夏になる前の魔物
※桜咲いてますがどうしてもこのタイトルがよかったので五月だと思ってください ヤナギはカード未所持なので完全に捏造です
おにぎり、お団子、さくらもち。竹筒にお茶を。風呂敷でくるんだそれらを手にし、草履に足をねじ込む。
「いってきまあす」
準備を手伝ってくれていた母はもう仕事に戻ったようで、返事はない。もっとこう、心配とか、ないのだろうか。彼のことを知っていればなおさらないはずだが、すこし残念な気持ちになりながら戸に指をかける。
「あ」
戸を開けてすぐ、隣家の壁に寄り掛かっていた彼と目が合った。生ぬるい風が頬を撫で、瞬きをする。
あったかいな。
はつらつとした性格を表すような大きな瞳が、喜色に染まる。
「久しぶり、ちゃん」
「お久しぶりです、イナミさん」
朗らかな笑みにほっと息を吐く。もはや、敬語を咎められることもない。後ろ手に戸を閉め、彼に並ぶ。
「行こっか。ヤナギたちはもう行ってる」
「す、すみません」
「二人とも気が早いんだ。オレも置いてかれそうになっちゃった」
確かに、のんびりしているイナミから言わせれば、ヤナギとスバルがせっかちということになるのだろう。ヤナギに怒られているところを想像し、微笑ましく思う。
「持つよ、荷物」
「あ」
「楽しみだなー、お団子」
当然であるように、彼は有無を言わせず風呂敷包みを奪った。悩んだ末、行き場を失った手を体の前で重ねる。
もともと、この国を治める一族の跡継ぎである彼らと、ただのお茶屋の娘である私がこうして話すようになったのは、幼い頃通っていた道場が同じだったためだ。男の子が欲しかった父に言われ仕方なく通っていた私に、色々と教えてくれたのがきっかけだったと思う。当時は自分と身分の違う人だとは思いもしなかったし、彼らも驕らず接してくれた。道場を出て数年後、店の手伝いをしているときに再会し、それ以来皆うちを贔屓にしてくれている。
「それにしても、スバルくんも来てくれるとは思いませんでした」
すっかり大きくなってしまった猫科の彼を思い出す。優しい子ではあるけれど、こういった集まりは苦手だと思っていた。
「どうして? ちゃんと会えるんだから、来るよ」
「あはは……私とはいつでも会えますよ」
「いつでもは会えないんじゃないかなあ。二人は家が遠いし」
そういう問題かなあ、と思いつつ黙ってうなずく。私と会ってもなんの利点もないことくらい、彼らは分かっているはずだった。でも、言ったところでどうにもならないとは、この数年で理解してしまった。イナミの口から、ちゃんに会いにきたという口上をいやというほど聞いたからだ。ヤナギやスバルに関しては、イナミに乗せられているだけだろうけれど。
誰にでも優しいイナミのことだ。自分が特別だと、思いたくはなかった。だから、そうだったら嬉しいし、そうでなかったら悲しいから、わざわざ聞いたりしない。
「それに、あいつって甘いものが好きでしょ」
間があったので、なんのことだか分からず、こちらも間を空けてしまった。
「スバルくん」
「うん。あ、ヤナギもね」
「ふふ」
甘いものが好き。子供のような理由に、思わず笑みが漏れる。まさか、スバルはともかくヤナギはそんな理由で会ってはくれないだろうが、イナミがそう思っていることがおかしかった。その可能性があるということも。
沈黙の間に、斜め後ろからこっそり彼を見上げる。白と黒の、硬そうな髪。たぶん、やわらかいんだろう。丑の一族らしい筋肉質な腕。こっちも、たぶん。
イナミはかしこまった話し方を嫌う。それは出会った頃からそうで、もっとも、私は初めただの同年代の子としか思っていなかったから敬語など使わなかったのだが、知ってから敬語にすると、にこやかに拒絶された。毎度のことだ。でも、先程は何も言わなかった。どうでもよくなったのか、──前にその方が話しやすいと言ったのを、覚えていてくれたのか。
人々が彼を呼ぶ声を聞く。目を逸らし、目的地に近いことを確認する。名前を呼ばれ、そちらに視線を向けると、常連さんが私に手を振っていたので会釈する。今度また行くよ。ありがとうございます。逢い引きかい。いえ、そんな。
敬語を使うと、立場の違いが明確になって安心する。話しやすくなんてない。ちっとも。
「ちゃん」
やり過ごして角を曲がったあと、今度は、頭上から声が降ってきた。「はい」予期した通りに目が合って、私は少しだけ焦る。
「あのね、今気づいたんだけど」
「はい」
「オレ、逢い引きのつもりで誘ったみたい」
「……えっ」
いつもより真剣な表情で、彼が言う。逢い引きのつもり? そんなはずない。文が届いた段階で、ヤナギとスバルの参加は決定していたのだから。
「だから、手貸して?」
「え、で、でも」
「やだ?」
「そ、そんなわけない」
「はは、そんなわけないんだ。じゃあ勝手に借りるね」
もしかして、私の言うことを聞く気がないのだろうか。驚いている間に、右手が包まれる。彼の左手に。やめてほしい。いやだよ。こんな誰が見ているかも分からないところで、次期当主が、ただの村娘と手を繋ぐなんて。泣きそうな心地で、繋がれた手を引く。
「イナミくん」
「ん?」
やっと立ち止まってくれた彼を見上げる。ぜんぜん、おかしいことなんてないみたいなかお。思わず昔みたいに呼んでしまった。おかしいんだってば。
「だめだよ」
「なにが?」
「だって……」
急だし、二人にも街の人にも見られたくないし、いきなりだし、私たちは立場が違うし、今日はそもそも四人の予定だったし、びっくりしたし、こんなのよくないし。
そんなようなことを、つらつらと述べる。混乱してしまってうまく言えなかった。とにかく彼の手を離すべきなんだと気づいて抜け出そうとするも、逆にしっかり握られてしまう。
「よくないの?」
「よくないよ」
「嫌じゃないのに?」
「あんまり……手を繋ぐとか、私たち、こ、恋仲でもないのに」
「あ、そっか。まだキミから聞いてなかった」
「いや、イナミくんからも聞いてないです」
「えー、何回も言ったよ。あー……うん、なるほどね」
何かを勝手に納得したらしい彼は、そのまま歩き出した。骨太で健康的な手が私のあかぎれだらけの手を包み込んでいる。
今までも、頭を撫でられたり、手を引かれたりすることはあった。でもヤナギやスバルの頭も撫でるような人なので、単純に人との距離が近い人なのだろうと思っていた。
逢い引きだって。キミから聞いてなかっただって。なにそれ。
「あ。おーい」
少しして、彼が大きめの声を出す。前方には待ち合わせていた二人がいて、それを確認した途端、ただでさえ熱い頬がさらに熱を持ったような気がした。
桜の根元付近にござを敷き、あぐらをかいた二人は、私たちを見て顔をしかめた。スバルはいつも仏頂面なので、正確にはヤナギが、だけれど。
「おそい」
「ごめんごめん。ちゃん独り占めしちゃった」
「それはどうでもいいけど……何? 真っ赤じゃん」
「ち、違うの」
「は? 何が?」
ヤナギが綺麗な顔を歪ませるので、言葉に詰まる。子供の頃ならいざ知れず、背丈も大きくなったヤナギがこういう顔をすると緊張してしまう。
「ヤナギ、顔怖いよ」
「意味分かんないこと言うのが悪い」
「とりあえず、遅れてごめん。二人とも久しぶりだね」
「おう」
「久しぶり。で……」
ヤナギの視線が私たちの手元に向けられる。それから、片眉を上げた彼は脅しのように言った。
「俺達待たせて何してたのか、聞かせてもらおうか」
「いや、その……」
手を離そうとしたものの、脅しは幼馴染であるイナミには効かなかったらしく、手の力は一向に緩まない。
「何って?」
「それのせいで遅れたんでしょ」
「何もしてないよ。手繋いじゃいけないの?」
「あんたらついに付き合ったわけ?」
「まだだけど、後でちゃんと話すよ」
「……ついにって何……?!」
「出た出た、鈍感ぶって。いいから座りな」
相変わらず、口が悪い。促され、ようやく離された右手で草履を脱ぐ。
こうして四人揃うのは、昨年の年初以来だった。今年の年初は私が体調を崩してしまい、祈念の儀にも参加できず、半ば泣きながら孤独に過ごした。イナミはどこからかそのことを聞きつけ、見舞いに来てくれたけれど。
スバルがお猪口にお酒を注いでくれる。桜の花びらが降りてきて、膝に着地した。
「体は」
「え?」
短く言葉を発したスバルを窺うが、目は合わない。
「弱いだろ」
心配してくれたのだろう。ヤナギとイナミの手前、直接的には言わないが。お猪口を受け取り、再びスバルの横顔に目をやる。
「大丈夫。ありがとう」
「ふん」
「あ、お団子とか、持ってきたよ。よければ」
「ああ」
「じゃ、乾杯しよっか」
イナミがそう言ったことで、私たちはそれぞれ乾杯と口にする。ヤナギはもう聞く気がなくなったのか、先程の件については触れないでくれた。
それからよく話を聞くと、三人が会うのも久しぶりらしかった。ヤナギもスバルも、ユメクイの状況などもあってほとんど城の付近から離れられず、年初くらいしか会えていなかったと。
昔馴染みのよしみで肩肘張らずに接しているが、三人ともこよみの国を治める王族の子なのだ。襲われなければユメクイのことなど忘れて過ごしている私とは違う。向かいでお行儀よく桜餅を食すヤナギと目が合う。
「あんたは相変わらず能天気に過ごしてんの?」
「え、まあ、うん。被害もないし……」
「ちゃんのことはオレが守るから、大丈夫だよ」
「バカイナミ、俺達は民全員を守んなきゃ駄目だろ」
「それは分かってるよ、もちろん」
「スバルくんは、最近どうなの?」
「どうもこうも……」
「野盗騒ぎ収めたって聞いたよ」
「チッ……余計なことを」
「俺は言ってない」
「テメェ以外に誰がいんだよ」
「あんたの父親が言ったんでしょ。すぐ俺に噛みついてくんのやめてくれない? 迷惑なんだけど」
「テメェは大概余計なことベラベラ喋んだろうが」
「まあまあ。オレは父上に聞いたから、スバルのお父さんじゃないかな」
「ほら」
「ふん」
大抵先に噛みつくのはヤナギだと思うが……。二人のやり取りと、それを宥めるイナミの構図に苦笑する。
いつか離れ離れになるのだと思っていた。三人で過ごすようになってからもう何年経つだろう。昨年お嫁に行ってしまった友人とは、しばらく会えていない。そういうものなのだ。きっと私たちだけの、心地よい関係のままではいられない。
ぬるい風が、花びらを運んでくる。どこかの国には人の夢に反応して咲くという桜があるらしい。嘘か本当かは知らないけれど、本当だといい。私には夢なんて大層なものはないが、それでも。
「ちゃん」
不意に隣のイナミが立ち上がり、手を差し出してくる。背後から無言の圧、向かいからはぎょっとした空気を感じながら、そこに手を置く。温もりを感じ、引っ込んでいた熱が戻ってくる。
「歩こう」
「うん」
イナミが急なのは今に始まったことではない。大人しく引っ張り上げられると、何故かそのまま抱きしめられる。うっ、近い。
「うわ……」
「はは、羨ましい?」
「バカ。どっか行け」
「だってさ。行こっか」
体を離したイナミは、罵倒を意に介さず笑顔を浮かべる。嬉しくなって、微笑み返す。あたたかい。春の陽気に宛てられたのかもしれない。桜は綺麗で、いい匂いもするし。うちは混んでいるんだろうなあ、と思う。
私が子供の頃から母はイナミを気に入っており、店に来ると非常に喜んだ。好意を抱いていると話したことはないし、別に母も何か言ってきたりはしないが、きっと気づかれているだろう。いつか──イナミが誰かを娶るまでは、放っておいてくれるはずだ。
しばらく、やわらかい沈黙のなか、彼に手を引かれていた。私はどうやら緊張していたらしい。
「あったかいね」
「うん」
私を避けて舞う花びらの、不規則な軌道。
繋がれた手を見つめる。すこし力をこめる。握り返されて、視線を上げる。分かっていたみたいに彼が微笑む。それから彼は私の向かいに立ち、もう片方の手もとった。
「好きだなあ。オレ……ちゃんと、ずっとこうしていたい」
ゆったりとした瞬きののち、深緑の瞳が私を写す。口元には諦めに似た笑み。もう、どうしたらいいのかわからなくて、胸の奥から、指先の血管から、髪の一本一本から、想いが溢れてしまいそうになって、視線を下げ、唇を引き結ぶ。
あなたの隣に誰も並んでほしくない。私だけが特別でありたい。どうして。想像したせいで、来るかも分からない未来に悲しくなってしまう。指先に力をこめれば当然のように返ってくる温もりが、悲しみに拍車をかける。小さく、息を吸い込む。
「イナミくん」
「ん」
「私は、イナミくんがいつか、誰か、いい家柄の人と、契りを交わすと思ってる。あなたはこの国を治める人になるから。だから……」
「オレといたいって、言ってくれないの?」
「……言えないよ」
「どうして?」
ほとんど泣きそうな私の頬を、彼の両手が包む。顔を上げさせられ、仕方なく目を見る。
「そんな顔するぐらい、オレのこと好きになってくれたのに。オレはキミとずっと一緒にいたいよ」
うそだ。たぶん本当なのに、咄嗟に否定してしまう。そうすると彼は、少しだけ悲しげに眉を下げた。傷つけた。滲んだ涙を彼の親指が拭う。
「泣かせてごめん」
「いや、私が、ごめん」
「オレのこと好き?」
「すき」
「ん。じゃあうちにおいで」
「……え、っうわ、えっ?!」
言葉をきちんと認識する前に、抱き上げられていた。慌てて彼の肩に手を置く。
「ちょ、ちょっと待って」
「ん?」
「あの……どういうこと」
「両親に紹介するよ。嫌だったら、泊まるだけでいいから」
「ええ……?」
平然と言った彼に、こちらは呆然とする。私を抱えているのにしっかりとした足取りの彼は、変わらず優しい笑みを浮かべている。
「今すぐ結婚ってわけにはいかないけど……キミの言う通り、オレは将来この国を束ねなきゃいけない立場だから」
「うん……」
「それに、キミも家のこととかあるでしょ? ただ、その前提で一旦来てもらおうと思って。もうちょっと先になるかなって思ってたけど、いい機会だし」
いつの間にか、涙はすっかり乾いていた。彼の首に腕を回し、額を乗せる。イナミくんって、体温高いんだ、とくだらないことを思う。大きな子供みたい。
イナミは昔から人より体が強く、元気のいい子だった。私が道場の隅で泣いていると、皆が遠巻きに見ているのを気にもせず(気にしていたのかもしれないけれど)、必ず傍に寄ってきて明るく慰めてくれた。差し出された手のひらを今でも覚えている。
「イナミくん、急だよね」
「そうかな?」
「そうだよ。まさか今日お家に伺うことになるなんて」
「はは、ごめんね」
私を助け出してくれた。何を思っていたのか、今となっては分からないけれど。
見慣れない道を通ってお屋敷の裏側から帰宅した彼は、使用人の皆さんから心配と呆れがないまぜになった言葉をかけられていた。せっかく王族の住まう屋敷に入れたというのに、おちおち眺めてもいられない。
彼の私室(だと思う)に着くと、彼はようやく私を降ろしてくれた。なんだかやけに疲れた。合わせを直し、座布団を用意する彼の背を見る。それから、机や壁、書棚と、部屋の全体を見渡す。比べてはいけないがうちの居間よりも広く、飾ってある恐らく異国の置物などのおかげで上品で落ち着いた雰囲気だ。
「なんか、恥ずかしいな」
声がかかり、はっと彼に目線を戻す。
「え?」
「そんなに見られると」
「ご、ごめん」
「いいよ。見ても面白くないと思うけど……」
眉を下げて微笑む彼に少しだけ申し訳なく思う。とはいえ人の家自体が珍しい上、王族の一人息子の部屋だ、眺めてしまうのも無理はないだろう。
遠回しに止められたので、大人しく用意された座布団に座る。未だ部屋を整理している彼に声をかけようか逡巡していると、部屋の外から女性の声がし、お茶を持った女中さんらしき人が顔を出した。
「イナミ様、国王様がお呼びです」
お茶が文机に置かれるのを見ていると、女中さんが言った。
「うーん、気が向いたら行くって言っといて」
「もう……失礼いたします」
ため息を吐きながらも、あっさり出ていった女中さんに不安が募る。普通に、私みたいな一般人がここにいてはまずいのではないか。
「ね、ちゃん」
「えっ?」
「気にしなくていいよ」
「え……でも……」
「父上が怒るわけないから。まあ、怒っててもいいけど」
「よくないよ!」
「あはは」
「笑い事じゃない……だって、さっきも言ったけど、私は普通の……」
「だから、そういうの」
向かいにあぐらをかいていたイナミは、突然こちらに腕を伸ばした。驚く間もなく手のひらが包まれる。視線の圧に耐え切れず、目を逸らす。
「な、なに……」
「そういうのも含めて、気にしなくていいんだよ」
「……き、気にする」
「オレがいいって言ってるのに?」
「わ、わがまま!」
「わがまま! あはは、よく言われる」
笑うところじゃない。昔からこうなると聞く耳を持たない人だった。しどろもどろになりながら握られた手を見る。
「うーん……どうしたら気にしないでくれる?」
「わ……分かんないけど、それは」
いつものようにすぐ折れるわけにはいかなかった。なにしろ彼の将来までも決まってしまう。私には受け入れる理由しかないというのも、悩ましい点だ。手が温かいからって、彼のわがままに振り回されるのが常だからって、春みたいなにおいがするからって、引くわけには。
「イナミくん、あの」
「ん?」
「あなたは王族なの」
「うん」
「私は庶民だし」
「うん」
「結婚なんて、好きだからとかで決めちゃだめだと思う」
「なんで?」
「だ、だから……だって、将来王様になるんだよ」
「ちゃんは嫌なの?」
「嫌とかじゃなくて」
「オレが王族だから、キミを諦めなきゃいけないの?」
「諦めるっていうか……」
「キミのお母さんを説得すればいい?」
「いや、お母さんは別に、大喜びだと思うんですけど」
「そうなんだ」
しまった。失言だ。
「父上のことなら心配しなくていいよ?」
「一番心配なんだけど……」
「オレの父上だもん。絶対大丈夫だよ」
「……そうかもしれないけど」
お会いしたことはないが、イナミを見ていればご両親のどちらかがそっくりなのだろうと想像がつく。一番の不安要素が本人の口から否定されてしまい、立つ瀬がない。一旦黙ってくれたのをいいことに、思いっきり、深呼吸する。そもそも、お互いが好きだと分かっただけで結婚の話になるのがおかしいのだ。好意を喜ぶ暇もない。
「……結婚とかは置いといて、お付き合いからじゃだめ?」
「え? あ、うん。そっか、確かに」
「時間が必要だと思うの」
「そうなんだ」
なんだか的外れな納得の仕方をしていそうな顔に、ため息を吐く。そうなんだよ。
「だから……連れてきてもらってなんだけど、ご挨拶はまた今度でいい?」
「うん、分かった」
「わ……私の手で遊ばないで!」
「えー、だって柔らかいんだもん」
「柔らかくないよ!」
「柔らかいよ?」
仕事柄ささくれだっていて綺麗でもないし、硬いに決まっている。言いたいことはたくさんあったが、何を言っても否定されるだろうことくらい分かる。本当にイナミとの会話は気合いがいる。なんだか諦めがついて、イナミの指が手のひらを揉むのを眺める。
「ちゃんの手、好きだったんだ。昔から」
「え?」
予想外の言葉に、顔を上げる。
「キミはさ、あの頃、必死な顔で立とうとしてた。耐えてるみたいな」
「そ、そんなこわい顔してたかな……」
「はは、そういう意味ではスバルと似てたかもね。ほっとけなくてさ……ヤナギにはお節介だって怒られたけど」
うまく馴染もうと必死だったのは確かだが、そこまで顔に出ているとは思わなかった。スバルの不器用さを心配している身としては、同じように見えていたことに気まずささえ感じる。
「オレが手出したら、泣きそうな顔するんだ。で、冷え切った手を乗せてくれる。最後の方なんて、キミの手をあっためるために行ってたよ」
「……ご迷惑を」
「まさか。体温が高くてよかった」
本当に、一切迷惑だなんて考えたこともないみたいに微笑んで、彼は私の手で遊ぶのをやめた。そうして自然に指が絡む。絡めとられる。視線も、脳のどこかも、心臓までも。緩やかに、でも確実に獲物を追い込む獣の真髄。手を引かれ、彼の腕の中に飛び込む。
「かわいい」
「……イナミくんはかっこいい」
「はは、そう? ありがと」
「よく言われる?」
「まあね。でも、キミに言われたかった」
「ずるい……」
「うん。ごめんね」
何年もうじうじ悩んでいたのが馬鹿みたいだ。あっけらかんと謝罪を口にする彼に、いよいよ勝てないことを悟る。着物越しに伝わる彼の体温は私の脳を沸騰させる。ヤナギとスバルには後で謝らないと。それから、どうせ泊まるんだろうし母にも連絡をしておかなければ。彼の鎖骨に額をくっつける。
「ちゃん」
「ん?」
顔を上げる。緑がかった瞳にこめられた、愛みたいな熱。その意味を、否応なく理解してしまう。逃げられないと分かっていて、私は目を瞑った。
ああ、この部屋だけ、夏になってしまったみたいだ。
22.07.20