おつかれさま
二人でも窮屈に感じない程度にこの部屋は広い。だから大きめのソファーを置いても問題なかったし、それはつまり必ず同じベッドで寝なくても構わないということだった。まあ最初に来た時は部屋が汚すぎてそれどころではなかったのだけれど。
雑誌を閉じ、体を起こす。安いソファーはたまに軋んで音を立てるが、あまり気にはならなかった。体を起こした拍子にケータイが滑り落ち、床に当たる。それを拾って雑誌と一緒にテーブルに置き、通知を確認するが、特に何も連絡はない。壁の時計を見上げると一時。……一時? 外とケータイとそれを順番に見て、いや今は正しく夕方の四時だ、どうやら時計が止まっているらしいと理解する。電池なんて私が買った記憶はないし、元々この家にあるとも思えない。後で買いにいかないといけないかもしれない。
部屋の電気をつけ、お湯を沸かしている間に窓を開ける。室内で吸ってもいいと言われているので別に窓を開ける必要はないのだけれど、なんとなく外の風の中で吸いたくなる時がある。あいにくここはベランダらしいベランダがない。総合的に見れば前住んでいたところの方が煙草を吸う上ではよかったなと思うが、まあ景色は悪くないのでいいだろう。ここからは海が見える。
この時間はさすがに涼しいが、昼間は長袖では少し暑いくらいだ。もうすぐ夏が来るのか。暑いのは得意ではないけれど海に興味はある。海。毎日見ているうちに好奇心が刺激されていたらしい。海を見ると、随分遠くまで来たなと思う。前の家とではそこまででもないが、実家からはかなり遠い。それが少し嬉しい。子供みたいな考えだけれど、ようやく離れることができた気がして。
テレビをつけるとニュースがやっている。今日の夕飯は何にしよう。背もたれに体を預け、コーヒーを飲みながらぼーっと考える。あの人は何の文句も言わないけれどちゃんとおいしいのだろうか。料理は一人暮らしだったのでできないことはないが、その程度だ。面倒な時は近くの飲み屋で済ませてしまうし、そうでなければ彼が盗ってきたものだとかになる。このあたりにはいわゆるコンビニのようなものもない。数分歩けばスーパーがあるので不便はないのだけれど。
というか今日は何時に帰ってくるのだろう。遅いようなら一人で食べてしまいたい。昨日の夕方から仕事に行ったのだが、たぶん夜、というようなことしか言われていない。まあ本人にも分からないのだろうから仕方ないけれど……。
キッチンにあるものを確認する。簡単なものなら二人分作れそうだ。それなら急いで準備することもないかと思いテーブルに戻る。その時ケータイが鳴った。画面を見るとバイト先の人だ。
「はい、もしもし」
『あ、ちゃん。今日出れない? シフト抜くのすっかり忘れてて』
「ああ……すみません、今日はちょっと」
『ええ、どうしても?』
「ごめんなさい。これから用事があるので」
『そっかー、分かった。他当たってみる』
「お疲れ様です」
ほっとする。前までだったら確実に替わっていた。暇だけど、暇だからと言って出れるわけではないのだ。そのことを自分でしっかり認識できていることに安心する。
ケータイを置き一息ついたところで、がちゃ、と音がして振り向く。ああ、帰ってきた。
「おかえり」
玄関まで行くと彼と目が合った。少しの間私の顔を見て、それから大きくため息を吐く。
「あー、疲れた」
「おつかれ」
「わりい、ちょっと」
「え? う、わ」
ぐいと抱き寄せられ、外気の匂いがいっぱいに広がる。その中にかすかに彼の匂いがあって、徐々に力を抜いていく。……驚かさないでほしい。しかし帰ってきていきなりこうなるとは、よほど疲れていたのだろう。痛いくらいだった腕の力はすぐに弱まって、体が離れる。それから彼は黙って私の頭を撫でた。
「……大丈夫?」
「ああ」
「そう。怪我は」
「してねえ」
「ご飯どうする?」
「お前のがいい」
「分かった」
「キスしていいか」
「……い、ええと、……手洗ってからね」
「それキスと関係あんのか?」
「ないことはないじゃん」
「お前ほんとかわいいな」
「……何急に」
「手洗って着替えて、お前が煙草吸ったらか」
「すごいね」
「そんぐらいはな」
彼はそのまま洗面所に入っていく。今度はこちらがため息を吐く番だった。水音を聞きながらテーブルの前まで戻り、疲れてる癖によくやるなあと考える。疲れているからなのだろうか。仕方なく煙草を手に取り、窓を開けた。
外はいつの間にか暗い。煙が白く浮かび上がっている。遠く、水面が揺れているのが見えた。歩いて行ける距離ではないはずだ。いや、行こうと思えば行けるだろうが。クローゼットの閉まる音がして振り向くと、着替え終わったらしい彼がソファーに座る。
「ねえ、そういえば電池ってないよね」
「電池? なんでだよ」
「時計、止まっちゃったみたいで」
「あー……単三ならあるぞ、たぶん」
「ほんと? じゃあ置いといて」
「ああ」
どうしたっけなとかなんとか呟きながら彼は立ち上がり、再びクローゼットを開ける。私はテレビへ視線を向け、灰皿に灰を落とした。
吸い終わったところで、どこから見つけてきたのか彼が電池を二つテーブルに置く。そこから目をそらし、手についた灰を払いながら時計に目をやる。
「」
外そうと考える隙もなく、彼が私を呼ぶ。ああそうだった、と思う。先延ばしにしても仕方がないということを、私はいい加減学ぶべきだ。ソファーの方に来いと言いたいようなのでため息を吐く。近づくと手を取られて隣に座らされた。
この人はうまい。はっきり何がとは言えないけれど、なんだか色々なことをすっとできてしまう。未だに恐怖が抜けきっていないことを分かっていて、私がそちらに思考をシフトしてしまわないように行動してくれている。……そう思うのは自惚れだろうか。でも結果として恐怖よりも照れが先に立っている。
硬い皮膚が頬を滑った。見上げると少し口角が上がっていて思わず、視線をそらす。たまに見せるその表情は無自覚なのかなんなのか、とにかくそんな顔で見ないでほしい、と見る度に思う。
「疲れてるんじゃないの」
「あ? だからなんだ」
「……疲れてるなら寝ればいいのに」
「俺が疲れてるとお前はされるがままになるからな」
「疲れてなくてもそうでしょ」
「まあな」
まあなじゃない、と思うけれど言葉にすることはできない。軽く触れたそれに何もかも飲まれてしまう。息を止めないことを意識すればするほど、どうやって呼吸すればいいのか分からなくなる。苦しくなる前に離れて息を吐き出す。
「不器用」
「……うるさいな」
うなじのあたりを撫でられると背中を何かが通った感じがする。そのまま指が滑り、頬の輪郭をなぞる。どうしよう、と思っているうちに再び唇が触れる。今度は触れるだけでなく、角度を変えながら押し付けられ、食べられている気分になる。相変わらず、息の仕方が分からない。少し口を開いて応じると息が漏れた。舌が入ってきたことはないが、もうこれだけでいい。これ以上進まなくていい。これで精一杯だ。音を立てて唇が離れる。そんなことにいちいち参ってしまう。沈黙がいたたまれなくて口を開いた。
「あの」
「あ?」
「そういえば、海行きたい」
「海? お前海好きなのか」
「いや、そうでもないけど、見えるから」
「俺もしばらく行ってねえし、今度連れてってやるよ」
「いいの?」
「断る理由もねえだろ」
「……まあそうか」
話しているうちに手が離れ、安心する。ここまでだ。テレビに意識を向ける。フィンクスは立ち上がるとあくびをしながら煙草を一本取り出す。……夕飯を作らなくては。