ハグの日
※直接話が繋がっているわけではないですが、「ナンパじゃないけど」に出てきたオリキャラが出てきます
「あれ? 今日カリダさんじゃなかったっけ」
その声に本から顔を上げる。ヘッドホンを肩にかけ、ルキアノスは私を見ていた。
「替わった」
「でもお前四時まで残れないんだろ?」
「ルキ一時間ぐらい一人でも大丈夫でしょ? ってカリダさんが言ってたよ」
「適当だな、あの人……まあ平日はなあ。シーマさんは?」
「今店の準備してる」
「ていうか早くね? 九時からだよな」
「本読みたかったから」
「それで早く来るのよく分かんないけど」
言いながら男はリュックを下ろす。この狭い休憩室で異性と二人きりだというのに、昔ほど不快感はない。やはり私はどんどん慣れていっているのだろう。時計を見ると既に十分前だったので、本を置いて立ち上がり、タイムカードを切る。
「この時間に二人はいらないよな」
壁にかけられた鏡で髪をチェックしながらルキアノスが言う。本を鞄にしまい、荷物置き場へ戻す。アクセサリーショップの店員が開店から二人も必要かと言われればそんなことはない。しかし如何せんこの店は一人では広すぎる。
「カリダさんもそれは言ってたけど」
「そうなのか」
「でも、シーマさんに一応いてって言われたから。客が来るまで私一人で出ててもいいよ」
「いや、時給分は働くよ。シーマさん怖いし」
「怖くないよ」
「お前は真面目だから」
「またそれ?」
「またこれです」
真面目。真面目なあ。頭が固いだとか理屈っぽいだとか、私に対する評価は大抵そんな感じだ。別に嫌なわけではないけれど。事実だし……。
開店してようやく一時間。平日のこの時間はいつも空いているが今日はまだ一人も客が来ていない。延々商品の整理をやっているのも飽きるなと思い始めたところで、延々窓拭きをしていたルキがこちらに来た。店長であるテータさんは今、朝食休憩というものをとっている。なんだそれはと思いつつ本人には聞けていない。
「飽きた」
「だろうね」
「惚気話くれ」
「はあ?」
「なんかないのか? 暑さも吹き飛ぶぐらいあっついの」
「意味が分からない」
「そういえばこないだ、クレッサがクッキーを作ったんだよ」
「大変だね」
「大変だよ。どうやったらクッキーがまずくなるのか教えてくれ」
「いや、知らないけど」
「料理するんだろ? あいつにレクチャーしてくれないか」
「するって言っても、別にそんなに知識があるわけじゃないよ」
「確実にあいつよりはある……」
「毎回まずいって分かってるのによく食べるね」
「俺のために作ったって言うから」
「いつも思うけど彼女、舌大丈夫?」
「絶対大丈夫じゃないよな」
ルキは大げさにため息を吐き、ぐちゃぐちゃだった窓拭き用の布を広げた。そして丁寧に畳んでいく。よくそんなに汚いものをいじれるなと思うが、私が窓拭きをすることは基本的にないので何も言わない。私は私で途中だった作業が完了してしまって手持無沙汰なので、レジ前の混雑を並べ直し始める。少しの間その沈黙が続くが、あ、とルキが声を漏らした。
「今日ハグの日らしい」
「……で?」
「そんな嫌そうな顔するなよ」
「だからなに」
「彼氏とのネタに」
「中学生じゃないんだから」
「絶対喜ぶぞ。俺なら喜ぶ」
「私の彼氏はルキじゃない」
「そういや名前なんて言うんだ?」
「言うわけないでしょ」
「あれ、ていうか聞きそびれてたんだけど、同棲してるのか?」
「……聞かれてなかったっけ?」
「じゃ帰ったらいるんだろ? ちょうどいいな」
「頼むから会話して」
「あっはっは!」
相変わらずよく分からない奴だ。大体何がハグの日だ。そんなことなくてもあいつは好きな時にハグしてくるんだから意味がない。
「ルキはいつになったら仕事するのかねえ」
「おかえりなさい」
「シーマさんだって今休憩だったじゃないですか。なあ」
「ルキも仕事してましたよ」
「窓拭き小僧」
「今日もぴかぴかです」
「はー。、あたし金具交換してるからこいつよろしくね」
「あ、はい」
いつの間にか私はルキアノスのお世話係になってしまっている。おかしい。
それから再び小一時間。何人かのお客様の相手をしたものの購入には至らず、結局ルキとの話に花が咲く。シーマさんは聞こえているだろうが、出てこないということは特に注意する必要はないと判断したのだろう。
「いつも俺ばっか話してるよな」
「不満なの?」
「そりゃお前の惚気も聞きたいだろ?」
「人の惚気聞いて楽しい?」
「え、楽しくないのか。ごめんな」
「いや、私は楽しいけど、そんなに聞きたいものかなと思って」
「ってあんまり話さないし、彼氏いるとも思ってなかったから」
「結構話してるつもりだった」
「会話はするけど、お前の話はしないだろ」
「まあ……話すようなこともないし」
「あ、喫茶店のこと話したか?」
「ああ、うん」
「なんだって?」
「……普通に、なんか……嫉妬するらしい」
思い出したら急に恥ずかしくなってきた。はいはいどうせ私はあなたのこと以外好きにならないよと思っていると、ルキの視線を感じ、止めていた手を動かす。この店のいいところは暇なおかげで汚れがたまらないところだ。
「さ」
「なに」
「彼氏のことすごい好きなんだなあ」
「……はあ?」
「今の録画して彼氏に渡したかった」
「何言ってんの?」
「お前の彼氏が羨ましいよ。クレッサももしかして他だとそういう感じなのか? 見たい」
なんだかよく分からないが私はそんなに好きですという顔をしていたのだろうか。どういう顔だ。ルキアノスはなんだかんだ嘘は言わない。適当なことを言っているようでそれが本音だから恐ろしい。しかし今のが事実だとすると恥ずかしすぎる。
その日は一日暇だったが、途中からテータさんがルキと話し出したので私は黙っていることができた。そして約束通り三時に上がらせてもらい、店を出ようとしたところで、余計なことを言う男に呼びとめられた。
「ハグの日頑張れよ」
「……クレッサの料理指導頑張って」
「それは言わないでくれ」
頑張るって一体何を頑張ればいいんだ? 彼にその話題を振ったら面倒なことになる予感しかしない。……けれどまあ、別に嫌いなわけではない……嫌いなわけではないからな。そもそも帰ったらいるのかも分からない。はあ。煙草を吸おう。
万が一寝ていたら悪いなと思い何も言わずリビングまで行くが、彼はテレビを見ながら煙草を吸っていた。こちらを向いたその目をなんとなく見ることができない。
「ただいま」
「早かったな」
「うん。ご飯は」
「食った」
「そう」
まさかずっと窓を開けたままクーラーをつけていたわけじゃないよな、と思うがよく考えたら私はこの家の光熱費がどうなっているのか知らない。最悪一切払われていないし、そうでなくとも私が払うことはないからいいのか。複雑ではあるがよしとしよう。
洗面所からリビングに戻ってきた時、既に彼は煙草を吸い終わってただぼーっとテレビを眺めていた。リュックを壁にかけ、煙草を取り出してテーブルまで戻る。この時間はそうでもないけれど、さすがに部屋に入ったばかりでは暑い。窓を閉めて彼の向かいの椅子に座る。火をつけたところで彼のあくびが視界に入る。
「寝てたんじゃないの?」
「寝すぎた」
「なるほど」
呑気なものだ。盗賊って私生活がこんなんで大丈夫なのだろうか。そんなことを言ったらそもそも一般人と生活しているということがおかしいのかもしれないけれど。
「あっちいなあ、毎日毎日」
「部屋にいたんでしょ」
「まあな。お前倒れんなよ」
「熱中症ね。気をつけてはいるけど」
「そんな下らねえ理由で死なれたらたまんねーよ」
「確かに」
灰を落とし、それから喉の渇きを覚える。熱中症の話題が出たせいか。一度煙草を灰皿の縁に寝かせ、立ち上がる。
そんなに汗をかかない体質ではあるが駅から十分歩いて完全にさらさらというわけにもいかず、要するに体のべたつきが気になる。シャワーでも浴びるか。こんな半端な時間に入りたくはないけれどまあ、バイト終わりだから仕方ない。コップをテーブルに置く。
「シャワーいい?」
「あ? ああ。俺さっき浴びた」
「そっか」
まだ多少残っていたが、一吸いしてから揉み消す。そうしているうち唐突にルキの言葉を思い出して、思わずため息が漏れる。彼がちらとこちらを見るが構わず浴室に向かった。
体はさっぱりしたのに。
髪を乾かしてからリビングに行くと、彼はソファーで寝そべってマンガを読んでいた。たぶん適当に盗ってきたものだろう。興味がないので分からないけれど、この部屋を片付けた時に出てきたものを見た限りでは、それ以降もたまに読んでいるマンガは続き物ではない気がする。いつも今ぐらい全ての物事に興味がないという顔をしていてくれると楽なのだが。
シャワー中、例の儀式について色々考えた結果、いつでもハグなんてされているが私からすることはあまりないということに気づいた。つまりハグの日とはそういうことなのではないか。ただそこには大きな問題がある。私が自分からハグをしに行くということができないということだ。思わず煙草の箱を手に取る。
考えながら煙を吸い込む。それを吐き出したところで、マンガから目を離さないまま彼が言った。
「お前なんかあった?」
「……え、なんで」
「なんとなく」
「いや別に」
勘ということだろうか。第一この男は基本的に嘘をつかないのでなんとなくというのは事実なのだろう。なんとなくで当てられたくなかった。私の言葉に返答はない。ばれない程度に息を吐き、それからまた煙草をくわえる。
何かあったとばれてしまってはどうすればいいのか分からないな、と煙草を消してから思う。とりあえずソファーまで行こう。こういうのは考えすぎない方がいいと分かっているのにやはりうまくいかない。
「ねえ」
「あ?」
「ちょっと起き上がって」
マンガをベッドの方に放り投げて体を起こした彼の腕を掴む。それから私もその横に腰掛けるが、一度動きを止めてしまうと思考が働き出す。なんだ、と言ったきり彼も私を伺って動きを止めている。何をごちゃごちゃ考えているんだとでも思っているのだろう。知らないけど。ため息と共に私は彼の腕を引き、倒れ込むようにしてその体に抱きついた。
「なんだよ。どうした?」
「……たまにはいいじゃん」
「素直じゃねえな、お前は」
「今日ハグの日なんだって」
「なんだそりゃ」
「知らないけど、よく考えたらいつもそっちからだなって思って」
「なるほどな」
強い力で抱き寄せられ、隙間が埋まる。ゆっくりと頭を撫でてくれる手に安心して体の緊張を緩めた。
「お前も随分進歩したよな」
「そうかもね。ありがとう」
「馬鹿なのは変わらねえけど」
「馬鹿じゃないよ」
「キスは?」
「……なに?」
「お前からしてくれねえの」
「無茶言わないでよ」
少しだけ湿った肩口に顔を寄せる。頭を撫でる手が止まり、うなじのあたりで落ち着く。そのまま私は首元に一度唇をつけた。体を離せば当然のように目を合わせてくる。
「これだからてめえはなあ」
「なに」
「なんでもねーよ」
「キスするの」
「する」
結局私からでなくともキスはするらしい。なんだって頑張れよと言われて実行してしまったのだろう。やっぱり私は馬鹿だ。……キスの日だけは来ないでくれ。