mint flavor gloria
「久しぶり」
昼下がりのカフェは賑やかしい。店内もテラスも人の気配で溢れかえっていて、後ろ暗いことなんてなにもないという顔で、平日の昼を演出している。健全な街は、それがひとつの生き物であるかのように秩序を乱さない。その一角、目につかないわけではないのに、誰も目を向けない意識の死角を狙いすましたテーブルに、その人はいた。スーツを少し着崩して、緩く腰を掛けているその人もまた、健全な街の一部のようだ。頭に巻いた包帯だけが、やや異質。声をかけてきたのはあちらだというのに、本から顔をあげもしない。いつものことなので、気にならない。むしろ、この方がいいだろう。非常に頭の回るこの人の意識をすべて向けられるのは、とても怖いから。見透かされてばかりでは商売にならないのだ。
注文を取りに来た店員に、コーヒーをひとつ頼んで、私はその向かいに座った。
「お久しぶりです。この間は、どうも」
「ああ、どうだった?」
「聞きますか、それ」
彼はやっと文字を追っていた視線を、こちらに向けた。静かな瞳は、常に理性と知性の光を帯びている。
「紹介したのはオレだからな。不備がなかったか確認するのは、当然じゃないか?」
「ご親切にどうも。不備なんて、ひとつもありませんでしたよ」
「清潔で、安全な、玄人、だっけ」
「滞りなく、注文通り。むしろそんな条件を満たす人間、よく用意できましたね」
「見つけるのに苦労した。専門外の仕事はこれっきりにしてほしいな」
「善処します」
コーヒーが運ばれてきて、ちょうどよく言葉が途切れる。カップを持ち上げれば、ほろ苦く芳ばしい香りが鼻腔をくすぐった。肩の力が自然と抜けていくのを感じて、今まで緊張していたことに気づく。緊張していたのか、私は。いつもと違う理由について考える。あんなことがあったあとだから、だろうか。それは少し笑える。
「でも、歩き方には気を付けた方がいい」と、なんでもないように彼が言った。
「分かりやすい」
「そんなにですか」
「さあ、オレが気づいたと言うだけだからな」
しれ、といい放つ彼に、ため息が込み上げる。私が分かりやすいのではなく、彼が鋭すぎるだけ、と言うのは十分にありうるだろう。腰の痛みと違和感には自覚があったので、一応気を使ってはいたのだ。それに気がつくであろう人間と、気づかないであろう人間が同時に思い浮かぶ。どちらにもしばらく会いたくはない。念のため、ホテルに帰ったらしばらく外出を控えた方がいいかもしれない。スケジュールを思い描いたものの、今は目の前のことに集中するべきだということを思い出す。
「こちらが今回の謝礼です」
私は足元のジュラルミン・ケースを彼の足元に移動させた。彼はちらとそれに視線を移すと、「どうも」とコーヒー・カップを優雅な動作で口許に寄せた。
「確認しなくてよろしいので?」
「そこまで馬鹿な女じゃないだろ?」
「そうですね」
怖い盗賊団に喧嘩を売るほど、血迷ったつもりはない。この優男は脅しのつもりでもないのだろう。オーラどころか凄みも滲ませないトーン。それでも私のような弱い人間対する影響力は十分だ。特質系を個人主義かつカリスマと分類した男を思い出す。適当なことしか言わないと思っていたが、これに限っては正解かもしれない。
「どうかしたか?」
「いいえ。私はこれで」
「ああ。……そういえば、聞いてみたいことがあるんだが」
「なんでしょう」
「どうしてあんなことを頼んだんだ?」
処女を捨てたいので、人を紹介して頂けませんか。出来れば、清潔で安全な玄人がいい。
「今更では?」
「今更気になったからな」
「そうですか」
ならば仕方がない、のだろうか。コーヒーに口をつけている間に、適切な答えを探す。しかし、彼に誤魔化しが通用するとは思えず、結局私は本音を選ぶこととなった。冷めたコーヒーの酸味に、舌が苦痛を訴える。
「好きな人ができたので」
彼は「へえ?」と首をかしげた。その目には珍しく、わからないという色が浮かんでいる。それはそうだろう。実際のところ、私だって何故こんなことをしたのか、はっきりわかっていないのだから。ただ私が好きな人で処女を捨てるのを厭うたという事実だけが、もてあまされて横たわっている。
それではと、私は今度こそ席をたった。彼もそれ以上言葉を発することもない。恐らく私が背を向けた瞬間本へと意識を戻すのだろう。
私は歩き方に細心の注意を払って、健全な午後に背を向けた。
▽
人から望まれたのははじめてだった。あんな熱を含んだ、大切なものに注ぐような視線を私に送る人がいるなんて、考えたこともなかった。だからだろう、瞬く間だった。きっとそれだけのことで、私は彼を望んでしまった。どうかしている。
三本目の煙草をもみ消したところだった。
「よっ」
カウンターで飲んでいれば、背の高いシルエットが自然な流れで隣の席に腰かけた。パルファムが控えめに、私と彼の間を漂う。甘いようでシトラスが後をさらうそれに、彼の趣味のよさがうかがえる。
彼はカウンターの向こう側にウイスキーを頼むと、こちらに向き直った。
「こんばんは」
「あー、なんか雰囲気変わった?」
「髪を切りました」
「それでか?」
うーん、と彼は腕を組んでなにやら思案しているようだ。勿論、私が最近髪を切ったという事実はない。処女を捨てると雰囲気が変わると言う話を聞いたが、やはり本当だったのだろうか。絶対に眉唾だと思っていたのに。直感が鋭い人というのは、聡明な人とはまた違った恐ろしさがある。まあ実際のところ、そのせいか否かは定かではないのだけれど。グラスを煽れば、ライムの香りに意識がさえるのを感じた。それから、胃の腑が熱くなる。衝動的に煙草が欲しくなった時には、すでに指先がその欲求を叶えるために動いていた。
横目で彼をうかがえば、呆れたような顔をしている。
「体に悪いぜ」
「らしいですね」
先端がじりじりと燃え上がっていくのを眺めるのが好きだ。赤く染まった縁が生き物のようににじり寄る。肺まで煙を燻らせて、吐き出す。白い靄は、幾分たたずに霧散する。
ったく、と彼は毒づくが、そういうときの視線に嫌悪の色が浮かんでいないのを知っている。だから、私はそれらを煩わしいとは思えないのだ。
「二週間ぶりくらいか」
「そうですね。お勉強は順調ですか?」
「まあな。でも一日集中しっぱなしだと目がさえて眠れねえんだ。だから一杯引っかけに来てんだけどよ」
「子守唄でも歌って差し上げましょうか」
「馬鹿にしてんだろ」
「そうかもしれません」
彼相手だと、つい余計なことまで言ってしまう。例えば盗賊団の頭だとか、ふざけた快楽殺人者だとか、そういう人間を相手にしているときには、決してありえない口の滑りようだ。それが浮かれている故だと気づいたのは、ずいぶん最近のことである。
グラスを傾ける彼を、こっそり盗み見る。気づかれた。彼が私を真っ直ぐに捉えるのが恐ろしくて、私は再びグラスに視線を落とす。暴こうとするでも、覗こうとするでもない、ただ真っ直ぐな視線というのは、私のような後ろ暗い人間を容赦なく焼く。
「なんだよ」
「なんだと思いますか」
「お前なあ」
「こないだのあなたの提案」
「……おう」
「冗談、ということにしてあげてもいいんです」
「俺は本気だぞ」
「……でしょうね」
本気だといった言葉を疑うつもりはない。ただ彼は勘違いをしているだけだ。それがかわいそうで、少しだけ恨めしい。
たいして短くなってもいない煙草を、灰皿に押し付ける。力が入りすぎたようで、まだ燃えていない葉が、破れた先から漏れだした。汚い。
今度こそ彼の目を見ようとして、失敗する。咎められないのをいいことに、視線は墜落した。
「私が提案を受け入れたとして、あなたは幸せ?」
「そりゃそうだろ。でも俺のためだって言うなら」
「お付き合いしましょう、レオリオ」
「あのな」
「私のためです」
私のためです、ともう一度呟いた。全て、私のためだ。彼のためを思うなら、ここで終わらせるべきであったのに、彼が望んでくれていることを言い訳にしている。私がどんな人間かを知れば失望しないはずはないのだから、せめてそれまでだ。それで私も彼も、一時の幸せを得ることができる。二人の利害が一致している。それはいいことだ。いいことだから、私は間違っていない。
わめき始める内心を、冷たいアルコールで飲み下す。
彼の目を見ようとする本日何度目かの試みは、ここでついに成功してしまった。
「いいんだな」
言葉も視線も、彼のものは真摯だ。私のものとはなにもかも違う。いたたまれなさに、喉がしまりそう。
「大袈裟ですね」
常の抑揚を意識して言えば、彼はそっか、と頷いただけだった。
彼は誠実な人だ。それに息が詰まることが、これから何回あるのだろうか。その時私はなにを選ぶのだろう。逃げること、誤魔化すこと、嘘をつくこと。ろくでもない。
ため息を飲み込めば、代わりというように「帰ります」という言葉が口をついてでた。そんなつもりもなかったが、言ってしまえばそれが一番いいような気もした。これ以上ここにいたら、なにを言うかわからない。
「今来たばっかじゃねえか」
「私結構前からいましたよ。あなたはどうぞごゆっくり」
「ちょっと冷たいんじゃねえの?」
「もともとこれを伝えに来ただけですから。仕事が残ってるんです」
「あー、そっか。忙しいとこ悪かったな」
「いえ、それでは」
ハンドバッグを掴んで、つま先を出口に向ければ、最後に何か言いたげな彼の表情が目についた。
「なにか」
「いや、やっぱりお前さ」
「はい」
「髪なんか切ってねえだろ」
「……そんなこと」
「言いたくねえことがあんなら聞かねえけどよ。まあ、無理する時は言えってこと」
「……なんで」
「ん?」
「なんでもありません」
「……おい待て」
それになんと返事をしたのか覚えていない。待てと言われて待たなかったのは確かだ。恐らく私は取り乱していたはずなのだが、思い返しても足取りは常のペースを正確に刻んでいた。そして、この時間まで飲んでいた大体の人間のようにタクシーを停め、正確な発音で行き先を告げた。ように思う。そのはずだ。
私は多分、動揺していた。しかし、何に対してそんなに自分が動揺したのか、どうにもわからない。自分のことだ。そんなことがあっていいはずがない。
ただ、確かだろうと思うことがある。彼は無理をするときは言えと、そう言った。言ったからどうなるというのだ。助けてくれるとでも言うのか。助けてくれるのだろう。彼はそういう人だ。知っていたはずだったのに、欲に眩んだせいで私は踏み外した。なにが利害の一致だ。下らない言い訳は、この程度で崩落する。私はなんて人を巻き込んでしまったんだ。
後悔してももう遅い。私は考えなければならない。彼を汚さないまま、この夢に終わりをもたらす方法を。
▽
ホテルに帰ってくるなりシャワー・ルームに直行するのは、仕事をはじめて間もなくからの習慣だった。習慣、と言えば聞こえはいいが、その実、それは強迫的な意識を伴っている。適温に温まった水を頭から浴びる。髪の間を通って、皮膚を伝い、つま先から排水溝へ。疲労や汚れ、仕事相手の視線、言葉がその渦に収束するイメージに、私は深く息をつく。こうして、私は形式上の清潔に縋る。
あの時だってそうだった。クロロ・ルシルフルに紹介された男とセックスをした日を思い出す。彼の紹介は間違いがなかった。私と男の間で行われた行為は、最初から最後までビジネスであり、作業だった。私の処女はつつがなく喪失した。あの時だって念入りにシャワーで汚れを流したし、さらにその後、念のため婦人科での診療も受けた。理論上、私は清潔なはずだ。それでも、思うところがないわけではなかった。流石に、処女でなければ穢れているというような倫理観を持てるほど平和な生き方をしてきた覚えはないが、それでもレオリオ・パラディナイトに会ったときは、ほんの一瞬、息が詰まるのを感じた。彼だって、相手が非処女だったところで嫌悪感を抱くような人物ではない。しかし、経緯を知ったら。あなたで処女を捨てるのが嫌で、他の男に金を払って依頼しましたと言えば、そうもいかないかもしれない。少なくとも、いい気はしないだろう。だからこれは、彼が知らなくていいことだ。まあ、知られるようなこともないだろう。
彼とは時々、二人で飲むという程度の、ひどく曖昧で簡単な関係だった。どちらともなく連絡をしてみたり、そうでなくとも同じ店の常連であれば偶然会うこともあった。彼との間でそういうムードになることもあったのかもしれないが、お互いアルコールの入った状態なら受け流してしまうのが当然でもあったし、彼が女好きというのも知っていたから、私は完全に油断していた。
彼に告白されて、他の男で処女を捨てて、それから彼に応えた。好きだ、と。付き合ってくれと、彼に告白された時、それが本気だということはすぐに分かった。彼が嘘をつけない人だというのは知っていたが、そうでなくとも信じるしかなかったように思う。声に、視線に注がれた熱をあれだけ一直線にぶつけられたら、誤魔化す余地なんてなかった。あの瞬間私は、彼からの好意も、また私が彼に抱く好意も認めざるを得なかった。絶望した。彼の言葉に嘘はなくても、そもそも彼の判断には誤りがあるのだ。彼が私に好意を抱いているのは、私を知らないからに他ならない。私がどういう人間かを知っていたら、彼のような人が私に交際を申し込むことなど、ありえないのである。だからそう伝えた。私はあなたが思うような人間ではありません。知ればあなたが嫌悪するような最低の人種です。この時私がどういう風に生きてきたかを懇切丁寧に説明すれば、また違った結果があったのかもしれない。でも、私にはできなかった。ただ彼に嫌われるのが怖かったから。保身を優先した末路がこれだ。
私が何でもかまわないと、彼は言った。そんなのは何も知らないから言えることだとわかっていたし、実際そんなことがあるはずがないとも思った。さらに言うならば、私はその時、苛立ちを感じていた。何も知らずにそんなことを簡単に言う彼を恨んだ。そういう気持ちがあったから、彼の提案を了承しようなどと考えてしまったのかもしれない。二週間待ってください、と彼に告げた。それは処女を捨てるための段取りに必要な時間だった。
それになんと返事をしたのか覚えていない。待てと言われて待たなかったのは確かだ。恐らく私は取り乱していたはずなのだが、思い返しても足取りは常のペースを正確に刻んでいた。そして、この時間まで飲んでいた大体の人間のようにタクシーを停め、正確な発音で行き先を告げた。ように思う。そのはずだ。
正直、嘘がばれるとも思っていなかった。彼が決して愚かではないというのは知っていたが、嘘を見破れるほど人を疑うことが習慣になっていない。彼に見破られる可能性を無視したのは、明らかなミスだった。でも、それだけならこんなに動揺はしない。
だから、いけなかったのは、そのあと。無理をするときは言え、と彼は言った。言ったからどうなるというのだ。助けてくれるとでも言うのか。笑える。助けてくれるのだろう。彼はそういう人だ。
彼の言葉を聞いた瞬間、考えるより先に私は自らの失敗を悟った。利害の一致だなんてとんでもない。優しい無防備な人は、利己的な人間の前では格好の餌だ。このままでは別れよりも、私が彼を消費し、食い潰す方がはやいかもしれない。それはあってはならないことだ。私は間違えた。
どうすればいい。今更やっぱり別れます、はないだろう。彼だって納得しないはずだ。いいんだな、と言われて、私は頷いてしまったのだから。
しかし、もう関係の終わりをただ待つだけではだめだ。私は考えなければならない。彼を食い物にする前に、この夢を終わらす方法を。
なんでそんなことをしたのかと、自問自答なら散々繰り返した。今もなお、その疑問から抜け出せずにいる。彼に告白されて、他の男で処女を捨てて、それから彼に応えた。好きだ、と。付き合ってくれと、彼に告白された時、それが本気だということはすぐに分かった。彼が嘘をつけない人だというのは知っていたが、そうでなくとも信じるしかなかったように思う。声に、視線に注がれた熱をあれだけ一直線にぶつけられたら、誤魔化す余地なんてなかった。あの瞬間私は、彼からの好意も、また私が彼に抱く好意も認めざるを得なかった。その時だ。私は確かに、この人で処女を捨ててはいけないと思った。だから、二週間待ってください、と彼に告げた。それは処女を捨てるための段取りに必要な時間だった。
要は、怖かったのだろうと思う。だって、私は彼が好きで、彼も私を好きなのだ。そんな相手がはじめてになるなど想像しただけで恐ろしかった。自分の中でどんな変化が生じるのか想像もできない。何かとてつもなく恐ろしいことが起こるのではないかと、今考えれば非常に馬鹿らしいことに、本気でそう考えていた。きっと彼が相手でなければ、こんな恐怖は抱かなかっただろう。
そうして私は、強迫めいた衝動に任せて信用のおける知人に連絡を取った。
2016.3