痴話喧嘩、のち

 駅に着くと雨が降っていた。先ほどまでは降っていなかったのによりによって今、と憂鬱な気分になりながら折り畳み傘を取り出す。朝から降りそうな空だとは思っていたけれど。
 雨のせいでいつもよりも道が暗い。そもそも元いたところに比べて人通りの少ない道を歩く時間が長いのであまり遅くならないようにしているのに、人がいなかったせいで少し長引いてしまった。駅から出てとりあえず煙草を吸っているとケータイが鳴った。

「はい」
『今どこだ?』
「駅着いたとこ」
『すぐ行く』
「ありがとう」

 心配性だと思う。心配性なのか責任感が強いのか、まあとにかく、私が仕事で遅くなったりするとどうしても来れない場合を除いて迎えに来てくれる。毎回迎えにくるつもりだったようだが、道は覚えたからと言って断ったのだ。まだ明るい時間だったしこの程度ならば私から連絡することはない。文句を言われるかもしれないなと思った。あの男はこういう時ほぼ間違いなく怒る。吐き出したのは煙であって、ため息ではない。
 五分もしないうちに見慣れた靴が視界に入って、傘を傾ける。相変わらず傘も差さずにすっ飛んできたらしい。私の足で十五分はかかる道なのに。顔を見るとやはり怒っているようで何か言われる前に目をそらす。

「怒ってねえぞ」
「じゃあなにその顔は」
「何ふてくされてんだ」
「ふてくされてないよ」
「煙草」
「忘れたの?」
「うるせえな」
「怒ってるじゃん」
「怒ってねえ」

 リュックから煙草を取り出しその手に乗せてやる。火をつけるまでとりあえず傘を持ち上げると彼はかがんでその中で煙を吸い込んだ。ちょうど吸い終わってしまったので吸殻を捨て、もう一本くわえる。ライターを出そうと傘を肩にかけると彼が柄を持った。それから箱をしまい、彼を見上げる。視線には気づいているだろうがこちらを見ない。

「このくらいなら帰れるよ」
「俺が帰らせたくねえんだっつってんだろ」
「それは言われたけど、いつも一人で帰ってるでしょ」
「お前頑固すぎんだよ」
「だってあなたそんなに暇じゃないよね。仕事あるんだから」
「お前が嫌がるから来んのやめただけで、そんぐれえの時間は作るっつーの」
「別に嫌がってないよ」
「じゃ明日から絶対迎えに来るからな」
「そんなに暇なら家の掃除して」
「それが嫌がってなくてなんだってんだてめえ」

 売り言葉に買い言葉で段々お互いの苛立ちが募っていくのが分かる。私が黙ると煙を吐き出す音が重なった。迎えに来てくれるのは正直とてもありがたいし嬉しい、だから嫌がっているのではない。ただ、それに慣れてしまうと彼が仕事で何日もいない時に困るだろうなと思うのだ。伝わらない。伝えていないのだから当たり前だ。私も大概素直になれなくて困る。この単細胞にははっきり正直に言わなければ伝わらないと分かっているのに、なかなか言い出せない。前の方がうまくできていたような気さえする。
 吸い終わって傘を受け取る。俺はいい、と出てしまったので仕方なく高さを戻した。どうせ大した雨ではない。

「おい

 しばらく歩くと彼が言った。それに顔を上げず応える。

「なに?」
「結局お前何が嫌なんだよ」
「……仕事でしばらくいない時もあるんでしょ」
「ああ? まあ、あるかもな」
「いつも迎えに来てもらってて、そういう時は一人で帰ることになるのが嫌」
「あー……」
「仕事だっていうのは分かってるからそれがどうこうじゃないよ」
「ああ」

 そのうちアパートに着き、傘をたたむ。さっさと夕飯の準備をしないとなと思いリュックを下ろすとベッドに座った彼がそれを受け取った。そして壁のフックにかける。煙草、と言うと外ポケットから出してテーブルに置いてくれた。
 仕事か。私も別に週五でバイト、なんてしなくてもいいのだけれど、なんとなく暇だと落ち着かないのだ。結果彼の手をわずらわせている。やはりシフトをもう少し減らすべきだろうか。
 そろそろ作り終えるというところで台所との境にあるドアが開き、彼が顔を出した。

「どうしたの?」
「別に」
「もうできるよ」
「そうか」

 そのままこちらに来て、彼は皿を用意し始めた。大体作っているものを見れば使う皿が分かるようになったらしい。一か月でここまで慣れるものなんだなと感慨深くもある。

「悪かったな」
「……え、何が」

 唐突な謝罪に思わず顔を上げる。目が合いもう一度しっかり謝られた。

「別に怒るつもりはねえんだが、つい」
「ああ……気にしてないよ。何、急に」
「いいだろ謝ったって」
「いや、うん。こっちこそ喧嘩腰になっちゃってごめん。はいこれ」
「ああ」


 夕飯を食べ終わりとりあえず一服しているとベッドに座っていた彼がこちらに手を伸ばす。この家のいいところは全く気にせず室内で吸えるところだ。伸ばされた手を見ると一度それを下ろし、立ち上がって私の前にあったリモコンをとる。近い。顔をそらして煙を吐き出す。テレビの電源が落とされ、部屋が静寂で埋まった。なんとなく、緊張する。ので、とにかく言葉を発する。

「ねえ」
「あ?」
「シフト減らすから」
「バイトか?」
「うん。そしたら迎えに来て」
「おう」
「ちょっと待って」
「なんだよ」
「な、なんだよはこっちのセリフだし灰危ないから」
「早く消せ」
「待ってってば」

 近くに立ったまま彼は私の椅子の背もたれに手をかけた。右腕がそれに当たり焦って体を離すように足を動かす。煙草に口をつけるがうまく吸い込めない。長くたまった灰を灰皿に落とし、丁寧に火を消した。置いておいたはずの箱はいつの間にかベッドに放られていて、逃げられないことを悟る。その視線の動きで、煙草を奪ったのは正解だったと分からせてしまったかもしれなかった。
 フィンクスはたまにこういうことをする。未だに慣れない。黙っていると髪に手が触れる。顔を上げられず、ただ深く呼吸することで落ち着こうとする。

「なんで」
「何がだ」
「いきなり」
「理由なんてねえよ」
「作ってよ」
「お前がそこにいるから」
「そんな馬鹿な」

 何を言っているんだこいつはと思い顔を上げるが、すぐにそれを後悔した。心をわしづかみにするような目。髪を撫でていた手が止まり、頬をつねられた。

「な、なに。痛い」
「緊張しすぎだ」
「そりゃするよ」
「そんなんで大丈夫かよ」
「え、……だ、大丈夫じゃないよ」
「だよな」

 不意打ちだった。分かっていたのに、不意打ち、だった。かろうじて目を閉じることには成功して、息を止めた一瞬、死んでしまうかと思った。そりゃあ一か月もここにいてこういうことが一度もなかったとは言わない。けれど慣れない。毎回、死んでしまいそうになる。大丈夫なわけがあるか。

「……お前一体何回やったら慣れんだ?」
「知らない……ちょっと、近いから」
「馬鹿だな」
「何が」
「顔上げりゃ分かる」
「……上げないよ」
「そりゃ残念だ」

 そう言って彼は私の顎に手を当てた。何が残念だって? その手に逆らうことができず私は顔を上げてしまう。再び重ねられたそれが脳内を侵食していく。恐怖はない。ここから先に進むにはまだ早いと彼も分かっている。けれどだからと言ってこの行為に安心感があるということではない。先ほどよりゆっくり離れた彼の胸を押し、距離を取る。

「死ぬってば……」
「死なねえよ」
「馬鹿はそっちじゃん」
「言ってろ」
「はあもう……煙草……」

 満足げに笑った彼が煙草を渡してくれる。心臓がもたない。もちろんここで立ち止まっているのは申し訳ないと思う、けれどこればかりはどうしようもない。怖いかもしれないし、それ以上に……想像しただけで死んでしまいそうになる。  煙草に火をつけて吸い込む。テーブルの向かいに立ったまま彼も火をつけた。