に指先ひとつ触れることはなく、私もあんなに恐れていたというのに、最早あれは何かの間違い、それどころか私が彼の預かり知らぬところで勝手に見た白昼夢なのではないかとすら思えてきた。彼はいつだって清廉で高潔な、完成された個人である。その彼が、私などに手を伸ばす理由があるだろうか。そう思えば、その考えはますます確かであるような気がしたし、逆に私が彼にあんな邪な妄想を抱いているのかと思うと、ひどく惨めな気持ちになった。なにごともなかったのだ。
 いつものようにローボードに花瓶を置いて、花の向きを正してやる。しっとりと肉厚な花弁の感触を指先で確かめていると、品のよい声で名前を呼ばれた。驚きと緊張を悟られないように、私は努めて落ち着きを払った声で返事をする。
「今日はご一緒にお茶をしていただけますか?」
「え」
「以前お誘いした際は、ご都合が良ろしくなかったようなので」
 思わず彼の方を振り返れば、すみれを溶かし混んだ色の瞳と目があった。心当たりがすぐに浮かんでこなかったので言葉に詰まってしまったが、彼の微笑みから目を逸らすと同時にそれを思い起こす。顧問との話し合いがあった、あの日のことだ。同時に余計な記憶も蘇りかけたので、急いでそれを否定した。つまらないことを考えている場合ではない。返答を待たすわけにはいかないので、言葉を紡ぐ。正しい答えはひとつしかない。
「申し訳ございません。折角のお誘いなのですが、私用がございまして」
「そうですか。ではいつがよろしいでしょうか」
「はい?」
「折角ですからついでのような形でなく、時間と場所をセッティングいたしましょう。あなたの時間を、私にいただけますか?」
「いえ、私は」
「はい」
「……今日で結構です」
「嬉しいお言葉ですが、ご予定があるのでは?」
「問題ありません」
 問題はあるし、正しくもない。しかしそう答える以外に、どんな選択肢があっただろう。彼はありがとうございます、と美しく微笑んだ。彼の微笑みは隙がない、完璧なつくりをしている。だから時々恐ろしくなる。
「すぐに用意いたしますから、座ってお待ちください」
「ええ、なにかお手伝いすることは」
「いいえ、お気遣いありがとうございます」
 席をたった彼が、隣の部屋に消えていく。やはりあそこは給湯室だったのだなと、どうでもいいことを思った。ベルベッドのソファに腰かければ、体重をかけたところからずぶずぶと沈み混んで、逆に肩が凝りそうだ。よくこんなものに普段から座っていられる。全身を預ける気にはなれず、とりあえず姿勢を正して、膝の上に両手を置いた。彼もよく覚えていたものだ、と思う。約束をしたわけでもないのに、案外と些末事に対しても律儀な人なのかもしれない。やがて蝶番の軋む音がして、彼の姿が現れる。彼は淀みない所作で、恭しく小さな盆を置いた。懐紙の上には、薄紅色の牛皮に包まれた丸い菓子が二つ。
「苺大福はお好きですか」
「ええ」
「こちらは本日届きまして、是非あなたとと思っていたんです」
「光栄です」
「そうかしこまらないで下さい」
 かしこまらずにいられるだろうか。彼がお茶を運んでくるまでの間、ただ呆と菓子を見つめて過ごした。その視界を過るように、茶碗が置かれる。赤みの強い褐色の、厚い焼き物だった。内側ではまろやかな緑の水面が揺れる。頂きますと礼を言うと、彼は応じながら私の隣に腰かけた。正面に座るものだと思っていたのだけれど。どうしたって意識してしまうのを自覚しながら、用意された懐紙に大福を取り寄せ、それを口に入れる。歯を立てると牛皮が破け、苺がつぶれた。果肉の酸味と、きめの細かい餡が舌の上で絡んで溶けていく。良い砂糖を使っているのだろう、控えめな甘さが心地よい。その後にいただいたお茶も、やはり彼が良いと言って出すだけあって、大変舌触りがよかった。
「美味しいです、とても」
「気に入っていただけてよかった。ここからだとあなたが活けてくださった花がよく見えますから、いっそう格別ですね」
「そういうこと」
「そういうこと?」
「いいえ、私事です」
「今日の姿もとてもいい。あなたにお願いしてよかったと思っています」
「気に入っていただけたなら、なによりです」
「温室ではまだ咲いていないものがありますが、どちらのものでしょう」
「自宅の庭からです、今朝咲きました」
「そうですか。あなたのお家のお庭なら、ぜひ拝見してみたいものです」
「大したものではありません、普通の家です」
「普通の」
 彼はその言葉を拾い上げると、小さく笑った。何が愉快だったのかはわからないが、彼の機嫌を良くできたなら重畳である。それから、いくつか他愛ない話をした。温室のこと、お茶のこと、今度の学内行事のこと。彼の話題運びは非常に流暢で、私は緊張をしばし忘れて話し込んだ。もしかして、何度か笑っていたかもしれない。彼は、自身が生徒会の仕事に追われて、最近はあまり部に顔をだしていないことを気にしているようだった。副部長としての私の負担についても気にかけてくれたが、彼が部長としての仕事を疎かにしたことなどなかったので、それは杞憂であると伝える。
「次の活動日には、私も出席します」
「承知しました」
「その際一人、見学者を連れていくかもしれません。入部希望者というわけではないのですが」
「……なにか準備が必要でしょうか?」
「いいえ、ただあなたには伝えておくべきかと思いまして」
「私よりも先生にお伝えした方が」
「ええ、連絡はしています」
「そうですか」
 なんとなく、彼女のことかと思った。別にそうでも、私が持つべき感想はなにもない。ないはずで、そうであるべきだ。冷めてしまった茶碗を置く。外はすっかり日が傾いて、橙に染まっている。遠くの空では、紫が滲んでいた。
「大変美味しゅうございました」
「それはよかった。付き合っていただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ」
 私が立ち上がると、次いで彼も腰をあげる。日に照らされた彼のプラチナ色の髪は、角度によっては幻想的なブロンドにも見えて、思わず視線を奪われる。美しいものを好む彼の形もまた、美しい。
「なにか?」
「いいえ、なんでもありません」
「そうですか? ……ああ、失礼」
 彼の手が私に向かって伸びる。咄嗟にあのときのことが脳裏をよぎって、身を固くした。あのときのこと、ではない。あれは私の妄想だった。彼の指は、私のブレザーの裾に届くと、なにかを摘まむような仕草をして離れた。私の記憶、あるいは妄想のような意味ありげな手つきなどでは、一切なかった。
「葉がついてしまっていたようですね」
「ああ……、ありがとうございます」
「驚かせてしまいましたか」
「いえ」
「では、そういうことに。私はまだ仕舞いがあるのでお見送りはできませんが、お気を付けて」
「ごちそうさまでした」
 彼が開けてくれたドアから退室する。高校生とは思えないほど、スムーズな促しかただと、感心してしまう。  暗い廊下は涼しくて、それがやけに気持ちがいい。深呼吸をして、今まで息を詰めていたことに気がつく。やはり、あんなことがあるはずがないのだ。彼が私にあんな風に触れるはずがないと、思い知った。それを私は一人でびくびくして。もしかしたら、ほんの少しだけ期待していた。の、かも。全くもって愚かしい。馬鹿みたい。



2017.3