天辺のうしろで待ち合わせ
※節制コープ序盤ネタバレあり。諸々捏造。
「さっむい!」
助手席に乗り込んできた貞代は開口一番そう言った。荒々しくドアを閉められ、思わず顔をしかめる。それにすら気づかない彼女に肩を竦め、後方を確認してからアクセルを踏む。
貞代を"バイト先"に送るようになって三ヶ月ほど。同窓会なんてものに興味はなかったが、人生で一度くらい顔を出すべきかと赴き、貞代と再会した。期待がなかったわけではない。あいつの性格を考えたら、いくら友達などが参加していなくとも顔を出すだろうと思っていたから。おかげで何かの歌詞のような事態にならずに済んだので、貞代の素直さに感謝している。残念ながら付き合ったことはないが。
それから数人で飲むようになり、二人でも会うようになって、長電話に付き合わされたりもして、貞代にも色々あったらしく、数年かけてこの立場に落ち着いた。私は暇だったし、車を持っていた。貞代は忙しく、疲れきっていた。それだけ。
「はあ、もう、ほんとに嫌」
彼女の口からは基本的に愚痴しか出てこない。それに対する謝罪と、送っていることへの感謝も付け加えられるものの、たまにうんざりする。
道が混んでいても十五分で足りる道のり。シートの暖房が効いたのか、私が愚痴を無視している間に貞代は眠りに落ちてしまった。優しい言葉をかけてやってもいいが、こいつはそんなの望んじゃいないのだ。気を遣われても心地悪い。音量を少し下げる。
赤信号で停車する。ぬるくなったコーヒーを一口飲んで、貞代の寝顔を盗み見る。一日働いて崩れかけたファンデーションはニキビ跡を隠してくれない。冬休み前で色々大変なのだろうが、そもそも教師というのはいつでも大変そうだ。
こんなこと、いつまで続けるのだろう。
バイト先には間もなく到着した。何度か声をかけると彼女ははっと目を覚まし、慌てたように礼を述べ、車を降りる。その後ろ姿が建物内に消えてから、作業服の胸ポケットに入れていた煙草を取り出す。やめろやめろとうるさいから加熱式タバコに変えてやったのに。
家に着くと父が私のバイクを整備していた。もう随分乗っていないなと思いながら家に入り、階段を上がる。私のとは言っても元々父から譲り受けたものだ、放置されているのが気に食わないのだろう。まともな神経をしている。
作業着を脱ぎ、床に放る。暖房をつけたまま家を出たので室内がもわもわしており、テレビの電源を入れてから窓を開けた。整備が終わったらしく、エンジン音が聞こえた。窓から身を乗り出すと、ちょうど顔を上げた父と目が合った。
「ありがとー」
「乗らんのか?」
「あったかくなったら」
「ちょっと借りるわ」
「へーい」
この寒いのに、わざわざこんな時間からどこかに行くのだろうか。夕飯の買い出しかもしれない。私と違い生粋のバイク好きである。部屋に引っ込み、ちゃぶ台の前にあぐらをかく。大しておいしくもない加熱式タバコは作業着に入れたままだ。心の中で言い訳をしながら、元々吸っていた紙タバコを手に取る。
テレビでは夕方のニュースが流れている。あくびが漏れる。だいたい週に一回、中途半端な時間に車を出し、三十分かそこらで戻ってくる。貞代との会話は以前よりも減った気がする。ただの運転手たる私では、どこまで突っ込んでいいものか分からなかった。
貞代は、責任感の強い女だ。昔からずっと。
──煙草なんて吸うもんじゃないわ。
あの頃私は少しグレていて、父が仕事で出ている時に煙草をくすねては吸っていた。校舎裏で、屋上で、下校途中にはわざわざ着替えてまで。毎日とは言わずとも、頻繁にそうしていればいつかは見つかる。先生に言いつけるとかじゃないんだ、と思った覚えがある。
だからたぶん、あの妙なバイトを始めたのは道楽なんかじゃない。のっぴきならない事情があって、割のよく脱税できる副業を探したのだろう。そしてそれは親の治療費とかいうありきたりな理由でもないはずだ。煙草を灰皿に押しつけ、布団に寝転がる。家事代行と言ったってあんな格好の女を家に呼べるサービスだ、何があるか分からない。目をつぶる。私はあいつのなんでもないから、眠れないなんておかしいのだ。
▽
貞代から、冬休みに入ればそう急ぐ必要もないのでお迎えはいらないと連絡があった。年末年始も働くのかと返すと、しょうがないでしょとだけ返ってきて、そういうもんかなあと思いつつ返事をやめた。うちの店は父が帰省する関係で三十日から三日まで休みだ。片親の上、父方の親戚もそう数が多くないため、世のアラサーと比べれば心的負担は少ない方だろう。叔父が離婚してからはお年玉制度もなくなった。遠いのがネックだが、運転は好きだから問題ない。いい酒といい飯にありつけるというだけでありがたい話だ。
いつからか、結婚がどうのと言われなくなった。私が幼い頃に両親は離婚しており、母のことは全く覚えていない。その状況にあって自分が結婚するなど考えるわけもないのだが、親戚連中はおそらく、男手を確保しろという意味で言ってきたのだろう。まあ父には随分迷惑をかけたし、そういう方向にシフトしてもいいかもなあと思わなくもないが、そのためだけに適当な男に迷惑をかけるのも不誠実である。
「」
ノックと共に名を呼ばれ、体を起こす。煙草を灰皿に置き、立ち上がるまでにドアが開く。
「ん?」
「蕎麦。お前田舎行かんやろ」
「まあ、年明けかな」
年越し蕎麦か。明日の朝には家を出るから先にということだ。マイペースなくせに変に律儀で、私ってこの人の子供だなあと思う。良くも悪くも。すると、父が不意に目線を室内にやった。
「電話光っとる」
「え、ああ」
「まだ食わんなら自分で温めて食えよ」
「うん」
一体誰だろう。電話なんてしてくる知り合い、心当たりがないわけではないが、どれも違う気がする。階段を下りる音。スマホを手に取り、アイコンを確認して、体が硬直した。出ようとするも先に切られてしまい、突っ立ったまま画面のロックを解除する。十二月二十九日。仕事納め? いや、もう七時になる。普段はこの時間まで学校に残っているのだろうか。かけ直すと、二コールほどでとってくれた。
『あ、もしもし』
「ごめん、親父と話してた。どした?」
『ん……』
外にいるのか、ヒールの音がする。バイト先のビルから代行先に向かうところだろうか。いや、一応専属のドライバーがいると聞いたことがある。あれも嘘だった? それとも今学校から出て、帰るところとか。いつもはきはき喋る貞代に黙られてしまうと、いかに自分が受け身かを思い知らされる。座椅子に膝をつき、灰の伸びきった煙草を吸い殻の中に滑らせる。
「飯食ったの?」
『……え?』
「食ってないならうち来なよ」
『食べてない……けど、あんた実家よね?』
「部屋上がったら一緒だろ。親父が年越し蕎麦作ってくれたんだ」
『まだ二十九日なのに?』
「親父だけ明日から帰省するから」
『ああ……』
声が震えている。貞代は寒がりだから。煙草の箱を開けたり閉めたりしながら、外の音を聞く。
『でも、悪いよ』
「知ってんだろ、親父が貞代を気に入ってんの」
『そうじゃなくて、急だし』
「いいよ、別に。どうせ多めに作ってんだから」
『あんたって……』
ため息。鼻をすする。頑固とか強引とか、そういうネガティブな言葉をしまって貞代はもう一度息を吐き出した。
どうやら帰宅途中だったらしい。吸い殻をゴミ袋に詰め、ついでにゴミ出ししてしまおうと部屋を出る。年季の入った部屋ではあるが別にわざわざ片付ける必要もないだろう。これだけ臭いが染みついた部屋に案内しては、加熱式タバコに変えた設定が台無しだけど。
ビールを飲みながらテレビを見ていた父に貞代を招くことを伝えると、ええ、と驚かれた。貞代ちゃんって、高校の。よく覚えているものだと感心しながら家を出る。十五分もあれば駅に着くだろう。
昔、というか高校生の頃だが、たまたま鉢合わせた貞代と家路についていた時に、たまたま父と鉢合わせたことがある。友達だとも思っていなかった、そんな単語は気恥ずかしかった私のことを、臆面もなく友達と言った貞代に私は驚いたし、父は父でこんなにやさぐれた娘にと驚いていた。それから、口には出さなかったものの父はいたく貞代を気に入って、家に上げることも許してくれたのだ。他にも何人か連れていったことはあるが、貞代は特別だった。
電車なんて滅多に乗らないので、駅前って新鮮だ。マフラーでも巻いてくればよかったかな。子供が母親の手を引いて、何かを指さしている。夕飯時だ。みかんでも買っていこうかと考えるが、居間にあるかもしれない。台所は父の縄張りで、私は飲み物が必要な時しか入らない。何せ仕事が父の店の手伝いなので、飯の時間はほとんど同じだし、それなら作ってもらうのが楽だ。家庭的な女にはなれないな、と思う。スマホが震える。乗り換えたからもうちょっとで着く。了解と返し、ファミリーたちの間を抜ける。
駅に着いて数分後、改札向こうの階段からぽつぽつと人が下りてくるのが見えた。ガードレールに腰かけている私を発見した貞代は、足早に近づいてくる。相変わらず髪がぼさぼさだ。
「お待たせ」
「ん。ビール?」
「え、何が?」
「飲まんの?」
「いや、長居すんの悪いから」
「さすがに学校ないだろ?」
「ないけど……」
「泊まってけば」
「え、いや、着替えないし。それなら先に言ってよ」
「そう?」
「そうよ」
先に言っておけば、素直に泊まってくれるんだろうか。こいつは言い訳しかしない。でも、人の家に泊まるというのに色々準備がいる性質なのだろうとは、私にも分かる。
歩き出し、店先の果物やら年末年始らしい品々を眺める。私ももう少し、気を遣わせない話し方ができればいいのだけど。いつだって落ちこぼれだ。貞代が私の先生だったら、怒りすぎて疲れるだろう。それとも、完全放置だろうか。こんなに責任感が強い女が私みたいな不良を放っておくとは思えないが、まあ、教師だってしょせん組織の一員だ。
「お父さん、なんて?」
半歩後ろをついてきていた貞代が呟く。
「貞代ちゃんがって、びっくりしてた」
「お、覚えてるの?」
「うん」
父が貞代を覚えていなかったら、電話口で親父が気に入っている云々は完全に無意味になったのだが、本人はそこまで気にしていなかったらしい。
「あんたって友達いないわけ?」
「貞代は別なんだよ」
「なにそれ」
呆れ声を無視し、路地を曲がる。閉まったシャッターには、商店街から配られたいつまで休みます、という紙が貼ってあった。店の奥に進み、玄関に入る。
「変わってないな……」
「そうかね」
「うん。懐かしい」
そういえば、ここに招くのは久しぶりだ。懐かしがるほどでもないと思うが、私よりは人生の波があったはずの貞代にとってはそうなのだろう。控えめにお邪魔しますと言った貞代に、玄関の音で戻ってきたのが分かったのだろう父が台所から顔を覗かせた。蕎麦を盛り付けている。
「あらら、えらい大人んなっとるね」
「あはは……すみません、急に。これ、大したものじゃないですが」
貞代が何やら紙袋を差し出す。父と同時に驚きながら、こいつはそういうやつだよなと妙に納得する。渋谷で買ったのだろうか。
「が呼び出したんやろうに……」
「いえ、私が無理言って来させてもらったんです。帰省されるって伺ったので、よければ皆さんで」
「あらー、せっかくやから持ってくわ。ありがとね」
父のにこにこ顔を見るのは気まずい。貞代の社会人みたいなところもだが。
「泊まってくん?」
「いえいえ、明日もあるので……」
「そうなんや」
あからさまに残念そうにしないでほしい。罪悪感。
お盆を持って自室への階段を上る。酒も入って機嫌がよかったのか、父は缶ビールを二本分けてくれた。外面がいい。というか、貞代を気に入りすぎ。こちらはなんとなく不機嫌になるが、貞代は気づかなかったらしく、コートを畳んで端に置いている。
二人で、テレビを眺めながら蕎麦をすすった。ときどき、貞代がおいしいだとか、父を褒めるようなことを言ったり、バラエティー番組への感想を口にして、私もそれに相槌を打った。父以外の人とこうして年越し蕎麦を食べるなんて、なんだか妙な気分だった。そもそも父とはいつも食事を共にしているし、年越しというものに大した感慨もないので、蕎麦だって形式的なものでしかなかった。貞代は実家に帰るのだろうか。電車で三十分もない道のりを帰省と称していいのか分からないが、一人暮らしの娘なら正月くらいは帰ってこいと言われるかもしれない。
結局、あの電話はなんだったのだろう。聞くタイミングを逃し、缶をあおる。
「あんたさ……」
蒸し返すこともないかと一人で納得していると、貞代が口を開いた。その目はテレビを向いている。
「彼氏とかいないの」
「いるように見える?」
「見えない。でも、いても私には話さないでしょ」
おそろしい。まっすぐな言葉だ。
「ほんとにいない。なんで?」
話さないだろうとは分かるのに、なぜわざわざ聞くのだろう。どうして貞代には話さないのか考えれば分かるはずだ。いや、分かったからこその問いなのか。分かりたくないから、聞くのか。
「いたら悪いから」
「気にしすぎ」
「気にもする。お迎えなんかしてさ……なんの得もないのに、泊まれとか言うし。あ、なに、部屋でも片付けろって?」
「なんだよ。得がなきゃいけないわけ?」
「いけないっていうか……」
別にいいじゃん、友達なんだから。
そう返すのが一番マシだった。楽で、最善だ。でも、変なバイトで脳のどこかがおかしくなっているだけの貞代を修正してやるほど、私はお人よしではない。黙って缶を空け、上着のポケットから加熱式タバコのセットを引っ張り出す。
「まだやめてないの?」
「やめないよ」
「はあ……それ、最近出たやつだよね? ちょっとはマシなんだろうけど」
変えたことには気づいていたらしい。
「明後日泊まりに来てよ」
「え?」
「年越し。バイトんとこまで迎えいく」
「な、なんで?」
「え、先に言えって言うから」
「いや、そうじゃなくて……ていうか私にも彼氏いるのか聞いてよ」
「いようがいまいが関係ない。貞代がどっち選ぶかだろ」
「……いませんけど」
「無理ならいいよ」
「ええ……私はいいんだけど……でもバイトも何時に終わるか分かんないし」
「ふうん。電話くれたら行くよ」
「……私に優しくしたって何も出てこないよ?」
いぶかしげに私を見る貞代に、そりゃそうなるか、と思う。ただの女友達だ。もし貞代にとって私が親友という位置づけなのだとしても、誰より信頼してくれているのだとしても、つまりそれ以外にはなれないと、そういう事実があるだけ。何も出てこないというのは正しい。そして、それでも貞代と過ごしたいのだとは口が裂けても言えないし、言い訳としてでも友達だからとは言いたくない。頑固で欲深いのだ。除夜の鐘に消し去ってもらうしかないかもしれない。煙を吐き出してから、立ち上がって窓を少し開ける。
「何考えてんだか……」
呟きを風がさらう。
たとえば、私が男だったら。こんな風に簡単に来てくれた? そもそも、運転手にしていないだろう。貞代は流されやすいが、根は真面目だし、なにより初心だ。でも私が男なら、あるいは同性愛者だと公言していたら、この貞代の言動は期待させるものでしかなく、それを本人も理解できるはずだ。
立ったまま窓際でまずい煙草を吸う。くだらない。
「ちょっと実家の方に連絡してみる」
「ん」
「……ありがと」
「え、何が」
「別に! これ、下で洗えばいいの?」
「いや、後でやるからいい」
「私ばっか世話焼かれてて嫌なんだもん」
「え……焼いてないだろ」
「あんたはそういうやつよね……」
「はあ?」
なんだか勝手に慌てだした貞代に首を傾げる。やはり変なバイトのせいでおかしくなっているのだろう。父のためというなら分からなくはないが。
それからしばらくごちゃごちゃ言ったあと、貞代は帰っていった。駅まで送ると言ったが断られてしまい、姿が見えなくなるまで窓から眺めていた。ベージュのロングコートは夜闇を泳ぐ魚みたいだった。ここは深海じゃない。ビール一缶で酔うほど弱くもない。ため息は白く霧散し、私は窓を閉めた。
▽
──あんたは立派ね。
親がいないのをいいことに真昼間から風呂に入り、ついでに水周りの大掃除を済ませる。終わってから入ればよかったなと思うが、それでは風呂の掃除をする気が起きなかっただろう。父についていかなかった年は毎年やっているはずなのに、いざその時が来るとどうしていたのか分からなくなってしまう。そうして余計なことを思い出す。
卒業前のことだ。大学に進まないと話すと、片親であることを知っていた貞代は何やら察したらしく、心から感心したという風にそう言った。馬鹿だな、と思った。教職を志し大学進学を決めた貞代に何を言われても、あの頃の私には響かなかった。運命は変えられない。四年前に仕事を辞め、父の手伝いを始めたのもきっと正しい流れだ。母や兄姉がいれば全く違う人生になっていただろう。
馬鹿みたいだ。何もかも。
掃除を終えた私は、家と店の間の道をどうにかすることにした。放置しすぎて何かしらの植物が生い茂っている。困りはしないし父も何も言わないが、ほぼ毎日通る道である。連絡が来るまで寝ていてもよかったなと、外に出た瞬間後悔する。
貞代から連絡が来たのは、今年が終わるまで三時間を切った頃だった。諸々終わらせてから数時間眠り、目が覚めてぼんやりテレビを眺めていたら電話が鳴った。これから着替えて出るね。電話を切り、ため息を吐きながら腰を上げる。
掃除ついでに台所をあさったら切り餅もみかんも見つけた。まあこれで正月の体裁は取れるだろう。おせちなんてしっかりやろうとしなければ何を食べたって同じだ。冷えきったシートに体を震わせながらエンジンをかける。
慣れた道も今日は様子が違う。時間帯もあるだろうが、普段の混雑はなく、歩行者も少ない。渋谷に向かう道であれば人通りは多いかもしれない。
しばらく走らせ、ビル脇に停車する。
もう着替え終わっているのだろうか。窓を少し開け、本体にタネをセットする。連絡はない。
これまでは学校終わりの貞代をここに送るだけだったので、お迎えはなんだか新鮮だ。だいたいいつも何時頃まで働いているのだろう。店側がどういった形態でどう許可を取っているのか分からないが、たとえば深夜も営業しているとして、その時間に頼む家事ってなんなんだ。煙を吐き出し、こめかみを押さえる。ずっと好きだったんだ。適当に流していた曲の歌詞が不意に耳に飛び込んできて、次の曲へ。
「ごめん!」
いつの間にか閉じていた目を開け、飛び乗ってきた貞代を見やる。ぼーっとしていたらしい。
「待ったよね」
「いや、全然」
吸い終わっていなかったがタネをゴミ袋に捨て、窓を閉める。ガサガサと貞代の紙袋が音を立てる。いつにも増して大荷物だ。
「荷物後ろ」
「いいよ、すぐだし」
「そう」
「店長がお菓子くれてさ。まあ余りものなんだけど」
「ふーん」
「あんた甘いのダメだっけ?」
「食べれるよ」
「じゃあとで食べましょ。あー、つっかれたあ」
シートベルトを締めてから、貞代は小さく伸びをした。
年明けは二日まで休みらしく、それが嬉しいのかいつもよりテンションの高い貞代から、今日は何をしただとか、学校の小テストがどうとかの話を聞きながら帰路についた。愚痴しか言わないと思っていたが、単純に疲れていたのだろう。どちらにしろ相槌だけで話が進むので楽だ。私には話すようなことがない。
途中で開いている総菜屋とコンビニに寄り、ようやく家に着く。父もいないし今日は居間でいいだろう。諸々を済ませてから食べ物類をちゃぶ台に並べる。自炊しないよねと聞いてきたのは、この家に食材があるかの確認だったらしい。あったとして私が把握していないだろうという推測は正しい。
「キッチン借りていいなら、適当に出してくるけど」
「いや、やっとくから先風呂でも入れば?」
「あー……そうね」
「出たらすぐ食う?」
「うん、お腹空いたし」
「ん」
「お風呂、使っちゃっていい? 触んない方がいいものとかは」
「ないけど、親父のシャンプーはすげえギシギシになるからおすすめしない」
「ええ……分かった」
鞄から着替えを取り出す貞代を横目に立ち上がる。何もかも適当にやってもらって構わないのだが、バスタオルくらいは出しておかないと困るだろう。人の家に泊まったことも誰かが泊まりにきたこともほとんどないので、こういう時どこまでやるべきなのかよく分からない。脱衣所の棚からバスタオルを出し、洗濯機の上に置く。着替えを持って入ってきた貞代に、化粧水だとかの場所を教え、脱衣所を出る。
テレビをつけると、年末の特番がやっていた。もう十時だ。感慨の準備が整う前に世間からの煽りを受けてしまい、少し内臓が冷える感じがする。仕方なく台所に行き、貞代の持ってきてくれた冷凍の牛タンの説明書きを眺める。背後から聞こえるシャワーの音。部屋から座椅子を持ってきておくべきか。
三十分ほどで貞代は風呂から出てきて、煙草を吸う私に顔をしかめた。
「リビングで吸ってんの」
「親父も吸ってるし……」
「ったくもう。電子にしたんじゃないの?」
「ごめん」
父が未だに紙しか吸わないのをいいことに吸ってしまったが、確かににおいがつくのは嫌だろう。正しくは私が吸っているのは加熱式であって電子とは違うものだ。貞代にとって紙を含めた三種類の中で一番マシなのはもちろん電子なのだろうから、これを電子だと思っているのなら放っておこう。火を消し、片膝を立てる。貞代はため息を吐き、向かいの座椅子に座った。ソファーでいいのにと思うが口には出さず、グラスを指す。
「それ貞代の。お茶」
「ありがと」
「ドライヤー、洗面台の下にある」
「ああ、うん……なに?」
「え?」
「私のすっぴんなんて見慣れてるでしょ」
別にすっぴんを眺めていたわけではないが、見すぎてしまったらしい。いや、と曖昧に答え、テレビに向き直る。そりゃ高校の同級生なのだからすっぴんでいようがなんとも思わないけれど、そういうことじゃない。ほかほかだなあと思っただけだ。赤ん坊に抱くような感想。
喉が渇いていただけなのか、貞代はすぐ脱衣所に向かった。ドライヤーの音が聞こえるというのも、変な感じがする。自室が二階なので、父がシャワーを浴びようとドライヤーを使おうと音なんて気にすることがない。そういえば布団を出しておかないとな、と思う。だいぶ前にクリーニングに出して以来物置にしまったままだが、まあ大丈夫だろう。一日ぐらい我慢してもらおう。そうじゃなければソファーに寝てもらうしかない。
さらにほかほかになった貞代が座椅子についたので、ワインを開けた。コンビニの安価なものだが、コルクを開ける道具もないしこれでいいだろう。なんのために置いてあったのか、食器棚にワイングラスがあったのでそこに注ぐ。あの人、ビールぐらいしか飲まないのに。
「じゃ、今年も終わるってことで。かんぱーい」
「乾杯」
やはりテンションが高い。グラスを合わせ、口をつける。普通に飲みやすい。盛ったものを適当に小皿にとり、箸を置く。女二人でつまむにしては買いすぎたかもしれない。
「ごめんね、やってもらっちゃって」
「いや、皿に出しただけだし」
「ふーん……なんか、はめんどくさがりなイメージあった」
「そうかな。まあ、そういう時もあるよ」
自分は仕事で疲れているだろうに、いちいちそんなことまで気にしているのか。しかしまあ、教師と家事代行なんてどちらにしろ利他的な仕事だし、そういう性質なのだろう。牛タンを口に放り込む。焼くだけでうまい! みたいなことが書かれていたが、確かにおいしい。
贅沢な時間だ。おそらく有名店の冷凍牛タンに、チーズの盛り合わせ、ほとんど買ったことのない総菜の類、場にそぐわないワイングラス。一人では絶対にやらないパーティをなぜだか貞代と共に開催している。
「実家にはいつ帰んの?」
「二日かな。三日からはメイドの方行かなきゃだから」
「学校は?」
「六日から。あんたは?」
「四日」
「親戚のお家には行かないの?」
「さあ。どっちでもいいかな」
「ふうん。毎年行ってるってわけじゃないのね」
「叔父さんが去年離婚したから」
「から?」
「お年玉あげる相手もいないし。そもそも気分で行ったり行かなかったりだよ」
「そう……」
何を思ったか、貞代は神妙な面持ちでワインに口をつけた。貞代は当然、そういう儀式には積極的に参加してきたのだろう。面倒そうだ。
──そんなんで、お母さんには何も言われないの?
──いねーもん。
──いないって……。
あの時の傷ついたような顔は未だに覚えている。謝罪を聞き流しながら、どうしてお前が傷つくんだと思った。無責任な発言をしてしまったから? 自分の考えの浅さに、傷ついたって? 私がどういう反応をしたかまでは覚えていないが、やはりあの頃の私は荒んでいたのだろう。今なら気遣ってやれたのに。今はもう、無防備じゃないのに。
コマーシャル終わりの静寂、一瞬の隙間にグラスを置く音が響く。脱ぎっぱなしだったジャージのポケットから加熱式の本体を取り出す。
「ねえ。怒らないで聞いてほしいんだけど」
ごそごそタネを探していると貞代が言った。「ん?」妙な前置きだ。私がこの数年で怒ったことがあっただろうか。舌打ちぐらいはしたかもしれないが。タネを見つけ、一本取り出して本体に差し込む。
「正直ね……私、あんたが羨ましい。ほんとに……嫌かもしれないけど」
今しがた思い出していた場面を、こいつも思い出したのだろうか。申し訳なさそうに眉を下げ、貞代はメンチカツに箸を伸ばす。テレビ側に煙を吐き出し、グラスを持ち上げる。
「何も気にしてないみたいで、こうやって私なんかにも優しくして、ちゃんと、お父さんのために頑張ってて」
実際、家のことは何も気にしていないし、貞代にも特別優しくしているとは思わない。それこそ高校を卒業した後は多少頑張っていたが、今となっては経験則でなんとでもなるので、惰性に近い。たぶん貞代は、ぼんやり生きてるみたいなのにすごいよね、とでも言いたいのだろうが、副業をしてまで何かのために金を稼いでいる貞代に言われたくはなかった。ワインを口の端から零してしまい、体を伸ばしてティッシュを取る。
「頑張ってないよ。んなこと言ったら貞代の方が」
「違うの。私は……私のは、ただの保身だよ」
保身。肘をつき、貞代を見る。若干頬が赤い。
「バイトだって……しょうがなくやってんの。必死にならなきゃいけないから、なってるだけ」
そんなもの、世の中だいたいそうだと思うが。言ってしまえば私には必死になる理由がないというだけだ。
「結婚しろとか言われるし、親戚のとこも行きたくない……でも、行かなきゃいけないじゃん。立場っていうか、行かないと親がなんて言われるか」
大変だなあ。
「その他人事みたいな顔、ムカつくんですけど」
「人には怒んなっつったくせに……」
律儀に睨んでくる貞代に呆れる。正直他人事だが、一応黙って聞いていたのに。
「あんたはそういうの言われないんでしょ」
「何が?」
「結婚とか彼氏とか」
「言っても無駄だと思われてんだよ。する気ないっつってたから」
「なんで?」
「え、じゃあなんでしたいわけ?」
「したくないわよ! でも、した方がいいのかなって」
「だから、なんで?」
「世間体」
大変ですねえと口から出かけて、煙草をくわえる。危ない。そんなもののために結婚をしたがるなんておかしくないかと思うが、たぶんこいつはそういう生き方をしてきたのだろう。
「恋人もいらないの?」
「いらないし、できない」
「寂しいとか……思わないか、あんたは」
「もう思わないな。若い頃だけだよ」
「かわいい頃もあったのねえ」
「自分は寂しくて彼氏が欲しいくせに?」
「ほんと、かわいくない大人に育ったわね」
全く、かわされているような気がしてならない。こいつにその気はないのだろう。だから怖いし、ただの都合のいい友人に収まってやっているのだ。
それにしても、やはり大変だなと思う。世間の圧だとかのせいで、それに流されていない私を羨ましく思い、しかもそのことを失礼だと考えるとは。私にはない感覚だ。昔はもちろん、あったけれど。あぐらをかき、通りすぎるコマーシャルを聞く。
「私も、昔は羨ましかったよ」
「え……そうなの?」
「持ってないものを持ってるから。でも、どうしようもないことだろ。んで、卒業したら外野からごちゃごちゃ言ってくる大人もいなくなった。それだけだよ」
「……たぶん、私ってあんたにごちゃごちゃ言ってるよね?」
「お互い大人じゃん。気にして行動変えたりしないよ、いまさら」
「じゃあなんで電子にしたのよ」
びっくりした。思っていることしか言っていないが、私はうまくいなしている気がしていた。貞代は、言葉に詰まった私をいぶかしげに見ている。私は実際、貞代を送ることになってから、というかまだ曖昧な段階で車を新調し、においがつかないように煙草を吸わないようにした、ものの、運転中に我慢できず立ち寄ったコンビニで、新商品という文字を見て、そういやテレビでやってなと思い一式を買った、のだが。目に見えて狼狽した私に貞代は眉をひそめた。
「え、なに? なんかおかしいこと言った?」
「いや……」
よく考えたら、行動を変えないというのはそういう細かい点ではない。が、そこは論点ではない。煙を吐き、吸い殻をゴミ箱に投げ入れる。
「車変えたから」
「……え、だって元々普通に車でも吸ってたんでしょ。急ににおいが気になったとか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「私が散々言ったのも、無駄じゃなかったってわけね」
勝ち誇った顔で言う貞代に、思わずため息が漏れる。こいつはこの有様で世の男どもから身を守れるのだろうか。結婚しなきゃならないのなら、むしろその方がいいのかもしれないが。
しばらく、食べ物をつまみながらバラエティーを眺めた。貞代はこの俳優がどうとか、そういえばあのドラマがどうとか言いながら楽しんでいる。よくそうぽんぽん感想が出てくるものだ。普段最低限の会話しかしないせいか、笑い声すらすんなり漏らせない。
十一時半。もう日が変わる。今年が終わり、来年が訪れる。
時間を確認し、三分の一ほどまで減ったワインボトルを持つ。貞代よりは普段から酒を飲んでいるだろうが、ワインなんて久しぶりに飲んだのでさすがに酔ってきた。注ぐだけ注いでお茶を飲む。
「実感ないなあ。今年もう終わるんだ」
普段よりいくらかふわふわとした声で貞代が呟く。
「あっという間……ほんと、がいて助かったよ」
「こちらこそ」
「なにが。してもらってばっかりよ、私は」
「いいじゃん別に。定期的に会えるってだけでいい」
「あはは、何言ってんの」
「忙しいんだろ」
「……今は、ちょっとね。てか私と会ったっていいことないでしょーが」
何がこいつをここまで自虐的にさせるのだろう。寂しいだけか。認められたいのか。心の隙間をさらけ出して、傷つきやすい箇所を自ら差し出してまで、何かに縋りたいと? こんなの、つけこんでくださいと言っているようなものだ。私は慎重にならなければいけない。酒の力で覚悟を決めるか、自制してこのまま過ごすか。
「にしてもさあ」
つくづくペースを乱してくる女だ。若干の怒りを覚えつつグラスの中身を減らす。
「あんた自炊しないって言ってたけど、ご飯どうしてるの?」
「親父が作ってる」
「あー、なるほどね……外食は?」
「ほぼないな」
「え、お休みの日に出かけたりしないの?」
「ほぼしない。別に、用事で出ても飯はうちで食うし」
「なんか……つまんなくない?」
酔っているからと言ってその言い草はないだろう。失礼なやつ。
「だから会いたいんだろ」
「はあ?」
「つまんなくてもいいけど、たまには刺激があった方がいい」
「シゲキだって。私みたいなつまんない女がね」
「違う環境で生きてるんだから、刺激だろ。それに……」
変なところまで口に出してしまった。案の定貞代は「それに?」とこちらを窺った。
「なんでも。そういや、あんときなんで電話してきたんだよ」
「あの時?」
「蕎麦食った時」
「なによいまさら。どうでもいいでしょ」
「いいけど、よくない」
「ていうか忘れたよ。なんとなくじゃない?」
「なんとなく?」
「な、なに? いけないの?」
「お前……」
なんとなくで電話してきて、何も言わずに泣いていたっていうのか。馬鹿じゃないのか。私が女だからいけないのか。お前の寂しさを受け止められるポジションに収まってしまったから、こんなことになっているのか。我慢しているのが馬鹿らしくなる。
「あ、もしかして心配してくれたとか? ごめんごめん」
私が怒っていると思ったのか、わざとらしくへらへらしながら謝罪を口にする貞代に、額を押さえる。体温が高い。
「……まあ、それもある」
「あんたってほんと、何考えてんだか分かんないよね」
「お前が分かんないだけだ」
「全然喋んないくせに、私のせいにしないでよ」
「……ごめん」
「で、何が言いたいの? しょうがないから聞いてあげる」
「そういうのは最悪を想定してから言え」
「最悪?」
「最悪。分かる?」
「馬鹿にして……」
「ああ、でも、最悪のちょっと手前までなら話してもいいかな」
「じゃあ、それ聞いてから判断する。あんたの最悪って、私のより深そうだし」
そういう想定はできるのか。これも経験則だろうか。真逆の人生を送っているだろう貞代が、一瞬交わっただけの私に対してそこまで理解することは端から期待していない。
「なんていうか……お前には恋人がいないわけだろ? で、一人暮らしで、仕事上毎日忙しくして、疲れてる」
「まあ、うん」
「あの時のが本当になんとなくだったとしても、明らかに落ち込んでたし、泣いてるみたいだった」
「無駄に察しのいい……それで?」
「そういう弱い部分を……さっきもだけど、あんまり他人にさらけ出すのは……見てて不安になる」
「不安?」
「悪い男にでも騙されるんじゃないかって」
「なんだ、そんなこと。悲しいけど、あんた以外いきなり電話かける相手なんていないのよ」
「だから……そんなの、今だけだ。私相手にそうするってことは、他のやつにもそうする可能性があるだろ」
「したらあんたになんか不利益なわけ?」
「……貞代は……自分の価値を低く見積もりすぎだ」
貞代は驚いたように目を瞬かせ、眉をひそめて一度テレビに視線を戻した。それから、あ、と顔を上げる。
「やばい、年越しちゃう。あと二分で話まとめないと」
まとまるような話ではないから、わざわざ注釈を入れてやったのに。頭が痛い。これは酒のせいだ。精神的にも、もう飲むべきではない。コップのお茶がなくなったことに気づき立ち上がると、焦った声が追いかけてくる。
「ちょっと!」
「え?」
「年越しちゃうってば」
「お茶ないんだもん」
「あ、ほら。早くしてよ、あと一分だって」
貞代はチャンネルをカウントダウンしている番組に変え、画面を指して言った。冷蔵庫からペットボトルをとって座椅子に戻る。一気に気が抜けてしまった。
「世界が終わるわけじゃあるまいし……」
「だってもやもやしたまま新年迎えたら、そういう一年になりそうじゃない」
「信心深いなあ」
「そういう話じゃなくて……あ、あと二十秒だ」
「じゃあ最悪なこと言うよ」
「ちょ、ちょっと待って。なんで?」
「十五秒でまとめるにはそれしかないだろ」
「ええ……最悪、最悪ね。はい、どうぞ」
「貞代のこと好きなんだよ」
テレビから大きな拍手が聞こえる。ああ、一月一日。タイミングの悪いことに。もういいだろうと思い、チャンネルを切り替える。
「な、なんですって?」
「あけましておめでとう」
「あ、あけましておめでとう。今年もよろしく……じゃなくて!」
勢いっていうのは本当にすごい。急かす方も悪いが、完全につけこんだ形になってしまった。貞代のグラスにもお茶を注ぎ、蓋を閉めて椅子の横に置く。酔った体に冷えたお茶が心地いい。昼寝したとはいえ酒を飲んだし、久しぶりに人と長時間話しているので眠くなってきた。全部食べてしまってそろそろ布団の準備をした方がいいだろう。
「あの、説明とかないわけ? 聞き間違い?」
「だから最悪だっつったじゃん」
「いや今は最悪かどうかより事実確認を……」
「もっかい言ったろか」
「あーわかったわかったわかった、冗談言ったんじゃないのね」
「聞き間違いでもないと思う」
「わかったからちょっとタンマ!」
貞代の言うように年明けの瞬間の気分がこの一年の総括になるのなら、かわいそうなことをした。飲んでしまったから家まで送ることもできない。テレビ台に置きっぱなしだったスマホを手に取り、タクシー代を調べる。曖昧なのが好きな女だから、朝まではいてくれそうな気もするけれど。想像より安かったので画面を閉じる。そもそも年末年始って遅くまで電車が走っているんじゃなかったか。
「聞いていいかな」
「どうぞ」
「いつから?」
「高校ん時」
「あー、そういうことか……ああ、うん、なるほどね……だから優しくしてないって? 下心があるのね?」
「どっから下心か分かんないけど、まあ、運転手にはなってなかったかもな」
「なるほどね……」
再び納得の言葉を呟き、貞代はお茶を口に含んだ。バラエティー番組ではようやく新年を祝っている。こういう収録をしている人たちは、私以上に季節行事への感慨がなくなりそうだなと思う。今頃はもうバレンタイン云々話しているのだろう。
「あんたの謎なとこが一気に納得いったわ。全部じゃないだろうけど」
「謎かね」
「謎だし、変」
「失礼だな」
「ほんとのことでしょ。失礼ついでにいい?」
「なに」
「保留って可能?」
「え、何を?」
「え、待って、勘違い? つ……付き合いたい、とか、そういう話じゃないの?」
「無理だろ? いちいち期待持たされてもな」
「……心配される理由分かったかも」
「え、今?」
「あーもー、なんでこのタイミングで言うかなあ」
だから最悪だと言ったのだ。もう一度そう言う気力はなく、嘆息する。このタイミングで隙を作ったのはお前だろと言いたくなるが、そういう女だと分かっていながらつけこんだのは私だ。そして酒のせいにしたいと思ってしまっている。まあ、半分くらいはそうだが。
「帰るんならタクシー代出したるから」
「いや、なんでよ。帰っても寂しいだけじゃない」
「だからそういうのを言うなっつってんだよ」
「もう悪い女に引っかかってんだから一緒よ……」
「寝るならこれ食っちゃって、布団敷いてくるから」
「だからねえ、あんたのそういうごまかしがよくないって言ってんの」
「いや、帰んないなら布団やんなきゃだろ」
「帰れって?」
「んなこと言ってない。嫌なら帰ればっつってる」
「嫌だったら保留にもしないし、さっさと帰ってるわよ」
「じゃあ敷いてくる」
「ここで寝ればいいじゃん」
「はあ……持ってくるから食っといて」
「ねえ」
「なんだよ」
「酔った勢い?」
「酔ってなかったら言わなかったよ」
「冗談でも、嘘でもないの?」
「そういうことにしたいんならどうぞ」
「あはは……」
貞代が目元に手をやったのを見て、立ち上がる。布団の場所は覚えているが、探すのに時間がかかったとでも言ってやった方がいいだろう。階段を上り、物置のドアを開ける。
期待させるようなことを言っているのだって酔った勢いなんじゃないのか、と思う。別にいいけど。しかし、なんだか前向きにとらえられたみたいで驚いてしまう。それほど縋る対象が欲しい、というかまあ、疲れているのか。それならそれで構わない。好きでいるだけで私は充分だし、仮に恋人になったとしても何も変わらない。他の人間に縋らないでほしい気持ちは強くなるかもしれないが。
埃の舞う物置から、布団ケースを引っ張り出す。チャックを開けるとクリーニングのビニールに包まれたままでほっとする。空間が黴臭いので多少はにおいが移っていそうだが、まあ汚れてはいないからいいだろう。煙草臭いか黴臭いかの違いだ。
探すのに充分な時間を費やしてから、ゆっくり階段を降りる。階段の幅に対してマットレスが大きく歩きづらい。
「ー。手伝う?」
「大丈夫」
階下から声が聞こえ、それに応える。壁にこすれる音で気づいたのだろう。どうやら泣き終わったらしい。
マットレスを下ろし終え、一息つく。貞代は台所に立って、余りものをまとめた皿にラップをかけていた。
「勝手にラップ借りた」
「ああ、ありがとう」
「お皿洗っちゃうから、布団やってもらっていい?」
「ん」
放置されれば皿も洗ったが、やってくれると言うなら任せたい。家事代行をタダで受けている。恩恵。
机を移動させたり毛布を上から持って来たりして、ようやく体裁が整った。貞代は歯を磨いてから、突っ立ったままテレビを眺めている。何を考えているのだろう。酔いが覚めている途中、眠くなり始めたところで、ただぼんやりしているだけだろうか。放っておいて煙草でも吸おうとソファーに座り、ポケットに入れていた加熱式タバコを出す。視界の端で貞代があくびをした。眠いだけだったか。
「布団でいいの?」
「どうぞ」
「ありがと。朝、どっか出る?」
「なんで?」
「ちょっと行ったら神社あるでしょ。あ、人多いかな」
「初詣?」
「うん。お屠蘇とか配ってたらサイコーだし」
「まあ、私はいいけど」
「じゃあ行こ」
話しながら布団に移動した貞代は、寝転がって大きく伸びをした。あんな話をした後でほとんど真横で寝るのは気まずくないのかとも思ったが、そう広くもない部屋で暖をとろうとするとこう敷くしかない。煙を吐き出し、テレビ台のスマホを取る。数人から年明けチャットが来ていて、そのどれもが何年も会っていない相手であることだけ確認し、ニュースアプリに移動する。
「テレビ消す?」
「ん? どっちでもいいけど、たぶんこのテレビしばらくしたら勝手に消える」
「ならいっか。電気は?」
「それリモコン」
「ああ……消すよ?」
「うん」
ピッと音がして、居間が真っ暗になる。暗闇の中ではテレビとスマホがまぶしく、スマホの画面を消して仰向けに寝転がる。
「純和風っぽい家なのに、こういうとこは最新ね」
「うーん、親父が便利好きだから……あとは知り合いに仕事やりたかったんじゃない」
「ああ、なるほど」
風呂場も電気も実家に戻ってきた時には変わっていたので、実際どういう理由だかは分からない。聞く必要もない。どうせ暮らすなら便利な方がいいし、父もそう考えたんだろうとしか思っていなかった。だからたぶん、リノベーションしてでも引っ越さないのにも何かしら理由があるのだろう。
貞代が音量を下げたらしく、室内はほとんど静かだった。普段ならとっくに寝ている時間だ。目を閉じると、すぐにでも眠れそうだなと思う。
「?」
「ん?」
「なんで……私なの」
どうして今その話をするのか。目を開け、天井を見つめる。
「忘れた。きっかけなんてどうでもいいだろ」
「どうでもよくはないけど……じゃあ、今は」
「さあ……でもずっと、貞代しかいなかったんだ」
誰でもよかったのかもしれない。あの頃の私は、それこそ心の隙間をさらけ出したまま生きていて、でも自分を守れていると過信していた。先に暴かれたのは私で、何の気なくその穴を埋めたのがたまたま貞代だっただけ。蓋が錆びついた頃にたまたま、再会してしまっただけ。布団のこすれる音。
「……ばかね。いくらでもいるでしょうに」
「さすがに越えられないよ」
「付き合いだけは長いからね」
「まあ、そういうこと」
「ねえ……手出して」
「……手?」
「こっち見ないで」
「はあ」
毛布から腕を出し、布団の方に差し出す。その指先に、冷たい指が触れ、心臓が跳ねる。冷え性。握手するみたいに握られる。それはすぐに離れ、腕を押し上げられた。
「返す」
「なに」
「確認」
「なんの?」
「気持ち」
「え、誰の?」
「……こういう時だけ鈍いのやめてよ」
「いつも鈍いけど」
「それはふりでしょ、もー寝る。おやすみ」
「おやすみ」
「昼まで寝てたら起こして」
「うん」
驚いて手を引っ込めたりしなくてよかった。ああ、とんでもなく驚いた。ここ何年かで一番焦ったと言っても過言ではない。こんなことをしてくるものなのか、女って。男とも付き合ったことがないのでなんとも言えない。しかし自分を好きなことが分かっている、しかも付き合う可能性をちらつかせながら保留にしている相手に、なんらかの確認のためだけにそんなことをするのか。まあ、おそらくこいつにとっては重要なことだったのだろう。そう思うしかない。
目をつぶる。長い一日だった。一度追いやった眠気はすぐ訪れ、私は悩むことなく眠りに落ちた。
案の定先に目が覚めて、餅を焼いたりコーヒーを淹れたりした。そのうち貞代も起きたので、あまり正月らしくない雑な朝食を済ませた。シャワーを浴び、ジャージに着替えて家を出る準備をする。貞代は別にすっぴんでいいやと言い、私が風呂から出ても寝間着のままでいた。自分の地元とは少し離れているし、そのへんまで行くのに見た目に気を遣う必要もないということだろう。
貞代の言っていた神社は裏手の路地から駅と反対方向に行くとある。寒いので車を出そうかと思ったが、道は狭いし人通りを考えても歩いた方が早いだろう。玄関の扉を開け、突き刺すような寒さに体を震わせる。
「さっむ……」
貞代は腕を組み、マフラーに顔を埋めている。歩いていればある程度温かくなるだろう。
大きくない神社だが、このあたりに住んでいる人たちにとっては気軽に参拝できるので、やはり人はそれなりに多かった。たぶん店を利用してくれている人もいるだろうが、生憎車種で記憶しているので家族などといられると全く分からない。向こうも向こうでほとんどは父目当てに来ているだろうから、私のことは覚えていないはずだ。
手水など諸々の儀式を終え、人の流れに乗る。冷たすぎる。貞代は律儀にもハンカチを持ってきていて、ありがたくそれを借りた。
「わっ」
「いて」
「あ、すみません!」
「あ、いえいえ」
子供にぶつかられたんだか、避けようとした貞代にぶつかられ、体が少し傾く。人好きのする笑顔で子供に手を振っている。
「かわいいね」
「ん? ああ」
「ごめん、ぶつかっちゃって」
「いや」
「子供嫌い?」
「さあ。接することないから」
「まー親戚にもいないんじゃね」
子供だからかわいいとか、好きとか嫌いとか、よく分からない感覚だ。はしゃいでいる子供を見ればかわいいなと思うこともあるが、大抵のはしゃいでいる人間にはかわいさがある。泣いている子供がいれば多少心配だし、うるさいとも思うけれど、それだって子供じゃなくても同じことだ。周りに子供がいればもう少しなにか思ったのかもしれないが。
流れに合わせて歩いていたら、いつの間にか順番が回ってきた。何歩か進み、分厚い縄を掴む。
「お賽銭は?」
「あー、財布置いてきた」
「ええ? じゃあ私の五円玉あげる」
「人のでいいのか」
「いいんじゃない?」
信心深いのにこういうところは適当だ。貞代の指示通りに礼をしたり手を鳴らしたりしてから、手を合わせる。神様かあ。並んでいる間に考えておけばよかった。隣を窺うと、ちゃんと目を閉じてなにやら祈っている。祈ったところでどうなるものでもないとは思うが、いたら面白いから祈っておこう。
貞代が救われますように。私のような人間に、騙されませんように。それから、できれば──縁だけは切れませんように。
私は欲深い。鈴を見上げて息を吐く。でも、鈍色だったのだ。世界は暗かった。私こそ深海を漂うゴミだった。伸ばされた手を離したくなどないと、思ってしまったのだ。こちらから伸ばす勇気は持てずにいたのに。
少しして貞代も終わったらしく、二人で列を離れた。
「あ、お屠蘇あるよ。もらってこ」
おみくじでも引くのかと思ったが、貞代が寄っていったのは酒だった。まあお屠蘇なんてがばがば飲むものでもないだろうし、酒という認識はおかしいかもしれない。言われるまま小さな盃を受け取り、少量のそれを流し込む。しかしこれでしばらくは運転できなくなってしまった。一人ならいいが、貞代は確実に嫌がる。
「あー、いい一年になるといいなあ」
満足げに杯を返し、貞代は言った。曖昧に頷いておく。その言葉には全面的に賛成だが、ここ数年波がなかった身としては、いい一年を願うと悪い一年が来そうだと思ってしまう。
おみくじ引いて、お守り買って、と話す貞代に相槌を打つ。正月らしい正月をやっている。年を越すまで実感などなかったのに、私は存外流されやすい。
「ねえ、何お願いしたの?」
無邪気なやつ。少しぐらい想像できてもよさそうなものだ。
「さあ」
「だから謎だって言うのよ。ほら、あんたも引いて」
お金を入れて先に引いたらしい貞代に促される。たくさんの紙が結ばれている紐の近くへ移動し、二人で中を見る。
「中吉……」
吉。大差ない、というかどっちが上だかも分からない。あきない、やすし。父にも何事もなさそうだ。他のもあまり悪く書かれていないようなので、概ねいいってことだろう。
「結ぶんだっけ」
「ん? いや、悪い時だけでいいんじゃない。なんだったの?」
「吉」
「じゃあ持って帰ったら。見せてよ、和歌」
「和歌? ああ……」
字体が違うためか意識できなかったが、言われて見れば運勢の下に簡単なイラストと共に和歌が書かれている。道だか蛇だか、うねうねしたものと、三日月。貞代の視線まで紙を下げつつ、書道らしい文字を読む。
「えーと……ゆきくれて……」
貞代が読み上げるのを聞くが、全く意味が分からない。
「どういう意味?」
「うーん、古文は専門じゃないから正確じゃないけど……迷った先で月の光が差してる、みたいな?」
「ふーん」
「意訳するならたぶん、困ったとしても助けが得られるとか、そういうことだと思う」
「へー。貞代のは?」
「まあ、なんていうか、今は待てみたいな感じ。実際さ、おみくじってこっちの方が大事なんだよ」
「ふーん」
「ちょっと、せっかく現国教師が教えてあげてんだから聞きなさいよ」
「聞いてるよ。そっちは結ぶの?」
「ううん、持って帰る。お守りとかは? 買うならお金出しとくよ」
「いや、いい」
「見ていい?」
「どーぞ」
元の形に折りたたみ、ポケットにしまう。貞代は歩き出してからも紙を見ていたが、大きなため息を一つ吐き、同じようにしまった。何かよくないことでも書いてあったのだろうか。
困っても助けが得られる。あきない、やすし。ならまあ、仕事じゃないんだろう。などと、明日には忘れているだろうことを真剣に考えても仕方がない。
貞代はいくつかお守りを買っていた。相当悩んでいたので、家族の分なども含まれているのだろう。そうしてようやく帰路につく。結局いつ帰るのか聞いていないが、昼頃であれば飲酒扱いにはならないはずだ。少量だし。
家に着く。ペットボトルのお茶を準備しようとしたら、お茶っ葉があるのを発見した貞代が煎れると言い出した。ついでに昨日のお菓子でも食べよう、と。その間に私は布団を片付けることにする。
テレビでは駅伝やらお笑いやらがやっている。貞代は駅伝が見たいと言い、私もお笑いよりは見応えがあるかなとチャンネルを回す。
店長がくれたというお菓子は、かわいらしい包装の洋菓子詰め合わせだった。話を聞く限り店長とやらは男性で、女心を介さないらしいので、これは誰かからもらったものなのだろう。それを何故貞代に横流ししたのか。甘いものが好きではなく、たまたま引き取ってくれる子がいたからか。適当に端のものを取り、袋を眺める。ミルク。袋を開ける。四角いクッキーに白いチョコらしきものが挟まっている。
「店長さ、ろくでもないやつだし全っ然好きじゃないんだけど。これだってたぶん女の子が店にくれたものだと思うし」
食べていると横から解説が入った。
「でも友達ん家泊まるから早く上がりたいって言ったら、これくれたの。一応早めに上がるようにはしてくれたし……気まぐれかもしれないけど、なんかそういうとこもあるんだなーって」
十中八九気まぐれだろうし、体良く処分しただけだろう。口の中身を飲み込みお茶を飲む。
「こういうのが心配なんでしょ?」
「まあ……」
「保留とか言って、流されかけてるしね。でも保留は保留」
「ああ」
「ほんとにちゃんと考えるから。待っててくれる?」
「……ん」
流されかけているのか。何をどうちゃんと考えるのかも分からないが、これは貞代なりの自己防衛だろう。よかった。一旦逃げるという選択をしてくれて。
だらだらテレビを見て時間を浪費する。昨日の残りを温め、昼食にする。お菓子にみかんに揚げ物、肉。食べ過ぎているし、どう考えても栄養バランスは悪いが、時々こうすることでむしろバランスがとれるのかもしれない。屁理屈の言い訳だ。
コマーシャル中、煙草を吸いながらスマホを見る。父からいつ来るのかという確認のチャットが来ていた。貞代を送るついでに出てしまってもいいかもしれない。夕方に出れば向こうの夕飯には間に合うだろう。スマホと煙草の本体を机に置き、立ち上がる。寝間着と下着類、電源コードがあればいいか。貞代が顔を上げ、私を見る。
「準備してくる」
「え?」
「家送りがてら親父んとこ行こうかなって」
「ああ……うん。すぐ?」
「いや、準備だけ」
「そう」
貞代が嫌なら別に明日でもいいし。しかし今それを言ったところで気を遣わせるだけだろう。二階に行き、自室の電気をつける。
準備を終えて一階に戻ると、やはり貞代は着替えていた。昨日とは違う格好だ。わざわざ一式持ってきたらしい。だからやたら荷物が多かったのか、と思う。
貞代の家までの距離ならバイクでも大丈夫だろうと思っていたが、父は今回バイクで出たみたいだ。車の方が貞代は楽だろうから、その選択に助かった。端からそのつもりで父は私のバイクを整備していたのかもしれない。父の乗っているバイクは長距離には向いていないから。
「家、送ってくれなくていいよ。買い物して帰りたいし」
「買い物?」
「うちの近くのスーパー、去年は元旦も開いてたから」
「どうせ通り道だからいいけど」
「あー……」
「ああ、嫌ならいいよ。気にしないで」
「そ、そうじゃないの。でも……」
嫌とは言いづらいのか、一人になりたいのか、また手間をかけるわけにはなどと考えているのか。言い方からして買い物が本来の理由でないのは明白だ。困った顔で言葉を探す貞代を横目に、机に置いたままだった煙草の本体を取る。新しいタネに換え、ボタンを押す。
「私、これ以上……あなたを振り回しちゃいけないかなって」
「……振り回されてるつもりないけど」
「そうかもだけど、なんていうのかな……甘えるべきじゃない、でしょ」
「なんで?」
「……資格がないし。その……もしかしたら、もう友達には戻れないのかも。だから、ただ、ただ暇だからとかって送ってもらうのに、甘えちゃいけなくない?」
ああ、なるほど、思わずため息を吐く。口に出してくれたのでまあ、致命的ではない。
今日くらい構わないかと思ったのがよくなかった。確実に天秤を傾けてしまったし、貞代がこうでなければ致命的な亀裂になっていただろう。それでも口に出したことを後悔したくはない。なんにせよ天秤を操るのは貞代なのだ。
「こんぐらいのこと、甘えにもならないよ。それにお前には……友達に戻す権利がある」
「け、権利?」
「気づかなかった頃に戻ればいい」
「戻れるわけないでしょ!」
「……だよね。知ってる。でもとにかく、私に気なんて遣わないで」
「でも……」
「私は貞代と一緒にいたいんだ。できることならなんでもしてやりたい。今日送るかどうかは、まあ通り道だってのもほんとだけど」
貞代は驚いたようで、一瞬目を見開いた。
「な……なにそれ。なんか……」
「だから私といたくないんなら送らない。ただ……寒いし、荷物も多いから……」
うまくまとめられず、言葉尻が消える。無理やりだと思われたくない。私は、嫌われたくない。考えないようにしていただけで本当は。
「って……やっぱり、変なやつ」
貞代は服の袖を伸ばし、目元を押さえた。ないている。生唾を飲む。
「悪い女……私も悪いけどさ……」
「ごめん……」
「もー、分かってないのに謝んないでよ……こっちこそ、ごめんね」
「貞代は、何も悪くない」
「悪いの。はあ、ったく、泣かされてばっか」
「ごめん」
「あはは……ティッシュちょうだい」
「はい」
「送ってって。スーパーは荷物置いてから行く」
「……ありがとう」
差し出した箱からティッシュを数枚取り、貞代は顔をそむけた。泣かせてばかりだ。でも何が原因で泣くのだろう。変なことを言った覚えはない。何か、私には大事なことを察する能力が欠如している。
「エンジンかけてくる」
「……ん」
「ついでに外で煙草吸ってくるから」
「コップかたづけとく」
「どっちでもいいけど」
「やるっての!」
「はいはい……」
鍵を持って家を出る。怒らなくてもいいだろうに。馬鹿にされているように感じるのだろうか。今後は素直に任せた方がいいな。まあ、泊まりにくることなんてそうそうないだろうが。
店横のガレージで煙草を吸う。紙を吸うのは随分久しぶりな気がする。深く息を吐き出す。灰を落とす。車のドアを開け、エンジンをかけて暖房をつける。帰ってきたら洗わないと。父に時間の目安を連絡し、しゃがみこむ。
数分後家に戻り、荷物を持って、貞代と共に外に出た。バイトにするだけあって片付けは完璧だった。目元は赤いし、おそらく腫れてしまうだろうけれど、化粧でごまかすことはしなかったらしい。もっと待っておくべきだったかもしれない。
元旦の昼すぎ、人出はまばらだ。普段は読み込んだCD音源、父の趣味も混ざった邦楽を流すが、日本語の歌詞を聞く気にならず、スマホから適当な洋楽を流した。ガレージを出てすぐ、赤信号で停車する。
「今度さ……」
と、窓の外を見ながら貞代が言った。
「飲みいこうよ。吉祥寺に飲み屋街があんの」
「うん」
「電車で来て」
「あー、車? 飲んだら代行呼ぶからいいよ」
「へえ、そう。まあ、ここからじゃ乗り換えめんどくさいか……」
調べないと分からないが、そうらしい。
会話はほとんどそれきりで、すぐに貞代の家に着いてしまった。指定された路地で車を停める。だいたいの場所しか知らなかったので、駅前からは指示してもらうことになった。隣からため息が聞こえる。
「楽しかった」
誰が聞いても楽しそうには聞こえない声色で、貞代はそう呟いた。自分でも分かったのか、ほんとよ、と付け足される。
「まあ、疲れたのも事実だけどね」
「そう」
「また連絡する」
「うん」
窓枠に肘をつく。貞代が車を降りる。マンションのエントランスに入る後ろ姿を眺める。ドアが閉まりきる直前、貞代は振り向いた。彼女が控えめに片手を挙げる。私が返す前に、ドアが閉まる。ハンドルを握りしめ、その手に額をつける。
──あれ、。今帰り? 家こっちなの? ……ふうん、じゃ一緒に帰ろうよ。
目を開ける。顔を上げ、息を吸う。ゆっくり呼吸を整え、後ろを確認してからアクセルを踏む。
──え? 友達ですよ。……いえいえ、めっちゃいい子で、いつも助けられてます。
なんのための涙か分からなかった。磨かれた蓋には新しい錠前がつけられ、鍵を持っているのは一人だけ。王子様の口づけを待つお姫様のようだ。笑える。感情の整理がうまくいかずに、とりあえずこぼれたものをぬぐう。
どこに呼び出されたっていい。話したくないなら理由も聞かない。いつでもどこでも、迎えにいくよ。
──また明日!
救ってくれた、お前のために。
24.01.10