愛あらばこそ
自分以外の生命が体に宿っているというのは本当に心地が悪い。特別生に対して感慨がなかった頃は、正直いつ死んでもいいと思っていたけれど、今はこの身一つで三人分の命になるのだ。自分の生さえ自由に操作できないでいる。
最近ようやく気持ち悪さは治まってきたが、寝不足の日が続いている。夫はそんな私を心配し、色々と調べて世話してくれる。すっかり丸くなってしまった、と思う。ねえ、あなたは人を殺していたのよ。唐突に私は夫を突き放したくなる。愛し合っていたからこそ私たちは結婚したし子供も授かった。けれど過去は私の足を掴む。こんなこと。こんなままごとをしてもいいのだろうか。呆然とテレビを眺めるけれど、意識は下腹部に向いてしまう。ふくらみ始めたそこを手のひらでさするようにするとぞわりと悪寒が走った。ここには……何かがいる。いっそこれを取り除くことができれば。殺す? この子を? 私のたった一つの存在理由を?
。
静かな声が脳内に響く。愛していたのかもしれなかった。遠い昔、愛など知らない少女の時分のことだ。……殺す。ならば、あの人に頼むのが正しいのではないか。立ち上がると一瞬目の前の景色が歪んだ。思わず目を瞑り、こめかみを押さえる。ままならない。これを終わらせてほしい。私はケータイを手に取った。
十数年ぶりに降り立った駅は賑わっていて、まずは人の波を抜けなければならないことにため息を吐く。前に来た時はまだ身軽だった。何も知らない、ただ自分の力だけを信じていた頃。私だと分かってくれるだろうか。手すりの冷たさが手のひらに突き刺さる。街は確実に変わってしまっていた。この曖昧な記憶で無事にたどり着ける確証はない。しかし昔のように歩いていく以外選択肢はないのだ。
ようやく人気がなくなってきた頃、急に吐き気が襲ってくる。気持ち悪い。深呼吸しても治まらず、足取りがおぼつかなくなったので仕方なく立ち止まると、そのままうずくまってしまった。口元に手をあてる。視界がぼやけて焦点が合わない。死にたくない! 頭が鈍器で殴られたように痛む。死にたくない。こんなところで、あの人にも会えないまま、こんなしょうもないもののために。だけど殺してほしい、ああ、気持ち悪い。地面についていた片手を下腹部へ移し、しかしそこからどうすることもできずに服を握りしめる。
子供が欲しいと言われて、私は戸惑った。結婚と言ったって正直昔と何が変わったわけでもなく、お互いに仕事は続けていたし、ただそれが続くのだと思っていた。そんなわけがないことは分かっていたが、人殺しの私からすれば子供を作るなどという行為は到底許容できるものではない。そして夫も同じだと勝手に思い込んでいて、すれ違いに気づけなかったのは私の対人関係における欠陥だろう。心のどこかであの人だけは私を侵すことなどないと期待していたのかもしれない。プラスでもマイナスでも、私を揺らさない人だと。激しく心を揺さぶられるということ。それは恋だ。
段々と気持ち悪さが治まってきて、自分がしばらく目を瞑っていたことに気づく。冷え切った両手と裏腹に瞳の奥がひどく熱い。なんとか立ち上がり、周囲を見渡す。誰もいない。三分も経っていなかったらしい。ため息を吐く。精神状態と体調はやはりリンクする。きっと私のこの不安も、妊婦にとっては普通のことなのだと思う。それでも無視することはできなかった。結婚、妊娠、出産、そういった類のことを意識し始めてから今までにたまっていたストレスが一気に爆発したのだと思った。
ようやく山のふもとまでたどり着いた時には日が傾き始めていた。数か月前まで普通に仕事をしていた身だ。この程度ではさすがに足は疲れないが、慢性的なだるさと道中の吐き気のおかげでどうにも疲れた気がする。
ここからの眺めはよく覚えている。待ち合わせなどしなくてもよかった。
「変わっとらんな」
遠くにある屋敷を見つめていた私の背後から声がかかって、目をつむる。今の私では、どうしたってこの人の気配に気づけなかっただろうということだけ。恋も愛も知らなかった私をひどく揺さぶった存在。あの時出会っていなかったら私は今頃のたれ死んでいただろう。あの臭気の中、世界を恨むこともできず、たった一人で……。目を開ければ雲が深い橙色に染められているのが見える。
「変わりましたよ」
「そうやって屋敷を見てるとこなんぞ、そっくりそのままあの時と同じじゃ」
「それだけだわ……変わらないことなんて」
振り向くこともできずに私は俯いた。異物を抱えた腹部。変わらないでいたかったのだ。でも、変わるしかなかったことも、本質が変わっていないことも、都合よく変えたフリをしたことも、全て理解している。細く息を吐き出す。
「ま、今のお前さんじゃ婿にも勝てないじゃろうな」
「当たり前でしょう。トレーニングもしてないもの」
「全く。拗ねるところも変わらず」
「拗ねてなんていません」
「どの口が言うんじゃ」
「……あなただって」
「ワシが?」
「変わってない。……ちっとも」
「老いてから変われと言う方が無茶じゃろう」
「そう……」
「で、いつまでそうしとるつもりじゃ。」
まばたきをすると、瞼で支えきれなくなった涙がぼろぼろと零れた。たまらず両手で顔を覆い、地面に膝をつく。過去のことなのだ。思い返すことしかできない、だからこそ悲しく、大きな波に飲まれそうになる。相変わらず足音も立てず傍に来たゼノ様は、私の隣にしゃがんだ。無様にしゃくりあげる女に耳触りのいい言葉を投げたりはしないし、決して触れることもない。昔から。だからどうしようもないのだ。
まるで子供だった。
「そんなところも変わっとらんのう」
涙が引いてきて、鼻をすすりながら深呼吸する。私はそこでやっと彼を見ることができた。ああ、変わっていない。頭が痛い。心構えをするために一旦目をそらしてただ呼吸をする。息を吸う。吐く。目を強く瞑ってから、開く。見上げると再び目が合った。
「妊娠しました。今四か月ちょっとです」
「ほう」
「その報告に来たんです」
「そうか」
「好きだったの」
「知っとるわ」
「うそよ」
あなたとの子供だったら、殺したいほど憎むこともなかったかもしれないのに。目をそらして地面を見つめる。そんなわけない。馬鹿みたいな妄想だった。だって私の恋は初めから終わっているし、それをきちんと理解していたから。
「ワシは嘘は好まんぞ」
「それが嘘じゃないの」
「どうじゃろうなあ」
「絶対立派な殺し屋にしてみせるから。あなたのお孫さんたちを超えるくらい。それで私を殺してもらう」
「どっちが嘘つきだか分からんのう」
「だって好きだったんだもの」
「分かった分かった」
「全部手遅れだったんですよ」
「ワシもじゃ」
「馬鹿じゃないの」
「お前さんにだけは言われたくないわ」
立ち上がろうとすると自然に手を差し出され、一瞬ためらう。こんなこと昔はしなかったのに。ああ、私の体を気遣ってくれているのだと気付いた時には手が触れ合っていた。私より数段老いて、しかし硬くしっかりした手のひらは、想像より温かい。私の手が冷たいだけかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。ちゃんと立ち上がったところでやはり手は離されてしまう。
「そろそろ帰ります」
「車呼ぶから待っとれ」
「……ありがとうございます」
だいぶ暗くなってきた。夫が戻ってくるまでに帰れるだろうか。仕事ではないはずだし早めに帰ると言っていたような気がするけれど、何しろ体の調子が悪くてそれどころではなかったのだ。
「あの、ゼノ様」
「なんじゃ」
「この子ごと私を殺してって言ったら、やってくれたんですか?」
「依頼ならな」
「そうですか」
「馬鹿者」
「ふふ……」
呆れたようにため息を吐く姿が好きだった。すぐに車が近くに停まり、ゼノ様が行くよう促す。軽く頭を下げるが彼は何も言わない。重い体を動かしながら、私はもう彼と会わないのかもしれないと思った。
走り出した車の窓から見えた空は赤く、暗い車内に意識を引き戻す。下腹部に手を当てるとやはり気持ち悪かった。